ACT.3 New comer
01 雨の夜
頸髄損傷により、全治五ヶ月――それが、小笠原選手に下された診断であった。
タクミ選手によって五発ものスープレックスをくらった小笠原選手は、それだけの重傷を負ってしまったのである。最後の一撃でフェンスに衝突し、おかしな形でマットに叩きつけられてしまったのが最大の要因であろうと、救急病院の医師からはそんな診断が下されていた。
幸いなことに損傷の度合いは軽微であり、時間さえかければ完治を目指せるという。しかし、一歩間違えれば半身不随の恐れすらあったのだ。試合当日の夜に鞠山選手から連絡をもらったときは、瓜子も目の前が真っ暗になる心地であった。
『容態が安定したら、地元の病院に転院するだわよ。みんなによろしくとのことだから、あんたがその場にいる全員に伝えておくだわよ』
「わかりました。あの、お見舞いとかは――」
『自力で出歩けるようになったら、自分から挨拶に出向くとのことだわね。……トキちゃんの気持ちを尊重するだわよ』
「……わかりました。お大事にとお伝えください」
誰でも自分の弱り果てた姿などは、人目にさらしたくないことだろう。数ヶ月前、病室で空元気を振り絞っていた沙羅選手の姿を思い出し、瓜子は何度となく溜息を繰り返すことになった。
こうなっては、自分たちが小笠原選手にできることはない。
ならばこれまで通り、打倒チーム・フレアの信念で稽古を重ねるばかりである。
とはいえ、試合の翌日は完全なオフ日であった。この日ばかりは冷徹なる千駄ヶ谷もスケジュールを空けてくれるので――まあ、昨年の三月までは試合の翌日まで容赦なく仕事を詰め込まれていたのだが――ユーリとふたりで、のんびり過ごすことができた。
ただし、試合中に意識を飛ばされた瓜子も病院で診察を受けるように厳命されていたため、それだけは遂行しなければならなかった。
その結果は、オールグリーンである。意識を吹き飛ばされるほどの肘打ちによって顎関節がいくぶんガタついていたが、ひどい炎症なども見られなかったため、数日ていどで治るだろうという見込みであった。
あとは、瓜子もユーリもいくつかの打ち身が残されたていどである。特にユーリはオルガ選手の重い膝蹴りによって、自慢の白い太腿にくっきりと青痣が残されてしまっていた。フェンス際の嫌がらせの攻撃に過ぎなかったのに、まったく呆れた破壊力と言えることだろう。
しかしまた、瓜子とユーリはそれだけの被害で勝利を収めることがかなったのだ。
オルガ選手もメイ=ナイトメア選手も、まぎれもなく強敵であった。小笠原選手の一件がなければ、今の倍以上も気持ちが浮き立っていたはずであった。
なおかつその後の数日間で、瓜子を筆頭とする反チーム・フレアのメンバーは、新たな鬱屈を抱え込むことになった。
《カノン A.G》の公式サイトにおいて、「九月大会の考察」と銘打った動画が連日配信されることになったのである。
その内容は言うまでもなく、チーム・フレアの選手を持ち上げて、それ以外の選手をコキおろすためのものであった。試合のダイジェスト映像を流しながら、タクミ選手と一色選手がチーム・フレアにとって都合のいいコメントを垂れ流すという形式である。
『後藤田選手は、ルイの敵じゃなかったね。ダウン制度が廃止されてなかったら、もうちょっと粘れたのかもしれないけどさ。でもそれこそが、甘いルールに頼ってたって証だもんね。一回のダウンが勝負を左右するシビアさこそが、MMAの本領ってわけよ』
『だけどルイも、一回組みつかれちゃいましたからねぇ。ハイキックもクリーンヒットできなかったし、反省点が山積みですぅ。……だけどまあ、デビュー戦の肩慣らしとしてはちょうどよかったと思いまぁす』
『前園選手は……六秒で試合が終わっちゃったから、語りようもないなぁ。ま、イヌカイのやつはなかなか見どころがあるみたいだね』
『そうですねぇ。外国人選手がガッカリな結果だった分、イヌカイちゃんに期待をかけちゃいましょうかぁ』
『ピエロのイリアは、格下相手だったから順当かな。噂ではもっと名のある相手と試合を組まれてたんだけど、逃げられちゃったみたいね。その代役があんな雑魚で気の毒だったけど、調整試合と思えばちょうどいいでしょ』
『王座決定戦のトーナメントでは、ルイとイリアさんが優勝を争うことになりそうですねぇ。なんだかワクワクしちゃいますぅ』
『シャラは骨折が治ったばかりだったのに、踏ん張ったね。マリア選手は《アトミック・ガールズ》でも《レッド・キング》でも三番手って話だけど、その情けない肩書きに相応しい実力だったなぁ』
『《レッド・キング》でケージの試合に慣れてるはずなのに、シャラさんに圧倒されてましたもんねぇ。明らかに、地力が違うって感じでしたぁ』
『ベリーニャ選手は、さすがだね。亜藤選手もかなりのグラウンドテクニックだったけど、やっぱり二階級も違うとしんどいよ。この仇は、わたしが十一月に取ってやることにするか』
『亜藤さんは、ルイと同じ階級なんですよねぇ。いつかお相手する日が楽しみですぅ』
『ジジは、負けグセがついちゃったのかな? 前戦でもアイドルちゃんをなめきって、新しいファイトスタイルの試運転なんてしてたもんねえ。去年の自分を見てるみたいで、胸が痛かったよ』
『今回も前回も終盤まで相手を追い込んでたのに、逆転負けしちゃいましたもんねぇ。技術うんぬんじゃなく、メンタルに問題があるんですかねぇ。会長のブロイおじさまは、クールでかっこいいのになぁ』
『メイ=ナイトメアは、情けなかったなぁ。あれで王者だったなんて、《スラッシュ》はレベル低すぎじゃない? しょせんは、マイナープロモーションってことか。アレは世界で戦える器じゃないね』
『猪狩さんも、トーナメントに出場するんですよねぇ。どっちかっていうと、ルイはアイドルとして勝負したいかなぁ。そっちのほうが、やりがいがありそうですぅ』
『雅選手は、年甲斐もなく頑張ったね。いくら油断してたとはいえ、まさかベアトゥリスを返り討ちにするなんてねぇ。ベアトゥリスの実力はわたしが一番わきまえてるから、ほんとに驚かされちゃったよ』
『グラウンドになるまでは、ベアトゥリスさんが圧倒してましたもんねぇ。一瞬の油断で勝負をひっくり返されちゃうなんて、やっぱり怖い世界ですぅ。ベアトゥリスさん、早くケガを治して復帰してくださいねぇ。みんなベアトゥリスさんのお帰りをお待ちしてますよぉ』
『オルガは、ちょっと期待外れだったなぁ。ま、コンディションも悪そうだったけど、体調管理も実力の内だしね。それも含めて、まだまだ若いってことか。……でも、もっと若いイヌカイが結果を出してくれたんだから、甘いことは言ってられないよね。コンディション不良であんなアイドルちゃんに後れを取るなんて、去年のわたしぐらい猛省が必要だよ』
『やっぱりロシアって寒い国だから、日本の夏がそうとうキツかったんでしょうねぇ。せっかくの試合で体調不良なんて、ほんとお気の毒ですぅ。……それにしてもユーリさんは、対戦相手が体調不良だったりケガしてたり油断してたりで連勝を重ねられるなんて、すっごい強運の持ち主ですよねぇ。それはそれで羨ましいですけど、ルイは運だよりにならないように頑張りまぁす』
『小笠原選手は、歯ごたえがなかったね。ウェイト調整もできないなら、オファーを受けるなって話だよ。こっちは一年ぶりの試合で気合が入ってたのに、スパー感覚で病院送りにしちゃったもんなぁ』
『あはは。油断は禁物って戒めはどこに行っちゃったんですかぁ? 次回は王座決定トーナメントなんだから、気合を入れてくださいよぉ?』
『もちろんさ。ベリーニャ選手を相手に油断なんてできるもんかい』
『それより先に、ユーリさんと当たるかもしれないでしょう? ルイはそっちを心配してるんですぅ』
『あー、そっかそっか! あいつもエントリーされてるんだっけ! あんな運だよりのアイドルファイターをエントリーさせなきゃならないなんて、ベルトの価値が問われちゃうよね』
『でも、ベリーニャさんを打ち負かしたら、文句なしのチャンピオンですよぉ』
『そりゃそうだ。王座決定トーナメントでは全身全霊でベルトをもぎ取って、《アトミック・ガールズ》が築いてきた恥ずべき過去に終止符を打ってあげるよ』
ざっと要約しただけでも、そんな有り様であった。
ベアトゥリス選手やジジ選手やオルガ選手が負けたのは油断やコンディションの不調で、ユーリは運だのみのまぐれ勝ち――運営陣やチーム・フレアの連中は、そういった印象を世間に広めようと躍起になっているのだ。
ただひとり、赤コーナー陣営の敗者でまったくフォローされていない選手がいる。言うまでもなく、メイ=ナイトメア選手である。彼女は単純に力不足であり、それに勝利した瓜子も大した力量ではない――と、タクミ選手たちはそんな誹謗を繰り返していた。
「だったら、お前らがメイ選手とやりあってみろって話っすよね!」
瓜子がそんな憤懣をぶちまけたのは、九月大会から三日後の水曜日――新宿プレスマン道場における楽しく過酷な稽古を終えて、電車で帰路を辿っているさなかのことである。
時刻は午後の十時半。ユーリは大きなキャスケットと黒縁眼鏡と白いマスクで人相を隠しており、瓜子はキャップを深くかぶっている。瓜子もじわじわと面が割れてきてしまったが、ユーリのように人目をひきつける個性の持ち合わせはなかったので、こうしていればそうそう声をかけられることはなかった。
「うり坊ちゃんは、ご立腹だねぇ。まあ、メイ選手の実力は、二回連続で試合をしたうり坊ちゃんが一番実感してるのだろうねぇ」
「そうっすよ。この階級でメイ選手より強いと思えるのは、サキさんぐらいです」
「うふふ。そのお言葉には、ぞんぶんに私情が混入しているように感じられるにゃあ。……あ、いやいや! もちろんサキたんのお強さは、ユーリだって骨身に染み入っておりますけれど!」
そんな風に言ってから、ユーリは目もとだけで瓜子に微笑みかけてきた。
「それでうり坊ちゃんは、メイ選手とお話がしたいのでせう? オリビア選手からのお返事は、まだ届かないのかにゃ?」
「はい。メイ選手の連絡先を知ってるのは、オリビア選手だけっすからね。でもまだ返事がないみたいです」
「うーん。北米行きのプロポーズをお断りされたあげく、試合でも負けることになっちゃって……きっとメイ選手は、悲しみのズンドコなのではないかしらん?」
「そんなにこにこ微笑みながら、自分の罪悪感をつつくのはご遠慮願えますか?」
「ちょびっとでもうり坊ちゃんのお気持ちを和ませたくて、微笑み光線を送っているのだよぉ。うり坊ちゃん、ずっとメイ選手のことを気にかけてたもんねぇ」
そんな言葉を交わしている間に、マンションのある三鷹駅へと到着した。
人の波に乗って改札を出た瓜子は、思わず「うわ」と声をあげてしまう。
「まいったな、降ってきちゃいましたよ。雨予報なんてなかったのに……」
「だいじょーぶ! 備えあれば、憂いナッシング!」
ユーリは大きなボストンをまさぐって、そこからピンクの花柄の折りたたみ傘を取り出した。
「準備がいいっすね。でもおたがいに大荷物だから、自分はいいっすよ」
「えー、だめだめ! まだまだ残暑の厳しい折ですけれど、うり坊ちゃんが風邪なんてひいたら大変だよぅ」
「でも、ブランド物のボストンが濡れちゃいますよ?」
「いいのいいの! ボストンは買えるけどうり坊ちゃんは売ってないもの! ……あーあ、うり坊ちゃんが売ってたら、全財産をはたいて買占めちゃうのににゃあ」
「わけのわからん妄想はご遠慮ください」
そうして瓜子とユーリは、相合傘で帰路を辿ることになった。
駅からマンションまでは、徒歩で十五分ほどだ。その帰り道を進むうちに雨足はどんどん強くなっていき、傘の外に飛び出した二人の荷物はすっかり濡れそぼってしまった。
「うふふ。うり坊ちゃんと相合傘で夜道を歩くなんて、ロマンチックだにゃあ。また走馬灯のネタがひとつ増えてしまったぞよ」
「今さらですけど、ユーリさんの言葉選びのセンスって独特っすよね」
そんな風に軽口を返しつつ、瓜子も何だか胸の奥がくすぐったいような心地であった。
ここ最近は鬱屈するような出来事が多いのに、瓜子はユーリの無邪気さに何度も救われている。自分の存在もユーリを救えていたらいいけれど――と、ちょっと感傷的な気分まで誘発させられてしまった。
「あ、そういえば明日の打ち合わせについてですけど――」
と、瓜子が感傷的な気分を打ち払って仕事の話をしようとしたとき、ユーリが「うみゅみゅ?」と足を止めた。
危うく雨の下に踏み出しそうになった瓜子は慌てて立ち止まり、ユーリの長身を見上げる。
黒縁眼鏡の下で、ユーリは右目をつぶっていた。
「あー、やっぱり! ねえねえ、あそこに誰か立ってるよねぇ?」
「え? どこっすか?」
二人のマンションは、すでに目前に迫っている。
瓜子が夜闇に目を凝らしてみると――白くけぶる雨の向こうで、黒い人影がゆらりと動いた。何者かがこの雨の中で傘もささずに、マンションの入り口の門柱にもたれていたのだ。
「……ユーリさん。通報と走る準備をお願いします」
「ううん。これはきっと、待ち人来たるの巻ではないかしらん?」
「待ち人?」
反問しつつ、瓜子はポケットの携帯端末をまさぐった。
その人影は、ひたひたとこちらに近づいてくる。
小柄で、頭でっかちの人影だ。
頭が大きいのは、その人物がフードをかぶっているためであり――そして近づいてくる内に、それが血のような色合いのワインレッドをしたパーカーのフードであることが知れた。
「え? メ、メイ選手ですか?」
二メートルほどの距離を置いて、その人物が立ち止まった。
パーカーのポケットに手を入れて、フードに包まれた頭を少しうつむかせている。そこからこぼれたドレッドヘアーの隙間から、黒い瞳が力なく瓜子を見つめていた。
「ウリコ・イカリ。……話、したい」
「は、話って……それより、ずぶ濡れじゃないっすか。今日は車じゃなかったんすか?」
「……話、したい」
メイ=ナイトメア選手は、さらに足を踏み出してきた。
普通であれば警戒して、後ずさるところだが――瓜子は、そうしなかった。メイ=ナイトメア選手は小さな子供のように頼りなげな眼差しをしており、とうてい逃げる気持ちになれなかったのである。
瓜子たちの目の前で足を止めたメイ=ナイトメア選手は、ポケットから出した両手で瓜子の手の先を握りしめてきた。
「僕、勝って、証明したかった。君、まだ未熟で、僕の力、必要なこと……でも、僕、負けた。未熟なの、僕だった」
メイ=ナイトメア選手は、言葉までもがちょっとたどたどしくなってしまっている。
そしてその顔はフードでも守りきれずに、すっかりびしょ濡れになってしまっていたが――そこには、涙もまじっているのかもしれなかった。
「僕、どうしたらいい? 僕、君と一緒にいたい。一緒に、同じ夢、追いかけたい」
そのように語るメイ=ナイトメア選手は、三日前の野獣めいた形相が嘘のように、頑是ない幼子の泣き顔みたいになってしまっていた。
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