08 最終戦
『それでは、最終ラウンドで逆転勝利を収めたユーリ・ピーチ=ストーム選手に熱いお言葉を頂戴いたしまァす!』
ユーリがようよう身を起こすと、不毛な勝利者インタビューが待ち受けていた。
『チームメイトの雪辱に燃えていたオルガ選手を、見事に返り討ちにしましたねェ! 今はどんなご気分ですかァ?』
『えっとぉ、お稽古の成果をみーんな出すことができたと思うんでぇ、感無量ですぅ』
『オルガ選手の先輩であるリュドミラ選手は初回のラウンドであっさり打ち負かしたのに、今日は大接戦でしたねェ。これは、ユーリ選手が成長したということですかァ? それともやっぱり、リュドミラ選手が弱かったってことですかァ?』
リングアナウンサーのそんな言葉に、灰原選手が「何こいつ?」と憤慨の声をあげた。
「そんなの、今日の試合に関係ないじゃん! こいつ、頭悪いんじゃないの?」
「頭が悪いのは事実だろうけど、それだけじゃないだわね。この軽薄ラッパーは、カンペ通りの言葉を吐き散らしてるんだわよ」
鞠山選手の指摘通り、リングアナウンサーは手もとの小さな帳面に目を落としながらインタビューをしていた。これまでの試合には見られなかった所作である。
「なんとかピンク頭にヘイトを集めようと、運営のボケナスどもが台本を準備したに違いないだわね。迂闊なことを口にするんじゃないだわよ、ピンク頭」
そんな鞠山選手のアドヴァイスも届かないモニターの中で、ユーリは『うーん』と小首を傾げた。
『リュドミラ選手はすごい迫力でしたし、《スラッシュ》の試合ではあれだけベル様――あ、ベリーニャ選手を苦しめていたのだから、とても強い選手だと思いますよぉ』
『でも、ユーリ選手は無傷で一本勝ちしましたよねェ?』
『はぁい。リュドミラ選手にローを当てたら痛そうにしてたから、足に照準を定めたんですぅ』
『なるほどォ! ユーリ選手はリュドミラ選手が膝を痛めていたことをあらかじめ知っていたんじゃないかって話もありますけど、そのあたりはどうなんですゥ?』
『いえいえぇ、全然知りませんでしたよぉ。試合中に気づいたんですぅ』
『でも、膝の故障を知っていたからこそ、リュドミラ選手を対戦相手に指名したんじゃないんですかァ?』
『ユーリのほうから対戦相手を指名したことはないですねぇ。そもそもユーリはスターゲイトさんにマネージメントをおまかせしてたから、運営さんとお話したこともほとんどないんですぅ』
ユーリはふにゃふにゃと笑いながら、無難な言葉を返していた。計算ではなく天然で、ただ頭に浮かんだ言葉を口にしているだけであろう。
リングアナウンサーは『えーと』と言葉を継ぎながら、また帳面のほうに目を落とす。
『それじゃあ、次の質問でェす。……ユーリ選手は色々なお相手と熱愛報道がされているようですが、本命のお相手というのは――』
会場に渦巻く歓声が、ブーイングへと変じていった。
瓜子としても、嘆息を禁じ得ない気分である。そのように下世話な話を試合場にまで持ち込もうという運営陣の下劣さには、怒りを覚えるほどであった。
『えっとぉ、熱愛報道についてですかぁ? あれはぜぇんぶデマカセですよぉ』
しかしユーリは汗に濡れた顔で、いつも通りの無邪気な笑みを浮かべていた。
『ユーリはどうでもいいんですけどぉ、相手の方々の迷惑になっちゃうんで、デマカセの記事はやめていただきたいところですよねぇ』
『それじゃあ本命のお相手は、どこか別にいるんですかァ?』
『いませんよぉ。ユーリ、恋愛とかに興味ありませんからぁ』
「おいおい」と焦った声をあげたのは、多賀崎選手であった。
「マネージャーさんから、余計な話はするなって厳命されてるんだろ? 別に嘘はついちゃいないんだろうけど、あんまりぺらぺら喋ってると足をすくわれるぞ」
「そうっすね。たぶん、試合直後の興奮でブレーキが効かないんだと思います」
瓜子は多賀崎選手以上に、やきもきしてしまっていた。
そんな瓜子の気持ちも知らぬげに、ユーリはにこにこと笑っている。
『恋愛に興味がないんですかァ。それは爆弾発言ですねェ。でもまさか、男とノータッチでこれだけの色気はキープできないですよねェ?』
会場に吹き荒れるブーイングなどものともせずに、リングアナウンサーはさらに下世話な言葉を口にした。
が、やはりユーリの笑顔に変化はない。
『できますよぉ。だって、ユーリがそうですもぉん。もしまた熱愛報道の記事とかが出ても、それはぜーんぶデマカセですからぁ。みなさん、そのつもりでいてくださいねぇ』
ブーイングの声が消えて、代わりに『ユーリ!』のコールが乱舞し始めた。
リングアナウンサーが辟易した様子で立ち尽くしていると、公式Tシャツを着た運営スタッフの若者が何か耳打ちをする。
リングアナウンサーはひとつうなずき、何事もなかったかのように甲高い声を張り上げた。
『勝利者インタビューは以上となりまァす! ユーリ選手、お疲れ様でしたァ!』
ユーリはひらひらと両手を振り、控え室には脱力気味の溜め息がこぼされた。
「なんとかボロは出さずに済んだみたいだわね。聞いてるこっちの心臓がもたないだわよ」
「ええ。それも全部、馬鹿な運営陣のせいっすよ」
しばらくして、ユーリが控え室に凱旋した。
灰原選手や鞠山選手が荒っぽく出迎えようとすると、ジョンたちがやんわりとそれをガードする。試合が終わってからこれだけ時間が経過すれば、もう人肌アレルギーも再点火されてしまっているはずであるのだ。
「よくやったね、桃園。文句なしの一本勝ちだったよ」
「はい! これでもう、八百長疑惑なんて誰も口にできないはずです!」
多賀崎選手や小柴選手は、心からの祝福をユーリに届ける。
あまり面識のない後藤田選手も、真剣な面持ちで「いい試合だったよ」と言ってくれた。赤星道場の面々は、遠慮がちに拍手だけを送っている。そんな中、雅選手だけはパイプ椅子の背もたれに頬杖をついたまままぶたを閉ざし、ひとり無言の不動であった。
「みんな、ありがとうな。あとは小笠原さんの試合を見届けてからにしよう」
立松のひと言で、なんとかその場の騒ぎは収まった。
そして、瓜子の隣に準備されたパイプ椅子に、ユーリがちょこんと腰かける。その目がきらきらと輝きながら、瓜子を見つめてきた。
「おめでとうございます。中盤はちょっとひやひやしましたけど、底力を見せてくれましたね。……あの、最後のほうでひと呼吸おいたのは、いったい何だったんすか?」
「あ、あれはねぇ、オルガ選手の立ってる位置が、あと一歩で三日月蹴りの間合いかなあって思ったにょ。でもでもいきなり三日月蹴りを出してもバックステップでかわされちゃいそうだから、フェイントでコンビネーションを出してみようかなあって考え込んでたのさぁ」
「あんな激闘のさなかに動きを止めて考え込むなんて、神経が太いっすね。……でも、お見事な勝利でした。ユーリさんが勝ってくれて、本当に嬉しいっすよ」
「うん!」と大きくうなずいてから、ユーリはおずおずとグローブに包まれた右拳を差し出してきた。
すでにバンデージもほどいていた瓜子が素の拳をそこに押し当てると、たちまち幸福そうに笑みくずれる。触れているのは拳だけなのに、瓜子はユーリにおもいきり抱擁されたような心地であった。
「さー、あとはトッキーだけだね!」
と、灰原選手がユーリとは逆の側から瓜子に抱きついてくる。
それを羨ましそうに見やってから、ユーリはモニターのほうに目を移した。
こちらが騒いでいる間に、すでに両選手はケージインしている。
あの軽薄なリングアナウンサーが、意気揚々とマイクを掲げた。
『それではメインイベント、第十試合を開始いたしまァす! ……青コーナー、百七十八センチ、六十・九キログラム、武魂会小田原支部所属……小笠原ァ、朱鷺子ォ!』
小笠原選手は、白と黒のタンクトップにファイトショーツの試合衣装であった。
ひと月でベストウェイトから六キロも落とした小笠原選手は、やはり明らかに以前よりも細くなっている。完全に脂肪が削ぎ落とされて、筋肉の線が目立つため、まったく弱々しいことはなかったが――それでもやっぱり、研ぎすぎた刃物のような印象は否めなかった。
それに、百七十八センチで六十一キロというのは、普通に考えても細身の部類であろう。男子選手でも時おりそれぐらい絞っている選手はいなくもないという話であったが、それは常日頃から入念なウェイト調整をした結果であるのだ。小笠原選手はどこか鬼気迫る空気を纏っているように感じられたが、それすらもコンディションが万全でない証であるように思えてしまった。
『赤コーナー、百六十八センチ、六十一キログラム、フレア・ジム所属……タクミィ=フレアァ!』
いっぽうタクミ選手は、堂々たる身体つきであった。
去年よりも腰が締まってシャープになった印象であったのだが、きっとこの一年ばかりで順当にウェイトを増量したのだろう。計量の後には、数キロばかりもリカバリーしたに違いない。それだけの力感が、タクミ選手の肉体には備わっていた。
(腰が締まったというよりは、背中と尻が大きくなったってことなのかな)
上半身は、以前よりもはっきりと逞しくなっている。もともとレスラーとして鍛えられていた腕や肩や背中に、ストライカーとしての筋肉が上乗せされたような印象だ。
そして、臀部や腿もそれに負けないぐらいがっしりとしている。ファイターとして、理想的とも思えるような体形であった。
それでもどこか、色気のようなものが感じられるのは――鼻筋の変化で顔立ちが変わり、そしてやたらと胸が大きいためであろうか。胸筋が乳房を押し上げたのか、これだけ逞しい肉体でありながら、以前よりも女性らしいプロポーションであるように思えてしまうのだ。
試合衣装はハーフトップとショートスパッツであるために、そういったシルエットがいっそう強調されている。もちろんフェロモンの権化たるユーリにかないはしないが、それでも沙羅選手に匹敵するぐらいの容姿であるように感じられてしまった。
(団体の顔になるために、容姿も磨いてきたってことなのかな。問題は、実力のほうだけど……)
タクミ選手のセコンドの何名かは、ベアトゥリス選手と重複しているようだった。そして誰もがブラジル人らしい風貌をしているので、きっとヴァーモス・ジムの関係者であるのだろう。もとよりタクミ選手はブラジルに渡った際、ヴァーモス・ジムの世話になっていたと公言していたので、そこで打撃技に磨きをかけてきたに違いなかった。
なおかつ、タクミ選手の前身はレスリングの五輪強化選手である。そんな彼女がブラジルの名門ジムで打撃技の修練に励んだならば、油断のならないオールラウンダーに成長を遂げているはずであった。
一同が注視する中、小笠原選手とタクミ選手はケージの中央で向かい合う。
身長差は十六センチにも及ぶが、タクミ選手は臆した様子もなく小笠原選手の長身を見上げている。身長差が甚だしい分、肉体の厚みは比較にもならなかった。
「トキちゃん、意地を見せるだわよ。馬鹿な考えを起こした連中に、ぎゃふんと言わせてやるんだわよ」
そのように語る鞠山選手の言葉にも、普段以上に思い詰めたものが感じられた。
ルール確認の後、タクミ選手は右腕を差し出し、小笠原選手はそれを黙殺する。タクミ選手は肩をすくめて、客席を煽るように右腕を振り回した。
『ファーストラウンド』のアナウンスに、『ファイト!』というレフェリーの肉声、そしてブザーの音色が響きわたる。
小笠原選手は、いつも通りの落ち着いた挙動で進み出た。
それに相対するタクミ選手は――右の手足を前に出した、サウスポーだ。
「あれ? 秋代ってサウスポーだったっけ?」
「いや。この一年で、新しいスタイルを身につけたんでしょう」
ただサウスポーなだけでなく、タクミ選手は背筋をのばしたアップライトのスタイルであった。いよいよストライカーめいた姿だ。
「ふん。立ち技でトキちゃんとやり合おうだなんて、百年早いだわよ」
鞠山選手はそのように言いたてていたが、タクミ選手の構えは実に安定しており、力もほどよく抜けているように見えた。
小笠原選手は心を惑わされた様子もなく、牽制の前蹴りを放つ。相手はレスリング巧者であるのだから、身長差を活かして遠い間合いで戦いたいところであろう。
タクミ選手は前後にステップを踏みつつ、間合いを測っている。
その姿を見て、立松は「ふん」と鼻を鳴らした。
「こいつはきっと、レスリングでは右組みだったんだろうな。構えもステップもMMA流に矯正してるが、いかにもな足運びだ」
「んー? 右組みって、サウスポーって意味なの? なんか、ややこしいね!」
立松相手にも物怖じしない灰原選手が気安く言葉を返すと、立松は「ああ」とうなずいた。
「レスリングや柔道は、利き腕を前に出すのが基本だからな。相手の身体をつかまえるには、器用で力のある利き腕のほうが有利ってこった」
いっぽう打撃競技では、奥手で強い攻撃を狙うために、利き腕を後ろに下げるのが王道だ。ゆえに、レスリングや柔道からMMAに転向した選手でも、利き腕を後ろに下げるように矯正する選手が多いとのことであったが――秋代選手も、本来はその部類であったのだろう。
「ってことは、やっぱり組み技で勝負をかけてくるのかもね! ま、相手がトッキーならビビッって当然だけどさ!」
「はい。ですが武魂会では左右こだわらない選手が多いので、小笠原先輩もサウスポーを苦にはしません。そんな浅はかな作戦は、きっと打ち砕いてくれるはずです」
小柴選手は、いっそう熱のこもった声でそのように答えていた。
その間に、ついに両者が接触する。最初にジャブを当てたのは――タクミ選手のほうだった。
「……さすがに、踏み込みが鋭いな」
十六センチもの身長差をものともせず、タクミ選手は小笠原選手の蹴りが当たらない位置から一気に踏み込み、右ジャブを当てていた。
さきほどのベアトゥリス選手を彷彿とさせる、踏み込みの鋭さだ。
レスリング時代にこの構えで試合をしていたのなら、もちろんその経験も活かされているのだろう。
なおかつ、彼女は右利きサウスポーということになるので、その右ジャブもずいぶん重たそうに感じられた。
小笠原選手は怯んだ様子も見せず、今度は自分から接近する。
しかしタクミ選手は上手い具合にサークリングをして、その前進を回避した。
そうしてアウトサイドに踏み込むと、また重そうな右ジャブをヒットさせる。
会場には、小笠原選手の奮起をうながすように歓声が吹き荒れていた。
「……さすがに大口を叩くだけあって、きちんと稽古は積んできたみたいだな」
立松の言う通り、タクミ選手はこの短い時間で素晴らしい技術を披露していた。
鋭いステップに、ケージの広さを有効利用したサークリング、そしてサウスポースタイルからの重い右ジャブ――去年までのタクミ選手には、まったく見られなかったスタイルだ。きっと彼女はヴァーモス・ジムで、ベアトゥリス選手とともにそれらの技術を磨いてきたのだろう。サウスポーである分、ベアトゥリス選手よりも厄介なぐらいであった。
(でも、小笠原選手だってそんなに甘くないぞ)
小笠原選手は若年でありながら、来栖選手や兵藤選手とわたりあい、無差別級のトップスリーと称されていたのだ。その長身を活かした打ち下ろしの右やクリンチからの膝蹴りなどは凄まじい破壊力で、十キロ以上も重い兵藤選手から何度となくダウンを奪ってきたのである。その恐ろしさは、瓜子も合同稽古で骨身に叩き込まれていたのだった。
小笠原選手は無理に追いかけるのをやめて、ケージの中央に陣取った。
するとタクミ選手は、間合いの外をぐるぐると回り始める。無言のままにカウンター狙いをアピールした小笠原選手と、その間隙を突かねばならないタクミ選手の、精神戦だ。
すると、タクミ選手は浅く踏み込んで、低い軌道の右ローを放った。
タクミ選手の右足が、小笠原選手の左ふくらはぎを外側から叩く。
むろん立ち技の熟練者たる小笠原選手は、軽く足をあげてそれをチェックした。
そしてすぐさま左ジャブを返そうとしたが――その頃には、タクミ選手はもう身を屈めていた。いま蹴ったばかりの左足を狙った、片足タックルだ。
最初の踏み込みは浅かったが、蹴り足をそのまま前に残したので、十分に距離は詰まってしまっている。
左足を取られた小笠原選手は、右足だけでバランスを取りながら後退し、フェンスに背をつけた。
タクミ選手はすぐさま左足から胴体に狙いを切り替えて、小笠原選手をフェンスに押しつける。
身長差があるために、タクミ選手はさして身を低くする必要もなく、小笠原選手の下顎に頭を押しつけることができた。
「やっぱり組んできたね! 得意の膝蹴りをお見舞いしちゃえ!」
灰原選手がそのように吠えたが、両者の間に膝蹴りを打てるようなスペースはなかった。
ただタクミ選手のほうは、横に振った右膝を小笠原選手の左腿に当てていく。壁レス定番の嫌がらせだ。
小笠原選手が相手の頭を抱え込んで首相撲の体勢に持ち込もうと画策すると、タクミ選手はまた身を低くして相手の両足に手をかける。
小笠原選手は足を開いてクラッチを防いだが、そうするとタクミ選手はまた身を起こして小笠原選手の下顎に頭を当てた。
その瞬間、小笠原選手が苦しげに顔をしかめ、レフェリーが何事かを呼びかけた。
それを見て、雅選手が「はぁん」と妖艶な声をあげる。
「このド腐れ女、ドサクサまぎれで頭突きを入れよったねぇ」
「えー、マジで!? ……ですか?」
「レフェリーが止めんから、こつんと優しく小突いたぐらいやろけどなぁ。ダメージはなくても、朱鷺子ちゃんにはえろうストレスやろねぇ」
小笠原選手は《NEXT》の試合のために春先から壁レスリングの稽古を始めていたが、きっとタクミ選手はそれよりも昔から稽古を始めていたのだろう。そしてレスラーであるタクミ選手は、誰よりも壁レスに適性を持っているはずであった。
小笠原選手も懸命にしのいではいるが、なかなか脱出することがかなわない。
また、タクミ選手は小刻みに攻撃を入れて、レフェリーにブレイクのタイミングを与えなかった。
時間は着々と過ぎて、あっという間に残り一分である。
小笠原選手は決死の形相でクラッチを組み、身体をねじって体勢を入れ替えようとした。
そうして小笠原選手の背中がフェンスから離れて、両者が横を向いた瞬間――タクミ選手がぐっと腰を落として、小笠原選手を押し返した。
小笠原選手は後方にぐらつき、さらに内側から足を掛けられてしまう。
小笠原選手の長身が、切り倒された大木のように倒れ込むことになった。
「わー、やられちゃった! あと一分だから逃げ切れよ、トッキー!」
体勢は、小笠原選手がタクミ選手の右足を両足ではさんだハーフガードだ。
タクミ選手は悠然と上体をあげて、小笠原選手の顔面にパウンドを振るい始めた。
小笠原選手は頭を守りながら、なんとか腰を切ろうとする。しかしやっぱりレスリング巧者であるタクミ選手の身体は揺るぎもしなかった。
ハーフガードの体勢でも身長差があるために、小笠原選手の頭部はかなり遠い位置になるのだが、タクミ選手はぶんぶんと腕を回して拳を当てていく。
やがて小笠原選手が両腕でがっしりガードを固めると、今度は短い軌道で腹に肘を落とし始めた。
小笠原選手は苦しげに身をよじり、相手の上体を抱え込もうとする。するとタクミ選手はその腕をさばきながら、また顔面にパウンドをヒットさせた。
そうして一分近くいいようにやられて、第一ラウンドは終了である。
タクミ選手はさっさと身を起こして自分のコーナーに戻っていったが、小笠原選手はレフェリーがうながすまで立ち上がることができなかった。
「まずいな。壁レスとグラウンドの劣勢で、ずいぶん削られちまったみたいだぞ」
「無理な減量のせいで、ただでさえスタミナは少ないだろうからな」
「やっぱりこんなオファーは受けなかったほうが――」
女子選手たちが押し黙っていたために、コーチ陣のそんな言葉が飛び交うことになった。
すると小柴選手がそちらに向きなおり、「大丈夫です!」と声を張り上げる。
「まだ最初のラウンドが終わったばかりじゃないですか! 小笠原先輩なら、絶対にひっくり返してくれるはずです!」
「そうなのです! 小笠原センパイは、不屈の闘志を持っておられるのです!」
と、愛音も怒った顔で追従する。忘れられがちであるが、愛音もかつては武魂会で小笠原選手を慕っていた立場であるのだ。
だが、コーナーで休む小笠原選手は、さきほどのユーリの最終ラウンド前に匹敵するぐらい疲弊した姿をさらしていた。
椅子の上で身を折って、膝に肘をついてしまっている。インターバル中は背中をのばしたほうが大きく呼吸できるものであるのに、それができないぐらい追い込まれてしまっているのだろう。
そんな小笠原選手のもとに屈み込んだ来栖選手が、真剣な顔で何かを呼びかけている。
最後に小笠原選手が小さくうなずき返したとき、『セコンドアウト』のアナウンスが流された。
立ち上がった小笠原選手は、火のような眼差しで相手側のコーナーを見据える。
タクミ選手は憎らしいぐらい平然とした面持ちで、それを見返した。
大歓声の中、第二ラウンドが開始される。
小笠原選手は覚悟を決めた様子で、自ら前に出た。
蹴りは使わず、鋭いジャブとフックで相手を追い詰めていく。迂闊に蹴ると、テイクダウンの危険が生じるという判断であろう。これだけのリーチ差であれば、パンチだけでも優勢に試合を進められるはずであった。
しかしタクミ選手は鋭くもやわらかいステップワークで、小笠原選手の猛攻をすかしていく。
その合間に振るわれるのは、右ローだ。
初回のラウンドでも見せた低い軌道で、腿ではなくふくらはぎを狙っている。いわゆる、カーフ・キックという技である。
立ち技の熟練者たる小笠原選手は、そのたび足を浮かせてチェックしていたが――試合時間が一分半を越える頃には、目に見えて動きが鈍くなっていた。
「まずいな。スタミナ切れの上に前足まで潰されたら、勝負にならんぞ」
ふくらはぎの下部は筋肉が薄いため、通常のローよりもダメージが溜まりやすいのである。その代わり、打つ側も自分の足を痛めやすいというリスクが生じるのだが、タクミ選手のステップにまったく澱みは見られなかった。
「そうか。ヴァーモス・ジムにはカーフ・キックを使う選手が多い。こいつも秋代選手がブラジルから持ち帰った新しいスタイルのひとつってことか」
さきほどから、コーチ陣のつぶやきしか聞こえてこない。女子選手はのきなみ押し黙って、小笠原選手の苦境を見守っているのだった。
小笠原選手は、早くも息があがってしまっている。
そしてついに、サウスポーにスイッチしてしまった。左足のダメージが耐え難くなってしまったのだろう。
空手を学んだ小笠原選手は、サウスポーでも戦える技術を有している。
しかし自らの作戦ではなく、ダメージのために構えを変えるというのは――大きな後退であるはずであった。
そうしておたがいがサウスポーになると、タクミ選手は左のアウトローでカーフ・キックを振るい始める。左右かまわず、とにかく前足を潰そうという作戦であるのだ。
小笠原選手は肉の削げた顔に凄愴な形相を浮かべて、突進した。
左腕を大きく振りかぶり、打ち下ろしのフックを叩きつけようとする。
それをかいくぐって、タクミ選手は小笠原選手の胴体に組みついた。
小笠原選手はそれを引き剥がそうと、長身をねじる。タクミ選手はそれよりも素早く動いて、小笠原選手のバックを取ってしまった。
小笠原選手の腰に両腕を回してクラッチしたタクミ選手は、そのまま内側から足を掛けようとする。
小笠原選手は、右足を浮かせてそれをすかし――それと同時に、タクミ選手は背中をのけぞらせた。
小笠原選手の身体が、ふわりと浮きあがる。まるでプロレスのような、ジャーマンスープレックスであった。
身長差があるために、小笠原選手はまともに後頭部をマットに叩きつけられてしまう。小柴選手と灰原選手が、同時に悲鳴をあげていた。
両者の身体は横合いに転がったが、タクミ選手はまだクラッチを解除していない。小笠原選手が腹ばいになり、膝を立てて身を起こそうとすると、タクミ選手は両足で左足を拘束し、背中にのしかかった。
さらにタクミ選手は右手で内側から小笠原選手の左手首を取り、フリーになった左手でパウンドを振るい始める。
小笠原選手は右の手の平で何とかガードしようとしていたが、背中の側から飛ばされるパウンドは視認できないため、それも難しかった。
レフェリーは、早くもストップのタイミングをうかがっている。
瓜子は息を詰めて、小笠原選手の逆転を祈るしかなかった。
と――小笠原選手が凄まじい勢いで身をよじり、手首をつかんでいたタクミ選手の右手を振り払った。
タクミ選手は慌てず騒がず、また小笠原選手の胴体を抱え込み、背中に圧力をかける。
それでも小笠原選手は屈さずに、マットに両手をついて強引に立ち上がった。
「いいぞ! フェンス際まで逃げるんだ!」
「いや、まずは相手のクラッチを切れ!」
控え室で騒ぐのは、やはりコーチ陣ばかりだ。
そして瓜子も、まったく声をあげることができなかった。
ようよう起き上がった小笠原選手は、腰に回されたタクミ選手の手首をつかむ。まずはクラッチを切るという選択をしたようだ。
だが――タクミ選手は、再び背中をのけぞらせた。
二度目の、ジャーマンスープレックスである。
小笠原選手は、再び後頭部からマットに叩きつけられてしまった。
小笠原選手は横合いに転がり、それでも執念で起き上がろうとする。
まだ背中にへばりついているタクミ選手は、それを邪魔しようとはしなかった。
そうして小笠原選手が力なく立ち上がると――三度目のジャーマンスープレックスである。
控え室には沈黙が落ち、客席には歓声が吹き荒れていた。
小笠原選手は同じ挙動で立ち上がり、同じ挙動で四度目のスープレックスが炸裂する。
レフェリーは迷いの表情で近づこうとしたが、小笠原選手はなおも立ち上がった。
「駄目だ」と、低い声音が静寂の底に響きわたる。
それが赤星弥生子の声であると、瓜子がぼんやり認識したとき――五度目のジャーマンスープレックスが実行された。
スープレックスが炸裂するたびに、両者の身体はマットを移動している。
そして現在は、フェンスの一面に近づいていた。
それは偶然であったのか、あるいは計算ずくの行動であったのか――小笠原選手の頭はまずフェンスにぶつかってから、右のこめかみを削られるような格好で、マットとフェンスのつなぎ目に叩きつけられた。
タクミ選手の身体とフェンスにプレスされるような格好で、小笠原選手の首が大きくねじ曲がってしまっている。
レフェリーは慌てて駆け寄ろうとしたが、タクミ選手はそれよりも早く小笠原選手の身体を放りだして、身を起こした。
タクミ選手はふてぶてしく笑いながら、立てた親指で自分の咽喉をかき切るような仕草をする。
フェンス際にうずくまった小笠原選手は、ぴくりとも動かない。
レフェリーは腕を交差させ、試合終了のブザーが鳴らされた。
「判断が遅い。最後の投げは余計だった」
赤星弥生子が、感情を殺した声音でつぶやいている。
それ以外には、声をもらす者もいなかった。
そうしてこの日の興行は、タクミ選手の壮絶なKO勝利によって幕を閉ざされることになったのだった。
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