07 融合

 客席の観客たちと控え室の瓜子たちが見守る中、第二ラウンドが開始された。

 大歓声を浴びながら、ユーリとオルガ選手がケージの中央に進み出る。


 オルガ選手は、再び初手から左フックを放ってきた。

 しかしユーリはブロックせずに、バックステップでそれをかわす。

 すると、それまでユーリの頭が存在していた空間に、オルガ選手の右拳が走り抜けた。


 ユーリはこれまでずっと左フックに右ローのカウンターを合わせていたため、オルガ選手はさらにそのカウンターを狙おうとしたのだろう。そして、それを見越したジョンたちが、このラウンドからはアクションを変えるように命じたのだ。


 初手の読み合いは、こちらが勝利した。

 しかしオルガ選手はそれを気にした風でもなく、ずかずかと前進する。

 前進しながら、再びの左フックと右アッパーを繰り出して、ユーリをさらに下がらせた。


 一ラウンド目よりも、強引な接近だ。

 いよいよあちらもギアを上げてきた、ということなのだろうか。


 ユーリも上手い具合にかわしてはいたが、オルガ選手の前進は止まらなかった。

 リーチで負けているために、ユーリはなかなか手を出すことができない。また、下がりながら反撃するというのは高等技術であり、ユーリもまだその域には達していなかった。


 そしてユーリは、サイドへのステップもあまり得意にはしていない。

 きっとセコンドからの指示で、なるべく真っ直ぐ下がらないように振る舞っているのだろうが、それでもじわじわとフェンス際まで押し込まれていく。


 さらにオルガ選手はアッパーを多めに織り交ぜて、ユーリの組みつきを牽制していた。

 なまじ視界がピンボケでなくなったために、オルガ選手の打撃の猛烈さはまざまざと感じられるに違いない。結果、ユーリは下がる一方になってしまった。


 フェンスに押し込まれそうになったユーリは、意を決した様子で横合いに逃げようとする。

 その逃げ道をふさぐべく、オルガ選手が左ミドルを放った。

 左ミドルもまた、右目をふさいだユーリには見えにくい攻撃だ。おそらくユーリはハイかミドルのどちらが来てもブロックできるように、身を屈めながら頭を守った。


 それで何とか左ミドルはブロックできたが、退路を断たれたことに変わりはない。ユーリはフェンスまで押し戻されて、そこでオルガ選手に組みつかれてしまった。


 今度はオルガ選手が押す側で、壁レスリングだ。

 オルガ選手は後方に下半身を引くことで低い姿勢を取り、ユーリの下顎に頭を押しつけた。

 よって、腹から下にはぽっかり空間が空いていたが、右腕をそちらにのばすことでユーリの膝蹴りを封じている。相手の左脇を差したユーリは懸命にかちあげようとしていたが、オルガ選手の身体は根が生えたようにびくともしなかった。


 そうしてユーリの肢体をフェンスに張りつけたオルガ選手は、左の膝をユーリの右腿にぶつけていく。

 嫌がらせと呼ぶには、あまりに重い攻撃だ。その一撃ごとにユーリの右足は力なくたわみ、今にもへし折れてしまいそうだった。


 ユーリは苦しげに首をよじりながら、相手の右脇にも腕を差し込んだ。

 するとオルガ選手はそちらの側に重心を移して、左腕を差し返す。

 そして今度は、右膝で左腿に膝蹴りだ。左右が反転しただけで、同じ場面の繰り返しであった。


「こいつは、無茶苦茶体幹を鍛えてるな。組み技の技術も、かなりのもんだぞ」


 立松が、焦れた様子でつぶやいた。

 カメラが近い位置であったので、ユーリの苦しげな顔が大写しにされる。ユーリは形のいい眉をきつくひそめて、ピンク色の唇で切なげにあえいでいた。


「うわー、なんかエロくない?」


 瓜子はモニターを注視しながら、手探りで灰原選手の頭を引っぱたいた。

 そんな中、ユーリの身体がじわじわと沈み込んでいく。相手の圧迫にあらがいながら、なんとか重心を落とそうとしているのだ。


 下顎に当てられた頭は脇にそらして、足を大きく開いていく。

 やがてユーリの左足が膝蹴りの射程圏外まで到達すると、オルガ選手は右足でマットを踏みしめ、逆の足を後方に下げた。


「腹を狙ってるぞ!」と、立松が緊迫した声をあげる。

 もはやユーリは膝蹴りを出せるような体勢ではなくなったので、防御のために出していた左腕を引っ込め、自らが腹部を狙った膝蹴りを出そうというのだ。


 だが、その攻撃が振るわれるより早く、ユーリが動いていた。

 右足の裏で背後のフェンスを蹴り、おもいきり身体をねじって、体勢を入れ替える。オルガ選手の重心移動に合わせて、ひと息にポジションを入れ替えてみせたのだった。


 控え室では歓声があがり、瓜子も詰めていた息を吐く。

 やはりユーリの壁レスリングは、いっぱしのレベルにまで達しているのだ。体格差のあるオルガ選手を相手に、堂々たる戦いっぷりであった。


 今度はユーリが攻める番であったが、差した左腕をがっちりかんぬきに掛けられてしまい、いまひとつ身動きが取れない。

 そのまま不動で時間が過ぎてしまったため、レフェリーからブレイクを命じられることに相成った。


 時間はすでに、三分が過ぎている。

 フェンス際の攻防では守勢に回されてしまったが、まだまだ逆転は可能な時間帯だ。

 そこに、雅選手の「つまらんなぁ」という声が響きわたった。


「つまらんって、どういう意味!? ……ですか?」


 瓜子の身体を盾にしながら、灰原選手が反問した。

 パイプ椅子にぐんにゃりもたれたまま、雅選手は眠たげな目でモニターを見つめている。


「どないな意味て、そのまんまの意味やろぉ。この物体、これで勝てるつもりなんかなぁ」


 長い時間をフェンス際で過ごしていたユーリは、明らかに消耗していた。

 口は大きく開かれて、丸い肩が上下している。そして何発もの膝蹴りをくらった両腿は、無残な青紫色に変色してしまっていた。


「……確かに、かなり削られちまったな。体格差が、じわじわ効いてきてるんだ」


 立松は、思い詰めた声でそんな風につぶやいた。

 瓜子の背後に回ったまま、灰原選手は「でもさー!」と声を張り上げる。


「ピンク頭だって、無差別級であそこまで勝ち抜いたじゃん! 来栖さんやトッキーは、このロシア女よりウェイトがあったでしょ?」


「せやったら、この物体はこないなファイトスタイルで舞ちゃんや朱鷺子ちゃんを沈めたんかぁ?」


 あくびをこらえているような茫洋とした口調で、雅選手はそんな風に言葉を重ねた。


「ま、外野がやいやい騒いでも結果は変わらへんわ。負けたら折檻するだけやしなぁ」


 瓜子はまた落ち着かない気分を抱え込みながら、ユーリの試合を見守ることになった。

 ユーリは疲弊した身体に鞭打って、自分から攻撃を仕掛けている。受けに回ればまたフェンス際に押し込まれてしまうと、セコンド陣が判断したのだろう。


 ユーリは的確な間合いで攻撃を出せているように思えるが、それらはすべて防御されてしまう。ただでさえリーチ差がある上に、オルガ選手は確かなスタンドの技術を有しているのだ。

 そうしてユーリの攻撃を防ぎながら、オルガ選手も着実に手を出している。ユーリもまたそれらをきちんと防御していたが、ブロックの上からくらってもダメージの残りそうな重い攻撃であった。


「ああもう、とにかく寝技に持ち込みなよ! 一ラウンド目は、二回もテイクダウンを取れたじゃん!」


 灰原選手はそのようにわめいていたが、オルガ選手はアッパーを多発するため、そうそう組みつけるものではなかった。

 それにオルガ選手の側からも、無理に組みつこうとはしない。前のラウンドでスープレックスをくらったことで、組み合いを警戒しているのだろうか。ユーリが果敢に組みつこうとしても、長い両腕でストッピングして、ついでのように軽い攻撃を当ててから、すぐさま遠ざかってしまうのだった。


 そうしてラウンドの終わりが近づくと、オルガ選手がまたギアを上げてくる。

 父親の現役時代を彷彿とさせるような、猛烈なたたみかけだ。

 フックとアッパーの乱打に圧されて、ユーリは再びフェンス際まで押し込まれて、そこで何発かの膝蹴りをくらったところで、第二ラウンドは終了した。


 青コーナー陣営で椅子に座ったユーリは、先のインターバルよりもさらに消耗した様子で大きく背中を波打たせている。

 ジョンやサキがしきりに言葉を投げかけているのだが、果たして耳に届いているのかどうか。うつむいたユーリはピンク色の前髪で目もとが隠されてしまい、したたる汗が涙のように見えてしまった。


「でも、桃園はよくやってるよ。動きだって、これまでとは別人じゃないか」

「そうですよね。打撃も壁レスも多少は押されちゃってますけど、そこまで大きな差は感じません」

「体格差だけが、ネックだわね。ポイントは五分五分だろうから、最終ラウンドが勝負だわよ」


 周囲の人々は、むしろ自分に言い聞かせているような様子でそのように言い合っていた。

 雅選手は自分もインターバルとばかりに目を閉ざしてしまっている。

 立松は難しい顔をして腕を組み、無言だ。

 瓜子は迷った末、赤星弥生子に呼びかけることにした。


「あの……弥生子さんは、どう思いますか?」


 赤星弥生子はモニターに視線を定めたまま、「そうだな」と応じた。


「夏合宿の後も、桃園さんはたゆまず研鑽してきたのだろう。その成果が、きちんと発揮できているように思う。……ただ……」


「ただ?」


「これまでに積んできたものと、新しく習い覚えたものが、まだ融合していないのではないだろうか? 私は七月の大会でしか、彼女の試合を拝見していないのだが……とうてい同一人物とは思えない試合運びだな」


 赤星弥生子の切れ長の目には、とても真剣な光がたたえられている。

 そしてその形のいい唇が、思いも寄らない言葉を口にした。


「正直に言って、今日の試合を七月に見ていたら、私は彼女に何の興味も持てなかっただろう。今日の試合には、彼女の個性をまったく感じない」


 その言葉は、金属バットで殴られたような衝撃を瓜子にもたらした。

 そしてさらに、雅選手の「つまらんなぁ」という言葉が脳裏によみがえる。


 試合が、つまらない――その言葉は、かつてユーリの口からも語られていた。

 六月の、《アクセル・ジャパン》を観戦に出向いた日のことである。

 立ち技と壁レスの攻防ばかりが続く試合の連続に、ユーリは心から退屈そうにしており――そして今、ユーリは自らがそれと同じような試合を展開させていたのだった。


(でも……だからって、どうすればいいんだよ?)


 瓜子が唇を噛みしめたとき、『セコンドアウト』のアナウンスがされた。

 マウスピースをくわえたユーリは、大儀そうに腰をあげ――そして、白い首をのけぞらせる。

 天井からの照明が、ユーリの汗まみれの顔を明るく照らしだした。

 ユーリは大きく息を吸い込み――そうしてふいに、子供のように微笑んだ。


 そのあどけない表情に、瓜子は思わず息を詰まらせる。

 それはユーリが来栖選手との試合で最終ラウンドを迎えたときと、まったく同じ表情に見えてしまったのである。


 試合開始のブザーが鳴り響き、両者はケージの中央に進み出た。

 しかしユーリは適切な間合いに達する前に、いきなり大振りの右ハイキックを繰り出した。


 絵に描いたような、美しいハイキックである。

 しかし間合いが遠かったために、オルガ選手にはかすりもしない。また、あまりに予想外な動きであったためか、オルガ選手もその隙を突くことはできなかった。


「なになに? なんのつもり?」


 灰原選手が声を弾ませながら、瓜子にのしかかってくる。

 そんな中、ユーリはリズムよくコンビネーションを繰り出した。左右のワンツーから左ミドル、さらに二発の左ジャブからの右ローだ。

 それはまさしく来栖選手との一戦で初お披露目した、無軌道なコンビネーションの乱発に他ならなかった。


「おいおい、ヤケクソになっちまったのか?」


 大江山軍造が、呆れたような声をあげている。

 それに立松が、「いや!」と大きな声で応じた。


「わかったぞ! ジョンのやつめ、危なっかしい真似をさせやがって……いや、サキの作戦なのか? ま、どっちでもいい。暴れたいだけ暴れちまえ!」


 大歓声をあびながら、ユーリはコンビネーションを乱発し続けた。

 オルガ選手は、足を使ってそれを回避している。もとよりユーリは間合いを無視しているので、逃げることに苦労はないだろう。リングよりも広いケージであるのだから、なおさらだ。


 ユーリはまるで演舞でも披露しているかのように、次々と攻撃を繰り出していく。それにずかずかと前進しているので、オルガ選手のリーチであればカウンターを狙えそうな場面が何度も生じていた。

 オルガ選手はきっとこの無軌道なコンビネーションに対しても、何らかの対策を講じていたはずだ。魅々香選手などはかなり上手い具合にこの攻撃に対処していたので、それも大いに参考になったことだろう。


 しかし今のオルガ選手は、ただ逃げ惑うばかりである。

 それが最初からの作戦であったのか、あるいは最終ラウンドでいきなり発動されたことに面食らっているのか――何にせよ、魅々香選手のようにカウンターを取ろうとはしなかった。


 ユーリはこれまでの疲れなど忘れてしまったかのように、ぶんぶんと手足を振り回している。

 その顔は、まるで笑っているかのようだった。

 そして――ユーリは時おり、オルガ選手にウインクを送っているようだった。


(……ウインク?)


 ユーリがつぶっているのは、右目である。

 絶え間なく攻撃を出している間は右目を隠すこともできなかったが、ユーリはそうして要所要所で間合いを測っていたのだった。


 そうして、あっという間に一分半が経過した頃――

 左ジャブから右フックに繋げたユーリの身体が、ふっと下方に沈み込んだ。


 これもまた絵に描いたように美しい、両足タックルである。

 間合いもタイミングも、完璧であった。

 両足をすくわれたオルガ選手は、呆気なくマットに倒れ込む。さらにユーリは相手の足を払いのけて、すぐさまサイドポジションをキープした。


「やったやった! 逃がすなよー、ピンク頭!」


 ユーリはべったりと、オルガ選手の長身にのしかかった。

 最初のラウンドで逃げられた経験を踏まえてか、迂闊に身を起こそうとはしない。今こそオルガ選手は、ユーリの牛のごとき重さを満身で体感しているはずであった。


 そうして相手の胸もとにのしかかったまま、ユーリは相手の腕をたぐっていく。この体勢から狙えるのは、アームロックぐらいであるのだ。

 オルガ選手はユーリの腕を振り払い、短い軌道で肘を振るった。

 側頭部を叩かれたユーリは、ずりずりとポジションを入れ替えていく。相手の顔を腹部で圧迫する、上四方の体勢となった。


 これではますます、サブミッションは極めにくい。

 が、オルガ選手は苦しげに身をよじっていた。ユーリのやわらかい腹筋によって、呼吸をさまたげられているのだろう。


 オルガ選手は両足の裏をマットにつけて、ずりずりと移動し始めた。

 進行方向は足の側であり、その先にはフェンスが立ちはだかっている。またフェンスを利用して立ち上がろうというのだ。


 ユーリは慌てる素振りも見せず、今度はさきほどと逆側のサイドポジションへと移行した。そして身を起こし、相手の脇腹に膝をあてるニーオンザベリーの体勢を取ると、オルガ選手はすぐさま腰を切り始める。今度は左手側のフェンスを目指す動きであった。


 ユーリはほとんど跳ねるようにして、オルガ選手の胴体をまたぎ越える。

 腹の上にまたがった、マウントポジションだ。

 が、ユーリの重心が安定する前に、オルガ選手は身をひねっていた。その動きに腰を弾かれて、ユーリはオルガ選手と一緒に横合いへと倒れてしまう。


 オルガ選手は、猛然と上体を起こしてユーリの上にのしかかった。

 それと同時に、ユーリの肉感的な足がオルガ選手の右腕ごと首をからめ取る。三角締めのアクションだ。

 その足がロックされる前に、オルガ選手は上体を突っ張り、ユーリの拘束から逃げ出した。


 オルガ選手が上となった、ガードポジションだ。

 しかしユーリは動きを止めずに、相手の右膝裏へと左腕をのばした。

 まだ体勢の安定していなかったオルガ選手は、右膝をすくわれて左腕をマットにつく。ユーリはさらに腰を跳ね上げて、スイープを仕掛けようと試みたが、オルガ選手ははほとんど転がるようにして距離を取り、髪を振り乱して立ち上がった。


 だが――ユーリもそれを、黙って見送ってはいなかった。

 オルガ選手が身をひるがえすと同時に、ユーリも四つん這いとなってそれを追いかけていたのだ。

 結果、オルガ選手が身を起こしたときには、ユーリもその目の前で身を起こしていた。


 オルガ選手にしてみれば、悪夢でも見ているような心地であっただろう。

 その間隙を逃さずに、ユーリはオルガ選手の胴体を抱きかかえた。

 双差しの体勢でクラッチを組み、上体をのけぞらせる。再びの、フロントスープレックスだ。


 側頭部からマットに叩きつけられたオルガ選手は、再びサイドポジションを取られることに相成った。

 オルガ選手は腰を切って逃れようとするが、最前までの躍動感が消えている。ユーリのペースに呑み込まれて、激しくスタミナをロスすることになったのだろう。


「……桃園さんらしくなってきたな」


 と、赤星弥生子が低い声でつぶやいた。


「桃園さんは新しいファイトスタイルを体得したようだが、さすがにふた月足らずでそれを自分のものにするのは難しいことだろう。元来のファイトスタイルとは、まったく動きのキレが違っていた」


「ええ、そうみたいっすね」


「そして、最終ラウンドでいきなり元来のファイトスタイルに戻したために、それがテンポチェンジの効果を生んだんだ。相手はきっと、桃園さんの動きがいきなり速くなったような心地だったろう。……これが、当初からの作戦だったのだろうか?」


「いえ。二ラウンド目で苦境になったんで、セコンド陣が対応策を授けてくれたんだろうと思います」


 それにユーリは、ただ元来のファイトスタイルに戻したわけではなかった。その合間に片目で相手との間合いを測り、絶妙のタイミングで両足タックルを仕掛けたのである。言ってみれば、あの一分半にわたるコンビネーションの乱発が、壮大なるフェイントであったのだった。


 なかなかに無茶苦茶なやり口だが、それでようやくユーリは新旧のファイトスタイルをわずかながらに結合させることがかなったのだ。

 そして――そんな無茶苦茶なやり口こそが、ユーリの本領であるはずであった。


 モニター上では、ユーリが再びニーオンザベリーの体勢からマウントポジションまで移行している。

 さきほどは瞬発力を駆使してそれをはねのけたオルガ選手も、今度はがっしりと抑え込まれてしまっていた。

 ラウンドの開始まではユーリのほうが疲弊しきっていたはずであるのに、すっかり形勢が逆転してしまっている。きっとそれも、旧来のファイトスタイルに戻した恩恵であるのだろう。新しいファイトスタイルでは若干以上の緊張感が生じ、その緊張感が心拍数をあげて、ユーリのスタミナを削っていたのだ。


 旧来のファイトスタイルからグラウンドの攻防にまで持ち込んだユーリは、水を得た魚のようにいきいきとしていた。

 いっぽう逆転を許してしまったオルガ選手は、どんどん動きが鈍くなっていく。ユーリの重みで圧迫され、二度目のスープレックスをくらったことにより、ついにオルガ選手の沈着さに亀裂が生じたのだった。


 マウントポジションを取られたオルガ選手は、両腕を突っ張ってユーリの上体を押しのけている。そのように腕をのばすのはサブミッションを極められる危険をともなうが、それよりもパウンドの恐怖が上回っているのだろう。ユーリのこれまでのパンチはすべてブロックされていたが、その破壊力は嫌というほど伝わっているはずであるのだ。


 それに、ユーリのこれまでの試合を分析していたのなら、小笠原選手との試合で見せた怒涛のパウンドが脳裏に焼きつけられているはずだ。

 ユーリは他の試合でいっさいパウンドを使っていないのだが、あの一試合だけで相手を警戒させるには十分なのかもしれなかった。


 もちろんユーリは一発のパウンドを狙うことなく、オルガ選手の左腕を抱え込む。

 そうしてずりずりと前側に移動して、オルガ選手の右肩を左膝で押さえつけた。

 三角締めか、腕ひしぎ十字固めか――オルガ選手は凄まじい勢いでブリッジをしたが、ユーリの身体はゆらぎもしなかった。


 マウントポジションからの三角締めや腕ひしぎ十字固めは、失敗すると下になるリスクが生じる。それゆえに、近代MMAでは廃れつつある技術であった。下になるリスクを負うぐらいならば、ポジションキープに徹するほうが利口である――というのが、昨今の風潮であるのだ。


 そんな風潮など素知らぬ顔で、ユーリは横合いに倒れ込んだ。

 腕ひしぎ十字固めを選択したのだ。

 ユーリの倒れる動きに合わせて、オルガ選手は上体をはね起こした。

 そして、腕をクラッチするのではなく、顔に掛けられたユーリの右足を払いのける。

 するとユーリは相手の左腕をおもいきり引きながら、左足を後頭部にからめた。払いのけられた右足は、そのまま左の足首を迎える。腕ひしぎ十字固めから三角締めへの連携技である。


 しかしオルガ選手は、ユーリの両足がクラッチされる前に上体を起こして、距離を作った。疲弊していても、素晴らしい反応速度である。

 そして、グラウンド状態ではそれに負けない反応速度を持つユーリは、すぐさま三角締めを断念し、再び右足を相手の顔に掛けた。再びの、腕ひしぎ十字固めだ。


 オルガ選手は腰から上をねじるようにしてユーリの右足を振り払い、その勢いのままに立ち上がった。

 だが、あらためてユーリの上にのしかかろうという余力はない様子で、後ずさる。それ見て、ユーリもぴょこんと起き上がった。


 残り時間は、一分半だ。

 今のところ、ポイントはユーリのものである。

 しかしユーリは守勢に回ることなく、自ら前に踏み出した。そして、無軌道なコンビネーションを披露する。


 オルガ選手は鉄仮面のごとき無表情をかなぐり捨てて、決死の形相となっていた。

 彼女が勝つには、これまでの劣勢をくつがえすような攻撃が必要となるのだ。


 ユーリのワンツーから左ミドルのコンビネーションをすかしたオルガ選手は、その終わり際に大きく踏み込もうとした。

 が、蹴り足を戻したユーリがタックルの動きを見せると、弾かれたような勢いでバックステップする。もう組み合いはたくさんだという内心が透けて見えていた。


 タックルを取りやめたユーリは、あらためてアップライトのスタイルを取る。

 そこで、わずかな空白が生まれた。

 ユーリが何かを考え込むように、動きを止めたのだ。


 瓜子はいくぶん胸を騒がせたが、幸いなことに、オルガ選手はその間隙を突こうとはしなかった。あちらもあちらで大きく疲弊しているので、カウンターに狙いを絞りたいのだろう。


 ユーリは「よし」とばかりに動き始めた。

 左ジャブが二発に、右ストレート、そしてレバーブローである。

 間合いが遠かったために、すべての攻撃はすかされてしまう。


 ユーリのレバーブローが戻される動きに合わせて、オルガ選手が大きく踏み込んでくる。

 そこでユーリが右足を踏み出し、優美な左足を振り上げた。

 軌道は、中段だ。

 オルガ選手は足を止めず、左腕でボディを守った。

 そのガードの内側に潜り込むようにして、ユーリの足先がオルガ選手の右脇腹に突き刺さる。


 それは左ミドルではなく、ユーリがこのひと月余りで修練を重ねた、三日月蹴りであった。

 三日月蹴りは前蹴りとミドルキックの中間ぐらいの軌道で、相手のレバーを狙う技である。よって、相手のガードの内側から命中させることがかなったのだった。


 まともにレバーを蹴り抜かれたオルガ選手は、ぐらりと倒れかかったが――驚異的な執念で、なんとかその場に踏みとどまった。

 その腹に、ユーリがタックルをぶちかます。

 両足をすくわれてマットに倒れたオルガ選手は、死にかけた動物のように横を向いてしまった。


 三日月蹴りをくらった直後に、ユーリの強烈なタックルで、マットに押し倒されたのだ。おそらくは内臓をシェイクされているような心地であり、呼吸もままならないはずであった。


 そんなオルガ選手の腰に乗ったユーリは、やはり一発のパウンドを落とすことなく咽喉もとに腕を回し、自らもマットに倒れ込む。

 ユーリはオルガ選手の背中に張り付いたが、横向きであるために片足しか掛けることはかなわない。しかしユーリは「まあいいか」とばかりにチョークスリーパーの形を完成させて、ぎゅうっと背中を丸め込んだ。


 普通、バックマウントからチョークを狙う際は、相手の背中をのばそうとするものであるのだが――ユーリはむしろ、自分の胸もとを相手の後頭部に押しつけるようにして、圧迫の補助としたようだった。


 オルガ選手は右腕を振り上げて、ユーリの頭頂部に拳を叩きつける。

 そしてその腕は、そのままぱたりとマットに落ちた。


 レフェリーが、オルガ選手の右腕を持ち上げる。

 その腕が完全に力を失っているのを確認し、レフェリーはユーリの肩をタップした。


「やったー!」と、灰原選手が瓜子の首を抱きすくめる。

 控え室には歓声が爆発し、そして客席からの歓声も地響きのように壁を揺らしていた。


『三ラウンド、四分二十二秒、チョークスリーパーによるレフェリーストップで、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の一本勝ちでェす!』


 やがてそのようなアナウンスが流されても、ユーリはまだオルガ選手の隣で大の字になったままである。

 しかしその汗だくの顔には、満腹になった子猫のような――来栖選手との試合終了時にも見せていた、ふにゃふにゃの笑みが浮かべられていたのだった。

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