06 進化と退化

 大歓声の中、ユーリは果敢にオルガ選手と打撃の攻防を重ねていた。


 相手選手の攻撃はバックステップで回避して、左フックのみカウンターの右ローを合わせる。相手の全体がよく見えるようにインサイドへと回り込み、時おり自分からも懐に踏み込んで、左ジャブを当てていく。これといって特筆するべき動きではないものの、しかしあの打撃オンチのユーリが未知なる強豪を相手にいっぱしの攻防戦を見せているのだ。それだけで、多くの人々が小さからぬ驚きにとらわれているはずであった。


「一番驚いてるのは、当のオルガ選手だろうな。これまでさんざん無茶苦茶な打撃戦を見せつけてきた桃園さんが、これだけ綺麗な動きを見せてるんだからよ」


 立松は満足そうな声音で、そのようにつぶやいていた。


「だけど、本番はここからだ。相手が面食らってるうちにペースをつかむんだぞ、桃園さん」


 ユーリは、人並みに動けているように見える。

 しかしやっぱり、片目で打撃戦に臨むというのは、大きなハンデであるのだ。このように無難な攻防戦を繰り広げることができているのも、相手が慎重になって手数を抑えているからに他ならなかった。


 オルガ選手はユーリが初めて見せる無難な動きと攻撃の重さに、面食らっているはずである。

 その間にペースをつかんで次なる展開に持ち込むというのが、ジョンと立松の立案した作戦となっていた。


 試合時間は、間もなく二分に達しようとしている。

 そこでユーリが、次なるアクションを見せた。

 相手のインサイドに飛び込んで、左ジャブを当てたのち、右ストレートまで繋げたのだ。

 さらにステップインからスイッチをして、左ミドルを射出する。


 ユーリの骨身に叩き込まれた、コンビネーションのひとつだ。

 右ストレートは相手の左頬に、左ミドルは右脇腹にめりこんだ。

 ユーリのコンビネーションがすべてヒットするのを試合で見るのは、初めてであったかもしれなかった。


 同階級の相手ならば、ダウンしていておかしくない破壊力のはずである。

 が、オルガ選手はおそらく計量後に五キロ以上はリカバリーしているし、ユーリはもともと規定の六十一キロに三キロ足りていない。ならば、八キロぐらいもウェイトに差が出てしまうのだ。


 ユーリのコンビネーションを全弾くらったオルガ選手は、むしろ闘争心に火をつけられた様子で猛然と前進した。

 バックステップで退避したユーリのもとに大股の一歩で詰め寄り、右腕を横合いに振りかぶる。


 それと同時に、ユーリも大きく踏み込んで、相手の両足に腕をのばした。

 オルガ選手の右拳はユーリの頭上を走り抜け、ユーリの両腕は相手の両足を抱え込む。

 ほれぼれとするような美しいフォームで、ユーリの両足タックルが決まった。

 客席も控え室も、歓声の坩堝である。


「やったやった! こんな序盤でテイクダウンを成功させるなんて、初めての快挙じゃない?」


 灰原選手などは子供のようにはしゃぎながら、瓜子の身体をがくがくと揺さぶってくる。

 しかし――オルガ選手の反応は速かった。

 ほぼ完璧な形でテイクダウンを奪われながら、ユーリが体重をあびせる前に上体を起こして、マットに右手をつく。そして、両足を抱えたユーリを引きずりながら腰で跳ねるように後退し、あっという間にフェンスまで辿り着いてしまったのだった。


 ユーリはなんとか逃すまいと、相手の上体に体重をあびせようとする。

 しかしオルガ選手はユーリの左肩に右手をあてて、それをつっかい棒のようにして接近を阻んだ。そうして左膝を立て、背中でフェンスを這うようにして身を起こしていく。


「うわー! ピンク頭の馬鹿力でも抑え込めないのかよ!」


 ユーリは内側から入れた左腕で相手の右腕を払い、あらためて相手にのしかかったが、その頃にはもうオルガ選手も完全に立ち上がってしまっていた。

 フェンスにべったりと背中をつけたオルガ選手の両脇に、ユーリの両腕が入っている。双差しの格好だ。


「まだだぞ。相手に楽をさせるな。稽古の成果を見せてやれ」


 立松は内心の昂揚を懸命にこらえている様子で、そんな風につぶやいている。

 ユーリは相手の下顎を頭で圧迫しつつ、右腕をかちあげていた。

 ユーリはしっかり重心を落としているが、相手の背筋はのびている。あっさり立たれてしまったものの、まだまだユーリが有利なポジションであった。


 壁レスリングの稽古期間はひと月半であったが、ユーリは瓜子よりも遥かに高い水準に達している。もともとユーリは正面からの組み合いを得意にしていたし、密着状態であれば不同視のハンデもない。「壁を床と思え」の教え通り、ユーリの卓越したグラウンドテクニックも、大いに活かされているはずであった。


 オルガ選手は何とか右腕をねじこんで四ツの体勢に戻そうと試みたが、ユーリの密着がそれを許さない。

 腰から下にも、膝蹴りを打てるほどのスペースはなかった。

 瓜子がさきほどメイ=ナイトメア選手から与えられた苦しみを、オルガ選手は全身で味わわされているはずだ。これだけの体格差があろうとも、体重のあびせかたに長けたユーリの肉体は牛のように重く感じられるはずであった。


 苦しげに顔を背けたオルガ選手は、やおら左腕を振り上げた。

 その不自由な体勢でかなう限りの勢いをつけて、ユーリの右こめかみに大きな拳を叩きつける。

 ユーリはそれを嫌がるように、反対の側へと顔を向ける。

 するとオルガ選手は大きく腕を回して、今度は左こめかみに拳の側面を叩きつけた。リーチ差が激しいために、そんな攻撃も余裕で届いてしまうのだ。


 さらにオルガ選手は、右の掌底をユーリの頭に乱打した。

 こちらの腕は完全にかちあげられているので、肘を支点にした短い軌道の殴打に過ぎない。が、これだけの体格差であれば、嫌がらせとしては十分以上であろう。首をよじって衝撃を逃がそうとするユーリは、明らかに痛そうだった。


 しかしそれでもユーリはべったりと相手にのしかかったまま、離れようとしない。

 業を煮やしたオルガ選手は、左腕をユーリの咽喉もとにねじ込み始めた。

 オルガ選手とユーリの間に、じわじわと距離ができていく。この前腕が完全に入ってしまったら、肘打ちをくらうリスクも生じてしまうはずであった。


 それを早急に察したらしいユーリは、ふいに上体を沈めて相手の両足を抱え込もうとしていた。

 オルガ選手はすかさず足を開いて、クラッチを防ぐ。これもまた、さきほど瓜子がメイ=ナイトメア選手を相手に見せた攻防であった。


 オルガ選手は左手でユーリの後頭部を押さえつけつつ、右腕を振りかぶる。

 その腕が鋭角に曲げられているのに気づいて、瓜子はぞっとした。オルガ選手はユーリの無防備な背中に肘を落とそうとしているのだ。


(危ないっ!)と瓜子が内心で叫ぶと同時に、ユーリが弾かれたような勢いでオルガ選手と距離を取った。

 おそらくは、セコンドの誰かが危急を告げたのだろう。瓜子だけではなく、控え室のあちこちから安堵の息がこぼされた。


「これで、仕切り直しだな。しんどいのは、ここからだぞ」


 そのように声をあげたのは、大江山軍造であった。

 ユーリはケージの中央まで移動して、オルガ選手はゆったりとそれを追いかける。残り時間は、早くも一分だ。


「このままだと、テイクダウンを取った桃園さんにポイントを取られちまうからな。それを挽回するために、あちらさんもギアをあげてくるだろうよ」


 その言葉を証明するかのように、オルガ選手が大きく踏み込んだ。

 初撃が左フックであったので、ユーリはカウンターの右ローを放つ。

 しかし相手の踏み込みが深かったため、ヒットポイントがずれたようだった。


 オルガ選手は、さらに右フックを叩きつけてくる。

 ユーリはそちらの攻撃もブロックしてみせたが、その勢いで上体が揺らいでいた。

 さらにオルガ選手はユーリの首筋に手をかけて、左の膝を振り上げる。

 七センチの身長差から繰り出される、膝蹴りだ。ユーリはとっさに右腕で防いだが、さきほどよりもさらに激しく上体が揺らいだ。


 オルガ選手は、そのまま首相撲でユーリをコントロールしようとする。

 しかし首相撲ならば、ユーリも一年以上前から稽古を積んでいる。相手のリーチは厄介であったが、師匠はそれよりも長身のジョンであるのだ。結果、互角の差し手争いに持ち込むことができた。


「上手いな。だが、気を抜くとやられるぞ」


 首相撲の差し手争いに取り組みながら、オルガ選手は肘打ちを狙っている様子であった。そちらの対処は、ユーリもまだひと月ていどのキャリアしかないのだ。

 よってユーリは、差し手争いを早々に放棄した。

 ただし、相手から離れるのではなく、密着したのだ。

 相手の両脇を抱え込み、前に押しながら足を掛けようとする。

 オルガ選手はその足をすかして、押し倒されまいと踏ん張った。


 その瞬間――ユーリが、身体をのけぞらせた。

 後方に倒されまいとして、オルガ選手は前方に重心をかけていたのだろう。それを利用して、フロントスープレックスを仕掛けたのだった。


 マリア選手が、「うわあ」と子供のような声をあげる。

 それはまさしく、マリア選手を彷彿とさせるような美しいスープレックスであった。

 そしてルールの改正により、大きく身体をひねる必要もない。ユーリは容赦なく、相手の側頭部をマットに叩きつけた。


 そして体勢は、サイドポジションである。

 相手の背中がマットに着くと同時に、ユーリはニーオンザベリーの体勢を取る。


 が、オルガ選手は腹に乗せられたユーリの右膝を払いのけると、機敏な動作で背中を向けた。

 ユーリが背中にのしかかったが、その牛のごとき圧迫をものともせずに、膝と両手でフェンス際まで這いずっていく。

 そうしてオルガ選手がフェンスを利用して立ち上がり、胴部にクラッチされたユーリの手を引き剥がし、なんとか正面に向きなおったところで、第一ラウンド終了のブザーが鳴らされた。

 控え室には、またあちこちから嘆息がこぼされる。


「すごいじゃん! 二回もテイクダウンを取ったから、ポイントは完全にピンク頭のもんだね!」

「だけどどっちもすぐに立たれて、寝技の攻防までは持ち込めなかった。それがちょっと、嫌な感じだな」

「やっぱり相手は、ストライカーなんでしょうか? 打撃は、いかにも重そうです」

「だとしても、組み技から逃げる技術とパワーは一級品だわね。次のラウンドからも、油断はできないだわよ」


 モニターの前に寄り集まった女子選手たちが、昂った様子で言葉を交わしている。

 そんな中、瓜子の隣に座した雅選手は「はん」と鼻を鳴らしていた。


「なんやら、つまらん試合やなぁ。あの物体は、人様の猿真似をする芸を覚えたんかぁ?」


 瓜子がモニターに集中している間に、雅選手はパイプ椅子の前後を入れ替えて、背もたれに頬杖をついていた。傷ついた蛇が身を休めているような、ぐんにゃりとした姿だ。


「猿真似って、どういう意味っすか? 試合は、ユーリさんが優勢っすよね?」


「そやけど、何から何までお手本通りでつまらんわぁ。体格で負けとる相手と正面からやりあっとったら、そのうち力負けするんと違う?」


 瓜子はそこはかとない不安感を抱かされながら、モニターのほうに視線を戻した。

 椅子に座ってフェンスにもたれたユーリは大きく肩を上下させながら、ジョンやサキの言葉を聞いている。その白い肢体はバケツで水をかぶったように濡れて、早くも疲労困憊といった様相であった。


 片目で打撃の攻防に挑むというのは、相当に集中力を求められるものであるのだ。それで初めての試合に挑んだユーリは、大きくスタミナを削られてしまったのだろう。

 また、相手は体格でまさるオルガ選手である。それをフェンスに押し込み続けるというのも、多大な体力が必要となるはずであった。


 そしてカメラが、赤コーナーのほうに移されると――オルガ選手は椅子にも座らず、鉄仮面のような無表情でトレーナーたる父親からの助言に耳を傾けていた。

 もちろんそちらも汗だくであるが、呼吸は落ち着いたものである。また、あれだけ豪快なスープレックスをくらっても、まったくダメージを受けた様子はなかった。


「相手はロシアの無差別級王者なんやろぉ? きっと自分より軽い日本人選手なんざ、子供を相手にしとるような心地やろねぇ」


 そのように語る雅選手は毒蛇のように微笑むでもなく、むしろ眠たげな面持ちである。それがいっそう、瓜子の胸を波立たせたのだった。

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