05 ピンクの怪物とロシアの新星

「じゃ、アタシも行ってくるかな」


 雅選手の暴虐非道な行いを見届けたのち、小笠原選手がそのように宣言した。

 それに付き従うセコンドは、来栖選手とオリビア選手と天覇館東京本部のサブトレーナーだ。


「あんた、死ぬ気で頑張りなよ! 減量がキツかったなんて言い訳は通用しないんだからね!」


 灰原選手が心配そうな面持ちでわめきたてると、小笠原選手は力強い笑顔で「了解」と応じた。

 瓜子たちも口々に激励を飛ばして、小笠原選手の出陣を見送る。そしてそれとほとんど入れ替わりで、雅選手の陣営が凱旋してきた。


「わ、どうしたの? あんた、へろへろじゃん!」


 灰原選手が、驚きの声を張り上げる。雅選手は、鞠山選手と天覇ZEROのサブトレーナーに左右から抱えられていたのである。


「あんたて、うちのことかいな? うちとあんたはそないに気安い仲やったかいなぁ?」


 雅選手が毒蛇のごとき微笑を突きつけると、灰原選手は「ごめんなさい!」と瓜子の後ろに隠れてしまった。傍若無人を売りにする灰原選手でも、雅選手が相手では分が悪いようだ。


「やっぱり、あれだけの攻撃をくらってノーダメージなわけはないっすよね。大丈夫っすか、雅選手?」


「あぁら、瓜子ちゃん。瓜子ちゃんの声を聞くだけで、痛みも疲れも吹っ飛んでまうわぁ」


「それはたぶん気のせいだから、きっちり休むだわよ。……まったく、雅ちゃんの瘦せ我慢は天下一品だわね」


「ふふん。敵さんやファンの前で、こないにみじめったらしい姿はさらせないやろぉ?」


 雅選手は花道を戻る際も、元気いっぱいの様子を見せていた。そうして入場口をくぐるなり、力尽きてしまったのだろう。その根性には、瓜子も舌を巻く思いであった。


「だいたい、マイクをぶっ壊す必要がどこにあったんだわよ? ファイトマネー没収どころか、出場停止処分をくらっても文句は言えないんだわよ?」


「ははん。そないな真似してうちに勝ち逃げされたら、困るのはあちらさんやろぉ? ……ああもう、いいから下ろしてやぁ。そないに奥に引っ込んどったら、モニターが見えへんやんかぁ」


「ピンク頭の試合を観戦するんだわよ? 雅ちゃんにしては、珍しいだわね」


「そらぁうちのパフォーマンスを台無しにするようなしょっぱい姿をさらすようやったら、折檻が必要やからなぁ」


 パイプ椅子の上に下ろされた雅選手は、その背もたれにぐったりともたれかかった。

 すると、ななめに傾いだ顔からすうっと鼻血がしたたり落ちる。鞠山選手が慌ててティッシュの箱を取り上げようとすると、雅選手は「いらんいらん」と手を振った。


「まさか、そないもんをうちの鼻に詰め込むつもりやないやろなぁ? そないな姿をさらすぐらいなら、失血死したほうがましやでぇ?」


「空元気もいい加減にするだわよ」と言いながら、鞠山選手はタオルで雅選手の顔をぬぐった。


「……でも、見事な逆転勝利だっただわよ。雅ちゃんの執念には、心から敬服するだわよ」


「くふふ。ありがとさぁん」


 雅選手は妖艶に微笑み、鞠山選手もつられたようににんまりと笑った。

 瓜子はここ最近まで彼女たちの交流のさまを目にしたこともなかったが、この両名は来栖選手とともに《アトミック・ガールズ》を黎明期から支えてきた戦友同士であったのだ。どちらも人を食ったような性格をしているが、その奥底には深い絆が存在するのだろうと思われた。


「で? 試合のほうはどないなっとんの? ケージインすらしとらんやんかぁ」


「予備のマイクが調子悪いみたいっすね。……あ、始まるみたいっすよ」


 瓜子がそんな風に答えたとき、リングアナウンサーの甲高い声がモニターのスピーカーから響き渡った。


『お待たせいたしましたぁ! 第九試合の開始でェす! ……青コーナーより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の入場でェす!』


 凄まじい歓声が、スピーカーと壁の向こうから同時に空気を震わせる。

 そしてその歓声の裏側に、『ハッピー☆ウェイブ』の旋律もかすかに聞こえていた。


「おー、例の新曲だね! あの動画のうり坊、可愛かったなぁ」


「や、やめてくださいよ。お願いですから、試合に集中させてください」


 ユーリの新曲『ハッピー☆ウェイブ/ホシノシタデ』の発売日は数日後であったが、ミュージック・ビデオのほうはもう一週間も前から先行配信されていたのだ。

 それはともかくとして、ユーリはいつも通りのとびっきりの笑顔で花道に現れた。

 運営指定のウェア姿であるが、そんなスポーティな装いでもユーリの輝きが減じたりはしない。また、たとえ気に食わない運営陣の準備したウェアであっても、チームメイトとおそろいの姿で入場できることにはユーリもご満悦であったのだ。


「ふん。多少はブーイングも聞こえるみたいだけど、完全に歓声に圧倒されてるな」


 多賀崎選手は満足そうな面持ちで、そのようにつぶやいていた。

 小柴選手や後藤田選手は、食い入るようにモニターを見つめている。敗北を喫してしまった彼女たちは、きっとこれまで以上に強い気持ちで後続の選手の勝利を祈っているのだろう。


 ボディチェック係の前まで辿り着いたユーリはにこやかに微笑みつつ、セコンドの三名にそれぞれ右手を差し出した。

 ジョン、サキ、愛音の順番で、拳をグローブにタッチさせる。ユーリはいっそう楽しそうに頬をゆるめつつ、マウスピースをかぷりとくわえた。


 そうしてユーリがTシャツとジャージのボトムを脱ぎ捨てると、歓声がまた大きく渦を巻く。ユーリが肌をあらわにするだけで、男性陣の過半数は理性を削られてしまうものなのだ。


 白い顔にワセリンを塗られて、ボディチェックを完了させたユーリは、跳ねるような足取りでケージインする。もはや大津波のような歓声の中、ユーリは小走りで手を振りながらケージの内部を一周した。


「まったく、緊張感のない顔だわね。たいした心臓をしてるだわよ」


 鞠山選手の言葉通り、ユーリはいつも通りのユーリであった。

 これまでの因縁など忘れてしまったかのように、にこにこと笑っている。対戦相手のオルガ選手はユーリにいわれのない復讐心をぶつけようとしているのに、そのようなことはもはや念頭にないのだろう。観客の前で試合をできるという喜びが、すべての鬱屈を上回っているに違いなかった。


『赤コーナーより、オルガ=フレア選手の入場でェす!』


『ハッピー☆ウェイブ』のサウンドがフェードアウトして、重厚なオーケストラのBGMが鳴らされる。そんな中、オルガ選手の長身がゆらりと現れた。

 歓声は、同じ勢いで渦を巻いている。その半分はケージにたたずむユーリに対するものであり、もう半分は――もしかしたら、セコンドとして同行しているオルガ選手の父親に対するものであるのかもしれなかった。


 かつて《JUF》で活躍していた、キリル・イグナーチェフ氏である。

 オルガ選手の所属するチーム・マルスというロシアのジムのトレーナーである彼は、このたび数年ぶりに日本までおもむいていたのだった。


 オルガ選手と同じように、淡い褐色の髪と冷たい灰色の瞳をした、大柄で壮年の白人男性だ。彼は《JUF》が消滅した後、卯月選手やジョアン選手ともども《アクセル・ファイト》にスカウトされていたが、あまり結果を出せないまま五年ほどで引退して、所属ジムのトレーナーに収まったのだという話であった。


《JUF》におけるキリル氏は、強かった。しかし年齢的に、その時代が全盛期であったのだ。《JUF》の出身で《アクセル・ファイト》で結果を残せたのは、卯月選手やジョアン選手を筆頭とする若手の選手のみであったのだった。


(でも、まさかキリル選手の娘さんが、ユーリさんの前に立ちはだかることになるなんてな)


 ボディチェックを済ませたオルガ選手は、一歩ずつ踏みしめるようにしてケージインした。

 大歓声の中、リングドクターが浮ついた声でコールを始める。


『第九試合、バンタム級、六十一キロ以下契約、五分三ラウンドを開始しまァす! ……青コーナー、百六十七センチ、五十八・二キログラム、新宿プレスマン道場所属……ユーリィ・ピーチ=ストームゥ!』


 ユーリはひらひらと両手を振って大歓声に応えている。

 今大会からワセリンの塗布が実施され、なおかつ過度のメイクが禁止となったため、ユーリもほとんどスッピンである。が、ユーリはもともとメイクなど不要なぐらい、端麗な容姿をしていたのだった。


 すっかり定着した淡いピンク色のショートヘアに、長い睫毛と垂れ気味の目、小づくりで形のいい鼻にピンク色の肉感的な唇――瓜子が毎日見ている、ユーリの蠱惑的な美貌だ。

 また、運営指定のハーフトップとショートスパッツも、まるでユーリのためにデザインされたものであるかのようによく似合っている。ユーリはその端麗なルックスと超絶的なプロポーションによって、おおよその衣装を着こなしてしまうのだった。


『赤コーナー、百七十四センチ、六十一キログラム、チーム・マルス所属……オルガァ=フレアァ!』


 いっぽうオルガ選手は、凄まじいまでの筋肉美であった。

 百七十四センチという長身に、みっしりと筋肉がついている。本当にこれで六十一キログラムなのかと疑いたくなるような体格だ。


 腕にも肩にも男のような筋肉が盛り上がっており、広背筋の発達具合も尋常ではない。それに比べれば腰や下半身は引き締まっているように思えるが、骨格が頑健であるせいでまったくアンバランスなことはなかった。


 やはり、日本人とは骨格の出来が違っているのだ。

 特にロシア人というのは、骨格の逞しさに定評があった。

 とりわけ瓜子が目を奪われたのは、胴体の厚みと拳の大きさである。たとえば魅々香選手なども上半身の逞しさは尋常でないが、オルガ選手に比べると、ずいぶん平べったく感じられてしまう。どれだけ広背筋を鍛えても、土台となる骨格の厚みがまったく違っているように思えてしまうのである。


 それに、拳の大きさだ。

 両者がケージの中央に招き寄せられると、その印象がいっそう強まった。

 明らかに、拳がユーリよりもひと回り大きい。ということは、彼女はワンサイズ上の、男子選手がつけるようなグローブを装着しているということであった。


 それに身長差は、七センチである。

 背丈そのものはオリビア選手のほうが一センチだけまさっているはずだが、彼女はそれよりも遥かに大きく見えた。ひょろりと背が高いように見えるオリビア選手と異なり、彼女は完全に均整の取れた体格をしているために、圧迫感が尋常でなかったのだった。


 オルガ選手は鉄仮面のような無表情で、ユーリの笑顔を見下ろしている。

 ルール確認の後、ユーリが両手を差し出しても、オルガ選手はそれを無視してフェンス際まで下がっていった。


「さて、ロシア女の実力はどないなもんやろなぁ」


 雅選手の独白を追いかけるようにして、試合開始のブザーが鳴らされた。

 オルガ選手は腰をやや落としたMMAのスタンダードなスタイルで、ゆっくりと中央に進み出る。

 それと相対するユーリは、アップライトのムエタイスタイルだ。

 その姿を見て、大江山軍造が「ふふん」と鼻を鳴らした。


「やっぱり、このスタイルで固めたんだな。まあ、それが一番無難だろうさ」


「ああ。軍造さんのおかげだよ」


 モニターを注視したまま、立松がそのように答えた。


 ユーリは左右で極端に視力の異なる、不同視である。近いものは視力の悪い右目で、遠いものは視力のいい左目で見るように習慣づけられてしまい、遠近感や立体感を知覚する両眼視の機能が損なわれてしまったのだ。

 その解決策は、ただひとつ。片目をふさいでしまうことだけだった。

 ユーリは両目でものを見るとピントがぼやけてしまい、素早く動くものなどはまったくとらえられなくなってしまうのだ。ならば、たとえ多少の遠近感を犠牲にしてでも、片目だけを使ったほうがまだマシであったのだった。


 だがしかし、片目をつぶることは許されない。

 それでは相手に気づかれて、ウィークポイントを見透かされてしまうためである。たとえば右目をつぶってしまったら、相手の左フックなどはほとんど見えなくなってしまうため、決してそれを悟らせてしまうわけにはいかなかったのだった。


 よってユーリは、ガードのためにあげた右拳でもって、自分の右目を隠していた。ユーリはむしろ視力の悪い右目のほうが対戦相手の動きを見やすいと言っていたのだが、サウスポーでないユーリはどうしても左手を前に出さなくてはならないため、隠せるとした右目のみであったのである。


 不同視が発覚した合宿稽古から、およそひと月。ユーリはひたすら、左目のみで戦う訓練を積んできた。その成果が、ついにこの場で試されるのだった。


 ユーリは軽やかにステップを踏みつつ、慎重に相手との間合いを測っている。

 オルガ選手もまた、むやみに前進しようとはしなかった。その挙動を見る限り、決してユーリの実力を侮ったりはしていないようだった。


 意外に静かな立ち上がりに、観客たちは焦れたような声援をあげている。

 そうしてユーリが、意を決した様子で足を踏み込もうとしたとき――オルガ選手が、左腕を旋回させた。


 いきなりの、ユーリには見えない左フックである。

 瓜子はぎくりと身をすくめたが、ユーリはすかさず顔の前にかざしていた右手で側頭部を抱え込んだ。

 オルガ選手の巨大な拳が、ユーリの前腕に叩きつけられる。

 それと同時に、ユーリは右ローを射出した。

 ユーリのしなやかな右足が、オルガ選手の左の内腿を蹴りつける。


 両者は同時にバックステップして、おたがいの間合いから遠ざかった。

 灰原選手が「ひゃー!」とわめいてから、瓜子の耳もとに口を寄せてくる。


「いきなりの左フックで、ひやっとしちゃったよ。あいつらまさか、ピンク頭の目のことを知ってるんじゃないだろうね?」


「まさか、さすがにそれはないと思いますけど……」


 ユーリの不同視について知っているのは、プレスマン道場と赤星道場のコーチ陣、および合宿稽古に参加した女子選手のみである。これは決して敵方の人間に知られてはならないということで、他の門下生には公言しないようにとその場で取り決められたのだ。


「MMAだと、ジャブをあまり使わない選手も多いっすからね。ただの偶然だと信じましょう」


「でも、それだと左フックが主体ってことだよね? それなら、けっきょくピンチじゃん」


「大丈夫っすよ。それにも、対策は練ってるんすから」


 その対策が、今のユーリの動きである。もしも相手の左パンチが視界から消えたならば、それは左フックが放たれた証左であるため、すぐさまブロックしてカウンターを飛ばすべし、という内容であった。


 ユーリはシステマチックに取り決められた内容であれば、恐るべき執念でもって反復練習をこなし、それを我が物にすることができる。今回はわずかひと月の期間しかなかったが、今の動きを見る限りでは、ほぼ完璧な形で身につけられたようだった。


 ユーリは仕切り直しとばかりに、また距離を測りなおしている。

 オルガ選手はオルガ選手で、さらに慎重さを増したようだ。今の右ローの一発で、ユーリの怪力を思い知らされたのだろう。それこそが、彼女の朋友たるリュドミラ選手の膝を完膚なきまでに痛めつけた攻撃であったのだった。


(でも、ユーリさんはリュドミラ選手が膝に爆弾を抱えていたことなんて知らなかったし、対戦相手に指名したりもしてない。あんたは、パラス=アテナの連中に騙されてるんだよ)


 瓜子がそんな風に念じたとき、今度はユーリのほうが仕掛けた。

 遠い距離からの、右ミドルである。リーチに大きな差があるため、ユーリも蹴りを主体に試合を進める作戦であった。


 オルガ選手はバックステップをして、それを回避する。

 バックステップしていなければ、少なくとも左腕でブロックすることになっていただろう。ユーリの攻撃は、しっかりと目算が取れていた。


 すると今度はオルガ選手が踏み込んで、右のストレートを飛ばしてくる。

 ユーリもまた、バックステップでそれをかわした。

 片目でも遠近感がつかめないことに変わりはないが、やはりピンボケの両目よりはマシであるのだ。


 まだ二発ずつの打撃を交換したに過ぎないが、観客たちは大いにわいている。

 その中で、ユーリの変化に気づいている人間は、どれぐらい存在するのだろう。ユーリが適切な距離から攻撃を仕掛け、相手の攻撃には適切な距離を下がって回避した、というのは――瓜子にとって、目を見張るような進化であったのだった。


 モニターに映し出されるオルガ選手はいっそう冷たく灰色の目を燃やしており、ユーリは――常にないほど真剣な面持ちで、相手の姿を見据えている。その姿は、どこか沙羅選手と対戦したときのユーリを想起させた。


 あの一戦で、ユーリは大きな進化を遂げた。

 今回も、それと同じぐらいの進化を果たすのかもしれない。

 そんな風に考えると、瓜子はえもいわれぬ感慨に包まれてやまなかった。

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