04 毒蛇と狛犬
『三ラウンド、四分五秒、右フックによるレフェリーストップで、猪狩選手のKO勝利でェす!』
リングアナウンサーの甲高い声とともに、瓜子の右腕がレフェリーに掲げられた。
会場には凄まじい歓声が渦巻いているが、瓜子はいまだ酸欠の状態から脱していない。心臓は暴れ馬のように跳ね回っており、全身からしたたった汗がぼたぼたとマットにしみを作っていた。
ただ、胸の内にはじんわりとした充足の気持ちが満ちている。
笑顔で近づいてくるセコンド陣の姿が目に映ると、その気持ちはいっそう高まった。
が、セコンド陣との間に、別なる人物が割り込んでくる。小洒落た格好でハンドマイクをつかんだ若い男性、新米のリングアナウンサーである。
『それでは見事にKO勝利を収めた猪狩選手に、熱いお言葉を頂戴いたしまァす! 二ラウンド目までは危ない場面の連続でしたけど、最後の最後で逆転KOを決めることができましたねェ。今のお気持ちは、いかがですかァ?』
『……押忍。今は疲れて、頭が回りません。ただ、セコンド陣の言葉のおかげで、勝利につなげることができました』
歓声が、いっそうの勢いで渦を巻いた。
リングアナウンサーはおどけた仕草で片耳をふさぎつつ、瓜子に軽薄な笑みを投げかけてくる。
『猪狩選手は、すごい人気ですねェ。こんなに可愛いと、次から次へとオトコが寄ってきて大変でしょう?』
思考能力の回復していない瓜子は、『いえ』としか答えられなかった。
その後にも、試合とは関係のない質問をいくつか飛ばされてきたので、適当にコメントを返していく。その短いやりとりだけで、この人物が格闘技に関して何の知識も興味も持ち合わせていないことを察することができた。
『……それでは名残惜しいですけれど、勝利者インタビューはここまでとさせていただきまァす! 猪狩瓜子選手でしたァ!』
大歓声の中、リングアナウンサーを押しのけるようにして近づいてきたサキが、頭にタオルをかぶせてくれた。そして、瓜子の濡れた頭をわしわしとかき回してくる。
「愛想のねー野郎だなー。これだけ歓声をいただいてるんだから、手のひとつも振ってやりゃあいいだろうがよ?」
歓声に負けないように、サキが瓜子の耳もとでそのように言いたててきた。
瓜子はまだ荒い息をつきながら、サキの仏頂面を見返してみせる。
「サキさんだって、ほとんど歓声に応えたりしないじゃないっすか……まあ、それがクールでかっこいいんすけど」
「うるせー、ちびタコ。そんな大昔のことは忘れたよ」
反対の側から近づいてきた立松と柳原は、満面の笑みであった。
そちらにへろへろの笑顔を返してから、瓜子は周囲に視線を巡らせる。
リングドクターとセコンド陣に介抱されていたメイ=ナイトメア選手は、瓜子がくだらないインタビューに答えている間に引き上げてしまったようだった。
(ちぇっ。ちょっとぐらい、言葉をかけておきたかったのにな……)
会場には、「瓜子!」と「うりぼー!」のコールがうねりをあげている。それに背中を押されるようにして、瓜子はケージを下りることになった。
瓜子が花道を戻る間も、凄まじい歓声の雨あられである。
瓜子は頭のタオルを肩までずり下ろし、くたびれきった右腕を持ち上げて、それに応えてみせた。
前回の大会で、瓜子は生涯最大の歓声をあびることになった。そしてその記録は、今日ですぐさま塗り替えられてしまったようだった。
瓜子が戴冠した前回の試合よりも、人々はさらに熱狂しているように感じられる。そこにはきっと、ようやく《アトミック・ガールズ》の選手がチーム・フレアに一矢報いてくれたという思いが込められているのだろう。魅々香選手は相手がジジ選手であったため、対チーム・フレアの戦績はこれでようやく一勝四敗であったのだった。
「瓜子ちゃん、おめでとさぁん」
入場口の扉をくぐると、そこには雅選手の陣営が待ちかまえていた。
ねっとりと微笑む雅選手のかたわらから、鞠山選手がずかずかと前進してくる。鞠山選手の顔は鼻の穴が開ききって、寝不足で不機嫌なカエルのような表情になってしまっていた。
「よくやっただわね! あんたも美香ちゃんに負けないぐらい輝いてただわよ!」
「ありがとうございます。みなさんのおかげです」
瓜子が右手を差し出すと、鞠山選手は同じ顔つきのまま、両手でぎゅっとグローブを握りしめてきた。鞠山選手らしからぬ、熱情的な振る舞いだ。
「この後は雅ちゃんが爆勝するから、モニターで見届けるんだわよ! ピンク頭もそれに続くように、あんたが発破をかけておくんだわよ!」
「押忍。……雅選手、頑張ってください」
「はいなぁ」という軽妙な返事とともに、雅選手が瓜子のかたわらをすりぬけた。扉の向こうから、雅選手の名をコールするアナウンスが響きわたったのだ。
天覇ZEROのサブトレーナーと鞠山選手も、おっとり刀でそれに続く。その姿を見届けてから、瓜子たちは控え室へと足を踏み出した。
その道中で、ユーリの陣営と行き当たる。
ユーリはとろけそうな笑顔で両腕を広げ、「さあ!」という声をほとばしらせた。
「いや、さあじゃないっすよ。自分から飛び込むのは、さすがに気恥ずかしいんすけど」
「えー? うり坊ちゃんだって、武魂会の合宿のときには――」
「黙らないと、ひっぱたきますよ」
ユーリは「あはは」と笑ってから、自ら瓜子に抱きついてきた。
「うり坊ちゃんがかっちょよすぎて、ユーリは涙が止まらなかったよ! メイクのお直しで大変だったんだからー!」
「それは恐縮です」と答えながら、瓜子はユーリの甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
ユーリの抱いている喜びや幸福感が、肌を通して体内にしみいってくるかのようである。
そうして最後に瓜子の頭に頬ずりをしてから身を離したユーリは、ぶるっと寒そうに身を震わせた。ユーリは悪寒や嘔吐感に耐えてまで、瓜子の勝利をめいっぱい祝福してくれたのだ。
「それじゃあ、ユーリも行ってくるね! 勝利のために、死力を尽くす所存なのです!」
「はい。最後まできっちり見届けますから、どうか頑張ってください」
瓜子があらためて右拳を差し出すと、ユーリもグローブに包まれた拳をぎゅっと押しつけてきた。
そうしてユーリは入場口に向かい、こちらから離脱したサキもそれに続く。それを追いかける道行きで、ジョンがにっこり笑いかけてきた。
「メイとシアイをするたびに、ウリコはヒトカワむけるねー。ウリコはきっと、セカイでタタカえるよー」
「押忍。今後とも、ご指導お願いします」
ジョンが通りすぎると、愛音がじっとりとした眼差しを向けてきた。
「KO勝利、おめでとうございます。……ユーリ様にハグされる前だったら、もっと気持ちを込めてお祝いできたように思うのです」
「あはは。そのお言葉だけで、十分っすよ」
それでようやく、瓜子たちも歩を再開させることができた。
そうして控え室に戻ったならば、四方八方からお祝いの絨毯爆撃だ。灰原選手はシラフとも思えぬようなはしゃぎっぷりであり、小柴選手は子供のように泣いてしまっていた。
「よくやってくれたね。ここから四連勝で、とりあえずタイまで持っていこう」
小笠原選手も静かに闘争心をたぎらせながら、そんな風に言っていた。
そしてそれらの狂騒がひとしきり収まってから、赤星道場の陣営が近づいてくる。
「猪狩さん、おめでとう。……最後は、身震いするような攻防だった」
まずは赤星弥生子が、そんな言葉を投げかけてくれた。
そして、グローブに包まれた瓜子の手を握りしめると、慌てた様子ですぐに手を離す。
「失礼。まだちょっと、興奮が収まっていないようだ」
「あはは。クールな弥生子さんをそこまで興奮させられたなんて、光栄です」
瓜子がそんな風に言葉を返すと、赤星弥生子は困ったように口もとをほころばせた。なんとも魅力的な笑顔である。
すると、大江山すみれがその脇から瓜子に接近してくる。
「KO勝利、おめでとうございます。……わたし、猪狩さんのことも目標にさせていただきますね」
「え? 目標っすか?」
「はい。わたしの目標は弥生子さんとベリーニャさんと来栖さんで、そのあと来栖さんを倒したユーリさんも含まれましたけど、そこに猪狩さんも加えさせていただきます」
にこにこと笑っているが、このツインテールの可愛らしい娘さんは内心が読め取れない。けっきょく瓜子は、「はあ」ととぼけた声を返すことしかできなかった。
「確かに、いい試合だった! 猪狩さんと桃園さんには、いつか《レッド・キング》にも出場してもらいたいもんだな!」
大江山軍造は豪快に笑いながら、瓜子の背中をばしばしと叩いてきた。
そして最後に、マリア選手がにっこりと笑いかけてくる。
「猪狩選手、ほんとにすごかったです! わたしももっともっと頑張らなくっちゃって思いました! またいつか、一緒に稽古しましょうね!」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
この顔ぶれでは、マリア選手がもっとも普通に思えてしまうようである。
瓜子がそんな感慨を噛みしめていると、柳原が「おい」と声をかけてきた。
「次の試合が始まるぞ。こいつも、見逃せないだろ?」
モニター上では、すでに選手紹介のコールがされていた。
『青コーナー、百六十一センチ、四十七・九キログラム、フリー……雅ィ!』
雅選手はしなやかな肢体を、青と白のタンクトップおよびショートスパッツに包んでいた。
長い髪は綺麗に編み込まれて、色の白い妖艶な顔が剥き出しにされている。そこに浮かぶのは、やはり毒蛇のごとき微笑であった。
『赤コーナー、百五十一センチ、四十八キログラム、ヴァーモス・ジム所属……ベアトゥリス=フレアァ!』
ベアトゥリス選手はずんぐりとした身体に、赤と黒のハーフトップにファイトショーツだ。
背丈は雅選手よりも十センチ小さいが、そのぶん肉厚でどっしりとした体格をしている。特に上半身の発達が目覚ましく、どこからどう見ても瓜子より大柄であるように感じられた。もちろん骨格の差もあるのだろうが、ウェイトのリカバリーが尋常でないのだろう。狛犬のように武骨な面相と相まって、たいそうな迫力である。
「ヴァーモス・ジムは、ルタ・リーブリ系の中でも筆頭格の名門ジムだ。ルタ・リーブリってのは、もともと組み技と寝技の競技だったらしいが……ヴァーモスの選手はストライカーが多いし、こいつも見るからに打撃を鍛えてそうな身体つきだよな」
立松は、そんな風に評していた。
日本には、あまりルタ・リーブリという競技の情報が伝わってきていない。立松やジョンからの情報によると、ルタ・リーブリはもともと競技ではなく実戦格闘技で、古きの時代にはバーリトゥードでブラジリアン柔術の選手としのぎを削っていたのだという話であった。
「だからまあ、寝技の得意な柔術の選手に対抗するために、立ち技の打撃を磨く方向にシフトチェンジしたのかもしれん。ブラジルでは、ムエタイなんかも盛んなはずだしな」
と、いつだったかに立松はそんな風にも言っていた。
とりあえず、ブラジリアン柔術とルタ・リーブリが対立の関係であることは確かであるらしい。格闘技ブームの全盛期、日本において柔術出身のブラジル人選手が活躍し始めると、ルタ・リーブリ系の選手がわざわざ柔術の攻略法を日本人選手に伝授した――などという逸話も残されているのだそうだ。
「ルタ・リーブリって、語源はルチャ・リブレと一緒らしいですねー!」
と、マリア選手が割り込んできた。
「ルチャ・リブレって、マリア選手のお父さんとかがやってたメキシカン・プロレスのことっすよね? 日本語で言うと、どういう意味になるんすか?」
「日本語で言うと、『自由な戦い』です! プロレスとバーリトゥードは方向性が真逆ですけど、ルールが少ないっていうことは共通してるから、同じネーミングになったのかもしれませんねー!」
自由な戦い――そういえば、バーリトゥードの意味は『なんでもあり』や『すべてが有効』であるのだ。ルールの制約が少ない環境で戦うのがバーリトゥードであり、そこで活躍していたのがルタ・リーブリの選手であったというわけであった。
確かに瓜子の記憶にある《JUF》の試合において、ルタ・リーブリ系の選手というのは野性味たっぷりのストライカーが多かった。
いっぽうで、ブラジリアン柔術の選手は「護身」を名目に掲げることが多い。特にジルベルト柔術などは、「自分も相手も傷つけずに勝つ」ということを命題にしているのだった。
バーリトゥードという危険な試合方式の中で、ブラジリアン柔術は護身を重んじ、ルタ・リーブリは打撃による制圧を重んじることになった――ということなのだろうか。
しかし何にせよ、試合を行うのは個人であるのだ。
ベアトゥリス選手がどのような選手であるかは、この試合で見定める他なかった。
『ファイト!』の号令とともに、いよいよ試合が開始される。
ベアトゥリス選手は頭を振りながら、ぐいぐいと前進した。やはりいかにもストライカーめいた挙動だ。
それに対する雅選手は、すり足のような足運びで距離を測っている。そんな所作までもが、毒蛇めいている雅選手であった。
雅選手は、空手と柔術をルーツにするオールラウンダーである。
長いリーチを活かした打撃技は苛烈であり、獲物に巻き付くアナコンダのごとき寝技にも定評がある。KO勝利の経験はなく、スタンドの状態で相手を削ったのちに寝技に引き込み一本勝利を収めるというのが、雅選手の得意パターンであった。
(これだけ細いんだから、KOパワーがなくても不思議はないんだけど……それすら、相手をいたぶってるように見えちゃうんだよなあ)
雅選手の打撃技は巧みだが、それでダウンを奪われる選手はほとんどいない。が、ラウンドを重ねるごとに着々と削られて、試合が終わる頃には顔面が血まみれであったり風船のように腫れあがってしまったりという惨状であるのだ。頭蓋の内側にまで響かせる重さがない代わりに、表面だけがボロボロに傷つけられてしまうのである。それをもって、雅選手の打撃は「苛烈」と評されているのだった。
そんな雅選手とベアトゥリス選手が、ケージの中央で向かい合う。
雅選手は長い足で牽制の前蹴りを放ったが、ベアトゥリス選手は鋭いバックステップでそれを回避した。こちらはやはり、ムエタイがベースであるようだ。
カウンターを得意とする雅選手は遠い距離からジャブを振って、相手を誘い込もうとする。
ベアトゥリス選手は小刻みにステップを踏んで、それに乗ろうとはしなかった。
両者が接触しないまま、ついに一分が経過してしまう。
焦れた観客がブーイングをこぼし始めた頃――ベアトゥリス選手が、ふいに大きく踏み込んだ。
雅選手の蹴りが届かないぐらいの遠距離からひと息で間合いを詰め、左のショートフックを放つ。
右頬を叩かれた雅選手はすぐさま左拳を返したが、その頃にはベアトゥリス選手も射程圏外に逃げていた。
「わー! こいつ、すっごく素早いじゃん! あんたの相手と大差ないんじゃない?」
と、灰原選手が横合いから瓜子にからみついてきた。
確かに、メイ=ナイトメア選手を彷彿とさせる、鋭いステップだ。ベアトゥリス選手のほうが軽量であるのだから、メイ=ナイトメア選手と互角以上の素早さを持っていても何ら不思議はないのだが――しかし、《アトミック・ガールズ》に参戦していたこれまでの外国人選手でも、これだけの鋭いステップを持つ選手はなかなかいないはずだった。
その一発を皮切りとして、ベアトゥリス選手は攻勢に転じた。
遠い間合いから一気に距離を詰めて、強烈なパンチを叩き込んで、すぐさま離脱する。絵に描いたような、ヒット&アウェイである。十センチの身長差をものともしない、素晴らしい身体能力と技術であった。
雅選手は相手が接近するたびにカウンターの攻撃を放つが、それはほとんどすかされるかブロックされるかで、まったくクリーンヒットしない。そして、雅選手が組み合いを狙って接近しようとしても、相手は野生動物のような敏捷さで距離を取ってしまうのだった。
無茶苦茶に攻撃的であったが、ベアトゥリス選手もまた一種のアウトタイプであったのだ。
そしてやっぱりブラジルにおいては、ケージの試合を重ねてきたのだろう。ケージの広さを十二分に活用した、小憎いぐらいのステップワークであった。
そうして同じ展開のまま、三分ほどの時間が過ぎ――右フックをまともにくらった雅選手の細い鼻から、真っ赤な血がしたたった。
「ちょっとちょっと! これじゃあ、いつもと逆のパターンじゃん!」
灰原選手が、ぐいぐいと瓜子を揺さぶってくる。
確かに、いつも相手選手を立ち技で翻弄している雅選手が、一方的に攻め込まれてしまっている。ただ違うのは、ベアトゥリス選手の攻撃には内側まで響く重さがともなっていそうな点であろう。雅選手は現段階で足もとがふらついており、見た目以上のダメージを負っていることが明白であった。
ベアトゥリス選手は獣のようにマットを跳ねて、ひたすらパンチで雅選手を追い込んでいく。
その手数は増していくいっぽうで、序盤は単発であったのが、二発、三発とコンビネーションで放たれるようになり、それらもすべて的確に雅選手の肉体をえぐった。
雅選手の鼻血が激しくなってきたために、レフェリーがいったんタイムストップをかける。その時点で、試合時間は三分半に達していた。
リングドクターが雅選手の傷口をチェックして、すぐさま試合は再開される。
その際に鼻血は清められたが、試合再開してすぐの左フックで、また鮮血がしたたることになった。
雅選手は弱々しくよろめきながら、後方に下がっていく。
その背中がフェンスにぶつかると、ベアトゥリス選手はいっそう猛然と距離を詰めた。
雅選手をフェンスに釘づけにして、左右のフックをあびせかける。
あわやレフェリーストップかと思われたが――雅選手は、ふいに右膝を振り上げた。
獲物に襲いかかる毒蛇のように、その膝蹴りがベアトゥリス選手の下顎を叩く。
ベアトゥリス選手はぎょっとした様子で身を引いたが、すぐさま雅選手の胴体に組みついて、強引に横合いへとなぎ倒した。
「うわー、クリーンヒットしたのに、効いてないのかよ!」
ベアトゥリス選手は頭が大きく、首が太い。こういう選手は、えてして打たれ強いものであるのだ。
何にせよ、雅選手はテイクダウンまで取られてしまった。
残り時間は一分ていどだが、窮地に次ぐ窮地である。ポジションはハーフガードで、雅選手の白い両足が相手の右足にからみついていた。
ベアトゥリス選手はそのポジションをキープしたまま、雅選手に右肘を叩きつける。雅選手も頭部をガードしていたが、いかにも重そうな肘打ちであった。
雅選手が動かないため、ベアトゥリス選手は肘打ちを連打する。レフェリーは両者のかたわらに膝をつき、いつでも止められるように両手をかざした。
「やばいやばい! 負けちゃうよー!」
と、灰原選手がまた雄叫びをあげたとき――
両者の体勢が、くるりと入れ替わった。
瓜子は灰原選手と一緒に、「え?」と声をあげてしまう。
おそらくは、足をフックガードの形にしてスイープを仕掛けたのだろうとは思うが、上半身における猛攻に気を取られて、そのさまを見逃してしまったのだ。
上を取った雅選手はにたにたと笑いながら、相手の咽喉もとを左手で押さえつけた。その妖艶なる顔は鼻血まみれであるため、いっそう凄惨な様相である。
ベアトゥリス選手は頭部をガードしながら、腰を切り始めた。
雅選手はそのガードの隙間から軽いパウンドを当てつつ、きっちりとついていく。雅選手のポジションキープ能力は、この階級で屈指のものであったのだ。
そうして残り時間が三十秒ほどになったとき、雅選手が身体をねじるようにして右肘を振りおろした。外側に振りかぶった肘を内側にねじ込むような、奇妙な軌道である。
その一撃は、相手の両腕のガードの隙間を突いたようだが――当たったのは顔面ではなく、胸部の上側あたりであったように見えた。
その一撃をくらうなり、腰を切っていたベアトゥリス選手の動きが、ぴたりと止まる。
とたんに、雅選手はパウンドのラッシュを仕掛けた。
両腕のガードを避けて、こめかみや鼻っ面に拳を叩きつけていく。ベアトゥリス選手は懸命に首をよじっていたが、その挙動はいかにも弱々しかった。
レフェリーは緊迫した面持ちだが、まだ試合を止めようとはしない。
雅選手がKOパワーを持っていないことを承知しているために、ベアトゥリス選手のダメージがさほどではないと考えているのだろう。ただ、ベアトゥリス選手がひどくしんどそうであるために、判断を迷っている様子であった。
「……なんか、相手の右腕がおかしくねえか?」
立松が、ふいにうろんげな声をあげた。
確かに、ベアトゥリス選手の左腕はがっしり自分の頭を抱えているのに、右腕のほうは雅選手の猛打に力なく揺らめいていた。
雅選手は血まみれの顔でにたりと笑い、相手の右手首を左手でわしづかみにした。
それだけで、相手の右腕は頭部から剥がされて、マットに押しつけられてしまう。
それを見て、立松は「そうか!」と自分の膝を叩いた。
「こいつ、さっきの肘打ちで鎖骨をやられたんだな。それで、力が入らねえんだ」
右腕を拘束されたベアトゥリス選手は、左腕一本で頭を守ろうとした。
しかしもちろん、片腕で頭をガードしきれるわけがない。雅選手は相手の右手首をつかんだまま、右の肘を狂ったように乱打した。
その何発目かで鮮血がしぶくと同時に、レフェリーが雅選手の左腕につかみかかる。
地鳴りのような歓声が、控え室にまで轟いてきた。
『一ラウンド、四分五十七秒、エルボー・バットによるレフェリーストップで、雅選手のKO勝利でェす!』
控え室にも、客席に負けない歓声がわきたった。
雅選手が、チーム・フレアの刺客を見事に退けてくれたのだ。息を詰めてその模様を見守っていた瓜子も、ようやく脱力することができた。
「雅選手、すごい肘打ちでしたね。とうてい二ヶ月足らずの付け焼刃とは思えないんすけど」
瓜子がそのように声をあげると、黙々とウォームアップに励んでいた小笠原選手が「ああ」と笑った。
「そうそう、こいつは内緒だったんだけど。雅さんが若い頃に通ってた空手の道場は、防具着用で肘打ち有りの流派だったんだってさ。その時代の得意技が肘打ちで、演舞の瓦割りでも正拳ではからっきしなのに、肘打ちだと何十枚も割れたなんて自慢してたよ」
「へえ、そうだったんすか。……でも、どうして内緒だったんです?」
「そりゃあまあ、スパイか何かを警戒してたんじゃない? あのお人は、そうそう他人を信用しないからさ」
「えー、やな感じ! ……でもまあ、きっちり勝ってくれたから許してやるかあ」
灰原選手はけらけらと笑いながら、瓜子の首を抱きすくめてきた。
モニター上では血まみれのベアトゥリス選手がドクターとセコンド陣に介抱されており、鼻血をぬぐった雅選手は勝利者インタビューを受けようとしている。
『元王者の意地を見せましたねェ。序盤はずいぶん攻め込まれてましたけど、ダメージのほうは大丈夫ですかァ?』
『眠たいこと言わはるなぁ。あんなん、三味線にきまっとるやろぉ?』
雅選手は毒蛇のように微笑みながら、リングアナウンサーからマイクを強奪した。
『ぴょんぴょんぴょんぴょんカエルみとうに跳ね回って面倒やから、あっちからグラウンドに持ち込むように誘ってやったんや。どこから引っ張ってきたか知らへんけど、どっちが恥ずべき存在か思い知ったやろなぁ』
そうして雅選手は咽喉で笑いながら、ベアトゥリス選手のほうに向きなおった。
『とっとと自分の汚いねぐらに帰りやぁ! 二度とうちに逆らうなや、三下ぁ!』
痛烈な言葉を吐きながら、雅選手はベアトゥリス選手のほうにマイクを投げつけた。
マイクはフェンスにぶつかって部品が弾け飛び、そのすぐそばで介抱されていたベアトゥリス選手は怯えきった様子で丸くなってしまう。
控え室には呆気に取られたような沈黙が落ち、そこに小笠原選手の笑い声が響いた。
「これこそ、ヒールってもんでしょ。雅さんの前でヒール面するには、年季が足りてなかったね」
ともあれ――チーム・フレアとの対戦成績は二勝四敗となり、ついにユーリの出番が巡ってきたのだった。
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