03 決着
「一から十まで、相手のいいようにやられちまったなー」
インターバルの間、サキがフェンスごしに言いたててきた。
「当たり前の話だけど、あっちはおめーのことを研究し尽くしてんだ。ステップのリズムも攻撃のクセも、みーんな分析済みなんだろ。実験動物にでもなった気分か?」
「押忍。正直、相手がここまで計算ずくの動きで来るとは思ってませんでした」
「一度負けた相手には、慎重になるのが当たり前ってもんだ。それであちらさんには、そんな緻密な計算を体現できるだけの地力が備わってたってことだな」
と、瓜子の首裏に氷嚢をあてがった立松が、至近距離から真剣な声をぶつけてくる。
「ポイントは完全に取られたし、スタミナも削られた。最終ラウンドでKOを狙うしかないが……それは、あちらさんも承知の上だろう。乱打戦を仕掛けても乗ってくるかはわからんし、スタミナの残量で打ち負けるかもしれん。となると、策はひとつだな」
「押忍。なんですか?」
「タックルだよ。グラウンドで、上を取れ。そこで勝負を決められなくても、相手のペースを乱せるはずだ。そうしたら、スタンドに戻っても活路は開ける。あいつは本来、御堂さんや沖選手みたいに我慢のきく選手じゃないはずだからな。自分が有利だと思ってるグラウンドで上を取って、思うぞんぶん焦らせてやれ」
「押忍。でも、ここまでまったくタックルに入る隙を見つけられなかったんすけど……」
「無理に喋らんでいい。策は、授けてやる」
そうして立松がその策の説明を終えると同時に、『セコンドアウト』のアナウンスがされた。
立松たちが扉のほうに向かう中、フェンスにへばりついたサキが声を飛ばしてくる。
「おい、おめーはあいつと殴り合いてーんだろ? だけどあっちに、その気はないらしい。だったらイノシシらしく、自分で突っ込んで場を作れ。それで打ち負けたら、おめーのほうが弱いってだけのこった」
「押忍。それはタックルの後でいいっすかね?」
「あたりめーだろ。立松っつあぁんの助言を無駄にすんな」
瓜子の「押忍」という声に、ラウンド開始のブザーが重ねられた。
瓜子は息を整えながら、マットの中央へと進み出る。
スタミナの残量は、半分以下だろう。
ダメージはそれほどでもないが、下顎と左膝がずきずきと疼いている。膝蹴りをくらった下腹は意外に平気であったが、あの一撃でごっそりスタミナを削られた感触が残されていた。
(焦るな。雑にならないで、作戦を遂行する)
瓜子の視線の先で、メイ=ナイトメア選手は鋭くステップを踏んでいた。
ダメージがないのは当然として、スタミナも十分であるように感じられる。赤みがかった金色のドレッドヘアから覗く双眸は、むしろ試合前よりも爛々と輝いていた。
(……本当にすごいやつだよ、あんたは)
これが二度目の対戦であるというのに、瓜子はまだ彼女の底が見えていなかった。
それとも、これが彼女の死力を尽くした結果であるのだろうか?
何にせよ、彼女はとてつもなく強い。肉体だけではなく、精神もだ。あれだけのラッシュ力を持っていれば、もっと試合で使いたいくなるのが人情であるはずだが、彼女は勝利のためにそんな欲求をねじ伏せることのできる精神力を有していたのだった。
(でもね、あたしはあんたと打ち合いたいんだよ)
そんな思いを胸に秘めながら、瓜子は作戦を遂行した。
最初の一分は、我慢の時間だ。インターバルで新たな作戦を構築したと気取られないように、瓜子はこれまで通りの動きで序盤を過ごしてみせた。
膝を狙った蹴りをすかして、相手のアウトサイドに踏み込んで、蹴りではなくパンチを打ち込んでいく。相手にタックルを使わせないように、蹴りは封印する方針であった。
メイ=ナイトメア選手の対処は、これまでと同一だ。
左ジャブを放つとバックステップで逃げて、それ以外の攻撃では組みついてくる。初めて初手からアッパーを使ってみると、やはり組みつくのは難しいと見てか、バックステップで回避した。
「一分経過!」の声とともに、瓜子は作戦に取りかかる。
焦らずに、これまでと同じ動きでアウトサイドに回り込み、左ジャブを繰り出した。
メイ=ナイトメア選手は機械のような正確さで、後方に逃げる。
瓜子は、それを追いかけた。
左ジャブを連打して、相手を後方に押し込んでいく。サイドステップの苦手なメイ=ナイトメア選手は、ひたすら下がるばかりであった。
しかし、フェンス際まで押し込んではいけない。壁レスリングでは、向こうに一日の長があるのだ。
目印のラインを踏み越える前に、瓜子は右ストレートに切り替えた。
間合いを詰めきれていないので、拳はまったく届かない。
そうと見切ったメイ=ナイトメア選手は、弾かれたような勢いで瓜子に接近してきた。
瓜子が拳を戻すのと同じぐらいの速さで、メイ=ナイトメア選手が踏み込んでくる。
狙いはやはり、上体への組みつきだ。
体勢は、わずかに低くなっている。
瓜子はそれよりも、頭を低くしてみせた。
目の前に、メイ=ナイトメア選手の下半身が迫る。
そして――その右膝が、鋭角に曲げられた。
瓜子の顔面を狙った、膝蹴りだ。
メイ=ナイトメア選手は、瓜子がこうして組みつきにタックルのカウンターを合わせることも想定していたのだった。
その膝蹴りを眼前に迎えながら、瓜子は背筋の凍る思いである。
しかし瓜子もまた、立松によって膝蹴りへの警戒を示唆されていた。
(怖がるな!)
あの膝に勢いが乗る前に、接触するのだ。
瓜子は全力でマットを蹴って、メイ=ナイトメア選手の両足に腕をのばした。
膝蹴りは――腿のあたりが、瓜子の胸もとに衝突する。
まだ勢いに乗る前であったのに、心臓が跳ね上がるほどの衝撃であった。
それをこらえて、瓜子は相手の両足を抱え込む。
胸にぶつかった右腿はそのまま抱きすくめて、左膝裏を引き寄せる。
そしてさらに、前進するのだ。
瓜子がこの一年と数ヶ月、毎日のように取り組んできた――そして、ユーリから最初に習い覚えた技、両足タックルである。
すでに下半身が悲鳴をあげているが、ここで前進を止めたら腰くだけになり、相手に上を取られてしまう。
瓜子はマウスピースを噛みちぎる勢いで噛みしめて、マットを蹴り抜いた。
メイ=ナイトメア選手は、背中からマットに倒れ込む。
瓜子はすぐさまサイドに回り込もうとしたが、それよりも早く右足を絡め取られてしまった。さすがの反応速度である。
しかし、ハーフガードでもかまわない。瓜子ていどの力量では、サイドポジションよりもハーフガードのほうが安定しやすく、攻撃の幅も広いぐらいだった。
酸欠で視界がかすむのを感じながら、瓜子は右腕を相手の首裏に差し込んだ。
そうして頭を固定しつつ、左拳をふるおうとすると、メイ=ナイトメア選手がすかさず右腕をのばして手首をつかんでくる。頭をガードするのではなく、パウンドそのものを打たせまいという動きだ。
そうして瓜子の左手首を拘束したまま、メイ=ナイトメア選手は凄まじい勢いで腰を切り始めた。
彼女の有する瞬発力を活かした、とてつもない力強さだ。瓜子はなんとか重心を安定させようと試みたが、そのワンアクションごとに十数センチは移動を許し、あっという間にフェンスが目前に迫ってきた。
ポジションキープに見切りをつけた瓜子は、手首にからみついているメイ=ナイトメア選手の指先を力ずくで振り払った。
そして、相手の右腕をかいくぐり、顔面に左拳を打ちつける。
この試合で、初めてクリーンヒットした瓜子の攻撃であった。
しかしメイ=ナイトメア選手は意に介した様子もなく、フェンスを目指して腰を切っていく。それを追いかけて上体にのしかかりながら、瓜子はパウンドを奮い続けた。
手首の捕獲をあきらめたメイ=ナイトメア選手は右腕で頭部を守り始めたので、その隙間へと拳をぶつけていく。
メイ=ナイトメア選手の背中がフェンスに達しても、瓜子は拳をふるい続けた。
メイ=ナイトメア選手がフェンスを利用して上体を上げても、瓜子は拳をふるい続けた。
メイ=ナイトメア選手が立ち上がる過程でも、瓜子は拳をふるい続けた。
そうしてメイ=ナイトメア選手が完全に立ち上がったところで、瓜子は身を引いた。
無酸素ラッシュで、瓜子は息が切れている。
そして、十数発の拳をくらったメイ=ナイトメア選手は、右の目尻から血を流していた。
「残り半分!」という柳原の声が響きわたる。
作戦の開始から終了までで、一分半を費やしたようだった。
(勝負は、ここからだ!)
フェンスに背中をあずけているメイ=ナイトメア選手に、瓜子は右フックを繰り出した。
メイ=ナイトメア選手は顔をそむけ、瓜子の拳はフェンスに衝突する。
瓜子はそのまま、相手の首裏をつかみ取った。首相撲の体勢である。
これまでは瓜子を突き放して逃げていたメイ=ナイトメア選手も、フェンスが邪魔で身動きが取れない。これも、壁レスリングの一環であった。
瓜子は左腕ものばして相手の首を固定し、レバーに膝蹴りを叩き込む。
メイ=ナイトメア選手は不屈の闘争心で、瓜子の内側に腕を入れてきた。
しかし瓜子も、すかさず腕を差し返す。首相撲ならば瓜子に分があることは、先の試合で証明されていた。
相手の身体をフェンスに張りつけにして、瓜子は左右の膝蹴りを叩き込む。
顔面への膝蹴りは、腕でガードされてしまった。
そして瓜子が五発目の膝蹴りを発射させようとした瞬間、ぞっとするものが下顎に迫ってきた。メイ=ナイトメア選手の、右アッパーだ。
瓜子はとっさに首をのけぞらせて、ダメージを半減させた。
それでもその勢いに圧されて、首相撲の拘束がゆるんでしまう。メイ=ナイトメア選手はそれを逃さずに瓜子を突き飛ばして、横合いへと跳びすさった。
「追い込め! ここが勝負だぞ!」
立松の声に従って、瓜子はメイ=ナイトメア選手に追いすがった。
関節蹴りを飛ばされたので、それはマットを踏みしめることで耐えてみせる。
そして、遠ざかろうとするメイ=ナイトメア選手の顔面に、右ストレートをヒットさせた。
ここで距離を取られたら、またメイ=ナイトメア選手はカウンター狙いの体勢を整えてしまうかもしれない。
ここまでの攻防で、メイ=ナイトメア選手のダメージと瓜子のスタミナロスと、どちらがより大きかったかは神のみぞ知るであったが――瓜子としては、乱打戦に活路を見出す他なかった。
(行くよ!)
瓜子は、左のショートフックを放った。
メイ=ナイトメア選手はダッキングでそれを回避し、後方に下がろうとする。
それを追いかけて、瓜子は二度目の右ストレートをヒットさせた。
そうして右腕を引きながらスイッチをして、左のローを叩き込む。
メイ=ナイトメア選手の身体が、がくりと崩れかけた。
その頭を目掛けて、右の拳を振り下ろす。
しかしメイ=ナイトメア選手は体勢を崩しつつ、瓜子の腹にボディアッパーを叩きつけてきた。
気の遠くなるような痛みをこらえながら、瓜子は右手で相手の頭を抱え込み、左膝を振り上げた。
それをブロックしたメイ=ナイトメア選手は、瓜子の腕を振り払って、なおも逃げようとする。
そうはさせるかと瓜子が踏み込むと、遠ざかるはずだったメイ=ナイトメア選手の姿がぐんと近づいてきた。
近すぎて、もはやパンチの距離ではない。
ならば再び首相撲を――と考えながら、瓜子は何故だか両腕で頭を抱え込んでいた。
その左腕のほうに、凄まじい衝撃が走り抜ける。メイ=ナイトメア選手が、横合いから肘打ちを繰り出してきたのだ。
瓜子の感覚が、思考を超えていた。
メイ=ナイトメア選手が反撃に転じたその瞬間に、瓜子はまたあの不可思議な領域に踏み込んでいたのだった。
(やっぱり……あたしがこんな風に動けるのは、あんたが相手のときだけなんだよ)
思考の残骸でそんな風に考えつつ、瓜子は右アッパーを出していた。
頭を振ってそれをかわしたメイ=ナイトメア選手は、左のショートフックを繰り出してくる。
かわすいとまはなかったので、瓜子は逆の側に首をねじって衝撃を半分だけ逃がすことにした。
そして、首を戻しながら左足を振り、相手の左腿にインローを叩き込む。
また体勢を崩した相手の顔面に、対角線の右フックだ。
それは相手も首をねじって、衝撃を逃がすことになった。
そしてその動きと連動させて、右のブローを瓜子の脇腹に突き刺してくる。
ボディへの衝撃は逃がすこともできないので、それはそのまま瓜子の力を削った。
もしもこれが逆手のレバーブローであったなら、試合は終わっていたかもしれない。それぐらい、瓜子に残された力はわずかであった。
(パンチの削り合いは、分が悪い)
気づくと瓜子の両腕は、相手の足もとにのばされていた。
ひどくゆっくりと感じられる時間の中で、相手が一瞬だけびくりと身をすくませるのが感じ取れる。まさかここで、瓜子がタックルを仕掛けるとは思わなかったのだろう。
その一瞬の動揺が、メイ=ナイトメア選手からカウンターの機会を奪っていた。
あるいは、さきほどテイクダウンを奪われた記憶が蘇ったのだろうか。何にせよ、メイ=ナイトメア選手は弾かれたような勢いでバックステップすることになった。
瓜子のタックルは、もちろんフェイントである。
瓜子は屈めた身を起こしながら、右アッパーの動きを連動させた。
メイ=ナイトメア選手は素晴らしい反応速度で、首をよじる。
そしてその頃には、すでに右腕を振りかぶっていた。
右フックか。
いや、両者の距離は、また詰まっている。この距離感なら、肘打ちのほうが有効であるはずだった。
(それなら――)と考えるより早く、瓜子の身体は横回転していた。
イリア選手が小柴選手に見舞わせた、バックハンドエルボーである。
バックハンドブローをそれなりに得意にする瓜子は、この技の稽古も積んでいた。しかし練習期間はせいぜいひと月ていどであったので、まだまだ実戦で使えはしないと踏んでいたが――メイ=ナイトメア選手が肘打ちを狙う距離感であるのなら、この攻撃も当たるはずだった。
だがきっと、メイ=ナイトメア選手はこの攻撃をもブロックするだろう。
それを確信している瓜子の肉体は、すでに次のアクションのための力を溜めていた。
瓜子の左肘に、凄まじい衝撃が走り抜ける。
それと同時に、瓜子はバックステップした。
バックステップしながら身体をひねると、メイ=ナイトメア選手が正面に見える。右肘打ちを放った直後であったメイ=ナイトメア選手は、左の手の平でこめかみを守ったようだった。
しかし、たとえグローブをつけていようとも、手の平では頭部へのダメージを防ぎきれなかったに違いない。彼女がまだ反撃の姿勢に入っていないのが、その証拠であった。
たぶんこれが、ラストチャンスだ。
瓜子には、あと数発分の攻撃をふるうていどのスタミナしか残されていなかった。
(うまくいくかな?)
瓜子は、右ストレートを繰り出した。
相手の正中線より向かってやや右寄り、左頬を狙った攻撃である。
メイ=ナイトメア選手は頭を右手側に振ることで、瓜子の拳を回避した。
そこに、左足を振り上げる。
こちら側に振られた頭部を狙っての、ハイキックだ。
だが、それは右腕のガードでブロックされてしまった。
先の試合でもハイキックでKOされた記憶が、あちらにもしっかり残されていたのだろう。
瓜子のハイキックを弾いたメイ=ナイトメア選手が、嬉々として迫り寄ってくる。
その顔は、本当に笑っているかのようだった。
狂暴で、純粋な、野獣のごとき笑顔である。
メイ=ナイトメア選手は、左腕を振りかぶっていた。
瓜子の渾身のハイキックをブロックした右腕は、小さからぬダメージを負ったことだろう。そしてメイ=ナイトメア選手の得意技は、左右のフックだ。ならば、この次の攻撃が左フックになる公算は高い――という、瓜子の直観はなんとか正解を引き当てたようだった。
左足を戻しながら、瓜子は右腕を振りかぶっている。
右ストレートから左ハイキック、そして右フックまで繋げるというのが、瓜子の最後のコンビネーションであった。
瓜子は眼前に迫るメイ=ナイトメア選手の左拳を見つめながら、右拳を振り下ろす。
瓜子は首を逆側に振ったが、メイ=ナイトメア選手の顔は正面を向いたままだ。瓜子の拳が左のこめかみに迫っていることに気づいていないのだろう。
瓜子の右頬に、メイ=ナイトメア選手の左拳が触れた。
その衝撃に意識を揺さぶられるのを知覚しながら、瓜子は懸命に首をよじった。
そして、その勢いをも加算させて、右の拳をメイ=ナイトメア選手のこめかみに叩きつけた。
相手の腕の外側からヒットさせる、クロスカウンターである。
先の試合では乱打戦の渦中に勃発していたが、この試合においてはこれが最後の攻防であった。
どれだけダメージを逃がそうとも、もう瓜子のタンクにガソリンは残されていない。ここでメイ=ナイトメア選手をKOできなければ、瓜子の敗北はほぼ確定であるのだ。
瓜子はすべての思いを込めて、右の拳を振り抜いた。
その勢いが、今度はメイ=ナイトメア選手の拳に勢いを与えてしまったような感触があった。
ともあれ――
瓜子の身体は背後に迫っていたフェンスに叩きつけられ、メイ=ナイトメア選手はマットに倒れ込み、大きくバウンドして転がった。
瓜子も意識が遠のきかけたが、なんとかフェンスにもたれることで踏みとどまることができた。
咽喉が、焼けるように熱い。
おもいきり呼吸をしているのに、ちっとも酸素が入ってきている感覚がなかった。
瓜子は両方の膝に手をついて、横たわるメイ=ナイトメア選手の姿を見据えた。
メイ=ナイトメア選手は、ゆっくりと身を起こし――そしてもう一度、壊れた人形のように崩れ落ちた。
レフェリーが腕を交差させ、試合終了のブザーが鳴らされる。
それを聞きながら、瓜子もその場にへたりこむことになった。
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