02 苦境

「……それじゃあおめーは、無意識のまんま敵さんにしがみついてたってのかよ?」


 フェンス越しに背後から、サキがそのように呼びかけてきた。

 インターバルの間、フェンスの内側に入れるのは二名のみであったのだ。瓜子は椅子に座しており、立松と柳原が氷嚢で身体のあちこちをアイシングしてくれていた。


「まったく、呆れた話だな。こっちに戻ってくるときの足取りは、しっかりしたもんだったが……猪狩、続けられるのか?」


 立松に厳しい表情で問われて、瓜子は「押忍」と答えてみせる。


「もちろんです。こんな元気なのに、試合放棄しろなんて言わないっすよね?」


「ったく……明日は病院できちんと診てもらえよ」


 立松は、氷嚢を右腿の付け根で固定させた。フックガードで無理やり相手の身体を跳ねのけたことによって、その部位がもっとも疲弊していることを察してくれたのだ。


「とにかく相手は、寝技勝負を狙ってる。それに、蹴りにはとことんタックルを合わせようって考えだ。次からは、もう迂闊には蹴れねえぞ。蹴りは、コンビネーションの中に組み込め。蹴りのフェイントでタックルを誘ってカウンターを狙ってもいいぞ。あと、自分からのタックルとフェイントも忘れるな」


「押忍。やっぱり、タックルは必要っすか?」


「必要だ。本気で狙っていけ。それで相手がタックルを警戒すりゃあ、打撃も当てやすくなる。上半身への組みつきは、首相撲だぞ。あちらさんはタックルほど、首相撲は得意じゃないはずだからな。ただし、肘打ちの実力は未知数だから、そこだけは警戒だ」


 瓜子が「押忍」と答えたところで、『セコンドアウト』のアナウンスが響きわたった。

 瓜子は立ち上がり、柳原は椅子を持ち上げる。そうして扉のほうに向かいながら、立松はなおも言いたてた。


「相手のタックルを潰せたら、きちんと上を取るんだぞ。ただ離れるだけじゃあプレッシャーにならんからな。一手ずつ、相手の選択肢を潰していくんだ」


 スタッフに押し出されるようにして、立松はケージを後にした。

 撮影班とスタッフも退場し、外から扉の閂を閉める。その数秒後、試合再開のブザーとともに、『セカンドラウンド』のアナウンスがされた。

 レフェリーも「ファイト!」と腕を振り下ろし、瓜子はいざケージの中央へと進み出る。


 スタミナはほどほどに回復しており、肘打ちのダメージも特にはなかった。ただ、顎関節にわずかな違和感を覚えるていどだ。もしかしたら、明日には固形物を食べられない状態に陥るのかもしれなかった。


(でも、試合に支障はない)


 立松たちから受け取ったさまざまなアドヴァイスを胸に、瓜子はメイ=ナイトメア選手と向かい合った。

 メイ=ナイトメア選手は一ラウンド目と同様に、前後に鋭いステップを踏んでいる。


(一ラウンド目は蹴りを出すことばかり考えて、一発のパンチも出せなかったからな。今度はもうちょっと、自分らしく行こう)


 相手がパンチャーだからといって、パンチ勝負から逃げてばかりもいられない。そして瓜子もれっきとしたインファイターであるのだから、自分の持ち味を封印するのは愚策であるはずだった。


(タックルに気をつけて、積極的に打っていく。蹴りは、単発では打たない)


 そのように念じて、瓜子が相手の間合いに踏み込もうとすると――低い軌道で、メイ=ナイトメア選手の左足が飛ばされてきた。

 ローキックではなく、瓜子の膝を真正面から蹴ろうという、いわゆる関節蹴りである。瓜子は慌てて後方に下がって、その危険な蹴りを回避してみせた。


(今度はそっちが、蹴りを使ってくるのか)


 しかも、きわめて危険な関節蹴りだ。キックや空手ではおおよそ禁止技とされているのに、MMAにおいては有効とされている技であった。

 これは、北米ルールの弊害とも言われている。北米においてはキックや空手が盛んでなく、この技の危険度が認知されにくいという話であるのだ。膝を正面から蹴られたならば、一発で靭帯を破壊されてしまう危険があるというのに、おおよそのプロモーションでは反則とされていなかったのだった。


 そして、そんな北米ルールを手本としているために、日本のプロモーションでもこの技は反則とされないことが多く、《カノン A.G》も《アトミック・ガールズ》も例外ではなかった。ただ危険すぎる技であるためスパーリングでは禁止されることが多く、それゆえに《アトミック・ガールズ》ではこの技を使う選手もほとんど見られなかったのだった。


(そういう意味では、これも北米ルールの洗礼ってことか)


 そういえば、メイ=ナイトメア選手はかつて山垣選手との対戦において、横から膝を踏み抜くような蹴りを出していた。山垣選手は、それで膝靭帯を痛めてしまったという噂であったのだ。


(次から次へと、厄介な真似をしてくれるな)


 しかしキックで鍛えてきた瓜子は、サイドに回り込んでの攻撃を得意にしている。自分の基本を押し通すことが、危険な技の回避につながりそうなところであった。


 瓜子はまたマット上のラインを辿るようにサークリングしつつ、反撃の機会をうかがった。

 メイ=ナイトメア選手はサイドに回り込まれないように角度を修正しつつステップを踏み、遠い距離から関節蹴りを繰り出してくる。


 こちらの蹴りに合わせたカウンターの片足タックルといいこの関節蹴りといい、まるでインファイトを嫌がっているかのようである。

 しかしさきほどのラウンドでは、瓜子をフェンスに追い詰めての猛ラッシュも見せていた。決してインファイトを恐れているわけではなく、さまざまな戦略でもって瓜子を打ち倒そうとしているのだ。


(一手ずつ、相手の選択肢を潰していく)


 立松のアドヴァイスを反復しながら、瓜子はアウトサイドから相手の間合いに踏み込んだ。

 また関節蹴りを出されたため、それをかわしてから、さらに踏み込む。

 初めて自分から踏み込んだ、パンチの間合いだ。

 瓜子は、左のショートフックを繰り出した。

 それをダッキングでかわしたメイ=ナイトメア選手は、そのまま低い体勢で瓜子の上体に組みついてきた。


(上体への組みつきは、首相撲で――)


 瓜子は相手の首裏をとらえようとしたが、メイ=ナイトメア選手はすぐさま瓜子の身体を突き放して、距離を取ってしまった。

 瓜子が追いすがろうとすると、関節蹴りが飛ばされてくる。命中したのは膝の上だったが、嫌な衝撃が靭帯にまで響きわたった。


 会場には、いつしかブーイングが吹き荒れている。

 インファイター同士の対戦であるのに、いっこうに打ち合いにならないためであろう。柳原からは、早くも「一分半経過!」の声が届けられていた。


(こうなったら、誘ってみるか)


 瓜子はアウトサイドに浅めに踏み込んで、右のローのフェイントをかけた。

 が、メイ=ナイトメア選手は動じた様子もなく、関節蹴りを飛ばしてくる。

 瓜子は慌てて距離を取り、内心で小首を傾げることになった。


(蹴り狙いのタックルはやめたのか?)


 瓜子は左ジャブで牽制しつつ、もう一度同じタイミングで、今度は本当に右ローを出してみた。

 それを左足で受けると同時に、メイ=ナイトメア選手はもう腰を屈めて両腕をのばしている。危うく左足を取られそうになった瓜子はフェンスに詰められないように意識しながら斜め後方に逃げて、なんとか回避してみせた。


(この選手の反射神経と身体能力だったら、実際に蹴りが飛んできてから動いても後の先を取れるってことか。フェイントは、効かないな)


 蹴りが駄目なら、やはりパンチしかない。

 そうして瓜子がコンビネーションを狙って左ジャブを放つと、メイ=ナイトメア選手はたちまち後方に下がってしまった。

 ならばと右ストレートから入ると、また頭を下げて組みついてくる。そして瓜子が首相撲に持ち込もうとすると、何の躊躇いもなく遠ざかってしまうのだった。


(一手ずつ潰されてるのは、こっちのほうじゃないか)


 遠い距離からは、膝を狙った関節蹴りが飛ばされてくる。

 なんとか踏み込んで、蹴りを放てばタックル、左ジャブならバックステップ、それ以外の攻撃なら上体への組みつきだ。それらの動きは正確無比であり、しかも瓜子より俊敏であるために、どこにも突き崩す隙が見つけられなかった。


(だったらこっちも、カウンターだ)


 瓜子はアウトサイドから、また左フックを放ってみせた。

 身を沈めて組みついてくるメイ=ナイトメア選手に、カウンターの右膝蹴りをお見舞いする。

 が、メイ=ナイトメア選手の動きは止まらなかった。

 そして瓜子に組みつくと、蹴り足を戻す前にぐんぐん押してくる。結果、瓜子はまたフェンスまで押し込まれてしまった。


 壁レスリング、再びだ。

 今度は四ツの体勢であったが、すでに下顎に頭を当てられてしまっている。瓜子の背中はのばされて、また腿への膝蹴りや足の甲の踏みつけで嫌がらせをされることになった。


(くそっ! なんとか体勢を入れ替えないと……!)


 しかし瓜子は、自分と同程度の体格とこれだけの圧力をあわせもつ相手に、慣れていなかった。相手の背丈が高ければ、重心を下げるために前屈の姿勢となり、その隙間からこちらもちょっかいを出すことがかなうのだが、メイ=ナイトメア選手との間にはそのような隙間も生まれていなかった。


 そして今度は、横合いからパンチも飛ばされてくる。

 短い射程の、嫌がらせのパンチだ。

 徹底的に、この攻防で瓜子を削ろうという戦略であるのだろう。瓜子はテイクダウンを奪われないことに注力するのが精一杯で、それ以上は反撃の手段も見つけられなかった。


 フェンスの向こうからは、「四分経過!」の声が飛ばされてくる。

 あっという間に、第二ラウンドも終わりが迫ってしまっていた。

 おたがいに有効な攻撃は当てられていないが、壁レスリングの攻防は完全に瓜子が不利である。この差だけで、相手にポイントを奪われてしまいそうだった。


(二ラウンド連続でポイントを取られるのは、まずい)


 瓜子は大きく足を開いて、なんとか相手よりも重心を低くしようと試みた。

 頭の圧迫を脇にそらして、今度は自分の頭を相手の頬へと押しつける。


 これでクラッチを組めば、体勢を入れ替えられるかもしれない――

 瓜子がそんな風に考えたとき、メイ=ナイトメア選手が右脇に差していた左腕を瓜子との間にねじ込んできた。

 前腕が、瓜子の咽喉もとを圧迫してくる。気管をふさがれないように、瓜子は顔を背ける他なかった。


「肘! 狙ってるぞ!」


 と、サキの声が鋭く耳に刺さってくる。

 次の瞬間、瓜子の左頬に重い衝撃が炸裂した。

 咽喉もとにあてがっていた左腕をすべらせるようにして、メイ=ナイトメア選手が肘打ちを繰り出してきたのだ。

 先のラウンドよりもさらに射程の短い攻撃であったが、瓜子は左フックでも受けたような衝撃を体感させられていた。


(あんたの肘、なんて威力だよ!)


 瓜子たちが肘打ちの稽古をする際は、専用のサポーターを装着している。剥き出しの肘打ちが命中したならば、出血の危険が大きいためである。

 メイ=ナイトメア選手の肘は剥き出しであるし、おまけに彼女は瓜子と同じぐらいの骨密度を有していると見なされている。そんなメイ=ナイトメア選手の肘打ちは、棍棒で殴られるような破壊力であった。


(こんなのを何発もくらってたら、もたないぞ!)


 瓜子は再び咽喉もとを圧迫されるのにもかまわず、相手の背中で両腕をクラッチさせた。

 両者の上体が密着し、肘打ちを放つスペースは消滅する。

 しかし、腰から下にはわずかなスペースが空いていた。

 そのスペースから、メイ=ナイトメア選手の膝蹴りが叩きつけられてくる。


 それをくらうなり、瓜子の全身に電流のような衝撃が走った。

 メイ=ナイトメア選手の膝蹴りが、局部のすぐ上の下腹に炸裂したのだ。ベルトラインよりも下であり、キックのルールでは反則となる部位であった。


(くそっ! いいようにやりやがって!)


 瓜子は相手を押し倒すべく、足を掛けようとした。

 が、それは難なくかわされて、逆に足を掛けられてしまう。

 瓜子は呆気なく倒れ込み、それとほぼ同時にラウンド終了を告げるブザーが鳴らされたのだった。

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