ACT.2 Canon A.G 1 ~Final round~

01 悪夢、再び

 立松とサキと柳原を引き連れて、瓜子は花道に足を踏み出した。

 魅々香選手の熱戦によって生まれた熱気が、そのまま渦となって瓜子たちを包み込んでくる。入場曲の『Rush』がほとんど埋もれてしまいそうな歓声だ。

 そしてそこには耳を聾さんばかりの「瓜子!」と「うりぼー!」のコールが巻き起こっていた。


 魅々香選手は勝利をあげたが、相手は外様のジジ選手だ。

 青コーナー陣営の選手たちは、チーム・フレアに四連敗を喫してしまっている。その無念が、いっそう人々の熱情を煽りたてているのかもしれなかった。


 チーム・フレアは、これまでの《アトミック・ガールズ》を全否定しているのだ。《アトミック・ガールズ》を応援してきた人々の多くは、そんな妄言をくつがえしてほしいと念じてくれているはずであった。

 そしてこの後の四試合は、瓜子、雅選手、ユーリ、小笠原選手と、王者クラスである選手の出番となる。この四名が確かな力を示すことができれば、きっと人々の留飲を下げることがかなうことだろう。


 そして瓜子は猪狩瓜子個人として、試合に勝ちたいと願っている。

 自分のために頑張ることが、他者の期待に報いることと直結しているのだ。それがどれだけ幸福で恵まれた環境であることか、瓜子は今さらながらに思い知らされていた。


 スタッフの誘導で、ボディチェックの係の前に立つ。

 瓜子はTシャツとジャージのボトムを脱いで、柳原に手渡した。

 それを受け取りながら、柳原は「頑張れよ」とつぶやいた。


「押忍」とうなずき、瓜子はサキを振り返る。

 サキは無言で拳を出してきたので、瓜子も無言のままグローブでタッチしてみせた。


 立松は、マウスピースのケースを開いて差し出してきた。

 瓜子がマウスピースをつまみあげて口にくわえると、立松は力強く笑いながら「しっかりな」と肩を叩いてきた。


 この後はラウンド間のインターバルまで、セコンド陣と触れ合うことも許されないのだ。

 瓜子は最後にセコンド陣の姿を見回してから、あらためてボディチェック係の前に進み出た。


 出血を避けるためのワセリンを薄く顔に塗られて、手足や胴体に不純物を塗っていないか軽くチェックされる。

 あとはグローブの状態とマウスピースおよびファールカップの着用を確認されたら、ボディチェックも終了だ。


 瓜子はゆっくりとステップを上がり、ケージの舞台に足を踏み入れた。

 ケージには、レフェリーとリングアナウンサーと撮影班しか存在しない。

 よって、その途方もない広さがまざまざと体感できた。


 マットの中央には《カノン A.G》のロゴが燦然と輝き、それを囲うようにして八角形のラインがプリントされている。多くのプロモーションではマットにこのようなラインが引かれており、自分の立ち位置を確認するのに有用なのだという話であった。


 ラインからフェンスまでの距離は、一・五メートルていどであろうか。

 一色選手やマリア選手も、このラインを辿るようにしてステップを踏んでいた。これより外に出てしまうとフェンスに押し込まれる危険度が上がる、ということなのだろう。


『赤コーナーより、メイ=ナイトメア=フレア選手の入場でェす!』


 リングアナウンサーがそのように言いたてると、客席からの歓声にブーイングが入り混じった。

 それを聞き流しながら、瓜子は背中をフェンスに押しつけて、その弾力を確認する。


 しばらくして、メイ=ナイトメア選手がケージに上がってきた。

 赤と黒の試合衣装を纏ったメイ=ナイトメア選手は、最初から瓜子の姿を凝視していた。


『第七試合、ストロー級、五十二キログラム以下契約、五分三ラウンドを開始しまァす! ……青コーナー、百五十二センチ、五十一・八キログラム、新宿プレスマン道場所属……猪狩ィ、瓜子ォ!』


 瓜子が右腕を上げると、また大歓声がうねりをあげる。

 そして、撮影班のカメラが近づいてきたため、瓜子はそちらにも拳を突き出してみせた。放映時の視聴者ではなく、控え室の面々に対する挨拶のつもりである。


『赤コーナー、百五十二センチ、五十一・九キログラム、フリー……メイ=ナイトメア=フレアァ!』


 メイ=ナイトメア選手の所属は、フリーのままであった。きっとフレア・ジムとやらで、タクミ選手らと稽古をともにしているわけではないのだろう。ジムの所在さえ明かさないタクミ選手らが、これまで面識もなかった外国人選手をそう易々と信用するとは思えなかった。


 メイ=ナイトメア選手のセコンドは、二名の白人男性だ。

 きっと試合で結果を出せるように、義理の父親が準備してくれた専属のトレーナーなのだろう。メイ=ナイトメア選手はもう何ヶ月も日本に滞在しているのだから、その費用だけでも馬鹿にならないはずであった。


 レフェリーに招かれて、瓜子はケージの中央に進み出る。

 遠くより届けられていたメイ=ナイトメア選手の眼光が、間近から瓜子に突きつけられてきた。


 激情の渦巻く、黒い双眸である。

 かつてマンションのロビーで向けられた激情が、そのままの勢いで燃えさかっていた。


 メイ=ナイトメア選手は、どのような気持ちでこの場に立っているのだろう。

 北米行きの誘いを断った瓜子のことを、どうしてもぶちのめしたいと願っているのだろうか。

 それとも――世界水準のルールであれば自分のほうが強いと証明して、再び瓜子に誘いをかけようとでも考えているのだろうか。


 瓜子には、わからない。

 ただ瓜子は、この試合に勝ち――そして今度こそ、メイ=ナイトメア選手と思うぞんぶん語らいたかった。

 瓜子にとって、メイ=ナイトメア選手はどうでもいい存在ではない。それを、伝えたかったのだ。


(でも、まずは勝ってみせる)


 レフェリーがルール確認を終えたので、瓜子は両手を差し出してみせた。

 メイ=ナイトメア選手は、また無視をして引き下がるかと思ったが――右腕を大きく振りかぶり、瓜子の手の先をおもいきり引っぱたいてきた。

 客席からはブーイングの声が高まり、レフェリーは警戒の姿勢を取る。

 それを無視して、メイ=ナイトメア選手はフェンス際まで後ずさっていった。

 瓜子もまた、新たな熱を宿された拳を握って自分のコーナーに引き下がる。


「大丈夫か? 落ち着いていけよ」


 フェンスの外から、立松が呼びかけてきた。

 瓜子が「押忍」と答えると同時に、試合開始のブザーが鳴らされる。

 ついに、試合の開始であった。


 瓜子はいきなりの猛ラッシュに備えていたが、メイ=ナイトメア選手はゆったりとしたステップで中央に進み出てくる。

 瓜子は十分に警戒しながら、自らもそちらに進み出た。


 相手は自分とほとんど同じような体格をした、メイ=ナイトメア選手だ。

 このひと月ばかりは小柴選手とスパーを重ねていたので、相手との間合いは身体に刻みつけられていた。

 しかしまた、メイ=ナイトメア選手は小柴選手よりも踏み込みが鋭い。稽古と同じ感覚でいたら、たちまち危険に見舞われてしまうはずであった。


(まずは、蹴りからだ)


 パンチの技術はほぼ互角であると任じているが、メイ=ナイトメア選手には脅威的な回転力が存在する。相手の動きに目が慣れるまでは、遠い距離から蹴っていくのがこちらの戦略であった。


 瓜子がさらに前進し、蹴りの間合いに入ろうとするなり、メイ=ナイトメア選手は素早く後方にステップを踏む。

 メイ=ナイトメア選手は、あまりサイドに回り込もうとする選手ではない。その代わりに、前後のステップは瓜子が知る限りで最速の選手であった。


(うーん、こちゃごちゃ考えすぎだな。やっぱり二ヶ月前に対戦したばかりの相手だと、情報過多になっちゃうみたいだ)


 瓜子が目指すのは、理屈など存在しない領域である。瓜子がメイ=ナイトメア選手に打ち勝つには、またあのすべてがゆっくりと感じられるような忘我の境地を目指さなくてはならないはずであった。


(でも、あんなのは狙って辿り着けるもんじゃないからな。焦らずに、じっくりいこう)


 瓜子は相手のステップのリズムを測り、ここぞというタイミングでアウトサイドに踏み込んだ。

 MMAのために矯正した、短い軌道の右ローを叩き込む。

 メイ=ナイトメア選手は相変わらずブロックもチェックもしようとはせず、むしろマットを踏みしめることによってその右ローに耐えた。


 そして――瓜子が蹴り足を戻している間に、その両腕を軸足へとのばしてきた。

 その鋭いモーションにぞっとしながら、瓜子は後方に跳びすさる。

 メイ=ナイトメア選手の指先が膝をかすめて、擦過による熱をもたらしてきた。

 咄嗟に逃げていなければ、左足を取られていたところであろう。やはりメイ=ナイトメア選手の踏み込みは、どの選手よりも鋭かった。


(でも、一発のパンチも打たないまま片足タックルを狙ってくるなんて……やっぱり、グラウンドなら有利に立てると思ってるのか?)


 メイ=ナイトメア選手のグラウンドテクニックは、いまだ未知数の部分が多い。コーチ陣に寝技を恐れるなと釘を刺されていたものの、やはりそう易々と寝技に持ち込まれたくはなかった。


(とりあえず、右ローは当てられたんだ。この調子で、リズムをつかんでいこう)


 瓜子は八角形のラインを辿り、サークリングしてみせた。

 メイ=ナイトメア選手は拳の隙間から瓜子を凝視しつつ、ステップを踏んでいる。あれだけの突進力を持つメイ=ナイトメア選手が、まったく自分からは仕掛けてこようとしなかった。


(二ヶ月前に負けたばかりなんだから、慎重になるのが当たり前か)


 瓜子はタイミングを計り、再び右ローを繰り出してみせた。

 すると、メイ=ナイトメア選手は再び片足タックルを仕掛けてきた。

 今度は膝の裏にまで、相手の腕が回されてしまう。

 それを完全に抱え込まれてしまう前に、瓜子は大慌てで足を引き抜くことになった。


 そのまま後方に退くと、メイ=ナイトメア選手がぐんと距離を詰めてくる。

 そして三たび、その腕が瓜子の足もとにのばされてきた。

 反射的に相手の肩を突き放そうとした瓜子は、ほとんど第六感で左腕を持ち上げる。

 頭をガードした左腕に、凄まじい衝撃が走り抜けた。

 今回は、タックルをフェイントにした右フックであったのだ。


 なんとかその攻撃は防いでみせたものの、後方に逃げている最中に右フックで圧されて、瓜子はバランスを崩してしまう。

 倒れてしまわないように足を後方に踏み出すと、かかとに硬いものが触れた。いつの間にか、フェンス際まで追い込まれてしまったのだ。


(まずい……!)


 瓜子は相手のアウトサイドに回り込もうとした。

 しかし、それを阻むように左フックが飛ばされてきた。


(しくじった!)


 相手は右フックを打った直後であったのだから、インサイドに回り込むべきであったのだ。

 そうして瓜子がフェンスに背中をつけてしまうと、メイ=ナイトメア選手が猛然と両腕を振り回してきた。


 左右のフックに、ボディアッパーとレバーブローも織り交ぜられる。これまでの慎重さが嘘のような、悪夢のごとき猛ラッシュであった。

 ボディアッパーは腹筋の力だけで耐え、他の攻撃はなんとかブロックしてみせる。どこか遠くから、「足を使え!」という立松の声が聞こえてきた。


(とにかく、フェンス際から逃げないと……!)


 鋭い左アッパーが、瓜子の下顎を狙ってくる。

 それを右腕でブロックした瓜子は、右フックを警戒して頭部も守りつつ、今度こそ相手のアウトサイドに逃げようとした。


 フェンスに背中をこすられながら、瓜子はようよう相手の左側に回り込む。

 そうして両者の間にわずかな空間が生まれた瞬間、メイ=ナイトメア選手の姿がかき消えた。


(下だ!)と瓜子が察したときには、もう両足を抱えられていた。

 そして腹部に、メイ=ナイトメア選手の肩がどんっとぶつかってくる。

 あらがいようもなく、瓜子はマットに押し倒されることになった。


「ガードだ! 肘に気をつけろ!」


 瓜子は咄嗟に、相手の胴体を両足ではさみこんだ。

 そのときには、すでにメイ=ナイトメア選手は右腕を振りかぶっている。

 瓜子は何を考えるいとまもなく、全力で相手の胴体を両足で引き絞りつつ、腰を浮かせた。

 メイ=ナイトメア選手の身体が少しだけ遠ざかり――そして、瓜子の鼻先を旋風のようなものが走り抜けていった。


 メイ=ナイトメア選手の、肘打ちである。

 風圧だけで皮膚を斬り裂かれそうな、凄まじい一撃であった。

 渾身の肘打ちをかわされたメイ=ナイトメア選手は片膝を立てて、瓜子の足をぐいぐいと割ってくる。わずかに遠のいていたメイ=ナイトメア選手の身体がまた危険な距離にまで迫り、瓜子の背筋に粟を生じさせた。


「固まるな! 動け!」


 今度は、サキの言葉が聞こえてくる。

 それと同時に、今度は左の拳が飛ばされてきた。

 それを右腕でガードしながら、瓜子は右足の先を相手の股座に差し入れる。フックガードで、相手の身体を遠ざけるのだ。


 しかし、メイ=ナイトメア選手の身体はびくともしなかった。

 同階級の相手であるのに、多賀崎選手や小笠原選手のように重い。それだけ、重心のかけかたが秀逸であるのだ。


(……でも、ユーリさんほどじゃない!)


 瓜子はそのまま、おもいきり腰を切ってみせた。

 メイ=ナイトメア選手はそれを追いかけながら、瓜子の右すねに手をかけてくる。瓜子の右足を乗り越えて、ハーフのポジションまで持っていこうとしているのだ。

 そうはさせじと、瓜子は腰を切り続けた。下から脱出する稽古は、特に入念に重ねてきたのだ。このていどの苦境で音をあげていたら、地獄のサーキットでお世話になった人々に顔向けできないところであった。


 足を越えることを諦めたメイ=ナイトメア選手は、とにかく瓜子の動きを止めようとばかりに覆いかぶさってくる。

 そのタイミングで、瓜子は相手の股座に掛けていた右足をおもいきり振り上げてみせた。

 メイ=ナイトメア選手は勢い余って、瓜子の頭上へと身体を流していく。それを下から押しのけるようにして突き放し、瓜子はようよう立ち上がってみせた。


 前のめりに崩れたメイ=ナイトメア選手はそのまま前方回転して、獣のような俊敏さで起き上がる。

 おそらく瓜子に上を取られることを警戒したのだろうが、瓜子にはそれを追いかける余力もなかった。こちらも後方に下がって大きく息をつき、今の攻防で削られたスタミナの回復に努める。


 気づけば、客席には大歓声が吹き荒れていた。

 瓜子が不得手なグラウンドから脱したことに、喜んでくれているのだろう。しかし、まだ第一ラウンドの中盤であるというのに、瓜子は大きくスタミナをロスしてしまっていた。


(あたしの寝技も馬鹿にしたもんじゃないって、立松コーチはそんな風に言ってくれたけど……やっぱりどうしたって、得意なスタンドの状態よりは緊張感が出ちゃうんだ)


 そうして緊張すれば心拍数があがり、それはスタミナを削っていく。特に試合では稽古のときよりも緊張感が増すのだということを、瓜子は今のわずかな時間で再確認させられていた。


(……そうか。ユーリさんがスタミナのバケモノなのは、緊張感と無縁ってのもひとつの要因なのかな)


 ユーリのふにゃんとした顔を思い出すと、瓜子の鼓動がわずかに静まったようだった。

 このような際にユーリのことを思い出すなどとは、底抜けにリラックスできているのか、はたまた試合に集中できていないのか、判断が難しいところであった。


(とにかく、グラウンドで下になるのはまずい。相手のタックルは要注意だ)


 そうして瓜子が足を踏み出したとき、「残り二分!」という柳原の声が聞こえてきた。

 思いの外に、時間が進んでしまっている。瓜子の体感よりも、長い時間をグラウンドで過ごしていたようだった。


(それに、グラウンド中は時間経過の声を聞き逃してる。よっぽど泡を食ってたんだな)


 瓜子は神経を研ぎ澄まし、相手との間合いを測った。

 メイ=ナイトメア選手は変わらぬ敏捷さで、前後にステップを踏んでいる。その黒い瞳は、ユーリの笑顔のイメージを吹き飛ばすほどの迫力を撒き散らしていた。


(この二分で、ポイントを取り返す)


 さきほどはローにタックルを合わされたので、瓜子はもっと遠い距離から右ミドルを放ってみせた。

 すると――メイ=ナイトメア選手が、再び大きく踏み込んできた。

 瓜子の蹴りを左腕で受けて、そのまま突進してくる。瓜子が慌てて後ずさると、すぐにフェンスまで押し込まれてしまった。


(こいつ……!)


 瓜子が蹴りを出してきたなら、問答無用でテイクダウンを狙う――どうやらそれが、メイ=ナイトメア選手の計略であるようだった。


 瓜子の胴体に組みついたメイ=ナイトメア選手は、頭で下顎を圧迫してくる。

 その痛みに耐えながら、瓜子は両足を右側に向けて、側面をフェンスにへばりつかせた。足を取られないための用心である。


 このひと月半、さんざん稽古を積んできた壁レスリングの攻防だ。

 瓜子をフェンスに張りつけにしたメイ=ナイトメア選手は、やがて腿のあたりに膝蹴りをぶつけてきた。

 そして次には、瓜子の足の甲をかかとで踏みつけてくる。どちらも壁レスリングでは定番の、嫌がらせの攻撃である。


 瓜子はなんとか体勢を入れ替えようともがいたが、メイ=ナイトメア選手の頭が執拗に下顎を圧迫してきて、それもままならない。瓜子の背筋は完全にのばされてしまい、ロクに力を入れられない状態にあった。


 ただ単純な圧力で言えば、ユーリや多賀崎選手のほうが上であっただろう。

 しかしメイ=ナイトメア選手は、背丈も瓜子と同等である。よって、ユーリたちよりも重心が低く、有利なポジションをキープするのが容易なのだろうと思われた。


 瓜子と同程度の背丈をした小柴選手、それに後藤田選手や前園選手から、これほどの圧力を感じたことはない。やはり何年も前からケージで試合を行っていたメイ=ナイトメア選手は、壁レスリングの熟練者であったのだった。


(とにかく、四ツの体勢に戻すんだ)


 腿や足の甲に跳ね上がる不快な痛みに耐えながら、瓜子は相手の内側に右腕をねじこもうとした。

 が、メイ=ナイトメア選手は頭と肩をぴったりと瓜子に密着させているため、まったく隙間が見つけられない。無理に動けば重心が崩れて、すぐさまテイクダウンを取られてしまいそうだった。


「残り一分!」という柳原の声が響きわたる。

 それと同時に、瓜子の下顎が圧迫から解放された。

 メイ=ナイトメア選手がさらに体勢を低くして、瓜子の左脇に頭をねじいれ始めたのだ。


 瓜子はとっさに左腕を振り上げたが、この角度ではどうやっても反則となる後頭部しか狙えなかった。そのようなことは計算済みで、メイ=ナイトメア選手はこの体勢を取ったのだ。


 メイ=ナイトメア選手の手の先が、瓜子の膝裏とフェンスの間にじわじわと侵入してくる。

「足を開け!」という立松のアドヴァイスで、瓜子は大きく足を開いてみせた。

 足はフェンスから離れてしまい、メイ=ナイトメア選手の腕が一気に膝裏までのばされたが、瓜子が足を開いたためにクラッチは組めずにいる。そして瓜子はメイ=ナイトメア選手の背中を見下ろしながら、それ以上はなすすべもなかった。


「相手の頭を、下に押しつけろ! それで少しは、スタミナを削れる!」


 瓜子は再び、立松のアドヴァイスに従った。

 両方の手の平を相手に後頭部に押し当てて、ぐっと力を込めてみせる。

 すると、右足への圧迫が消え失せた。


「片足に切り替えたぞ! 倒されないように――!」


 そんな声が響くと同時に、左足を両腕で抱え込まれた。

 そして、右足が宙に浮く。メイ=ナイトメア選手が左のかかとで瓜子の右足首を刈ったのだ。


 瓜子の身体が左手の側にねじられて、フェンスに右肩を削られつつ、マットに押し倒された。

 瓜子は無我夢中で、相手の左足を両足で拘束する。

 その間に、メイ=ナイトメア選手の左腕が瓜子の右脇を差していた。


「相手を抱え込め! 肘もパウンドも打たせるな!」


 瓜子は左腕で、相手の首裏を抱えようとした。

 しかしメイ=ナイトメア選手の右腕が、その内側にねじこまれてくる。

 瓜子は腰を切ろうとしたが、右側にはフェンスが立ちはだかり、左側にはメイ=ナイトメア選手の重心が乗せられていた。


 メイ=ナイトメア選手は、右の手の平で瓜子の下顎を圧迫してくる。

 これまでのルールであれば、ただ苦しいだけの話であったが――これは、危険なポジションであった。

 メイ=ナイトメア選手の右腕が、じわじわと真っ直ぐのばされていく。

 瓜子はその不自由な体勢でかなう限りの力を込めて、メイ=ナイトメア選手の身体を抱きすくめようとしていたが、メイ=ナイトメア選手の右腕は油圧のシリンダーを思わせる着実さで肘をのばしていった。


「密着しろ! 打たせんな!」


 今度はサキの声が響いたが、瓜子にはそれに従うすべがなかった。

 瓜子の下顎を手の平で押さえつけたまま、メイ=ナイトメア選手の腕が真っ直ぐにのばされる。

(来る!)と瓜子がマウスピースを噛みしめた瞬間――下顎の圧迫が消失して、その代わりに凄まじい衝撃が走り抜けた。


 メイ=ナイトメア選手がつっかい棒を外すようにして、瓜子の下顎に右肘を叩きつけてきたのだ。

 つまり、メイ=ナイトメア選手の前腕の長さ分しか、射程はなかったことになるが――その一撃は、瓜子の意識を一瞬ブラックアウトさせるだけの破壊力を有していた。


 いや、実際のところはどれだけ意識を失っていたのか、当の瓜子に知るすべはない。

 ただ、瓜子の意識はそこで寸断されており、次に気づいたときには全力でメイ=ナイトメア選手の身体を抱きすくめていたのだった。


 メイ=ナイトメア選手は、狂ったようにもがいている。それでも自由が得られないのは、瓜子が相手の頭と右腕を抱え込む格好で、がっちりクラッチしていたためであった。

 まるで下から肩固めを狙っているような格好だが、もちろんそんな上等なものではない。瓜子はただ「相手に密着する」という、意識を失う前の命題を無意識のままに実行していたに過ぎなかった。


(試合……終わってないんだよな?)


 瓜子がぼんやりとそんな風に考えたとき、甲高いブザーの音が鳴らされた。

 レフェリーが身を屈め、瓜子とメイ=ナイトメア選手の肩に手を触れながら、「ブレイク」と命じてくる。

 メイ=ナイトメア選手がぴたりと暴れるのをやめたので、瓜子も腕を離してみせた。


 そうして瓜子は試合のさなかに一時的に意識を失うという初体験とともに、一ラウンド目を終えることになったのだった。

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