06 扉の裏で

 第五試合は、ベリーニャ選手と亜藤選手によるエキシビションのグラップリング・マッチである。

 あくまでエキシビションであるため、勝敗はつけられない。タップアウトしたならば最初から仕切りなおしとなり、三分二ラウンドを最後まで戦い抜くという、いわば公開スパーのようなルールとなっていた。


 結果的に、そのルールが両者の実力差を露呈することになった。

 一ラウンド目は様子見であったのか、ベリーニャ選手もそうまで積極的に技を極めようとはしなかったのだが。二ラウンド目は打って変わって果敢に動き、三分間で六回ものタップを奪う結果になったのである。


 これがガイアMMAに対するご褒美マッチであったなら、完全に逆効果であったことだろう。控え室に戻ってきた亜藤選手は憤然としており、そのまま閉会式も待たずに帰宅してしまったのだった。


「それじゃあ、行ってきます」


 次の試合は魅々香選手とジジ選手の一戦であり、そしてその次が瓜子の出番であった。

 瓜子が挨拶の声をあげると、控え室の奥から小柴選手の陣営が飛び出してくる。まずは目もとを赤く泣きはらした小柴選手が、瓜子の手を両手で握りしめてきた。


「頑張ってください、猪狩さん。猪狩さんなら、絶対に勝てます」


 すると横合いから、灰原選手が肩を抱いてくる。


「ま、うり坊だったら勝つに決まってるけどさ! でも、一回勝った相手だからって、油断しないでよー?」


 逆の側に回り込んだ多賀崎選手は、腕をのばして灰原選手の頭を小突いた。


「あんたじゃあるまいし、猪狩が油断なんてするわけないだろ。……猪狩、頑張ってな」


「押忍。ありがとうございます」


 そうして小柴選手たちが退くと、他の面々も口々に激励してくれた。

 小笠原選手、オリビア選手、雅選手、鞠山選手――マリア選手、赤星弥生子、大江山軍造、大江山すみれ――そして、ユーリのセコンドであるジョンと愛音である。

 その最後に、ユーリがぴょんっと瓜子の目の前に跳ねてきた。


「頑張ってね、うり坊ちゃん!」


 バンデージに包まれたユーリの拳が、胸もとに差し出されてくる。

 その天使のような笑顔を見返しながら、瓜子はグローブに包まれた拳でタッチしてみせた。


「押忍。絶対に勝ってみせます」


 立松とサキと柳原に囲まれて、瓜子は控え室を後にした。

 入場口裏に到着すると、すでに魅々香選手たちの姿はなく、扉の向こうから歓声が聞こえていた。


「よし。最後のウォームアップだ」


 立松がキックミットを構えてくれたので、瓜子はそこに軽く攻撃を当てていった。

 扉の向こうからは、試合開始のアナウンスがかすかに聞こえてくる。それを聞きながら溜息まじりの言葉をこぼしたのは、柳原であった。


「次の相手はチーム・フレアじゃないけど……本当にアトミックの新しい運営陣ってのは、厄介な試合を組みやがるよな。御堂さんが気の毒でならないよ」


 たちまち、サキがニーブレスで保護された左足を振り上げた。


「おめーなあ、結果も出ねーうちからしみったれた言葉を吐いてんじゃねーよ」


「いてっ! 気軽に尻を蹴るなって言ってんだろ! ……それに、御堂さんが不利だってのは動かし難い事実じゃないか。何せこれまでに、連敗してる相手なんだからな」


 そう、かつてのミドル級王座決定トーナメントと、それからおよそ一年後ぐらいに行われたタイトルマッチにおいて、魅々香選手はジジ選手に敗北を喫していたのだった。


「それにジジ選手は、北米やヨーロッパ圏のプロモーションでキャリアを積んでるんだからな。海外じゃあケージの舞台が当たり前で、肘打ちが認められてることも多いんだし……そういう面でも不利じゃないか」


「んなこたー、こっちだって承知の上なんだよ。そうだからこそ、あいつにイレズミ女がぶつけられたんだろうがよ。アトミックのトップファイターなんざ『恥ずべき時代の産物』だってことを証明するための、生け贄マッチってこったろ」


 だいぶん長くなってきた前髪の向こう側から、サキは柳原の顔を鋭くにらみつけた。


「だからこそ、余計に負けられねーんだ。ぐちゃぐちゃ弱音を撒き散らすんじゃねーよ、このタコスケが」


「おいおい。お前さんがたの仕事は、猪狩のフォローだろ。俺にばっかり働かせるんじゃねえよ」


 立松が厳しい表情でたしなめたが、サキは平気な顔で肩をすくめた。


「だからこいつも、メンタルケアの一環だろ。こんな泣き言を聞かされてたら、大事な選手様の士気がさがっちまうからなー」


「別に士気はさがりませんけど、自分も魅々香選手の勝利を信じてますよ」


 立松の構えたミットに右フックを叩き込みつつ、瓜子はそのように応じてみせた。


「魅々香選手が最後にジジ選手とやりあったのは、もう一年以上も前のことでしょう? これだけ期間が空いたら、そのときの結果なんて関係ないっすよ」


「そりゃあ猪狩は若いから、一年の重みも違うんだろうけどな。でも、御堂さんは俺と同い年で、若い人間ほどのびしろは残されてないはずだし……」


「だから、泣き言はいらねーってんだよ。手前のちっせえモノサシで人様をはかるんじゃねー」


「だから、気安く蹴るなって言ってんだろ!」


「お前らなあ……」と、立松は嘆息をこぼした。


「珍しく、サキのほうが正論みたいだな。ヤナ、自分の選手をほっぽっといてよそ様の心配たあ、どういう了見だ?」


「よそ様って言っても、合宿稽古で同じ釜の飯を食った仲間じゃないですか。猪狩だって桃園さんだって、御堂さんにはさんざんお世話になっただろうし……」


「なんかおめー、普通じゃねーな」


 と、サキが柳原に詰め寄った。


「まさか、おめー……天覇のタコ女に横恋慕か?」


「タ、タコ女とか失礼なこと言うなよ! あの人は、好きであんな頭をしてるわけじゃないんだぞ!」


「なんでおめーが、そのことを知ってるんだよ。アタシらに盗聴器でもつけてたのか?」


「いや、それは灰原さんが教えてくれたんだけど……」


 巡り巡って、今度はサキが溜息をつく番であった。


「ほんで、同情ならぬ横恋慕かよ。おめーが色恋沙汰でトチ狂うのは、乳牛の一件で立証済みだしなー」


「そ、そんなんじゃない! お前、御堂さんの前で絶対にそんなこと口走るなよ!?」


 柳原は慌てふためいて、サキに詰め寄ろうとした。その態度が、ほとんど内心をさらしているようなものである。


「しっかし、乳牛の次がタコ女とはな。おめーはどういう美的センスをしてるんだよ。ちっとは一貫性ってもんを持ちやがれ」


「だ、だからそんなんじゃないって言ってるだろ! いい加減にしないと――」


「柳原さん」と、瓜子が声をあげることにした。


「自分も魅々香選手の試合が気になります。よかったら、扉の隙間から覗き見をして、何かあったら教えてくれませんか?」


「え? あ、いや、でも、猪狩をほったらかしにすることはできないし……」


「こっちはお二人がいてくれるから、十分以上っすよ。よかったら、よろしくお願いします」


 柳原はなおも言い訳めいたことをしばらく口にしてから、やがていそいそと扉のほうに向かっていった。

 サキは自分の首筋を撫でながら、立松に向きなおる。


「立松っつぁんよ。あの色ボケにはもうちっと調教が必要なんじゃねーか?」


「ああ。男相手なら、いい仕事をするんだがなあ」


 立松は、怒るべきか笑うべきか迷っているような面持ちで頭をかいた。

 体内に灯った熱を心地好く感じながら、瓜子は「いいんじゃないっすか?」と言ってみせる。


「自分にとっても魅々香選手は大事な相手になりましたから、ああやって心配してくれるのは嬉しく思いますよ。……まあ、セコンドとしてはちょっとアレかもしれませんけど」


「一番重要なのは、そこだろうがよ。ま、お前さんの図太さが救いだな」


 そのとき、柳原が「うわ!」と大きな声をあげた。


「ダ、ダウンを取られちまった! そうそう、上を取られるな! 頑張れ、御堂さん!」


「あの、あまり大きな声はあげないようにお願いします」


 扉の脇に控えたスタッフの青年が、呆れたように柳原をたしなめた。

 サキと立松は顔を見合わせて、また溜息をつく。いっぽう瓜子は笑ってしまったが、すぐさま笑っている場合ではないと思いなおした。


「柳原さん、魅々香選手は大丈夫っすか?」


「ああ、フラッシュダウンだったらしい! 上を取られてパウンドをくらいそうになったが、すぐにフェンス際まで逃げて立ち上がったよ!」


 柳原の説明に、瓜子はほっと安堵の息をついた。


(確かにあたしぐらい図太くなかったら、心をかき乱されてたかもな)


 そうしてその後も瓜子はウォームアップに励み、柳原は時おり大きな声をあげ、スタッフの青年に叱られるという時間がしばらく続くことになった。

 形勢は、完全に魅々香選手が不利であるらしい。柳原の言葉をまとめると、魅々香選手は二ラウンド目の終わりまでに三回のダウンをくらい、それ以外でも二回の猛ラッシュを仕掛けられているということになった。


 しかもダウン制度は撤廃されているのだから、魅々香選手は倒れるたびに絶体絶命のピンチを迎えていたことになる。ジジ選手の得意技はパウンドであり、ダウンの後に上を取られることこそが、もっとも危険なパターンであったのだった。


 しかし魅々香選手はそのたびに窮地をかいくぐり、ついに最終ラウンドまで突入した。

 ジジ選手は、おそらくスタミナに難を抱えている。これまではずっと早いラウンドで勝負を決めていたので判然としなかったが、ユーリとの対戦ではその弱点を露呈していたのだ。よって、長丁場に持ち込んで最終ラウンドに勝負を仕掛けるというのは、魅々香選手のもともとの戦略であった。


 だが、魅々香選手に勝負を仕掛ける力は残されているだろうか?

 たとえスタミナに自信があっても、ダメージを負ったらその力も削られてしまうのだ。これまでのラウンドが劣勢であったのなら、KOか一本を狙わなければならないという側面もあった。


(頑張ってください、魅々香選手)


 そんな思いを込めて、瓜子はミットに攻撃をふるい続けた。

 そして――そろそろ時間切れではないかという頃合いで、柳原がまた大声をほとばしらせたのだった。


「よし、いいぞ! 絶対に逃がすな! 相手はもうバテバテだ! 絶対に、なんとかなる!」


「あ、あの、もうちょっと声を……」


 そんな柳原とスタッフのやりとりも、扉の向こうから聞こえてくる大歓声に圧されていた。

 魅々香選手が、ついに反撃に転じたのだ。

 十分に身体の温まった瓜子は動きを止めて、その大歓声に身をひたした。


 そして――

 柳原が、「やった!」と両腕を振り上げた。

 試合終了のブザーが鳴らされたのだろうか。それも、大歓声にかき消されてしまっている。リングアナウンサーの声も、こちらまではまったく聞こえてこなかった。


「こら、色ボケ。決着がついたんなら、とっとと報告しやがれ」


「御堂さんの逆転勝ちだよ! 最後の最後で組み合いに持ち込んで、テイクダウンを奪ってチョ-クスリーパーだ!」


 瓜子は思わず拳を握り込み、「よし」と言葉をもらすことになった。

 ついに《アトミック・ガールズ》の精鋭が、自分の力を示すことがかなったのだ。相手がチーム・フレアでなかろうとも、この一勝は大きいはずであった。


「ふふん。ようやく意地を見せられたみたいやねぇ」


 ねっとりとした京都弁が、通路の向こうから響きわたってくる。

 天覇ZEROのサブトレーナーと鞠山選手を引き連れた雅選手が、妖しく微笑みながらこちらに近づいてくるところであった。


「押忍。もうこっちに出てきたんすか?」


「そらあ瓜子ちゃんに最後の激励を送れる役得やさかいねぇ」


「あとは美香ちゃんに最初のお祝いを伝えられる役得でもあるんだわよ」


 平たい鼻から荒い息を噴きつつ、鞠山選手がそのように言いたてた。


「いよいよ反撃開始なんだわよ。うり坊、あんたもぬかるんじゃないだわよ?」


「押忍。絶対に勝ってみせますよ」


 しばらくして、入場口の扉が大きく開かれた。

 大歓声を背負いながら、魅々香選手がふらふらと姿を現す。来栖選手とコーチに左右から支えられた魅々香選手は両目の下を青紫色に腫らしており、左の目尻から血を流していた。


「美香ちゃん、よくやっただわよ! 今までで一番輝いてただわよ!」

「ほんまにねぇ。惚れ惚れするような執念深さやったわぁ」

「すごかったよ! 最後の寝技は圧巻だった!」


「ん?」と、鞠山選手と雅選手は柳原を左右からねめつけた。


「あんた、プレスマンのサブトレーナーだわね。なんであんたがしゃしゃり出てくるんだわよ」

「ほんまやわぁ。うちらは美香ちゃんと十年来のおつきあいなんやでぇ?」

「あ、す、すみません。ついテンションが上がっちゃって……」


 女怪ふたりに責めたてられる柳原を横目に、瓜子も魅々香選手のもとに進み出た。


「魅々香選手、おめでとうございます。この目で見届けられないのが残念でした」


「ありがとうございます……」と、魅々香選手は弱々しく言った。

 もともと迫力のある魅々香選手の顔が、負傷のせいでいっそう凄まじい有り様になってしまっている。

 しかしその傷だらけで骨ばった顔には、子供のようにあどけない笑みが広げられていた。


「猪狩選手も、どうか頑張ってください……控え室で、見守らせていただきます」


「押忍。魅々香選手に続きますよ」


 すると、魅々香選手の横から来栖選手も力感のある視線を向けてきた。


「頑張ってくれ、猪狩さん。君なら、絶対に勝てる」


「押忍。死力を尽くします」


 四連敗の無念と魅々香選手の勝利が、それぞれ別の方向から瓜子を奮いたたせてくれた。

 ここからは、瓜子たちが連勝してみせるのだ。


 魅々香選手と来栖選手、鞠山選手と雅選手が、それぞれ瓜子のほうに拳を突き出してくる。

 瓜子がそれらのすべてとタッチを交わし終えたとき、扉の向こうから瓜子の名を呼ぶアナウンスが聞こえてきた。

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