05 激戦
脳天を肘打ちで割られた前園選手は、そのまま救急病院に搬送されることになってしまった。
控え室には、凄まじいまでの熱気がたちのぼっている。無念の思いが、そのまま自分たちの試合に対する意欲へと転化されたのだ。
「それでは、お先でーす!」と能天気な声を残して、マリア選手が出陣していく。
モニター上では、すでに小柴選手が入場していた。
そうして小柴選手がリングインならぬケージインを果たしたならば、ガラスの砕け散るような音色が響きわたる。
重く激しいロックサウンドがそれに続き、赤コーナー陣営の入場口から三名のピエロが出現した。
「ありゃ。『オーギュスト』さんは活動休止ってお話だったのに、このパフォーマンスは健在なのだねぇ」
しばらく静かにしていたユーリが、きょとんとした顔でそのようにコメントしていた。
『オーギュスト』はメンバー間の不和によって活動休止するという話であったのだ。それでピエロが五名から三名に減っているのだから、あとは推して知るべしといったところであろう。
「ふん。あれこれ規制をつけながら、このパフォーマンスにはお許しを出したわけだね。つくづく、都合のいい連中だ」
小笠原選手は、面白くもなさそうにつぶやいている。
その頃になって、ようやく来栖選手と鞠山選手が戻ってきた。前園選手は鞠山選手の車で、川崎道場のコーチが救急病院に連れていったとのことであった。
「舞さん、花さん、お疲れ様。言いたいことはたくさんあるだろうけど、まずはアタシらのフォローをお願いね」
「わかってるだわよ! オリビア、お疲れだっただわね!」
「ハーイ。それじゃあ、お願いしますー」
出順の迫ってきた魅々香選手がコーチおよび来栖選手とともに控え室を出る。鞠山選手は雅選手、オリビア選手は小笠原選手のフォローだ。
その間も、イリア選手を含む三名のピエロはスポットの下で奇怪なダンスを披露している。
ただ、ケージのすぐそばまで迫っては、また入場口まで下がっていく。観客たちは大喜びであったが、まるで対戦相手を焦らしているかのようで、セコンドの灰原選手あたりは憤激しているかもしれなかった。
そうしてたっぷり三分間ほども踊ったのち、ようやくクライマックスである。
ピエロたちは入場口のすぐそばで、黒光りするスーツを脱ぎ捨てた。
その下から現れたのは、いずれも赤と黒の試合衣装だ。
いったん音楽が停止してから、あらためて民族音楽のようなBGMが流される。
左右のピエロは扉の向こうに引っ込み、それと入れ替わりで赤黒のウェアを纏った男性が出てきた。イリア選手の師匠である、カポエイラスクールのスクール長だ。
イリア選手は不出来なマリオネットのようにカクカクとした動きで、再び花道を闊歩する。
ここからが、本来の入場と見なされているのだろう。これにて、「入場時には運営指定の試合衣装かウェアを纏うこと」という規定にも抵触しないわけであった。
ピエロ顔のレスラーマスクをかぶったイリア選手はケージの外でボディチェックを受けて、ひょこひょことケージインする。
これでようやく、第三試合の開幕であった。
『第三試合、ストロー級、五十二キログラム以下契約、五分三ラウンドを開始しまァす! ……青コーナー、百五十四センチ、五十一・八キログラム、武魂会船橋支部所属……小柴ァ、あかりィ!』
小柴選手は普段以上に張り詰めた面持ちで、右腕を突き上げた。
その背後では、外側からフェンスによじのぼった灰原選手が腕を振り回して、観客たちを煽っている。
『赤コーナー、百六十八センチ、五十二キログラム、カポエイラスクール・トロンコ所属……イリアァ=フレアァ!』
イリア選手はロボットのようにギクシャクとした動作で、四方に礼をしていった。
ケージの中央で向かい合うと、十四センチの身長差があらわになる。瓜子自身も数ヶ月前には、こうしてイリア選手の長身を見上げていたものだが――客観的に見ると、やはりこれは尋常でない身長差であった。
しかもイリア選手は、手も足も長い。小柴選手はほとんどナチュラルウェイトで肉厚な体格でもないので、ただ背が小さいという不利な面ばかりが際立ってしまっていた。
「俺たちがみっちり鍛えてやったんだ。小柴さんなら、なんとかしてくれるさ」
立松は、そんな風に言っていた。
期間はわずかひと月であったが、小柴選手にはプレスマン道場で練り抜いたイリア選手の対策案をのきなみ伝授しているのだ。同じ体格差の瓜子でも勝利をもぎ取れたのだから、活路はあるはずであった。
『ファイト!』のアナウンスとブザーによって、試合が開始される。
小柴選手は慎重に足を踏み出し――
そしてイリア選手は、ずかずかとケージの中央に進み出た。
カポエイラのステップ、ジンガではない。
まるで小柴選手に握手でも求めているかのような、無造作な前進だ。
小柴選手は、それこそ弾かれたような勢いでバックステップを踏んでいた。
しかしイリア選手は同じ調子で、小柴選手に接近していく。ピエロのマスク姿と相まって、それはたいそう不気味に見えてしまった。
「くそっ! おかしな作戦を立てやがって! かまわねえから、前蹴りでもぶちこんでやれ!」
立松の声が聞こえたかのように、小柴選手は前蹴りを繰り出した。
イリア選手は身体をひねって、それを回避する。
そしてその動作が、攻撃に直結していた。
側転のように身体を倒して回転蹴りを放つカポエイラの妙技、「シバータ」である。
小柴選手は、かろうじてスウェーバックでそれをかわすことができた。
「シバータ」の射程距離の短さが幸いした。そうでなければ、完全にかわすことは難しかったところだろう。あらためて、イリア選手は動きが読めなかった。
小柴選手は警戒心もあらわに、サイドへとステップを踏んでいく。
するとイリア選手は、また無造作にそれを追いかけ始めた。
これまでにはまったく見せたことのないスタイルである。立松は再び「くそっ!」と憤懣の声をあげていた。
「ただでさえトリッキーな相手にこんな真似をされたら、小柴さんだってパニックだろう。灰原さんあたりが、うまく発破をかけられるといいんだが……」
イリア選手は無防備に前進しているだけであるのに、小柴選手もまったく手が出せなくなってしまっていた。
最初の「シバータ」が、強い牽制になってしまったのだ。イリア選手の攻撃はただでさえ軌道が読みにくいので、目を慣らすのに相応の時間が必要であったのだった。
会場からは、早くもブーイングがあげられている。
カメラに映し出される小柴選手の顔には、焦りの色が濃かった。
「……ブーイングなんて気にしなくていい。自分のタイミングで技を出すんだよ、小柴」
小笠原選手が、低い声でつぶやいた。
ひたすら逃げに徹していた小柴選手が、意を決した様子で足を止める。
それと同時に、イリア選手の長い左足が振り上げられた。
足の裏で相手を押すような前蹴り、「ベンサォン」だ。
胸もとを蹴られた小柴選手は、たたらを踏んで持ちこたえる。
そしてまた、相手から距離を取り始めてしまった。
「こいつ……厄介さに磨きがかかりやがったな」
立松は、憤然とした様子で手の平に拳を打ちつける。
そして瓜子は、イリア選手と最後に交わした言葉を思い出していた。
『NEXT・ROCK FESTIVAL』において、イリア選手は格闘技に力を入れてみるつもりだと宣言していたのだ。
『オーギュスト』が一年ばかりも活動休止することになってしまったので、その期間は格闘技の稽古と試合に注力するつもりだ、と――そしてそれは、瓜子に負けたのが悔しかったためなのだと、イリア選手はそのように言いたてていたのだった。
もちろんそういった言葉は、小柴選手たちにも伝えている。
だが、もともと真っ当なファイトスタイルではなかったイリア選手がどのように進化するかは、まったく想像もできなかったのだった。
(これまでのイリア選手は、たぶんダンスを見せるのと同じ感覚で試合を楽しんでた。だけどこれは……きっと楽しむためじゃなく、勝つための作戦なんだ)
瓜子がそんな風に考えたとき、小柴選手が再び足を止めた。
そして、上体を左右と上下に振る。その目には、強い覚悟の光が宿されていた。
小柴選手は上体を振りながら、前進する。
イリア選手も、このたびは前蹴りを出そうとはしなかった。きっと、小柴選手の覚悟が伝わったのだろう。前蹴りをかわされるか弾かれるかすれば、一本足の不安定な体勢で小柴選手の猛進を受け止めることになるのだ。
両者の距離が、ぐんと近づく。
イリア選手は跳びはねるようにして、小柴選手の左手側に移動した。
そして、着地と同時に上体を倒す。
今度は両足を振り上げるタイプの「シバータ」であった。
イリア選手は側転をしながら、両足を回転させる。
その蹴り足をなんとか左腕でブロックした小柴選手は、さらに相手へと詰め寄った。
素早く身を起こしたイリア選手は、ぐりんと後ろを向く。
ワンテンポ遅れて、後ろ回し蹴りが放たれた。イリア選手のもともとのリングネームであった、「アルマーダ」だ。
これは危ういタイミングであったが、小柴選手は頭を下げることで何とか回避した。
そして、こちらに向きなおったイリア選手に右フックを叩きつける。
その拳を肩で受けたイリア選手は、また横合いに跳びすさった。
そして今度は片手だけをマットにつき、大きく足を振り上げる。何か長い名前を持つ、これもカポエイラの技であった。
小柴選手は、また腕でそれをブロックする。
わずかに上体が揺らいだが、それでも小柴選手は突進した。
イリア選手はすみやかに身を起こしたが、まだ半身の体勢だ。
小柴選手は右フックをふるうべく、猛然と腕を振りかぶった。
と――その勢いに圧されたかのように、イリア選手が横回転する。
しかし、これだけ距離が詰まっていれば、バックハンドブローも後ろ回し蹴りも無効である。
瞬間的に、瓜子は小柴選手の右フックがイリア選手の横っ面を撃ち抜く姿を想像したが――その夢想は次の瞬間、木っ端微塵に打ち砕かれることになった。
横回転したイリア選手は、肘打ちによって小柴選手のこめかみをえぐったのだ。
小柴選手は右フックを振り抜く形で、前のめりに倒れ伏した。
その背中に、イリア選手がぴょんと飛び乗る。
これまで一度として自分からグラウンドに移行しようとしなかったイリア選手が、小柴選手の背中にまたがった。
そして――その拳が左右から、でたらめな勢いで小柴選手の頭部を殴打した。
小柴選手はべったりと身を伏せたまま、ただ力なく頭を抱え込む。
その姿を見て、レフェリーがイリア選手の細長い身体を羽交い絞めにした。そうでもしなければ止まりそうもないぐらい、イリア選手のパウンドは凄まじい勢いであったのだ。
『一ラウンド、二分二十三秒、パウンドによるレフェリーストップで、イリア=フレア選手のKO勝利でェす!』
小柴選手もまた、一矢報いることはかなわなかった。
回転技を得意にするイリア選手であれば、バックハンドエルボーを使ってくることもありえるかもしれない――とは、事前に予測も立てられていたのだが。その警戒心をも無効にする絶妙のタイミングで、それが繰り出されてしまったのだった。
「でも、二ヶ月やそこらで、あんな技が身につくはずはない。きっとあいつは前々から、肘打ちの練習をしてたんだろうね」
小笠原選手がそんな風につぶやくと、サキが「ああ」と不機嫌そうに応じた。
「あのピエロは、ダンスの腕を磨くためにカポエイラの稽古をしてたんだからな。試合で使えるかどうかなんざ関係なく、気に入った技の稽古を積んでた可能性はあるだろうなー」
「だからこそ、チーム・フレアへの参入が許されたのかもね。とことん、ふざけたピエロだよ」
青コーナー陣営の控え室には、これまで以上の熱気がたちのぼることになった。
「じゃ、お先に」と、その熱気から逃げるように亜藤選手の陣営が退室していく。
しばらくして、灰原選手と多賀崎選手に左右から支えられた小柴選手が戻ってきた。
小柴選手は、顔をくしゃくしゃにして泣いてしまっていた。
「お疲れ。いい気迫だったよ。ゆっくり休んでな」
小笠原選手が静かに声をかけても、小柴選手は何も答えることができず、そのまま控え室の奥に引っ込んでいった。
画面上では、すでにマリア選手と沙羅選手がケージインしている。沙羅選手のセコンドを務めているのは、大和源五郎とマー・シーダムの両名であるようだ。
『第四試合、フライ級、五十六キログラム以下契約、五分三ラウンドを開始しまァす! ……青コーナー、百六十五センチ、五十五・九キログラム、赤星道場所属……マリアァ!』
マリア選手はハーフトップとショートスパッツで、赤と青のカラーリングだ。赤星道場と自分のイメージカラーを組み合わせたのだろう。
『赤コーナー、百六十七センチ、五十六キログラム、犬飼格闘鍛錬場ドッグ・ジム所属……シャラ=フレアァ!』
沙羅選手は赤黒のカラーリングで、やはりハーフトップとショートスパッツだ。
その引き締まった小麦色の肢体に、ユーリは「おりょりょ?」と反応した。
「沙羅選手、以前に見たときよりも肉厚になられたのではないかしらん?」
「ああ、そういえばウェイトも五十六キロジャストでしたね」
沙羅選手は、ナチュラルウェイトの五十五キロで試合に臨むのが通例であったのだ。増量したのが一キロていどであれば、外見にそうまで変化は生じないように思われるが――肩や背中の張り具合が、以前と違っているように感じられる。ならば、さらなるウェイトアップをした上で、計量後にその分をリカバリーしたのだと思われた。
(でも、それでようやく他の選手と同等ってことだからな)
この一戦ばかりは、沙羅選手が不利であろうと思われた。
まず沙羅選手は五月の終わりに左足首を骨折していたし、チーム・フレアからのお誘いを受けたのもそれ以降であるはずであるから、新ルールへの対応も瓜子たちと同レベルのはずである。そうしてマリア選手は前々から《レッド・キング》においてケージの舞台や肘打ちあり・ダウン制度なしのルールを経験していたので、マリア選手のほうが俄然有利であるはずであった。
しかもマリア選手はアウトタイプで、スープレックスを得意にしている。このたびのルール改正にあたって、マリア選手ほど本領を発揮できる選手はなかなか他にいないだろうと思われてならなかった。
(本当に、運営陣はどういうつもりでこの試合を組んだんだろう?)
そんな瓜子の疑念をよそに、試合は開始された。
マリア選手がサウスポーであるため、鏡合わせのような喧嘩四つの対面だ。身長は二センチしか変わらず、いまや体格の面でも大きな差はなかった。
マリア選手は小鹿のように、軽やかなステップを踏んでいる。
沙羅選手も無理に近づこうとはせずに、一定の距離を保っていた。
おたがいにローやミドルを繰り出すが、どちらも当たらない。沙羅選手は沙羅選手でステップワークが巧みであるため、どちらがアウトタイプなのかもわからなくなるほどであった。
ここまで三試合とも初回のKO決着であったためか、会場には焦れたような歓声が巻き起こっている。
すると、それに応じるかのように、沙羅選手が鋭い踏み込みを見せた。
沙羅選手の左のミドルハイが、マリア選手の肩口を叩く。
次の瞬間には、マリア選手がぐんと前進した。
沙羅選手の大きな動きを狙っての、組みつきだ。
が、沙羅選手は蹴り足を戻すと同時に素早く身を引き、右のショートアッパーを繰り出した。
マリア選手も素晴らしい反応速度でバックステップして、それを回避する。
しかし今度は、沙羅選手がそれを追いかけた。
鋭い左フックと右ストレートのコンビネーションだ。
マリア選手はしっかり頭部をガードしていたが、ようやく勃発した激しいアクションに、客席はわいていた。
マリア選手はあまりインファイトを得意にしていないので、なんとか距離を取ろうとする。
だが、沙羅選手は果然と距離を詰め始めた。
パンチの猛打を相手に浴びせて、合間に右ローを差しはさむ。
マリア選手が腕をのばして突き放そうとすると、それをかいくぐってボディブローを叩き込んだ。
さしものマリア選手も勢いに圧されて、フェンスに背中をつけてしまう。
そこでさらに、沙羅選手が距離を詰めようとすると――マリア選手が下側から、ぶうんと左腕を振りかざした。
アッパーかと思いきや、縦肘打ちだ。
それを鼻先でやりすごしてから、沙羅選手はまた何発かのパンチをマリア選手の身体に叩き込んだ。
マリア選手は意を決した様子で、沙羅選手につかみかかった。
今度はカウンターの膝蹴りが炸裂したが、それでも執念で沙羅選手の胴体を抱え込む。
相手の両脇を抱えた双差しで、スープレックスにはうってつけの体勢だ。
が――マリア選手が身体をのけぞらせようとするのと同時に、沙羅選手は内側から足を引っかけていた。
マリア選手は背中から倒れ込み、沙羅選手がその上にのしかかる。沙羅選手の右足が相手の両足にはさまれた、ハーフガードのポジションとなった。
沙羅選手は無理に足を抜こうとはせず、ポジションキープを重視しながら、こまかいパウンドを振るっていく。
沙羅選手の動きが小さいためにマリア選手も体勢を入れ替えることは難しく、けっきょくそのまま一ラウンド目を終えることになった。
「そうか。もともとこの二人は、七月に対戦予定だったんだよな。沙羅選手も、独自にマリア選手の攻略を進めてたってことか」
立松がそのようにつぶやくと、愛音が「でも」と反論した。
「五月の終わりには、もう沙羅選手も負傷していたのです。オファーを受けたのは五月大会以降なのですから、対策を練る期間もなかったように思うのです」
「ふん。あのプロレス女は、もともとアトミックでのしあがるために参戦してきやがったんだからな。同じ階級のトップファイターなんざ、大昔っから対策を立ててやがったんだろ」
と、サキも会話に加わった。
「組み合いやスープレックスのタイミングも、完全に読んでやがるしな。メキシコ女も踏ん張らねーと、こいつはズルズルいっちまうパターンだぞ」
サキの言葉を証し立てるかのように、二ラウンド目も同じような試合模様が展開された。
沙羅選手は相手のアウトスタイルを苦にしている様子もなく、遠い距離から打撃を当てていく。そうしてマリア選手が組みついてきたなら、アッパーや膝蹴りで迎撃だ。さらに組まれてしまっても、決してスープレックスをくらったりはせず、クリンチワークでしのぐか、逆に相手を押し倒す始末であった。
「リズムを、完全に取られたな」
マリア選手は、リズムに乗せると怖い――と、かつてそのように評していたのはサキである。得意のアウトスタイルで主導権を握れなかったマリア選手は、明らかに精彩を欠いていた。
そうして訪れた、最終ラウンドである。
これまでのラウンドは、完全に沙羅選手がポイントを取っているだろう。マリア選手が勝利するには、一本かKOを狙うしかなかった。
そういう状況に陥ると、えてして選手は焦ってしまうものである。
明朗快活な気性をしたマリア選手も、それは例外でなかったようだった。
マリア選手は小刻みにステップを踏み、これまで以上に果敢に攻め込もうとしていたが――KOを狙うと、振りが大きくなる。大振りの左フックに右のショートアッパーをあわされて、その場に膝をつくことになった。
旧来のルールであれば、ダウンと見なされていただろう。
沙羅選手はそのままマリア選手を押し倒し、マウントポジションを確保した。
それでも勝ちを焦らずに、ガードの隙をついて的確にパウンドを当てていく。
マリア選手は背中を向けて、強引に立ち上がろうとした。
その首に、沙羅選手の腕がからみつく。
あわや、チョークスリーパーでタップアウトか――と思われたが、マリア選手は最後の執念を見せて、沙羅選手を乗せた腰をものすごい勢いで跳ね上げた。
体重が前にかかりすぎていたのか、沙羅選手はマリア選手の背中をすべって、頭からマットに墜落する。
が、それと同時に沙羅選手はマリア選手の右腕をつかんでいた。
そして左足をマリア選手の咽喉もとにねじこんで、体勢を仰向けにひっくり返す。
マリア選手の右脇に右膝があてがわれて、変則的な腕ひしぎ十字固めの形が完成された。腕ひしぎ十字固めは、沙羅選手の得意技であるのだ。
マリア選手はすかさず腕をクラッチしたが、いったん上体を起こした沙羅選手は両腕で相手の右腕を抱え込み、全体重をかけて後ろに倒れ込む。
そして、マリア選手の咽喉もとに乗せられていた左足で、相手の左肘の内側をおもいきり蹴り抜いた。
クラッチは解除され、マリア選手の右腕がぴんと真っ直ぐにのばされる。
マリア選手は凄まじい勢いでブリッジをしたが、ついにその拘束から逃げ出すことはかなわず――左手で、沙羅選手の足をタップした。
『三ラウンド、二分七秒、腕ひしぎ十字固めによるタップアウトで、シャラ=フレア選手の一本勝ちでェす!』
控え室に、ついにいくつかの溜息がもらされた。
チーム・フレアに、四連勝を許してしまったのだ。マリア選手は同盟予備軍といった感じの立ち位置であったが、やはりその敗北は無念でならなかった。
全身汗だくの沙羅選手は、いつも通りのふてぶてしい笑顔でレフェリーに腕をあげられている。
それを祝福できないのが残念なぐらい、沙羅選手は魅力的な笑顔をしていた。
「……この試合は、沙羅に有利なポイントもなかった。こればかりは、地力で勝った沙羅をほめるしかないだろうね」
とは、小笠原選手の弁である。
そんな中、リングアナウンサーがマイクを手に沙羅選手へと接近した。
『チーム・フレア、ついに四連勝ですねェ! シャラ=フレア選手、今の心境はどうですかァ?』
『はん。試合の舞台に上がったら、チームもへったくれもあらへんやろ。メキシコ女はウチの相手やなかったし、赤星道場はドッグ・ジムの相手やなかったちゅうだけのこっちゃ』
『へェ? よくわからないけど、シャラ=フレア選手は赤星道場に遺恨でもあるんですかァ?』
『遺恨なんざあらへんよ。ただ、どっちが上かハッキリさせたいだけや』
そうして沙羅選手はリングアナウンサーからマイクを強奪すると、マリア選手の介抱をしていた赤星弥生子に向きなおった。
『なあ、赤星弥生子はん? 赤星道場で三番手のメキシコ女は、そのザマや。ほんでたしか、そこで雑用係に励んどる秘蔵っ子もうちのボスにとっちめられたんやろ? ほんなら、そろそろ自分の出番なんちゃう?』
このいきなりの発言に、客席は大いにわきたっていた。
しかし赤星弥生子はちらりと沙羅選手を見やっただけで、何も答えようとしない。大江山父娘も、完全黙殺のかまえであった。
『自分が参戦してくれるなら、ウチも階級をあげたるわ。なんやったら、フィストの王者で《アクセル・ジャパン》にも抜擢された青田ナナでもかまへんで? ルールもきっちり改正されたんやから、自分たちが逃げる理由もなくなったはずやろ?』
赤星弥生子はやはり無言のまま、マリア選手に肩を貸して立ち上がらせた。
客席には、はやしたてるような歓声がわきたっている。
それに背を向けて、赤星道場の陣営はケージの舞台から退いていった。
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