04 また会う日まで

 九十分間に及ぶ寝技の稽古が終了すると、キッズクラスの子供たちは解放され、残りの門下生は最後の自由稽古に突入することになった。

 ここから午後八時までの二時間が、正真正銘最後のトレーニングとなる。瓜子もすでに身体はへろへろであったが、気合で乗り越えてみせる所存であった。


 瓜子は立松の指導によって、また組み技ありの打撃スパーと、寝技で上を取り返す限定スパーに没頭する。今度は男女混合であったため、その過酷さも倍増であった。


「お前さんの立ち技は、もうこの階級じゃあ立派なトップクラスだ。次はそれをキープしたまま、組み技と寝技を磨くべきだろう。そうしたら、チーム・フレアの連中なんざ、もう目じゃねえよ」


 立松は、そのように語らっていた。

 確かに瓜子は今年に入って、五試合連続KO勝利という記録を打ち立ててみせたのだ。それらの試合で危うくなったのは、いずれも寝技に持ち込まれたときと――あとはせいぜい、イリア選手のカポエイラに幻惑された際ぐらいであった。


「あとはまあ、ケージでの戦い方と肘打ちに関しても対策を練らなきゃならないが、そいつは地元に帰ってからのお楽しみだ。今日はとことん、寝技と組み技を磨かせてもらえ」


 そんな感じで、瓜子は過酷な稽古に打ち込むことになった。

 ユーリはユーリで大江山師範代の指導のもと、立ち技の稽古に打ち込んでいる。相手はほとんど男子選手であり、過酷の度合いでは瓜子に負けていないはずであった。


 そうして濃密な時間が流れすぎ――ついに、午後八時である。

 熱気のこもった体育館で、やはり汗だくの赤星弥生子によって締めくくりの挨拶がされることになった。


「合同合宿の稽古は、これですべて終了となる。わずか二日間の稽古だったが、誰もが有意義な時間を過ごせたことを願っている。みなさん、お疲れ様でした」


「お疲れ様でした!」と、すべての人間が気力を振り絞って挨拶を返した。

 赤星弥生子はひとつうなずき、立ち並んだ面々をゆっくり見回していく。


「夜食は、三十分後となる。キッズクラスの門下生たちも空腹をこらえて待ってくれているので、また中庭に集合してもらいたい。酒をたしなむ人間は、あまり羽目を外しすぎないように。……以上、解散」


 瓜子たちはくたびれきった足を引きずって、体育館を後にした。

 まずは、浴室でシャワーである。ひとつの浴室が女子選手に割り振られたが、全員いっぺんでは窮屈すぎるので、時間を区切って半数ずつ汗を流すことにした。


「ああもう、腕があがんないよ! 明日は昼からシフトを入れちゃったのに、これじゃあ仕事になんないなー!」


 灰原選手はそのようにわめき散らしていたが、わめく元気があるだけ立派なものであった。このたびは、灰原選手も愛音もおおよそ同じメニューで過酷な稽古をやりとげることがかなったのだ。


「仕事って、バニー喫茶のウェイトレスさんすよね。帰ってすぐに仕事なんて、大変っすね」


「そりゃー食ってくためだからねー! うり坊たちは、オフなの?」


「はい。だけど明後日から、仕事が山積みです。ユーリさんが、ついにレコーディングなんすよ」


「ちぇーっ! 華やかな仕事でけっこうなこった! それじゃあ、お盆は? 実家に帰ったりすんの?」


「いえ。四日間はお盆休みをもらえましたけど、自分の親は北海道っすからね。時間もお金ももったいないんで、適当に自主トレでもして過ごすつもりです」


 そんな言葉を交わしていると、浴室の扉が開かれた。

 もうこの時間に割り振られたメンバーは、全員入室していたはずだが――と、そちらを振り返った瓜子は、息を呑む。そこにはまったく見覚えのない、超絶的な美貌の持ち主が立ち尽くしていたのだった。


 赤みがかった髪をポニーテールのように上げた、小柄な女性である。

 卵型をした顔に、黒目がちの憂いを含んだ瞳が瞬いている。白い湯けむりの演出か、その眼差しが神秘的に感じられるほどであった。


 そしてその美貌を支えているのは、ユーリに匹敵するような超絶的なプロポーションだ。

 背の高いユーリとはまったく趣が異なるものの、圧倒的なまでに胸が大きく、ぎゅぎゅっとウエストがくびれており、そしてそれを際立たせるかのように腰が張っている。まったくもって日本人ばなれしたシルエットであり、脚線美のほどもユーリに負けていなかった。


「すみません。さっきの時間に入りそびれちゃったんで、お邪魔するっす」


 その口から放たれたとぼけた声音に、瓜子はひっくり返りそうになってしまった。


「も、もしかして、是々柄さんっすか?」


「そうっすよ。そちらは、猪狩さんっすね? 眼鏡をかけてないんで、なんにも見えないっす」


 そう、彼女は度の強い遠視用の眼鏡を外していたため、まったく別人のように見えてしまったのだった。

 不自然なまでに大きく見えていた目が、今は理想的な大きさと形に落ち着いている。そして、ぶかぶかのジャージの下にはこのように恐ろしい肢体が隠されていたのだった。


「えーっ! あんた、あのちんちくりんなの? まるきり、別人じゃん!」


 灰原選手も、我を失った様子でわめいている。

 足もとも覚束ないのか、是々柄はことさらゆっくりと浴室の内部に踏み入ってきた。


「そうなんすかね。眼鏡を外した自分の顔なんて、もう何年も見てないんすよ。なんせ、生まれつきの遠視なもんで」


「顔だけじゃなく、そのカラダもさ! なんでそんな立派なモノを、普段は隠しちゃってるわけ?」


「隠してないっすよ。ただ窮屈な格好が嫌いなだけっす」


 では、胸のサイズに合わせて服を選んだ結果、あのようにオーバーサイズになってしまったということなのだろう。彼女は瓜子よりも背が低く、そしておそらくユーリよりも胸が大きかったのだった。


「おっかねー! その顔とカラダだったら、グラドルでピンク頭のライバルになれるんじゃない?」


「こんな脂肪まみれの身体に価値はないっすよ。だからあたしは鍛え抜かれた肉体ってもんに果てなき憧れを抱いてるんすよね」


 ようよう空いているシャワーにまで辿り着いた是々柄は、憂いげに煙る眼差しで周囲を見回した。


「ピンク頭のユーリさんも、こちらにいらっしゃるんすか?」


「はいぃ。いると言えば、いるようないないような……」


「けっきょく今日も、あなたのお肉にさわらせていただくチャンスはなかったっすね。お別れの前に、いっぺんだけでもさわらせていただけませんか?」


「も、申し訳ないですけれど、ご遠慮願いますぅ!」


 そんな一幕を経て、シャワータイムも終了と相成った。

 新しい服に着替えて中庭に向かってみると、すでにそこでは熱気と活気と料理の香りが渦巻いている。稽古の直後は機能停止していた瓜子の胃袋も、その芳香で俄然元気を取り戻したようだった。


「これで全員、そろったようだな。では、合同合宿稽古の打ち上げを開始したく思う。……師範代、挨拶を」


 赤星弥生子の言葉に従って、赤ら顔の大江山師範代が進み出た。そのごつい手には、ビールのジョッキが握られている。


「みなさん、お疲れ様でした! それぞれの目標に向かって、明日からも頑張りましょう! 乾杯!」


「かんぱーい!」と、すべての人間がそれぞれのドリンクを頭上に掲げる。

 あとはもう、稽古の疲れも感じさせない饗宴の様相であった。

 すべてのグリルに火が灯されて、肉や野菜が焼かれたり、鍋の料理が温められたりしている。テーブルの上に並べられているのは、サラダやピラフやトルティーヤだ。通常のバーベキューとメキシコ料理の混在する、これまで以上に豪勢なディナーであった。


「わぁい。何から食べようかなぁ」


 ユーリもうきうきと、弾んだ声をあげている。

 灰原選手は多賀崎選手と、サキはサイトーと離脱したので、瓜子たちのそばに控えているのは愛音のみであった。

 とりあえずは手近な料理を皿にいただきつつ、中庭の端に設置されたベンチに腰を落ち着ける。ユーリは夏用のカーディガンを羽織っていたが、それでも他者に触れないように最大限の注意を払う必要があったのだった。


 そうして赤星流のメキシコ料理を楽しんでいると、複数の人影が近づいてくる。それはレオポン選手と竹原選手を含む、赤星道場の男子門下生たちであった。


「瓜子ちゃん、ユーリちゃん、お疲れ様。あと、えーと……そう、邑崎さんもな」


「はい。みなさんも、お疲れ様でした」


「瓜子ちゃんたちのおかげで、今年の合宿は普段以上に盛り上がったよ。特にこいつには、いい刺激になったみたいだ」


 レオポン選手の言葉に、竹原選手がずいっと進み出た。顔が赤くなっているのは、日焼けではなくアルコールの効果であろう。


「俺、ユーリちゃんにも瓜子ちゃんにもかなわなかったッスからね! ユーリちゃんに負けないグラウンドテクニックと、瓜子ちゃんに負けない立ち技のテクニックを身につけてみせますよ!」


「はい。おたがい、頑張りましょう」


 瓜子がそのように応じると、竹原選手はいっそう顔を赤くした。


「それで、あの……もしよかったら、瓜子ちゃんと連絡先を交換してもらえないッスか?」


「え? ナンパは禁止って聞いてるんすけど……」


「ナ、ナンパじゃないッス! 大阪で会ったときから可愛いって思ってましたけど、スパーで瓜子ちゃんにぶちのめされてから、本気になりました!」


 レオポン選手よりも軽薄な印象であった竹原選手であったが、根っこの部分は意外に純情なようである。

 よって瓜子も、誠意を込めて頭を下げてみせた。


「すみません。今は自分のことで手いっぱいなんで、誰ともおつきあいする気になれないんです」


「ああ……やっぱりそうッスよね……」と、竹原選手はがっくりとうなだれてしまう。すると、周囲の男性陣が笑いながら、その頭や肩を小突き回した。


「だから言ったろ。お前、理想が高すぎるんだよ」


「本当になあ。その根性は、試合に向けろや」


 レオポン選手はその荒っぽい慰めには加担せず、苦笑っぽい表情を瓜子に向けてきた。その目が「ごめんな」と語っていたように思えたが、べつだんレオポン選手に謝罪されるいわれはないだろう。瓜子はそちらにも、お辞儀を返しておくことにした。


「……ユーリ様が高嶺の花であられるゆえに、男性陣の目は猪狩センパイにひきつけられてしまうようですね」


 レオポン選手たちが立ち去ると、愛音がじっとりとした目つきでそのように言い出した。


「そりゃあまあ、ユーリさんに告白するにはけっこうな自信が必要でしょうからね。自分ていどの雑魚なら、ハードルも高くないってことっすか」


「ご謙遜も、度を過ぎれば嫌味にしかならないのです。昨日も今日も、数多くの殿方が猪狩センパイに熱い眼差しを向けていたではないですか。お隣にユーリ様がたたずんでいるにも関わらず、五人にひとりは猪狩センパイに目を奪われていたのですよ? 猪狩センパイも、十分に魔性の域なのだと推測されるのです」


「ば、馬鹿なことを言わないでくださいよ。自分みたいなちんちくりんが、そんな男性の目をひくわけないじゃないっすか」


「猪狩センパイはネットに目を通さないから、現実が見えておられないのです。猪狩センパイの水着姿が、どれだけの人間を悩殺しているものか――」


「ああもう、この話題はやめましょう! 自分は料理を運んでくるんで、二人はちょっと待っててください!」


 瓜子は這う這うの体で、人混みの中に逃げ出した。

 人々はビール瓶やグラスを傾けながら、赤星大吾の心尽くしを楽しんでいる。子供たちも、大人に負けない勢いで食欲を満たし、元気いっぱいにはしゃいでいた。


 マリア選手はレスラーマスクをかぶった父親にひっついて、ジョンや大江山師範代と語らっている。

 小笠原選手は小柴選手とともに、赤星道場の男子門下生と語らっていた。

 サキとサイトーは、子供たちに群がられている。強面のサイトーがこれほどの子供好きであるということも、瓜子はこの合宿で初めて知ることになった。なおかつサキはあけぼの愛児園におけるアルバイトの恩恵か、やたらと子供をひきつけてしまうようだった。

 灰原選手と多賀崎選手は、また誰彼かまわず交流を広げている様子だ。多賀崎選手は灰原選手に引きずられているだけのようだが、彼女はどちらかという人見知りの気質であるので、ちょうどいいバランスであるのかもしれない。


(みんな、すごく楽しそうだな)


 昨日初めて顔をあわせた相手も少なくはないはずであったが、そこには分け隔てない和やかな空気が形成されている。ひとつの大きなイベントをやりとげた達成感と連帯感が、この空気を生み出しているのかもしれなかった。


「やあ。しっかり食べてるかい、猪狩さん?」


 と、高い位置から陽気な声が降ってくる。

 見上げると、赤星大吾がひげもじゃの顔で笑っていた。


「押忍。美味しくいただいてます。まだまだ本番はこれからっすけど」


「ああ。昼からずっと動いてたんだから、その分のカロリーを補充しないとな。羊肉が嫌いじゃなかったら、こいつもどうだい?」


「羊肉まであるんすか。自分は食べたことありません」


「それじゃあ是非、試してみてくれ。羊肉ってのもメキシコ料理の定番なんだけどな。こいつは俺がジンギスカンを参考に開発した、オリジナルのメキシカン・ソースに漬け込んでおいたラム肉なんだ。もうすぐ焼きあがるからな!」


 そうして鉄板の肉をひっくり返しながら、赤星大吾はいっそう朗らかに笑った。


「今回は、本当にありがとうな。猪狩さんたちと一緒に稽古ができて、弥生子もずいぶん刺激になったみたいだよ」


「それが本当なら、光栄です。自分たちも、めいっぱい刺激をいただくことができました」


「うんうん。弥生子ってのは、ああいう性格だからさ。外の人間に興味を持つってのは、本当に珍しいことなんだ。あいつの重い腰を上げさせてくれた猪狩さんとユーリさんには、感謝だよ」


 と、赤星大吾のぎょろりと大きな目に、父親らしい優しげな光が宿された。


「どうか、あいつと仲良くしてやってくれ。強情で、偏屈で、なかなか人に本音を見せないやつだけど……それはみんな、俺や卯月のせいなんだ。俺たちが好き勝手にやるもんだから、根が真面目なあいつはあんな風に育っちまったんだよ」


「押忍。自分は弥生子さんのこと、素敵なお人だと思ってますよ」


 瓜子がそんな風に答えると、赤星大吾はびっくりまなこになってから、すぐに笑み崩れた。


「君も素敵なお人だね、猪狩さん。ジョンや立松が可愛がりたくなるのも、よくわかるよ」


「いえいえ。自分なんて、ご面倒をかけてばっかりです」


「君にかけられる面倒なら、あいつらだって大喜びで駆け回るだろうさ」


 豪放に笑いながら、赤星大吾は焼きたてのラム肉と添え物の野菜をどっさり皿に取り分けてくれた。


「ユーリさんにも、よろしく伝えてくれ。これからも、頑張ってな」


「押忍。ありがとうございます」


 瓜子はそこはかとない充足感を噛みしめながら、ユーリたちの待つベンチに戻ることにした。

 するとそちらには、また新たな人影が集っている。噂をすれば影というか、それは赤星弥生子とマリア選手の兄君であった。


「わかったろう。桃園さんには、まだまだ日本でやり残したことがあるんだ。そもそも出会ったその日にプロポーズなどとは、常軌を逸している」


「ああ……ワタシ、ムネンです。ユーリ、キがカわったら、いつでもレンラクをください。ワタシ、アメリカでマってます」


「はぁい。気が変わる可能性は皆無だと思いますけれど、こんなユーリに目をかけてくださって、ありがとうございましたぁ」


 ユーリは社交的なスマイルを振りまき、グティはしょんぼりと引き下がっていった。

 赤星弥生子は居残っていたので、そちらに会釈をしてから、瓜子はベンチの空いた場所に皿をおろす。そこから匂いたつ芳香に、ユーリは「うわぁ」と瞳を輝かせた。


「お肉だお肉ぅ! すっごく美味しそう!」


「こいつはラム肉だそうですよ。……弥生子さんも、ご一緒にどうっすか?」


「ああ、いや、私のことは気にしないでいい。……桃園さん、うちの関係者が失礼な真似に及んでしまい、本当に申し訳なかった」


「いえいえぇ。いつものことですので、どうぞお気になさらないでくださぁい」


「いつものこと?」と、赤星弥生子はわずかに身をのけぞらせた。

 瓜子は苦笑しながら、ベンチに腰を下ろす。


「またプロポーズのお言葉をいただいたんすね。これが魔性の魅力ってもんですよ、邑崎さん」


「ユーリ様の魅力であれば、当然のことなのです」


 愛音はすました顔で、ラム肉をついばんでいる。瓜子も口にしてみると、こちらは数ある料理の中でも特筆すべき美味しさであった。

 そんな瓜子たちの姿を見下ろしながら、赤星弥生子は小さく息をつく。


「桃園さんは、それほどに苦労の多い人生を送ってきたのだな。心より、同情を申しあげる」


「いえいえぇ。きっと前世か何かの報いなのでしょう。それでもトータルすればハッピーのほうが上回る人生ですので、どうぞお気遣いなくぅ」


「……君は肉体ばかりでなく、精神までもが鍛え抜かれているのだな」


 そんな風に語らいながら、赤星弥生子はその場に膝を折って瓜子たちと目線を合わせてきた。


「どうか食べながら聞いてほしい。……今回は合宿に参加してくれて、どうもありがとう。すべての方々に感謝しているが、特に猪狩さんと桃園さんにはお礼を言わせてもらいたい」


「いえ。昨日も言いましたが、こちらこそ感謝しています。本当に、実りのある時間を過ごすことができました」


 ユーリは口いっぱいにラム肉を頬張っていたので、瓜子がそのように答えてみせた。

 赤星弥生子は、思いも寄らないほど真剣な眼差しで瓜子たちを見やっている。


「そのように言ってもらえたら、こちらも光栄だ。私はこれまで外部の人間と交流を持たないようにしていたので……自分の気づかないところで、何か失礼な真似に及んでしまったりしていなかっただろうか?」


「そんなことは、これっぽっちもありませんでしたよ。ねえ?」


「はいなのです。赤星弥生子さんのストイックな姿勢には、愛音も大いに感銘を受けたのです。……ただ一点、青田ナナさんの言動だけが不可解であったのです」


「ああ。ナナはどうやら……君たちに、嫉妬してしまったようだ」


「嫉妬?」


「うん。自分で言うのは口はばったいのだが……彼女は私より六歳年少で、幼い頃から私を目標にしてきたと公言している。それで……私が初めて外部の女子選手に興味を抱いたことが、ずいぶん癇にさわってしまったようなんだ」


 赤星弥生子は、十六歳の若さで《レッド・キング》のリングに立ったという。ならば青田ナナは十歳の頃から、そんな赤星弥生子の姿に憧憬を抱いていたのかもしれなかった。


「きっと私の気づかいが足りなくて、彼女を不快な気持ちにさせてしまったのだろう。そのしわ寄せが君たちに行ってしまって、本当に申し訳なく思っている」


「いえ。どうかそんなことは気にしないで、青田ナナさんと仲良くしてください。そちらの関係がこじれてしまったら、それこそ心苦しいです」


「……どうだろうな。私は、あまり……人とのつきあいかたというものが、よくわからないんだ」


 赤星弥生子はわずかに目を伏せて、静かな口調でそう言った。

 彼女の五体にいつも纏わりついている張り詰めた空気が、少しだけやわらいでいるようだ。


「私はもう十年以上も、稽古と試合のことばかり考えてきた。父親が引退して、兄が道場からいなくなって……道場と《レッド・キング》を守ることだけに、すべての力を注いできたんだ」


「はい。そんなお若い頃から道場の看板を守ってきたなんて、すごいことだと思いますよ」


「……それでも私には、かつての輝きを取り戻すことはかなわなかった。私ていどの器量では、これが精一杯だったんだ」


 そう言って、赤星弥生子は中庭の賑わいへと視線を飛ばした。


「だからせめて、この手でつかめたものだけは守り抜きたいと考えている。はたから見れば、ごくちっぽけなものなのだろうが……私にとっては、これがすべてなんだ」


「ちっぽけだなんて思いませんよ。みんな、あんな楽しそうにしてるじゃないですか」


 赤星弥生子がこちらを向いたので、瓜子は心からの笑顔を届けてみせた。


「弥生子さんは、ご立派だと思います。ファイターとしてもひとりの人間としても、尊敬します。どうかこれからも頑張ってくださいね」


「うん……ありがとう」


 と、赤星弥生子は再び目を伏せた。

 それからすぐに、上目遣いで瓜子を見やってくる。


「ところで、ひとつお願いがあるのだが……私個人と、連絡先を交換してもらえないだろうか?」


「自分たちと? それはもちろん、かまいませんけれど」


「あ、いや、だけど、私は古い端末なので、メッセージアプリとかそういう機能はよくわからないんだ」


 あの、いつでも凛然とした赤星弥生子が、子供のように不安げな眼差しで瓜子のことを見やっている。

 瓜子は新たな微笑を誘発されながら、ポケットの携帯端末を取り出してみせた。


「奇遇っすね。自分たちもっすよ」


 赤星弥生子は一瞬きょとんとしてから、その口もとをほころばせた。

 なんだかさっきの赤星大吾と、そっくりの仕草だ。


 そうして実りある合同合宿稽古は刻一刻と終わりに近づき、瓜子たちの携帯端末には新たな連絡先が登録されたのだった。

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