02 到着

 鞠山選手の宣言通り、新宿を出発してから九十分後には、目的の地に到着することができた。

 千葉県は南房総市に存在する、岩井海岸海水浴場――そこから徒歩三分の場所に軒をかまえる、『七宝荘』なる宿泊施設である。


 もともとこちらは部活動の合宿や企業のセミナーなどを行えるだけの設備が整えられているとのことで、宿泊施設の他にホールや体育館までもが併設されている。客室は二十室、広間は三室、浴室は四室という規模で、六十名という人数でも無理なく収容できるのだという話であった。


「こんな立派な施設を貸し切りにするなんて、豪気な話だよね。しかも参加費が七千円なんて、半額ぐらい割引されてるんじゃない?」


「ええ。ここのオーナーさんも、赤星大吾さんの熱狂的なファンだったみたいっすね。自分はよく知らないんすけど、赤星大吾さんって格闘技ブームの黎明期にはカリスマ的な存在だったんでしょう?」


「そりゃあそうだわよ。そもそも日本で総合格闘技の概念を打ち出した最初のひとりなんだから、すべてのMMAファイターの父といっても過言ではないだわね」


「だけど同じ頃、フィストの創始者も総合格闘技の概念をぶちあげながら、赤星大吾さんとは決裂しちゃったんだよね。それで最初は赤星さんのほうが注目されてたけど、北米からの波が押し寄せてきた頃にはフィストに逆転されちゃったってわけだ」


 そんな言葉を交わしながら、瓜子たちはめいめい荷物を運び出した。二泊三日という旅程でもトレーニングに取り組むとなると、そこそこ荷物はかさばってしまう。ユーリなどは、またもや巨大なキャリーケースを持ち込んでいた。


 駐車場には、すでに何台もの車がとめられている。そこにはオレンジ色のペイントがされたプレスマン号の他に、赤と銀でペイントされた赤星道場の専用車も見受けられた。


「あのさ、この合宿にはレオポン選手も参加するんだよね?」


 と、宿泊施設に向かう道中で、ユーリが瓜子に耳打ちしてきた。


「さあ? 自分は聞いてないっすけど、レオポン選手がどうかしたんすか?」


「うみゅ。夏というのは若人を解放的な気分にさせるので、おふたりの間にもかつての熱情が……ひゃわわあ!」


 瓜子が脇腹をくすぐってやったので、ユーリは鳥肌とくすぐったさで悶絶することになった。


「ユーリさんも、大概しつこいっすね。自分とレオポン選手はそんなんじゃないって、なんべん説明すればわかってもらえるんすか?」


「ふみゅ。となるとやはり、リアルで接点を持つことになった憧れのヒロ様と……うぴゃぴゃあ!」


 瓜子がユーリを責めたてていると、横合いから灰原選手がもたれかかってきた。


「到着早々、なにをイチャついてんのさ! あんたたちは、行きもべったり一緒だったでしょー?」


「いや、イチャついてるわけじゃないんすけど……そうなると、灰原選手もそういう目的で自分にひっついてるんすか?」


「んなわけないじゃん! でもなんか、うり坊にひっついてると落ち着くんだよねー。パワースポット的な?」


 瓜子の肩に腕を回した灰原選手が、頭にぐりぐりと頬ずりをしてくる。夏真っ盛りの炎天下であるのだから、どちらもそれなりに汗ばんでいるわけだが、そういったこともまったく気にならないらしい。まあ、普段から汗だくで取っ組み合うのが日常であるからして、瓜子にしてもまったく不快なことはなかった。


 そんなこんなで、宿泊施設に到着する。

『七宝荘』は和洋折衷の様式であり、基本は白塗りの四角い建造物であったが、門がまえだけは和風でガラスの引き戸であった。

 プレスマン道場の所属で最年長たるサキがその戸を引き開けると、玄関口には見慣れた男性陣がずらりと居並んでいた。


「お、そっちも到着したか。俺たちも、ついさっき全員そろったところだ」


 それは、プレスマン道場のメンバーであった。立松にジョン、サイトーに柳原、そして八名ばかりの男子選手である。最後に到着した何名かが、框に荷物を下ろしたところであったようだ。


「赤星さんたちは、もう中庭のほうに集合してるってよ。着替えは後でいいから、部屋に荷物を置いたらそっちに集まってくれ」


「了解。……そういえば、部屋割りはこれからだったっけか」


「ああ。こっちの女子選手はサイトーを入れてきっちり十二人だから、四人部屋が三部屋だ。適当に割り振ってくれ」


 立松は気軽に言っていたが、ここでも愛音と灰原選手が角突き合うことになってしまった。行き道の車は分かれてしまったのだから、今度こそは――と、いっそうの熱意を燃やしてしまっているようだった。


「あのなあ……だったらもう、プレスマンの三人とあんたがご一緒すりゃいいだろ? それで丸く収まるだろうに」


「なに言ってんのさ! マコっちゃんは、あたしと離ればなれになってもいいっての?」


「いや、一向にかまわんけど。寝室なんて、どうせ寝るだけじゃん」


 そうしてこちらが騒いでいると、柳原が心配げな顔で近づいてきた。


「どうした? 何かもめてるのか?」


「あ、聞いてよ、ヤナさん! こいつ最年少のくせに、ちっとも譲ろうとしないんだよー!」


「たとえ最年少でも、譲れることと譲れないことがあるのです!」


 出稽古で面識を得た灰原選手は、すでに柳原をヤナさん呼ばわりしている。

 それはともかくとして、話を聞いた柳原は呆れかえった顔をしていた。


「なんか、中学生みたいな騒ぎだな……灰原さんって、俺の二つ下ぐらいじゃなかったっけ?」


「トシのことはいいの! あたしだって、譲る気はないからね!」


「だったら、五人で寝りゃいいんじゃないのか? 修学旅行じゃあるまいし、誰も文句は言わないだろ」


 灰原選手と愛音は、ぽかんとした顔を見合わせることになった。

 またもや瓜子のTシャツの裾をつかんでいたユーリは、「あははぁ」と笑い声をあげる。


「そうですよねぇ。さすが柳原さんは沈着冷静ですぅ」


「お役に立てたんなら、何よりだよ」


 柳原はユーリの笑顔を眩しげに見やってから、自分の寝室に引っ込んでいった。

 かくして、部屋割りの問題は片付いたかに思えたが――そうなると、今度は瓜子が落ち着かない心地を抱えることになってしまった。


「あの……四人部屋に六人ってのは、やっぱり窮屈っすかね?」


 瓜子がそのように呼びかけると、自前のリュックを担ぎなおしたサキが「あん?」と眉を寄せた。


「おめーらが窮屈な思いをするのは勝手だけど、まさかアタシを巻き込むつもりじゃねーだろうなあ?」


「ええ、まあ……大阪でも武魂会の合宿でも、サキさんとはご一緒させてもらいましたし……」


 サキは溜息をついてから、瓜子のこめかみを小突いてきた。


「これから三日間ツラを突き合わせるってのに、うだうだ言ってんじゃねーよ。どうせおめーらは、布団に入るなりコロッと寝入っちまうだろうがよ?」


「ええまあ、それはそうなんすけど……」


「他のタコスケどもと同列に見なされたくなかったら、身をつつしめや。そもそもアタシまでタコスケグループに巻き込まれたら、どっかの金髪が孤立無援だろうがよ?」


 ということで、サキはサイトーおよびオリビア選手と同じ寝室に割り振られることになった。プレスマン道場の誇る強面二名にはさまれる格好だが、もちろんオリビア選手はいつもの調子でにこにこ笑っている。


「まったく、トレーニングを始める前から大騒ぎだな。あんたは年長者の部類なんだから、ちっとは自覚を持てよ」


 あてがわれた寝室に向かう道中で、多賀崎選手は灰原選手の頭を小突いていた。が、まんまと要求を通すことがかなった灰原選手は「えへへー」と満足そうに笑っている。そんな両名を見やりながら、愛音がふっと声をあげた。


「愛音は灰原選手のお年を存じあげなかったのですが、柳原センパイの二つ下であられたのですか?」


「んー? さあ、どうだろうねー。あたしはヤナさんのトシなんて知らないからなー」


「柳原センパイは二十七歳なので、灰原選手は二十五歳ということになるのです。失礼ですが、多賀崎選手はおいくつなのでしょう?」


「あたしはこいつのひとつ上だよ」


「なるほど。多賀崎選手が二十六歳で、灰原選手が二十五歳。それでもって、小笠原センパイが二十四歳で、サキセンパイが二十二歳で、小柴センパイが二十一歳で、ユーリ様が二十歳で、猪狩センパイが十九歳で……二十三歳以外はコンプリートなのです」


「ふうん。オリビアなんかは、たしか灰原とタメだったっけ。御堂さんは、あたしのひとつ上あたりで……あ、赤星のマリアなんかが、たしか二十三歳じゃなかったかな?」


「おお! それなら見事、コンプリートなのです! なおかつ魅々香選手が二十七歳であられるなら、いっそう幅が広がるのです!」


「……で? コンプリートすると、何かいいことでもあるわけ?」


 多賀崎選手に真顔で問われた愛音は、ウサギのようにきょろんとした目でそちらを見返した。


「いえ、べつだん意味はないのです。……申し訳ありません。愛音はこの合同合宿稽古を心待ちにしていたので、少々浮かれてしまっているのやもしれません」


 多賀崎選手は珍しく、「ぷっ」とふきだした。


「いや、ごめんごめん。ま、あんたはまごうことなき最年少の高校生だもんな。可愛げがあって、けっこうなこった」


「お恥ずかしい限りなのです。稽古に向けて、気を引き締める所存なのです」


 愛音と多賀崎選手は、意外に相性がいい。そう考えれば、この部屋割りもなかなか悪くないのかもしれなかった。


 そんなこんなで荷物を置いた一行は、中庭に集合する。

 そこにはすでに、四十名近い赤星道場の関係者が居並んでいた。

 そのうちの十名ていどはキッズコースの子供たちであり、七、八名は保護者となる。逆算すれば、二十名以上が正規の指導員や門下生ということであった。


 赤星弥生子、青田ナナ、大江山すみれ、マリア選手――それに、七月大会でマリア選手のセコンドについていた小柄な女性も顔をそろえている。あとはレオポン選手に、その後輩である竹原選手も笑顔でこちらに視線を向けていた。


「待たせたな。こっちも全員そろったよ」


 立松が声をかけたのは、ひときわ大柄な体格をした壮年の男性であった。

 この人物は、青田ナナの試合でセコンドについていた。赤星道場の師範代、『大江山の赤鬼』こと大江山軍造である。鬼の異名に相応しい、ごつごつとした厳つい顔立ちの大男であった。


「そうかい。知らない顔も多いんで、あとで自己紹介をしてもらおう。そこで待っててくれ」


 そう言って、大江山軍造はかたわらの赤星弥生子を振り返った。


「師範。全員そろったそうだ。挨拶をお願いする」


「うん」とうなずき、赤星弥生子は凛然と声を張り上げた。


「新宿プレスマン道場の方々も到着したようなので、合同合宿稽古の概要を説明する。しばらく清聴を願いたい」


 おしゃべりに興じていた子供たちや保護者の方々も、すみやかに口を閉ざして居住まいを正した。


「まずは本年も無事に合宿稽古を実施できたことを、喜ばしく思う。この合宿稽古は門下生とその関係者の交流を深める遊楽という一面もあるが、稽古は稽古、遊楽は遊楽ときちんと線引きをして、最後まで怪我のないように。何か問題が生じたときには、責任者である私か大江山か青田まで、すぐに報告を」


 子供たちは、声をそろえて「押忍!」と応えた。

 みんな真面目な面持ちだが、瞳はきらきらと輝いている。この中から、将来のプロファイターが生まれたりするのかもしれなかった。


「そして本年は、以前から懇意にしていた新宿プレスマン道場の面々と、あとはそちらで懇意にしている何名かの選手が参加することになった。プレスマン道場の方々と合同で合宿稽古を行うのは五年ぶりぐらいになると思うので、面識のない人間も少なくないだろう。……立松さん、自己紹介をお願いします」


「はいよ。……初めましての人たちは、初めまして。自分は新宿プレスマン道場でトレーナーをやっている、立松といいます。こっちのでかいのが同じくトレーナーのジョンで、あとはサブトレーナーの柳原とサイトー。自分を含めておっかない顔をした人間が多いけど、赤星のみなさんよりはおっかなくないはずなので、どうぞ三日間よろしくお願いします」


 これはやはり、子供たちや保護者に向けての挨拶であるのだろう。意外に気さくな立松の挨拶に、子供たちは笑顔で「よろしくお願いします!」と応じた。


「あとは、どうしたもんだろうね? こっちもこの人数だから、とうてい覚えきれんだろう?」


「いちおう、ひとりずつ自己紹介を。外部の女子選手に関しては、私たちも顔と名前を一致させておきたいので」


「了解したよ。それじゃあまず、プレスマン道場の人間から自己紹介をさせてもらいます」


 まずは男子選手たちが一名ずつ進み出て、名前と所属の部門と軽い経歴などを紹介することになった。少数だが、本日はキック部門の選手も参加しているのだ。

 そしてその後は、女子選手の出番である。


「サキ。所属は、MMA部門」


 それだけ告げてサキが引っ込もうとすると、たちまちサイトーがその襟首をひっつかんだ。


「この半分赤毛は《アトミック・ガールズ》のライト級王者で、現在は左膝を負傷して休養中。どうしようもないぐらい無愛想だけど、意外に面倒見はいいんで、何かあったら遠慮なくコキ使ってな」


 サキは仏頂面でサイトーの手を振り払い、瓜子たちのもとに戻ってきた。

 するとユーリが、白い手で「どうぞどうぞ」と瓜子をうながしてくる。プロ契約を結んだのは自分のほうが後なので、ということなのだろう。べつだん順番にこだわる場面ではなかったので、瓜子は素直に進み出ることにした。


「押忍。自分は猪狩瓜子と申します。もともとキックの選手でしたが、現在はMMAと両立してます。階級は五十二キロ以下級で、去年の七月にMMAのほうでもプロデビューして……いちおう今は、《アトミック・ガールズ》ライト級の暫定王者です」


「いちおうってことはねえだろうがよ。あんな化け物をぶっ倒したんだから、堂々と王者を名乗っとけや」


 またサイトーが笑顔で指摘を入れると、子供たちがくすくすと笑い声をあげた。サイトーの乱暴な物言いが、何やら場を和ませる効果を生んでいるようだ。


「つまりいずれはさっきの半分赤毛とこの猪狩が、ライト級王者の統一戦を行うってわけだな。しかしまあまだ日程も立ってないんで、稽古も同じ場で積んでる。何も気にしないで、同じようにコキ使ってやってくれ」


「よろしくお願いします!」と、子供たちがまた元気な声を唱和させる。

 そちらに一礼してから、瓜子は列に舞い戻った。


 満を持して、ユーリの出番だ。

 ユーリがひょこひょこと進み出て、その人相を隠蔽していた麦わら帽子とサングラスを外すと、その場にはそれなりのどよめきが巻き起こった。ユーリの参加は事前に知らされていたはずだが、やはり初対面の人間にはインパクトが絶大であるのだろう。


「えっとぉ、このたび新宿プレスマン道場の所属となることを許していただけた、桃園由宇莉と申しますぅ。所属の部門はMMAで、いちおう《アトミック・ガールズ》のミドル級王者ですぅ」


「だから、いちおうってのは何なんだよ。お前さんがたのベルトは、そんなに軽いのか?」


「いえいえ、滅相もありませんですぅ! むしろずっしり重たいものですから、本当にユーリなんかがおあずかりしちゃってよかったのかなぁとか思っちゃうのですよねぇ」


「どいつもこいつも謙虚なこった。……このネエチャンはテレビや雑誌なんかにも出まくってるんで、お子さんや保護者のお人らもどっかで見かけてるかな。不道徳が服を着て歩いてるような見た目だけど、稽古に対しては誰よりも熱心なんで、どうぞよろしく」


「はぁい。よろしくお願いいたしますぅ」


 ユーリが愛想よく微笑むと、またあちこちからざわめきがわきたった。今度のざわめきには、赤星道場の門下生たちも加わっているようだ。ユーリは日焼け対策で露出も控え目なファッションであったが、その魅力や色香というものはとめどもなく垂れ流しにされてしまっているのだった。


(だけど、嫌な顔をしてる人はいないみたいだな)


 ユーリはここ最近、身に覚えのないスキャンダルに追い回されていた。それで立松もユーリを合宿稽古に参加させるにあたって、赤星道場のほうに根回しをしていたという話であったのだ。


「あんなスキャンダルはみんな作り話だし、桃園さんは色恋なんざ稽古の邪魔にしかならないってスタンスなんだ。若い連中はもちろん、保護者のお人らにも念入りにそう伝えておいてくれ」


 立松は、そのように伝えていたらしい。

 その恩恵なのか、保護者の女性陣もまったく嫌な顔はしていなかった。むしろ、著名な芸能人を見る目でユーリの挙動を見守っている様子である。


「最後は、邑崎愛音なのです! 愛音は十七歳の高校二年生で、所属はMMA部門となります! 今年の六月に《フィスト》のアマ大会に出場して……そちらの大江山すみれさんに敗北を喫してしまったのです!」


 と、気づけば愛音の自己紹介が始まっていた。

 愛音は肉食ウサギの眼光となって、にこにこと微笑む大江山すみれの姿を見据えている。


「赤星道場には素晴らしい選手が居揃っていると、前々からコーチの方々にうかがっていたのです! まだまだ未熟者ですが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いしたいのです!」


 子供たちは、変わらぬ態度で「よろしくお願いします!」と返していた。

 愛音を引っ込ませて、再び立松が進み出る。


「新宿プレスマン道場の門下生は、以上です。あとは外部から、七名の女子選手を参加させてもらいました。最初は……小笠原さんからお願いしようかな」


「押忍」と、小笠原選手が進み出た。


「武魂会小田原支部所属の、小笠原です。本職は空手ですけど、ここ数年はMMAにも同じぐらい力を入れてます。プレスマン道場には出稽古でさんざんお世話になって、今回はこの合宿稽古にまで参加させてもらいました。無理な申し出を聞き入れてくださって、赤星道場のみなさんにも感謝しています」


 小笠原選手は穏やかな微笑を保持しつつ、礼儀正しく一礼した。ただ朗らかなだけでなく、空手家らしい礼節をわきまえた小笠原選手であるのだ。


「赤星道場の評判は自分も聞いていたので、今日の合宿稽古を心待ちにしていました。自分も武魂会では指導員として活動してますので、もし立ち技の稽古で何かお役に立てそうなことがあれば、なんでも言いつけてください」


「あんたの試合は、以前に見たことがあるよ」


 と、ふいに声をあげる者があった。

 誰かと思えば、赤星道場の青田コーチである。骨ばった顔に細い目をした青田コーチは、鋭い眼光で小笠原選手を見据えていた。


「けっこう前だけど、《G・フォース》の試合に出てたろ? 相手はオランダかどこかの女子王者で……初回のラウンドであっさりKOしてたよな」


「懐かしいですね。たぶん、三年ぐらい前の試合だと思います」


「あの頃のあんたは、二十歳そこそこだったよな。その若さで指導員になれるのも納得だ。……お前ら、立ち技の稽古では小笠原さんに面倒を見てもらえ」


 子供たちは、尊敬の眼差しで「押忍!」と答えていた。その反応から見るに、青田コーチがこのように他者を賞賛するのは珍しいことなのだろう。瓜子自身、何か難癖をつけられるのではないかとヒヤヒヤしていたぐらいであったのだ。

 いっぽう小笠原選手は、いつもの調子でにこりと微笑んでいた。


「ありがとうございます。自己紹介を先取りしちゃいますけど、あっちのオリビアも玄武館で指導員をしてますので、よかったらよろしくどうぞ」


「玄武館か。フルコン空手はちっと勝手が違うだろうけど……MMAにも取り組んでるなら、顔面攻撃の対応もできるはずだよな。あとでお手並みを拝見させてもらおう」


「はい。寝技だったら、あちらの花さんが指導員レベルの大ベテランですし、それに……プレスマンの桃園も、寝技に関してはかなりの教え上手ですよ」


 いきなり矛先を突きつけられて、ユーリは「ふみゃ?」と後ずさった。


「な、何を仰っているのですか、小笠原選手? 鞠山選手などと並べられてしまったら、ユーリは恐れ多いばかりなのですぅ」


「アンタはその花さんと互角にやりあえるし、しかも教え上手じゃん。案外、指導員に向いてるのかもね」


 あくまでも朗らかに、小笠原選手はそのように言いたてた。


「あっちの花さんはお師匠がブラジルに帰っちゃったんで帯の昇格も取りやめちゃいましたけど、実力的には黒帯クラスです。それであっちの桃園は、その花さんと互角の腕を持ってるはずですよ。なおかつ自分も苦労をして稽古を積んできたから、基礎がしっかり身についてるんでしょうね」


「ふうん……そいつは寝技の稽古が楽しみなところだ」


 赤星道場の主要メンバーが、ユーリにそれぞれ視線を送っていた。

 ユーリは「はうう」と小さくなり、小笠原選手は満足そうに笑っている。

 小笠原選手はユーリをからかって楽しむような気性ではないので、おそらく人見知りのユーリのために交流の場を整えたいという思いであるのだろう。実際にユーリは教え上手であるのだから、キッズクラスのお子様たちには十分以上に指導できるはずであった。


 そうしてその後は、残りのメンバーの自己紹介が粛々と進められていく。

 魅々香選手がキャップを外すとわずかながらにどよめきがあげられたが、おかしな風にはやしたてる人間はいない。また、魅々香選手がその外見にそぐわぬ可愛らしい声を発しても、それは同様であった。


(なんていうか……すごく規律正しい上に、あったかい空気だな。子供が多いから、そんな風に思えるのかもしれないけど……)


 しかしまた、道場の雰囲気というものを形成するのは、大人たちである。師範の赤星弥生子を筆頭に、赤星道場の指導員というのはいずれも不愛想であるように思えるのだが――なんというか、彼らが子供たちに慕われているという空気がひしひしと伝わってくるのだった。


(なんか意外に、アットホームな空気なんだよな。まあ、そうじゃなかったら子供たちと合宿稽古なんてしないんだろうけど……ちょっとイメージと違ったな)


 そういえば、レオポン選手やマリア選手や竹原選手など、赤星道場の若い門下生には朗らかで和やかな人間が多い。それもまた、赤星道場でつちかわれた人間性なのかもしれなかった。


(ジョン先生にも出稽古をすすめられてたぐらいだし、いい機会だから存分に交流を深めさせてもらおう)


 瓜子がそんな風に考えている間に、女子選手の自己紹介も終了した。

 あらためて、赤星弥生子が前に進み出る。


「それでは、合宿稽古を開始する。各自着替えて、二十分後にこの中庭まで集合するように」


 今度は全員が「押忍!」と答えて、散開となる。

 が、建物のほうに引き返していく赤星道場の面々を横目に、瓜子たちはこちらのコーチ陣を取り囲むことになった。


「あの、集合場所はここなんすか? みんなでそろって体育館に向かうってことっすか?」


「いや。体育館での稽古は、午後からのはずだったな」


 それなりの早朝に出発したため、現在の時刻はいまだに午前の九時半ていどである。立松は、悠揚せまらずポケットから一枚の紙片を取り出した。


「ええと、午前中のスケジュールは……ああ、レクリエーションだ」


「レクリエーション?」


「要するに、自由時間の海水浴さ。そういえば、五年前の合宿稽古もそんな感じだったな」


「ウン。ウミにキたらオヨぎたくなるのが、ニンジョウだからねー。コドモたちのために、そういうスケジュールにしてるんじゃないのかなー」


「ああ。先に遊ばせときゃあ、あとの稽古でも集中できるだろうからな。……自由時間に海水浴ができるって話は、事前に伝えておいたろ?」


「押忍。そういうことなら、異存はありません」


 ただ瓜子は、合同稽古に意欲を燃やしていたので、いささか肩透かしをくわされただけのことだ。それでもまあ、午後からみっちり稽古をつけられるのなら、なんの不満もなかった。


「いきなり自由時間なんて、気がきいてるね! けっきょく今年は一回も泳ぎに行ってなかったから、あたしも楽しみにしてたんだー!」


 満面に笑みをたたえながら、灰原選手が瓜子にからみついてきた。


「うり坊の水着姿は、撮影以来だね! どっちが男の目を引けるか、いざ勝負!」


「あ、いや。自分は水着を持ってきてないんで、勝負は他のお人とよろしくお願いします」


「えー!? なんで持ってきてないの? 忘れたんなら、買えばいいじゃん!」


「忘れたんじゃなくて、あえて持ってこなかったんすよ。自由時間に何をしようと、各人の自由でしょう?」


「つまんないつまんなーい! うり坊の水着姿、楽しみにしてたのにー!」


 灰原選手にがくがくと揺さぶられながら、瓜子は内心で勝利の味を噛みしめていた。

 が、そんな瓜子たちのさまを、ユーリがおひさまのような笑顔で見守っている。その邪気の欠片もない笑顔が、瓜子の心に暗雲をもたらした。


「……ユーリさんも騒ぎだすんじゃないかって思ってたんすけど、なんか余裕の表情っすね?」


「うみゅ。うり坊ちゃんとは、もう一年半のおつきあいだからねぇ」


「……その脈絡もないお言葉が、とてつもなく不安感をそそるんすけど」


「にゅっふっふ。うり坊ちゃんのお考えなど、ユーリにはお見通しということですわん。どうせうり坊ちゃんは水着なんて持ってこないだろうから、『P☆B』さんから新作の水着をいただいておいたのです! サイズもばっちり七十五センチのBカップだから、ご心配なく!」


 瓜子はユーリのピンク色をした頭を引っぱたこうとしたが、灰原選手が邪魔で手が届かなかった。


「いや、余計なお世話っすよ! そんなプレゼントは、つつしんでお断り申し上げます!」


「そうはさせないよ! あたしが力ずくでも着替えさせてやるからね! ピンク頭、あんた今日はさえてるじゃん!」


「えへへー。ユーリもうり坊ちゃんの水着姿を心待ちにしておりましたものでぇ」


「ちょっと、勘弁してくださいってば! 立松コーチ、なんとか言ってやってください!」


「いや、うちは個人主義がモットーなんでな。……それじゃあ、移動するぞ」


 かくして、赤星道場との合同合宿稽古は思わぬ騒乱の中で開始されることになったのだった。

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