ACT.2 再始動

01 面談

 翌日、グラビア撮影の仕事を終えた後、瓜子とユーリは新宿プレスマン道場に駆けつけた。

 花咲氏の逮捕以来、六日ぶりの参上である。


 幸いなことに、記者陣が道場の前に押しかけたりはしていなかった。千駄ヶ谷のほうからも、ユーリはしばらくプレスマン道場におけるトレーニングを休養するという通達が為されていたのだ。


 ふたりが道場に到着したのは、午後の四時過ぎであった。

 そして――その場には、篠江会長自らがユーリを待ちかまえていたのだった。


「ひさしぶりだな、桃園さん。ちょうどこっちも、君に話があったんだよ」


 篠江会長は五十がらみの、体格のいい男性であった。もともとは柔道の有力選手であり、その頃からレム・プレスマンと親交を深めていた人物であるのだ。

 篠江会長に招かれて、ユーリと瓜子は事務室にお邪魔することになった。現在は自由練習時間であり、門下生の面倒を見ていたジョンや立松もこちらに視線を送っていたが、篠江会長が手振りで稽古を続けるように指示を出していた。


 そうして、せまい事務室で篠江会長と向かい合う。

 そこには二脚のパイプ椅子しかなかったので、瓜子はユーリの隣に立ち並ぶことになった。


「……猪狩さんは、桃園さんのマネージャーみたいなものを仕事にしてるらしいな。それなら、一緒に聞いてもらおうか」


「はい。どういったお話でしょうか?」


「色々と、面倒な話だよ。……ところで、こいつはもう見たかい?」


 篠江会長が、後ろのデスクにのせられていた新聞をユーリに差し出した。

 それは、ゴシップ記事で有名なスポーツ新聞であり――その第一面には、『ユーリ、またもや熱愛発覚!?』という下らない文言が綴られていた。


「はいぃ。実物を拝見したのは初めてですけれど、スターゲイトさんから連絡をいただいておりましたぁ」


 ユーリは頼りなげに肩を落としながら、そのように答えていた。

 熱愛のお相手とは、『ベイビー・アピール』のヴォーカル&ギターたる漆原なのである。そこには夜の駐車場で笑い合うふたりの姿が、いかにも隠し撮りというアングルで掲載されていた。


「桃園さんは独身らしいから、誰と遊ぼうと勝手だろうけどね。有名人ってのは、こんなもんまで記事にされちゃって大変だねえ」


「はいぃ。いちおう弁解させていただきますと、こちらは根も葉もないデタラメの記事でありまして……」


 その写真は、『NEXT・ROCK FESTIVAL』の帰り際のシーンであるのだ。周囲には『ベイビー・アピール』の他のメンバーや瓜子や千駄ヶ谷やドラムの彼女さんだって控えているはずなのに、巧妙にユーリと漆原の姿だけが切り取られてしまっていたのだった。「二人はこのあと漆原氏の愛車で、夜の街に消えていった」という文章で締めくくられているが、何もかもがデタラメの記事である。

 篠江会長は「ふうん」と気のない表情で、そのスポーツ新聞を放りだした。


「まあ、真偽のほどはどうでもいいんだよ。問題なのは、実際に騒ぎが起こってるっていうことでね。……例の社長さんが逮捕されてから三日間ぐらいは、記者連中が押しかけてきて大変だったんだ。そのたびに、こっちは稽古の手を止めなきゃならなかったからね」


「はいぃ。重ねがさね、ご迷惑をおかけしてしまいまして……本当に申し訳ないと思っておりますぅ」


「桃園さんはこれまでも、あちこちのジムを転々としてたんだろ? そろそろ環境を変えたほうが、リフレッシュできるんじゃないのかな?」


「あの」と、瓜子は思わず声をあげてしまった。

 篠江会長は、面倒くさそうに手を振ってくる。


「今は、桃園さんと話をしてるんだ。言いたいことがあったら、後にしてくれ。……で、どうだい? 余所のジムに移る気はないのかな?」


「はいぃ……ユーリは末永く、こちらでお世話になりたいと考えているのですけれど……」


「ふん。……そりゃまあ桃園さんは、このプレスマン道場で実績を築きあげたみたいだからな。それを惜しむ気持ちも、わからなくはないよ。でも、もしもそれを恩に思う気持ちがあるなら、周りの迷惑ってもんも考えてもらえないもんかなあ?」


 篠江会長はパイプ椅子をきしらせながら、肉の厚い足を組み替えた。


「ジョンや立松、サキやそっちの猪狩さんなんかが、桃園さんをそこまで盛り立ててくれたんだろう? そういう人らに迷惑をかけてるってことに、心は痛まないもんかね?」


「あの! やっぱり黙っていられません! 自分たちはユーリさんのことが迷惑だなんて、これっぽっちも思ってませんよ!」


 瓜子が大きな声をあげてしまうと、篠江会長はうるさそうに顔をしかめた。


「そいつは、気持ちの問題だろ? でも実際に、迷惑がかかってるんだよ。桃園さんが余所に移れば、八方丸く収まるんだからな」


「丸く収まるって何すか? MMAスクールの協力要請でも持ちかけられたんすか?」


 篠江会長は、うろんげに眉をひそめた。


「耳が早いな。そう、そんな話も持ち上がってたよ。ただし、今のままじゃあそんな恩恵にもあずかれないけどな」


「……それは、どういう意味ですか?」


「桃園さんを移籍させることが、協力要請の条件だったんだよ。だからこのままだと、ジョンや立松は旨みのある仕事をみすみす見送ることになっちまうわけだな」


 瓜子は、立ち眩みを覚えるほどの怒りに見舞われることになった。

 敵は――もはや、敵と称するしかないだろう――そこまで露骨に、ユーリを排斥しようとしているのだ。

 パイプ椅子に座したユーリは、深くうつむいてその表情を隠してしまった。


「ついでに言うと、桃園さんを移籍させないなら、サキや猪狩さんやあの新人……邑崎さんだったか? そういった門下生もアトミックで起用できなくなるかもしれないって話だったな。十分以上に、迷惑がかかってるだろう?」


「……なんすか、それ? そんなの、ただの脅迫じゃないっすか。篠江会長は、そんな脅迫に屈するおつもりなんですか?」


「俺個人は、どうでもいいんだよ。MMAの女子部門を立ち上げたのはジョンや立松だし、俺は稽古にもいっさい関わってない。どうせ来週には、北米に戻る予定だしな」


 そんな風に言いたててから、篠江会長はふいに眼光を鋭くした。


「ただな、ジョンや立松が頑張ってきた女子部門がポシャるのは忍びないし、あいつらが育てたサキやお前さんが活躍の場を失うのは不憫だ。ジョンも立松もサキもお前さんも、俺にとってはファミリーなんだよ。俺は大事なファミリーのために、厄介者を排除しようとしてるんだ」


「だったら、自分たちの心情も汲んでください。自分もサキさんもジョン先生も立松コーチも、誰ひとりユーリさんの移籍なんて望んでません。こんなやり口でユーリさんを追い出そうだなんて、馬鹿げてますよ」


「こんなやり口ってのは、俺のことを言ってるのか? それとも、パラス=アテナとかいう連中のことを言ってるのか?」


「両方です! パラス=アテナの馬鹿げた言い分に屈するなら、同罪じゃないっすか!」


 瓜子はたちまち激昂してしまったが、篠江会長のほうはむしろクールダウンしたようだった。


「パラス=アテナの言い分ってのは、そんなに馬鹿げてるのか? あっちは社長さんが逮捕されて大変な時期だから、運営の立て直しに必死みたいでな。悪いイメージを持つ選手は切り捨てて、興行を健全化したいそうだぞ」


「あいつらは、自分たちでユーリさんの悪いイメージを撒き散らしてるんですよ! 根も葉もない八百長疑惑だとか――この記事だって、どうせあいつらが書かせたに決まってます! あいつらは、エイトテレビまで抱き込んでるみたいですからね!」


「エイトテレビか。そいつは、大物だな。そんなもんを敵に回したら、お前さんたちは本当に干されちまうかもしれないぞ」


「上等っすよ。自分たちは、自力で居場所を作ってみせます」


「処置なしだな」と、篠江会長は息をついた。


「まあ、お前さんの考えはわかったよ。……それで、桃園さんはどうなんだ? 猪狩さんは君と一緒に泥船に乗る覚悟を固めてるみたいだけど、それで君の心は痛んだりしないのかね?」


「そんな言い方は、卑怯っすよ! どうして会長は、そんな風にユーリさんを――」


「おい、同じことをなんべんも言わせるな。俺は、桃園さんの気持ちを聞いてるんだよ。お前さんは、桃園さんの保護者なのか? 黙ってられないなら、話が終わるまで外に出てろ」


 ぶっきらぼうに言い捨てて、篠江会長はうつむいたユーリの頭頂部を眺めた。


「いっそ、北米に出てみるってのはどうだい? 卯月のやつは、君をスパーリングパートナーとして雇いたいとか言ってたんだろ? なんだったら、俺がレムさんのところまで送り届けてあげようか?」


「ユーリは……」と、ユーリはかぼそい声で答えた。

 リノリウムの床に、ぽたりと涙のしずくがこぼれる。


「……ユーリは、新宿プレスマン道場でお稽古したいです……うり坊ちゃんやサキたんや、ジョン先生や立松先生や……それに、ムラサキちゃんとも一緒に……ずっとここでお稽古していきたいです……」


「それでみんなに迷惑がかかっても、胸が痛んだりはしないってことか」


「痛いです……いまも心臓が破けちゃいそうです……でも、どうしてもあきらめることができないんです……」


 ぽたぽたと、雨のように水たまりができていく。ユーリは自分の膝をぎゅっと握りしめ、丸っこい肩を震わせながら言葉を振り絞り続けた。


「ユーリは、駄目な子なんです……みんなに迷惑かけたくないのに、どうしても我慢できないんです……昔はお稽古さえできれば、どこのジムだってかまわなかったのに……今だって、出稽古でも十分に楽しいのに……でも、プレスマンの人たちと離ればなれになっちゃうのは……どうしても、いやなんです……」


「ユーリさん」と、瓜子はユーリの纏ったアウターの裾をつかんでみせた。

 ユーリは泣き顔を隠したまま、ひっくひっくとしゃくりあげる。いつも幼いユーリであるが、今のユーリは赤ん坊のように頑是なかった。


「……君がサキや猪狩さんになついてるって話は聞いてたがね。ジョンや立松も、その中に含まれてるのかい?」


「はい……出稽古だけじゃ、駄目なんです……出稽古も、すごくすごく楽しいのですけれど……ここでジョン先生や立松先生が待ってくれてるって思えるから、ユーリは……」


 あとは、言葉にならなかった。

 ユーリのむせび泣く声を聞いているだけで、瓜子のほうこそ心臓が破けてしまいそうである。そしてその痛みは、そのままユーリを悲しませる者たちへの怒りへと転化した。


「……まったく、厄介な人間を入門させちまったもんだなあ」


 篠江会長が、深々と溜息をついた。

 瓜子は思わず怒声を張り上げそうになったが、それは分厚い手の平でさえぎられてしまう。


「わかった。だったら、腹をくくってもらおうか。俺もこれ以上、半端者を庇い立てする気はないんでね」


「それなら、ユーリさんの在籍を許してくれるんすね?」


「在籍ったって、桃園さんは一般門下生だろうがよ? こうまで問題を起こす人間は、退会してもらうってのが規約であるはずだぞ」


 そうして篠江会長は、固太りした腹の上で腕を組んだ。


「こんな問題児は、面倒みきれん。それでもこの場所に居座ろうってんなら、契約してもらう」


「けいやく……?」


「プロ契約だよ。サキや猪狩さんと同じように、プレスマン道場の所属になれ。そうしたら――ファミリーとして、最後まで面倒をみてやろう」


 ユーリは涙でしとどに濡れた顔を上げて、篠江会長を見つめた。

 篠江会長は、仏頂面でまた溜息をつく。


「なんて顔をしてやがるんだよ。……おい、猪狩さん、なんとかしてやれ」


「あ、は、はい。でも、プロ契約ってのは……?」


「部外者に道場を引っかき回されたら、俺だって黙ってはいられないんだよ。そんなもん、外に追い出すしかないだろうが? ……だから、桃園さんの覚悟を聞いておきたかったんだ。この厄介きわまりないお人が、身内にする価値のある人間かどうかってな」


 瓜子のハンカチで涙をふかれながら、ユーリは目をぱちくりさせていた。


「本当に……そんなことを許していただけるのですか……? 道場には、ユーリを嫌ってる人だっていっぱいいるのに……」


「身内だったら、喧嘩ぐらいするだろ。どんなに相性が悪くても、一緒にいなきゃいけないんだからな。身内ってのは、そういうもんだ」


 そんな風に言ってから、篠江会長はユーリの鼻先に指を突きつけた。


「ただし、芸能関係の面倒なんざ、こっちでは処理しきれんからな。こっちで面倒を見るのは、あくまで選手としての領分だ。スターゲイトとかいう会社の人らとも、きっちり話をつけておけ。……いや、興行主と喧嘩しようってんなら、俺たちもそちらさんと話を詰めておくべきだろうな。明日にでも、そちらさんの責任者と話をつける場を作ってもらおうか」


「しのえかいちょう……ありがとうございましゅ……」


 ふいたそばから、新たな涙がふきこぼれてしまう。

 そんなユーリの泣き顔を前に、篠江会長はついに苦笑した。


「礼を言うなら、ジョンと立松に言っておけ。あいつらがああまでムキにならなかったら、俺だって君を身内に迎えようなんて考えなかったよ」


「立松コーチらは、もうこのことをご存じなんすか?」


「いや。俺が桃園さんを追い出すつもりだと知って、ぎゃんぎゃんわめいてただけのことだ。MMAスクールの協力要請なんざどうでもいいから、余計な真似すんなってな。……桃園さんがうちの所属になるとか聞いたら、あいつらひっくり返るぞ」


 そんな風に言いながら、篠江会長はやおら口もとをほころばせた。

 それは瓜子が初めて目にする、篠江会長の魅力的な笑顔であった。

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