インターバル
旧交の友
「それじゃあ、自分はそろそろ出発しますけど……ユーリさんは、本当に行かないんすね?」
瓜子がそのように呼びかけると、リビング兼トレーニングルームのマットに寝そべったユーリは「うん」と気のない声を返してきた。
「ユーリはのんびりくつろいでおるから、うり坊ちゃんはどうぞ存分にエンジョイしてくださいませ。お友達や元コーチのお人にも、どうぞよろしくねぇ」
本日瓜子は、そういった人々と旧交を温めるために外出するのである。
そうしてユーリも一緒にどうかと、何度かお誘いをしたのだが――ユーリは無邪気さの裏にひそむ頑固さと偏屈さをおもいきり発露して、それを拒み続けていたのだった。
本日は、七月の第三火曜日。四大タイトルマッチが行われた《アトミック・ガールズ》の七月大会の、二日後だ。
瓜子もユーリも首から上にしこたま打撃をくらっていたために、昨日はそろって病院で診察を受けることになった。それで深刻な負傷が発覚したりはしなかったが、念のために明日までの三日間は稽古を休むようにと通達された。それで瓜子も心置きなく、友人たちと外出する約束を取りつけられたわけである。
「……ユーリさん。もういっぺん言っておきますけど、自分が仲良くさせてもらってるお人らは、ユーリさんに偏見を持ったりしてませんよ? その片方のお人なんかは、テレビとかで観るユーリさんのことをずっと可愛いと思ってたそうですし」
「にゃっはっは。そうしたら、実物のユーリを見たら幻滅しちゃうのじゃないかしらん? ただでさえ、今は自慢のかわゆいお顔がこんな有り様だしねぇ」
試合から二日が経って、ユーリも瓜子も顔の腫れはおおよそひいていた。昨日などはおたがいに笑いが止まらないほど、お化けのような面相に成り果てていたのだ。ただしユーリは両方のまぶたをカットしていたため、現在もその場所に保護用のガーゼを張りつけられていた。
「まあこんなお顔じゃなくっても、ユーリちゃんはご遠慮いたしますぞよ。前々からお伝えしておる通り、ユーリは独占欲の権化であらせられるため、うり坊ちゃんのお友達に嫉妬しないでいられる自信が皆無であるのでぃす。ユーリと大事なお友達が火花を散らすシーンなぞ、うり坊ちゃんだって見たくないでしょ?」
「いや、自分の友達連中だったら、ユーリさんのそういう部分も面白がってくれると思いますけど……」
「いやいや! うり坊ちゃんのお友達に不快な思いでもさせてしまったら、ユーリちゃんは自己嫌悪のズンドコに突き落とされてしまうのでぃす! ここはユーリの顔に免じて、どうぞご勘弁くださいまし」
おかしな日本語を並べたてながら、ユーリは傷だらけの顔をクッションにうずめている。
瓜子は溜息とともに、「そうっすか」という言葉を吐き出してみせた。
「まあ、そこまで嫌がってるのに無理強いはできないっすよね。……ユーリさんは、どこにもお出かけしないんすか? せっかくの一日オフなんですから、アキくんと遊ぶとか……」
「アキくんはきっとお仕事だろうし、こんな傷だらけのお顔を見せたらびっくりしちゃうよぉ。アキくんは繊細なので、血とかケガとかが苦手なのでぃす」
そんな風に言ってから、ユーリは目もとだけでにこりと微笑みかけてきた。
「そんなにお気をつかわなくとも大丈夫ですぞよ。毎日毎日うり坊ちゃんを独占しておるのですから、ひと晩ぐらいは耐えてみせるの所存なのです! ユーリなんかのせいでうり坊ちゃんがせっかくの休日をエンジョイできなくなったら、それこそ自己嫌悪の極致だからねぇ。めいっぱい羽をのばして、楽しんできてくださいまし」
「わかりました。ユーリさんも、きちんと食事をしてくださいね」
「にゃっはっは。どれだけ寂しかろうとも、食欲の減退するユーリちゃんではありませんわん」
そうして瓜子はユーリを残し、単身で出発することになった。
瓜子も顔のあちこちに傷を負ってしまっているため、キャップを深くかぶってマンションの玄関を出る。時刻はすでに午後の五時半であったが、七月の空はまだそれほど暗くもなっていなかった。
(……あのお二人だったら、ユーリさんも仲良くなれると思ったんだけどなあ)
そんな思いを胸に、瓜子は駅に向かって歩き始めた。
トシ先生とアキくんを巡る騒動の際に、ユーリからは瓜子の友人に会いたくないという旨を告げられている。理由は、先刻ユーリが語っていた通りである。
だが、それからすでに半年ばかりの日が過ぎている。その期間で、ユーリはさまざまな相手と交流を深めてきた。新宿プレスマン道場のコーチ陣や、合宿稽古をともにしたメンバーなどが、その筆頭であろう。二日前の試合の打ち上げでもそういった人々が勢ぞろいして、瓜子とユーリの戴冠を心から祝福してくれたのだった。
ユーリはごく一部の人間にしか、本当の意味では心を開いていない。それは幼少時から数年にわたって植えつけられてきたトラウマが原因であるのだから、仕方のないことだろう。むしろ、そんな悲惨な経験をしながらあれほどの無邪気さを保持していることのほうが、奇跡に思えるぐらいであった。
だが、ユーリはサキや瓜子に心を開いてくれたし、合宿稽古で交流を深めた人々にも特別な思いを抱いているように見受けられる。現在のユーリであれば、瓜子の友人たちとも真っ当な交流を結べるのではないか――と、瓜子はひそかに期待してしまっていたのだった。
(だけどまあ……そんなのは、あたしの勝手な願望だもんな。無理に急かしたりはしないで、ゆっくり機会を待つしかないか)
そんな思いを吐き出すために、瓜子はもういっぺんだけ溜息をついておくことにした。
◇
瓜子が向かった先は、JRの新橋駅である。
マンションの最寄り駅である三鷹駅から、電車でおよそ三十分。初めてこの駅で下車した瓜子が案内表示に従って北口の改札を出ると、そこにはすでに友人たちが待ってくれていた。
「おー、来た来た。お疲れ、猪狩ちゃん!」
「おツカれサマですー。ジカンぴったりですね」
「お疲れ様です」と、瓜子も笑顔を返してみせた。
瓜子の友人は、二名。どちらもキックボクシングを通じて面識を得たお相手だ。彼女たちは二日前の試合も観戦に来てくれていたが、打ち上げの参加は遠慮していたのだった。
「ふむふむ。やっぱけっこう、お顔がボロボロだね。ま、あれだけソーゼツな試合だったんだから、当然かあ」
のほほんとした顔で笑うのは、
「このマエのウリコ、ホントウにカッコよかったですよー。オワりギワなんて、バケモノみたいにツヨかったですー」
そのように語るもう片方の友人も、やはりにこにこと笑っている。彼女は微笑みの国タイの出身で、とても長い本名を持っていたが、瓜子たちはニックネームのリンと呼んでいた。背丈と年齢は瓜子と一緒で、階級はひとつ下の四十八キロ以下級。浅黒い顔に微笑みを絶やさない、とても可愛らしい女の子であった。
「佐伯さんもリンも、この前はご来場ありがとうございました。せっかく来てくれたのに、ろくに挨拶もできなくてすみません」
「いいっていいって。何せ、タイトルマッチだったんだからさあ。そりゃあ周りの人らも放っておかないでしょ」
「そうですよー。キョウこうやってゆっくりおしゃべりデキるんだから、ワタシはそれだけでウレしいですー」
二人の笑顔に囲まれていると、瓜子も自然に笑顔になってしまった。
佐伯もリンもそれぞれ《G・フォース》に参戦しているキックのプロ選手であるが、所属は別々のジムである。かつての所属ジムである品川MAで孤立気味であった瓜子にとっては、ジムも階級も異なる彼女たちこそがもっとも気の置けない友人であったのだった。
「じゃ、行こっか。平日だから予約はいらないって話だったけど、満席になっちゃったら泣くに泣けないしね」
佐伯の案内で、駅から道路に出る。新橋というのはオフィス街であり、午後の六時でも十分に混雑していた。
「そういえば、けっきょくユーリさんはコられなかったんですねー」
と、道中でリンがそのように問いかけてきたので、瓜子は「はい」とうなずいてみせる。彼女は同い年であったが、余所のジムの所属ということでおたがいに敬語を使っており、それが定着してしまったのだった。
「やっぱりちょっと人見知りのケがあるんで、遠慮されちゃいました。次に機会があったらまた誘ってみるんで、どうぞよろしくお願いします」
「はーい。ユーリさんにアえたら、ワタシもウレしいですー」
「うんうん。うちもあのアイドルちゃんには会ってみたいなあ。猪狩ちゃんがそこまで仲良くなれるなんて、よっぽどの魅力があるんだろうしねえ」
「ってことは、佐伯さんもリンも魅力たっぷりってことっすね」
「そうだよー。うちらほど魅力のある人間なんて、そうそういないっしょ?」
佐伯はチェシャ猫のように笑い、リンも楽しそうに笑い声をあげた。
実際のところ、佐伯もリンも魅力はたっぷりである。そもそも瓜子のように融通のきかない人間とこうまで親しくしてくれるのだから、その器の大きさは推して知るべしといったところであった。
「あのアイドルちゃんと一緒に暮らし始めた頃の猪狩ちゃんなんて、どんより沈んでたもんねえ。それが気づいたら、親友か恋人みたいな間柄になっちゃってるんだもん。一年ちょっとで、いったいナニがあったわけ?」
「そりゃあ色々とありましたよ。歩きながらでは語り尽くせないっすね」
「そんじゃあ追々、ゆっくり聞かせてもらおうかあ。こんなにのんびり過ごせるのも、一年以上ぶりだもんねえ」
「はい。おふたりの試合も全然観にいけなくて、本当にすみません。こっちの試合とか仕事とかにぶつかってばかりだったもんで……」
「いいんですよー。イソガしいのは、おタガいサマですー」
リンが笑顔でそのように答えたとき、案内役の佐伯が足を止めた。気づけば入り組んだ路地裏で、目の前には灰色の雑居ビルが立ちはだかっている。
「あー、ここだここだ。うっかり通りすぎるところだった。さ、先陣はお願いするよ、猪狩ちゃん」
「押忍」とうなずき、瓜子はその雑居ビルに足を踏み入れた。一階は美容室で、二階はマッサージ店、そして三階に『活魚あかさか』の店名が表示されている。
エレベ-ターを使うと、扉の目の前がもう『活魚あかさか』の入り口であった。
瓜子はそれなりの緊張感を胸に、横開きのガラス格子戸をスライドさせる。その動きにあわせて軽やかなる鈴の音が鳴り、同時に「いらっしゃい」という女性の声が響いた。
「失礼します。先日ご連絡させていただいた、猪狩という者ですけど――」
「ああ、あなたが猪狩さん? 座敷が空いてるから、そっちにどうぞ」
ふくよかな体形をした年配の女性が、にっこり微笑みかけてくる。
そうして彼女は、カウンター席の向こう側に設置された厨房に大声で呼びかけた。
「あんた、猪狩さんがいらっしゃったよ! 座敷にお通しするからね!」
「おう」という低い声が、不愛想に応じてくる。
その声を聞いた瞬間、瓜子は懐かしさで胸が詰まってしまいそうだった。
「それじゃあ、どうぞ。三名様だよね? ゆっくりしていってくださいな」
「はい。失礼します」
その店はごく小規模で、カウンター席の他には四人掛けのテーブル席が四つと、座敷席が二つしかないようだった。現在は半分ほどの席が埋まっており、それなりの賑やかさである。
瓜子たちが座敷席に落ち着くと、すぐにさきほどの声の主がやってきた。
この人物は、赤坂史郎――かつては品川MAにおいて、瓜子を鍛え抜いてくれた鬼コーチである。
「よう、ひさしぶりだな」
恰幅のいい身体に白い調理着を纏った赤坂が、にやりと笑いかけてくる。
瓜子はその場に正座して、深々と頭を下げてみせた。
「押忍。ご挨拶が遅くなってしまって、申し訳ありません。ご開店、おめでとうございます」
「押忍はやめろや。俺はもう、カタギに戻ったんだからよ」
「あはは。それじゃあうちらが極道もんみたいじゃないですかあ」
と、佐伯が呑気な笑い声で場を和ませてくれた。
「どうも、佐伯です。会場で、何度かご挨拶をさせていただきましたよね」
「ああ、覚えてるよ。水沢ジムの選手には、さんざん苦労させられたからな。それで、そっちのお嬢さんはたしか――」
「はい。チャーンシーカーォ・ジムのリンですー。このたびはおめでとうございますー」
「ありがとよ。つっても、開店してもう二ヶ月以上は経つけどな」
赤坂は一昨年の年末に、品川MAの会長と対立してジムを解雇されてしまったのだ。そうして彼は格闘技業界からすっぱりと足を洗い、一年半ほどをかけてこの『活魚あかさか』なる店をオープンさせたのだった。
「本当に、ご挨拶が遅くなってしまって申し訳ありません。ついにお店をオープンされたと聞いて、すぐに駆けつけたかったんですけど……」
「そっちだって、あれこれ忙しかったんだろ。おたがい品Mを離れた身なんだから、そうまで気を使う必要はねえさ」
「いえ。赤坂コーチがなかったら、今の自分はありませんから。……あの、つまらないものですが、これはお祝いです」
瓜子はマンションから持参した紙袋を差し出してみせた。中身は、赤坂の好んでいる日本酒である。
「気を使う必要はねえってのに。それに、コーチは勘弁してくれや。他のお客が何事かと思うだろ」
そんな風に言いながら、赤坂は笑顔で瓜子のお祝いを受け取ってくれた。
「飲み物はサービスするから、好きに注文してくれ。今日はいいキンメダイが入ってるぞ」
「あ、じゃあうちは煮つけとお刺身で! ドリンクは……まずはハイボールにしとこっかな」
「うん? お前さんは、酒を飲めるトシだったっけか?」
「やだなあ。うちが猪狩ちゃんより年下に見えますー? 猪狩ちゃんだって、今年ハタチのはずですよー?」
赤坂は虚を突かれた様子で、わずかに身をのけぞらせた。
「そうか。猪狩もそんなトシなのか。……あの頃は、まだハナタレの高校生だったもんなあ」
「押忍。今でもまだまだハナタレっすよ」
「だから、押忍はやめろって。未成年に、酒は出せねえからな」
瓜子の誕生日はまだ先であったが、リンはすでに二十歳になっていた。が、酒を飲む習慣はないとのことで、二人そろってアイスの緑茶を注文する。あとは何品か料理も頼むと、赤坂は「あいよ」と言い置いて厨房に戻っていった。
「ふふん。うちはそんなに面識なかったけど、ずいぶん丸くなったんじゃない?」
「そうっすね。ジムでは笑顔なんて、ほとんど見せないお人でした。……あの頃の品Mって、なんかギスギスしてましたからね」
「あー、あの時期は武魂会やらホワイトタイガーやらにベルトを持ってかれて、ちょいと沈滞気味だったもんねー。それでランキング一位にまでのぼりつめた猪狩ちゃんにも見放されちゃあ、世話ないよ」
にこにこと笑いながら、佐伯は辛辣な言葉を吐いた。
「それ以降も、品Mはパッとしないみたいだしね。赤坂さんみたいに有能なコーチをクビにしたツケが回ってきたってわけだ」
「はあ。赤坂さんが有能だったことは事実ですけど――佐伯さんは、赤坂さんとそんなに面識もなかったんすよね?」
「んー? そりゃあ猪狩ちゃんをあそこまで育てあげたんだから、有能であることに間違いはないっしょ。もちろん、猪狩ちゃんの才能あってのことだろうけどさあ」
「自分の才能がどうかはわからないっすけど、赤坂さんが凄腕であったことは確かっすよ」
瓜子が苦笑まじりに答えたとき、さきほどの女性――おそらくは、赤坂の伴侶なのであろう――が、三名分のドリンクを届けてくれた。
「それじゃあ、ひさびさの集会と猪狩ちゃんの戴冠を祝って、かんぱーい!」
周囲の賑わいに負けないぐらい、この座敷席にも熱気が生まれていた。
友人たちとひさびさにくつろいだ時間を共有して、瓜子の胸にもじんわりと温かい気持ちが満ちていく。今では年に数回しか顔をあわせることのない佐伯とリンであったが、やはり瓜子にとってもっとも大事な友人と呼べるのはこの両名であるのだった。
(やっぱりユーリさんってのは、友人って感じじゃないんだよな。何せ一緒に暮らしちゃってるもんだから……もはや家族みたいなもんなんだろうか)
瓜子がそんな風に考えていると、ひと息にジョッキの半分ほどを飲み干した佐伯が顔を寄せてきた。
「ところでさ、猪狩ちゃんは試合もしてないのにランキングが四位まで降格されたっしょ? あれも品Mを飛び出した報復ってわけ?」
「いや、今年になって二回も試合のオファーを蹴っちゃったんすよ。《G・フォース》は偶数月の開催ですけど、自分は連続でアトミックの地方大会に抜擢されちゃったもんで」
「んー、なんか怪しいなあ。それって猪狩ちゃんが出場できない見込みでオファーを出してきたんじゃない?」
「あ、いや、地方大会とかぶったのは四月だけです。もう片方は……ちょっとアトミックのほうが正念場だったもんで、泣く泣くお断りしたんすよ」
「そっかあ。品Mだったら、それぐらいやりかねないって思ったんだけどなあ。でもまあ、そのおかげでアトミックのチャンピオンになれたんだし、結果オーライか」
「はい。《G・フォース》のほうは、じっくり頑張ります」
すると、しばらく無言でいたリンが「そうですよー」と声をあげた。
「ウリコだったら、キックでもゼッタイにチャンピオンになれますよー。このイチネンで、ウリコはスゴくツヨくなりましたもん!」
「あー、ホントだよねぇ。一昨日の試合なんか、もはや別人だったよ! なにあの、最後のラッシュとか! あんな超至近距離で、どうして相手の攻撃をよけれるわけ?」
「いや、半分がたはくらってましたよ。だから、こんな顔なんです」
「でも、ダウンをくらうほどのダメージじゃなかったわけでしょ? 相手のパンチとか、すっげえ鋭さだったじゃん。あんなスピードなのに、きっちり腰も入ってたしさあ」
「あははー。それはアイテもイッショですよねー。ウリコのパンチはすっごくイタいのに、あれだけくらってもサイゴのハイまでイッカイもタオれませんでしたー」
やはり全員がプロファイターであるために、どうしても話題は格闘技に寄ってしまう。しかしまた、そうであるからこそ、瓜子も彼女たちと友誼を深められたのだろう。
「うんうん。最後のハイは、すごかったよねー! 見てるこっちが失神しそうだったよ!」
「しかも、ヒダリのハイでしたよねー。ウリコのヒダリハイなんて、ハジめてミましたー。MMAをハジめてから、ヒダリのハイをレンシュウしたんですか?」
「そうっすね。出稽古で武魂会の方々とお近づきになれたんで、色々とチャレンジしてる真っ最中なんすよ」
「ああ、邑崎とかいう去年のアマ王者も入門してきたんだっけ? うちとしては、リンとの対戦を楽しみにしてたんだけどなあ」
「そうですねー。ムラサキさんがMMAに転向しちゃって、ワタシもザンネンでしたー」
そうして瓜子たちが盛り上がっているさなか、続々と料理も届けられてくる。つい一昨日も試合の打ち上げで魚料理を食していたが、それとも比較にならぬほどの美味しさであった。
「おー、この煮つけ、最高! いきなり開業できたってことは、もともと赤坂さんは調理師免許を持ってたってことだよね?」
「はい。若い頃は料理屋で働きながら、キックのジムに通ってたそうですよ」
「それでプロ選手になって、現役引退後はコーチになって、最終的には料理人に復帰かあ。うちもそういう人生を送りたいもんだわ」
そんな風に言ってから、佐伯はふいに小首を傾げた。
「ところでさ、猪狩ちゃんの水着姿、すっげえ可愛かったよね」
瓜子は、せっかくの料理をふきだしそうになってしまった。
「な、なんすか、いきなり? そんな忌まわしいもん、どこで目にしたんです?」
「どこって、ネットにごろごろ転がってんじゃん。あと、格マガの増刊号もばっちり購入させてもらったしねえ」
「ワタシもカいましたよー。ウリコ、すっごくカワイかったですー」
瓜子は卓に突っ伏して、そのまま床に埋まりたい気分であった。
「後生ですから、茶化すのは勘弁してください。お二人にまで茶化されたら、自分は逃げ場がありません」
「いやいや、茶化すつもりはないけどさ。あんな可愛い水着姿をさらしたら、ファンが激増っしょ? ストーカーとか、そういうのは大丈夫?」
「大丈夫っすよ。ユーリさんじゃあるまいし」
「あのアイドルちゃんは別格だけどさ。猪狩ちゃんも、マジで可愛かったもん。いや、猪狩ちゃんが可愛いなんて初対面の頃からわかりきってたけど、やっぱああやってメイクまでして珠のお肌をあらわにすると、魅力も倍増なんだよねえ。透き通った色気っていうか、男女かまわずひきつける吸引力っていうか……」
「……だから、勘弁してくださいって」
「いや、ほんとに冗談事じゃないのよ。……あれって、猪狩ちゃんのストーカーじゃない? さっきから、こっちをちらちら見てるんだよねえ」
座敷の障子は開けられたままであったので、佐伯の位置からは店内の様子がうかがえるのだ。
瓜子が首をねじってそちらを見やってみると――カウンター席の端に陣取った娘さんが、すかさず顔を伏せた。
瓜子は一気に脱力して、渾身の溜息をついてみせる。
「アレなら、大丈夫です。……すいません、ちょっと失礼しますね」
瓜子は框で自分のスニーカーに足をひっかけ、そちらの娘さんへと近づいた。
夏用のニット帽とサングラスで顔を隠した娘さんは、直角以上にうつむいてキンメダイの煮つけをついばんでいる。シャツの襟をぴんと立てているために、正面からでないと顔が見えないような装いとなっていた。
「……あのですね。こそこそ隠れて見守るぐらいなら、ご一緒しましょうよ」
瓜子がそのように声をかけると、その娘さんは丸っこい肩をびくんと震わせた。
「あー……ワタシ、ニホンゴ、フジユウデス」
「いや、ぺらぺらじゃないっすか。それで変装したつもりなんですか?」
「……うり坊ちゃんが見たことのない服を引っ張り出したはずなのに、どうして秒殺でバレてしまったにょ?」
ユーリはがっくりと肩を落としつつ、サングラスの上側の隙間から瓜子を見上げてきた。
瓜子は腰に手をあてながら、苦笑してみせる。
「そんな薄着じゃ、ユーリさんのプロポーションは隠蔽できないんすよ。夏場に自分の目を誤魔化すのは不可能っすね」
「あうう……ユーリちゃん、絶体絶命の巻なのじゃ……」
ユーリはニット帽に包まれた頭を抱え込む。
瓜子は身を屈めて、その悄然とした顔を横から覗き込んだ。
「で? 自分と友達が仲良くしてるところを見ると、嫉妬心を抑制できないんじゃなかったんでしたっけ? それなのに、どうしてわざわざ盗み見なんてしてるんです?」
「だって……ひとりでおうちにいると、寂しさで悶死しそうだったんだもん……妄想の中でイチャイチャされるぐらいなら、現場を見届けたほうがまだ我慢できそうだったし……」
「だったら、もっと間近から見届けてください。こんな場所じゃあ、会話の内容も聞こえないでしょう? 余計に妄想がふくらむばかりっすよ」
「いえいえ、それはなりませぬ! うり坊ちゃんの大事なひとときを台無しにすることなぞ――」
「台無しになんかならないっすよ。自分が保証します」
瓜子は手をのばして、ユーリの肌に触れないように気をつけながら、その顔のサングラスを強奪した。
両方のまぶたにガーゼを張られたユーリは、涙で潤んだ目で瓜子を見つめ返してくる。
「さ、行きましょう。絶対、仲良くなれますから」
ユーリは口もとをごにょごにょと動かしながら、やがて子供のようにこくりとうなずいた。
そうして瓜子は、ようやく旧知の友人たちに大事なユーリの存在を紹介することがかなったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます