08 執念
控え室には、早くも暗澹たる空気がたちこめていた。
立ち技でも組み技でも寝技でも、すべての面でベリーニャ選手に上を行かれてしまったのである。いったいどうすればこの危機的状況を打開できるのか、たとえ瓜子が来栖選手のセコンドであったとしても、かける言葉が見つけられなかった。
「やっぱ、打撃で活路を見出すしかないっしょ! 相手は、グラップラーなんだから!」
「でも、隙を見せたら組み技の餌食だぞ? サキぐらいスピードがあっても、最後は捕まえられちまったんだし……」
「いちいち人を引き合いに出すんじゃねーよ。……ま、猪突猛進でどうにかなる相手じゃねーわな」
控え室のメンバーは、そんな風に語らっていた。
そんな中、鞠山選手は口をつぐんでしまっている。その眠たげなカエルみたいな目は、モニターに映し出される来栖選手の姿をひたすら見つめていた。
そして、ユーリである。
ユーリもまた、ずっと無言でモニターを見つめていた。
ただ、ベリーニャ選手の勇姿にうっとりしている様子ではない。ユーリの表情はとても静かであり、いったいどのような思いであるのか、瓜子にすら見当がつかなかった。
そうして、最終ラウンドが開始される。
一ラウンド目は互角であり、二ラウンド目は圧倒的にベリーニャ選手の優勢であったのだから、来栖選手が勝つにはここで奮起するしかない。ただポイントを取るだけでは引き分け判定で王者の防衛となってしまうので、KOか一本を狙わなければならなかった。
果たして、来栖選手が選んだのは――二ラウンド目を凌駕するほどの、打撃技の猛攻であった。
「ほらほら、やっぱり! 勝つには、これしかないんだよ!」
灰原選手ははしゃいだ声をあげていたが、瓜子はむしろ不安をかきたてられてしまった。
さきほど多賀崎選手も言っていた通り、ベリーニャ選手はあのサキの猛烈なラッシュをもしのいで、勝ちをもぎ取ってみせたのだ。あれだけのディフェンス能力とスピードを持つベリーニャ選手を相手に、テイクダウンの隙も見せずに打撃で圧倒するというのは、あまりに難しい話であった。
そんな瓜子の懸念もよそに、来栖選手は猛然と打撃技を振るっている。
さすがのベリーニャ選手も逃げに徹していたが、それは反撃の隙をうかがっているのだろう。決してロープ際まで追い詰められることもなく、マットに円を描くようにして、すべての攻撃を巧みに回避していた。
一分ほどが経過すると、来栖選手の動きが鈍り始める。
とたんに、ベリーニャ選手が左ジャブを振るい始めた。
来栖選手も手を出しているが、それらはすべて空を切ってしまう。その隙間をぬうようにして、またベリーニャ選手の攻撃だけが的確にヒットし始めた。
来栖選手はやおら身を沈めて、ベリーニャ選手の足もとに組みつこうとする。
伝家の宝刀、片足タックルである。
しかし、来栖選手の片足タックルが必殺と称されるのは、スタンドの攻防で有利な環境を作り、絶妙なタイミングで繰り出していたゆえであろう。このような状況下で、生粋のグラップラーを相手に片足タックルを仕掛けても、そうそう決まるわけがない。
果たして、来栖選手の片足タックルは、ごくあっさりと潰されてしまった。
そして、マットに突っ伏した来栖選手の背中に、ベリーニャ選手がのしかかる。グラップラーを相手に無謀なタックルを仕掛ければ、それが当然の結果だ。
来栖選手はすぐさま身をねじり、自らマットに背中をつけた。チョークスリーパーを得意にするベリーニャ選手にバックを取られるのは、あまりに危険と判じたのだろう。
だが、それでもサイドポジションであり、ベリーニャ選手の有利であることに変わりはない。
ベリーニャ選手は相手の上半身を制圧しながら、ニーオンザベリーのポジションを取った。
そのままマウントポジションまで移行するのか、あるいはこのままサブミッションを狙いに来るか――ベリーニャ選手であれば、途方もない数の選択肢を有していることだろう。
来栖選手は、凄まじい勢いで腰を切っていた。
だがやはり、ベリーニャ選手を振るい落とすことはできない。これでは二ラウンド目の再現であり、しかもさきほどより不利なポジションだ。軽率な片足タックルが、さらなる苦境を呼び寄せてしまったようだった。
と――来栖選手の右拳が、下からベリーニャ選手の顔を打った。
グラウンドで下になった選手がパウンドを振るおうとも、おおよそは苦しまぎれにしかならない。ベリーニャ選手は慌てた様子もなく、それ以上のパウンドを当てられないように体勢を低くした。
すると今度は横合いから、平手の掌打が飛ばされる。
これも、苦しまぎれの攻撃だ。嫌がらせていどの効果しかない。
なおかつ、下の人間が打撃技を振るい続けるというのは、ハイリスクな行為である。腕を攻撃に使えば防御がおろそかになり、パウンドやサブミッションの餌食となってしまうのだ。
ベリーニャ選手が、そのようなチャンスを見逃すはずがない。右手の掌打から顔を背けるようにして、ベリーニャ選手は来栖選手の左腕にからみついた。
すると来栖選手は、ベリーニャ選手の脇腹にどすどすと膝をぶつけ始める。これも軌道が短いために、嫌がらせにしかならないだろう。
ベリーニャ選手はその膝蹴りが引かれるタイミングを見計らって、来栖選手の腹にまたがった。
ついに、マウントポジションである。
その両腕は、まだ左腕にかけられている。
今すぐ腕をクラッチすれば、サブミッションからは逃げられるはずであるが――なんと来栖選手は、空いている右腕で再びベリーニャ選手の顔を殴りつけた。
マウントを取られた状態であるのだから、そんな攻撃に大した破壊力が生まれるわけもない。
ベリーニャ選手は悠然と、腕ひしぎ十字固めに移行した。
その瞬間、来栖選手が猛然と身を起こす。
顔にかけられた足を払い、横合いに倒れ込んだベリーニャ選手の上にのしかかろうとした。
ベリーニャ選手は素晴らしい反応速度で、三角締めに移行する。
だが、来栖選手は取られた左腕の肘を突っ張って、その圧迫にあらがった。
そうして相手に体重をあびせかけながら、なんとか上のポジションを奪取しようとする。
ベリーニャ選手は足をほどいて、再び腕ひしぎに移行しようとした。
来栖選手も機敏な動きで、ベリーニャ選手の頭の側に回り込もうとする。左腕はすでに肘が抜けており、腕ひしぎの脅威からはほとんど脱していた。
これではならじと思ったか、ベリーニャ選手は左手を来栖選手の足に掛けようとした。
それを振り払い、来栖選手が相手の胸もとを踏むようにして蹴りつける。強引で、力まかせの攻撃であった。
その足が再び持ち上げられると、ベリーニャ選手はすべての拘束を解放して、ぐるんと横合いに回転した。それも強引な逃げ方であったが、このポジションにいるのはまずいと判じたのだろう。
来栖選手はすぐさま追いすがり、起き上がろうとするベリーニャ選手のもとに右足を振り上げる。
十字に組んだ腕でその蹴りを受けながら、ベリーニャ選手は立ち上がることになった。
気づけば、歓声が物凄いことになっている。
攻められていたのは来栖選手のほうであったのに、いつしか攻守が逆転していたのだ。
「すごいすごい! ……けど、なんか、来栖さんっぽくなかったね」
灰原選手の言う通り、瓜子も大きな違和感にとらわれていた。
無謀な片足タックルを仕掛けたり、グラウンドで下から拳を振るったり、サブミッションの脅威を強引な力技で脱したり――何もかもが、来栖選手らしからぬ行いであったのだ。
「……まともにやりあっても勝ち目はねーって踏んだんだろ。けっこうな話じゃねーか」
サキが、無理に感情を殺しているような声で言いたてた。
「あのブラジル女が、自分からグラウンドでのやりあいを放棄したんだぜ? 来栖の無茶苦茶な動きが、ついに相手のリズムを乱したってこった」
来栖選手は、再びスタンドで猛攻を振るっていた。
右のフックや左のミドルも、ぶんぶんと振るっている。組み技への警戒などかなぐり捨てたかのような猛攻だ。
残り時間は、すでに二分を切っている。
ベリーニャ選手は左ジャブを返すこともできずに、ただ逃げ惑っていた。
だが、さきほどまでのように、すべての攻撃を回避できてはいない。来栖選手の拳や足先は、頭部や腹部をガードするベリーニャ選手の腕に深くヒットしていた。
「確かに、リズムが崩れたな。相手の攻撃が読めなくなってきたんだ」
立松は、昂揚を隠しきれていない様子でつぶやいた。
「見ろよ、来栖選手も間合いやタイミングが無茶苦茶だ。こいつは、まるで……桃園さんみたいじゃねえか?」
確かに来栖選手の無軌道な猛攻は、ユーリのコンビネーションの乱発を思わせた。
まるで、自分の学んできたものをすべて絞り尽くしているような――そういう迫力もまた、どこかユーリに似通っているのである。
ベリーニャ選手ぐらいタックルを得意にしていれば、いくらでも隙を突けそうなところであるのに、その手が出ない。来栖選手の迫力に押されているのか、よりベストのタイミングを計っているのか、瓜子には判然としなかった。
(でも、このまま来栖選手が勢いで押し切っても、判定になったらたぶん引き分けだ。もう一手、何かないと……)
来栖選手は脅威的なスタミナで、変わらぬ猛攻を繰り出し続けている。
残り時間が、ついに一分となったとき――来栖選手の身体、ふっと沈み込んだ。
片足タックルである。
今度こそ、絶妙なタイミングであるように思われた。
少なくとも、瓜子だったら完全にテイクダウンを取られていただろう。
しかし相手は、ベリーニャ選手だ。
ベリーニャ選手は、まるでその片足タックルこそを待ちかまえていたかのように、右膝を振り上げた。
来栖選手の顔面に、ベリーニャ選手の膝がめり込む。
モニターからでも、激しく血が飛び散るのが見えた。
だが、来栖選手の突進は止まらない。
膝蹴りで顔面を砕かれながら、来栖選手は相手をマットに組み伏せた。
なおかつ、倒すと同時に横合いへと回り込んで、サイドポジションを確保している。
右目の下と鼻から鮮血をしたたらせつつ、来栖選手は相手の首を抱え込む。
「あ……」と、ユーリがこらえかねたように嘆息をこぼした。
いつのまにか、ベリーニャ選手の右膝が来栖選手の腰の下に潜り込んでいる。
そうして直角に曲げたその右足を、ベリーニャ選手が自分で蹴りつけた。
ベリーニャ選手の右足ごと、来栖選手の腰がわずかに浮き上がる。
そこで生じたわずかな空間に、ベリーニャ選手は左足を潜り込ませた。
魔法のように、一瞬でガードポジションに戻されてしまっている。
そうしてさらに両方の足先を股座に引っ掛けてフックガードのポジションを取ったベリーニャ選手は、身体をよじって体勢を入れ替えてしまった。
ベリーニャ選手の、マウントポジションだ。
ベリーニャ選手は容赦なく、来栖選手の血まみれの顔を殴りつけた。
すると来栖選手も、下からベリーニャ選手の顔を殴りつけた。
これこそ、腕を取ってくれと言っているような蛮行である。
だが、ベリーニャ選手はさきほどもそこで腕を取ろうとした結果、来栖選手に逆転を許してしまっている。
その反省を活かしてか、ベリーニャ選手はわずかに身を引きつつ、パウンドを落とすことに専念した。
来栖選手はそれ以上の勢いで、拳を返していく。
そして、その右腕がひときわ大きくのばされたとき――顔をよじって拳を回避したベリーニャ選手が、そのまま身を沈めて来栖選手の上に覆いかぶさった。
右拳を外にかわしてのことであるので、ベリーニャ選手の頭は来栖選手の右肩の外に出ている。
そうしてベリーニャ選手は来栖選手の右腕ごと、首を抱え込んだ。
肩固めを狙っているのだ。
両腕をクラッチさせたベリーニャ選手は、来栖選手の右側に下半身を逃がした。
その腕がぐいぐいと来栖選手の咽喉もとを圧迫し、それに絞り出されるようにして鼻血が噴出される。
レフェリーはいつでも止められるように手をかざしていたが、来栖選手は猛然と身をよじっていた。かなり深く入ってはいるが、まだ完全には極まっていないのだ。
しかし、来栖選手がどれだけ身をよじっても、ベリーニャ選手の拘束は揺るがない。
控え室の壁が振動するぐらい、客席には歓声が吹き荒れていたが――無情にも、そこで試合終了のゴングが鳴らされた。最終ラウンドも、タイムアップとなってしまったのだ。
技を解除したベリーニャ選手は、そのまま逆の側にひっくり返って、大きく息をついた。
出血のおびただしい来栖選手のもとに、レフェリーが屈み込む。
その瞬間――来栖選手の右腕が、レフェリーの首をからめ取った。
そうして大きくブリッジをすると、レフェリーがマットに倒れ込んでしまう。野獣のように身を起こした来栖選手はぼたぼたと鮮血をこぼしながらレフェリーの腰にまたがって、右の拳を振り上げた。
慌てて起き上がったベリーニャ選手が、来栖選手を背後から抱きすくめる。
その手が来栖選手の肩をタップすると、来栖選手は電池が切れたように倒れ込んだ。
リングドクターやサブレフェリーやセコンド陣が、怒涛の勢いでリング上になだれこんでくる。マットの上に身を起こしたレフェリーは、愕然とした面持ちで来栖選手の返り血をぬぐっていた。
「……なに、今の? どうして来栖さんは、レフェリーなんかに襲いかかったわけ?」
灰原選手が呆けた声でつぶやくと、鞠山選手が「ふん」と鼻を鳴らした。
「意識が混濁して、レフェリーをベリーニャと誤認したんだわね。《アクセル・ファイト》なんかでは、たまーに見かける光景だわよ」
「えー? そういうのって、普通は打撃をくらってフラフラしてるときじゃない?」
「だからきっと、膝蹴りをくらった後は無意識でやりあってたんだわよ」
それだけ言って、鞠山選手はふいっときびすを返した。
「外の空気を吸ってくるだわよ。ついてきたら、絞め殺すだわよ」
人々の視線をずんぐりとした背中で跳ね返しながら、鞠山選手は控え室を出ていった。
モニターの中のリング上は、まだ騒然としている。来栖選手は倒れ伏したままリングドクターやセコンド陣に囲まれており、ベリーニャ選手は――ひとり、ニュートラルコーナーに膝を折って、その騒ぎを静観していた。
ただし、背筋をのばして座したベリーニャ選手も、まだその肩を大きく上下させている。
ベリーニャ選手がここまで疲弊しきった姿を見せたのは、ユーリとの対戦を含めて、これで二度目のことであった。
「……来栖選手も、すごくかっちょよかったね」
ユーリが、とても静かな声でつぶやいた。
その瞳が涙に濡れたりはしていない。ユーリはひどく穏やかな表情で、モニター上の来栖選手とベリーニャ選手を見つめていた。
「……ユーリさん、今はどういう心境なんすか?」
余人の耳をはばかって、瓜子は小声でそんな風に問うてみた。
ユーリはにこりと微笑んでから、傷だらけの顔を瓜子に寄せてくる。
「今は、来栖選手が羨ましくて羨ましくてたまらないよ。ユーリも早く、ベル様と試合をしたいなあ」
もしかしたら、ユーリも来栖選手に自分の姿を重ねていたのだろうか。
それは瓜子にもわからなかったが――ただ、ユーリがどれだけ真っ直ぐな気持ちでベリーニャ選手の存在を追い求めているのか、あらためて思い知らされた心地であった。
しばらくして、レフェリーがベリーニャ選手に声をかける。
来栖選手は回復の目途が立たないので、勝利者コールを始めようというのだろう。
ベリーニャ選手は一礼して立ち上がり、レフェリーとともにリングの中央に立ち並んだ。
『判定の結果をおしらせいたします! サブレフェリー宮持、30対28、ベリーニャ。ジャッジ横山、30対28、ベリーニャ。ジャッジ前田、30対28、ベリーニャ。以上の結果をもちまして、3対0でベリーニャ選手の勝利となります!』
『ウィナー!』と、レフェリーがベリーニャ選手の右腕を掲げる。
客席には、歓声が吹き荒れていた。
しかし、ただベリーニャ選手の勝利を祝福しているわけではないのだろう。その歓声と拍手の何割かは、いまだマットに倒れ伏している来栖選手に向けられたものであるはずであった。
来栖選手は、すべてを振り絞って戦い抜いた。これまでに積み上げてきたものをすべてさらけだし、それでも足りずに来栖選手らしからぬ荒々しさをも絞り出して――その末に、負けたのだ。
スポーツの試合で賞賛されるべきは、あくまで勝者であろう。
しかし来栖選手は、自分の半生を《アトミック・ガールズ》に捧げてきた。来栖選手がいたからこそ、《アトミック・ガールズ》は十余年もの歴史を築くことがかなったのだ。
観客席の人々は、そのかけがえのない行いに歓声と拍手を送っているのだろうと思われた。
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