07 狼と黒豹

 ユーリが控え室に舞い戻ってくると、瓜子のときと同じぐらいの拍手と歓声が巻き起こることになった。

 灰原選手や鞠山選手は、遠慮なくユーリの身を引っぱたいたり小突いたりしている。ユーリは汗だくの肢体に入場用のガウンを纏っていたため、なんとか鳥肌を人目にさらさずにすんだようだった。


「そのぐらいにしとけよ、タコスケども。この牛はぶざまに四回もダウンをくらってるんだからよ」


 サキの仲裁で、ユーリはようやく鳥肌地獄から解放された。

 そして、へろへろの笑顔で控え室の人々に一礼する。


「お祝いのお言葉と殴打、まことにありがとうございましたぁ。ユーリなんかがチャンピオンになれたのは、みなさまのご指導ご鞭撻の賜物でございますぅ」


「いいから座りなよ、桃園さん。それに、しっかり頭を冷やしておきな。あれだけバカスカ殴られたんだから、明日はいちおう病院に行っておけよ」


 と、常識人としての使命を全うしてから、立松もユーリに笑いかけた。


「何はともあれ、お疲れさん。俺も何だか、肩の荷が下りた気分だよ」


「ええー? ユーリのファイター人生は、まだまだ道半ばであるのですけれど……」


「わかってるって。とにかく今はくつろいで、その一戦を見届けな」


 モニターには、すでに入場を果たしたベリーニャ選手と来栖選手が映し出されているのだ。

 しかし、崩れ落ちるようにしてパイプ椅子に座ったユーリは、モニターではなくまず隣の瓜子に目を向けてきた。

 とろんと眠たげな目の中心に、いくぶん色素の薄い瞳がきらきらと輝いている。まるで、ご褒美を待っている大型犬のごとき眼差しだ。

 瓜子は心からの笑顔を返しつつ、剥き出しの右拳をユーリのほうに突き出してみせた。


「おめでとうございます。最初の二ラウンドはひやひやしっぱなしでしたけど、最後はお見事だったですね」


「てへへ」と笑いながら、ユーリはまだバンデージをほどいていない右拳を、瓜子の拳にぎゅっと押し当ててきた。


 ジョンはユーリのベルトを肩に担いでにこにこと笑っており、愛音は感涙にむせんでいる。立松もサイトーも笑顔であり、サキだけは長い前髪で目もとの表情を隠していた。

 最近は、試合の後にみんなで食事に行くのが定例だ。馬鹿騒ぎをするのは、そのときのお楽しみとして――今は、来栖選手とベリーニャ選手のタイトルマッチを見届けなければならなかった。


「そういえばさ、あんたとベリーニャはおたがいに王座を死守できたら十一月に対戦って内定がされてるんでしょ? もしも来栖さんが勝ったら、あんたと来栖さんのリベンジマッチが組まれるわけ?」


 と、今度は横合いから瓜子の膝の上にのしかかってきた灰原選手が、ユーリへとそんな質問を投げつけた。

 瓜子に密着した灰原選手を羨ましそうに見返しつつ、ユーリは「はて?」とピンク色の頭を傾げる。


「それはユーリにもわからんちんなのです。最近は、パラス=アテナのお人らと語らう機会もありませんでしたのでぇ」


「ふーん、そっか。運営陣は、どうせベリーニャが勝つとか思ってんのかな。……いたたたた! 痛いって、馬鹿!」


「馬鹿はあんただわよ、低能ウサギ。舞ちゃんは、そう簡単に負けたりしないんだわよ」


「あたしだって、簡単に負けるとは思ってないよ。でも、今の来栖さんがベリーニャに勝てるかっていうと……いたたたた! おしりの肉がちぎれるって!」


 この中でベリーニャ選手の勝利を願っているのは、おそらくユーリひとりであろう。おおよその人間は、《アトミック・ガールズ》の象徴たる来栖選手の勝利を願っているはずであった。


 しかし、来栖選手はユーリに負けており、ベリーニャ選手はユーリに勝っている。なおかつ、複数の故障を抱えている来栖選手がベリーニャ選手に勝てるのか、と考えると――可能性は、薄いことだろう。


(でも、来栖選手は引退を懸けてるんだ。周りの人間は、その覚悟を見届けるしかないよ)


 おたがいの国家が流されて、チャンピオンベルトがコミッショナー氏に返還される。

 そうしてついに、本日最後の試合が開始されたのだった。


『本日のメインイベント、無差別級タイトルマッチ、五分三ラウンドを開始いたします! ……青コーナー。百七十センチ。六十四・八キログラム。天覇館東京本部所属……来栖、舞!』


 来栖選手は、以前よりもわずかばかりウェイトが落ちたようだった。

 しかしその分、いっそう研ぎ澄まされたような感じがする。武骨で精悍なその顔も、もともと無駄肉など一片もなさそうだったその肉体も、岩を削った彫像のように雄々しく、力感にあふれかえっていた。


『赤コーナー。百六十八センチ。六十キログラム。ジルベルト柔術アカデミー所属。《アトミック・ガールズ》初代無差別級王者……ベリーニャ・ジルベルト!』


 ベリーニャ選手のほうは、いつでも変わらぬたたずまいであった。

 黒いラッシュガードとハーフスパッツに包まれた身体はしなやかで、瑞々しい生命力をみなぎらせている。きっちりと編み込まれた黒髪に、なめらかな褐色の肌、黒い瞳の静かな眼差し――何もかもがいつも通りで、凪の海みたいに静謐である。


 リングの中央で向かい合うと、外見的には対照の妙が際立っていた。

 無差別級であるために、どちらも計量後に体重をリカバリーしたりはしていない。身長で二センチ、体重で五キロ弱、来栖選手のほうが上回っているという数字通りの差異であろう。しかしまた、来栖選手はごつごつとした筋肉質の体格であるためか、数字以上に逞しく見えた。


 ただし、纏っている空気はどこか似ている。

 二人はともに、武道家めいたたたずまいと、野生動物めいた底知れない雰囲気を有しているのだ。

 来栖選手は狼で、ベリーニャ選手は若鹿を連想させる。普通であれば、鹿が狼にあらがうすべはないように思えるのだが――ベリーニャ選手はその下に、黒豹としての正体を隠している。あまりに詩的な物言いかもしれないが、瓜子は老いた狼の王と若き黒豹の対峙を見守っているような心地であった。


「……悔いのないように、死力を振り絞るだわよ」


 誰にともなく、鞠山選手が低い声でつぶやいていた。

 そんな中、試合開始のゴングが鳴らされる。


 両者は同じ空気を纏ったまま、リングの中央に進み出た。

 来栖選手は左ジャブで距離を測り、ベリーニャ選手は軽やかにステップを踏む。どちらも普段通りの立ち上がりであるように思えた。


 来栖選手は、近代MMAのセオリーに則ったスタイルである。

 ただ異なるのは、MMA流ではなくキック流のローを使う点であろうか。

 斜めに打ち下ろす重いローだが、足の引きが速いためにテイクダウンを取られる隙も生まれない。その重い右ローと左ジャブで距離を測りながら試合のリズムをつかみ、じわじわと相手を追い詰めていくのが来栖選手のスタイルであった。


 いっぽうベリーニャ選手は軽快なステップワークとパンチの攻撃で相手を幻惑し、ここぞというところでテイクダウンを狙う。打撃技でダメージを与えようという意識は薄く、とにかくすべてはサブミッションを極めるという最終目的のために、一手ずつ駒を進めるタイプであるように思えた。


 そんな両者であるために、立ち上がりは静かなものであった。

 ベリーニャ選手が有効な攻撃をくらうことはないし、来栖選手がテイクダウンに繋がるような隙を見せることもない。ある種、淡々と時間が過ぎ去ることになった。


 大きく試合が動いたのは、二ラウンド目となる。

 一ラウンド目をまるまる使って距離感を構築した来栖選手が、前に出始めたのだ。

 左ジャブに右のフックやアッパーもまじえて、ぐいぐい前に出る。ベリーニャ選手に組みつかれることを恐れている気配は微塵もない。力強く、自信にあふれた猛進であった。


 ベリーニャ選手はひたすらステップを使って、その猛進をいなしている。

 来栖選手はクリンチアッパーも得意にしているので、むやみに組みつくのは危険であると見なしているのだろうか。それでタックルに入る隙もうかがえず、防戦一方になっているようだった。


 来栖選手の攻勢に、客席は沸きたっている。

 来栖選手とて、いまだ有効な攻撃は当てられていないのだが、判定となれば攻めているほうが有利に傾くのだ。

 それに、来栖選手の攻撃には、一発一発に凄まじい気迫が感じられた。

 何としてでも、勝利する――そんな来栖選手の情念が、見る人間の胸にも迫っているのかもしれなかった。


「いけいけー! そのまま押し潰しちゃえ!」


 瓜子の膝の上で、灰原選手も歓声を振り絞っていた。

 他の人々は、固唾を飲んでモニターを見守っている。瓜子も、そのひとりであった。


 ベリーニャ選手は、それこそ若鹿のような軽妙さで来栖選手の猛攻から逃げ惑っている。

 その左拳が、横合いから来栖選手の顔をぱしんと打った。

 アウトサイドに踏み込んでの、左ジャブだ。


 来栖選手は痛痒を覚えた様子もなく、同じ勢いでベリーニャ選手を追い詰めていく。

 その鼻っ柱に、再び左ジャブがヒットした。

 来栖選手の攻撃はすべてかわされるかガードされるかであるのに、ベリーニャ選手の左ジャブは二連続でヒットした。その事実が、瓜子の胸をひそかに騒がせた。


 相手のタックルを牽制するために、来栖選手はアッパーを多めに織り込んでいる。

 その右拳が大きく空を切ったとき、またベリーニャ選手の攻撃がヒットした。

 今度は、右のストレートである。

 来栖選手のアッパーを回避してから大きく踏み込み、自分の右ストレートをクリーンヒットさせたのだ。

 来栖選手は左のショートフックを返したが、その頃にはベリーニャ選手も手の届かない位置まで逃げていた。


 じわじわと、戦局が変わりつつある。

 前に出ているのは来栖選手であるのに、ベリーニャ選手の攻撃ばかりが命中した。

 なおかつ、来栖選手の攻撃は空を切るほうが多くなっていった。その拳は相手に触れることもできず、おおよそかわされてしまうのだ。それはまさしく、闘牛とマタドールさながらの様相であった。


「なんだよ! どうして来栖さんが、立ち技で不利になっちゃうわけ!?」


 灰原選手がわめきたてると、サキが「うっせーなあ」と言い捨てた。


「ブラジル女は、タックルの達人なんだぞ? ってことは、距離感やタイミングの測り方も達人ってことだろうがよ。そんでタックルに入る隙がねーから、打撃技にシフトしたってこったろーよ」


「でも、こいつは生粋のグラップラーでしょ? そんなやつが、来栖さんを立ち技で圧倒できるなんて――!」


「よく見ろよ。ブラジル女は安全圏から、軽く当ててるだけだ。ジャブはもちろん、ストレートもな。もともとKOパワーなんざ持ってねーだろうし、欲をかいたらカウンターをくらうってわきまえてんだろ」


「ふん。きっと舞ちゃんは、ノーダメージだわね。右ストレートのクリーンヒットをもらっても、痛がるそぶりもなかっただわよ」


 鞠山選手が、低い声で言葉をはさんだ。


「でも……当ててる数は、逆転されただわよ。このままラウンドが終わったら、ポイントは向こうのもんだわね」


「それが、相手の狙いだろ。つけ入る隙がねーから、そいつをこじ開けようって算段だ」


 来栖選手が、相手につかみかかろうとした。

 その顔に、また左ジャブを当てられる。

 しかし来栖選手は止まらずに、そのまま相手の肩をつかんだ。


 強引な、組み技だ。

 来栖選手も組み技は得意にしているが、相手は生粋のグラップラーである。本来であれば打撃の交換で有利な環境を整えてから、組み合いに移行するべきであろう。その道を閉ざされて、不利な環境から組み合いを挑むことになってしまったのだった。


 来栖選手は首相撲に持ち込んで、なんとかクリンチアッパーを放とうとする。

 しかしベリーニャ選手は相手にべったりと密着して、その空間を与えなかった。


 両脇を差された来栖選手は、何とか四ツの体勢に戻そうとする。

 それより早く、ベリーニャ選手は内側から足を掛けて、相手をあびせ倒した。

 力など、まったく使ったようには思えない。ぞっとするほど、あっけないテイクダウンであった。


 来栖選手が下で、相手の右足を両足ではさんだハーフガードである。

 ベリーニャ選手は無理に足を抜こうとはせず、まずは重心を安定させた。

 そして、フック気味のパウンドを振るう。

 これも、重い攻撃ではない。相手の気を散らそうという、牽制の攻撃だ。


 しかしどれだけ軽い攻撃でも、黙って顔面にくらっていてはダメージが溜まってしまう。来栖選手が頭部をガードすると、ベリーニャ選手は同じようにパウンドを振るい続けながら、逆の手で相手の足を押さえて、自分の足を抜きにかかった。


 来栖選手は懸命に足を戻しながら、腰を切る。

 しかし、ベリーニャ選手はぴったりとそれに追いすがり、機械的にパウンドを打ち続ける。


 この揺るぎなさこそが、ベリーニャ選手の真骨頂であった。

 決して無理な攻撃を仕掛けようとはしないまま、気づけば自分に有利な状況を作りあげてしまっている。そしてそこからさらに一手ずつ手を進めて、着々と相手を追い詰めていくのである。


 そんなベリーニャ選手から一本を取られなかったのは、《アトミック・ガールズ》のリングにおいて、ユーリのみである。

 沙羅選手も、サキも、兵藤選手も、大村選手も、全員が一ラウンド目で一本を取られていたのに、ユーリだけがフルラウンドを戦った上で判定負けとなったのだ。


 ユーリと他の選手にどういう違いがあったかと考えるならば――それはユーリが、グラウンドへの移行をまったく嫌がっていなかった点であろうか。

 どうせ自分がベリーニャ選手のタックルをかわすことはできないと判じ、まるきりノーガードで攻めたてていたのである。

 そうしてテイクダウンを取られたならば、嬉々としてグラウンドの攻防に挑む。

 そして最後には腕一本を犠牲にしながらベリーニャ選手の支配を打ち破り、逆襲の膝蹴りで相手の肋骨をへし折ってみせたのだった。


 だが、ベリーニャ選手に勝つには、それでも足りないのだ。

 ベリーニャ選手の支配を打ち破った上で、さらに有効な攻撃を仕掛けなければならない。そのようなことが、来栖選手に可能であるのか――現状では、まったく想像がつかなかった。


 けっきょく二ラウンド目は、そのまま終了を迎えてしまう。

 来栖選手がマットに身を起こすと、その鼻から血がしたたっていた。ガードしきれなかったパウンドが、それだけの戦果を残していったのだ。


 魅々香選手やコーチ陣に迎えられて、来栖選手は青コーナー側の椅子に身を落とす。

 その顔は、試合前と変わらぬ静謐さを保っており――ただその瞳だけが、手負いの獣じみた物凄まじい光を宿していた。

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