06 最凶の座
「一進一退……ってのは言い過ぎだが、一歩や二歩は進むことができたな」
詰めていた息を吐きながら、立松はそのように言いたてた。
「もともとあちらさんは、頭脳派と真逆のタイプだからな。それが今回に限って、戦略を練りに練り倒して……その姿勢は立派なもんだが、メンタル面のスタミナロスやストレスってのは、なかなかのもんであるはずだ」
「ふふん。ハンサム・ブロイも、いつになく熱くなってるみたいだわね」
鞠山選手の言う通り、モニターに映し出された赤コーナー陣営ではチーフセコンドのマテュー・ドゥ・ブロイ氏が物凄い剣幕でジジ選手を叱咤激励していた。
それを見返すジジ選手は、マテュー氏よりもさらにおっかない顔をしながら、肩を激しく上下させている。
その後、青コーナー陣営に切り替えられると――ユーリもまた、チーフセコンドのサキに詰め寄られてしまっている。ジョンは出血を止めるために背後からユーリの両まぶたをガーゼごしに圧迫しており、愛音はその長い腕をかいくぐるようにしてユーリの首筋に氷嚢をあてがっている。こんな緊迫した場面でもどこかユーモラスに見えてしまうのは、やはりサキを除く三名のキャラクター性に由来するのだろう。
だが、ユーリたちのそんな姿が、瓜子を大いに力づけてくれた。ふたつのラウンドで四度ものダウンを取られており、これ以上もなく追い詰められてしまっているというのに、ユーリたちの姿からは悲壮感の欠片も感じられなかったのだった。
(……って、こっちが力づけられてどうするんだよ)
瓜子がそんな風に考えたところで、『セコンドアウト』のアナウンスが流された。
ついに、最終ラウンドである。
泣いても笑っても、残りは五分間ジャストだ。
椅子から立ち上がったユーリが「よーし!」とばかりに両腕を振り上げると、客席にはいっそうの歓声が渦巻いたようだった。
『ラウンド、スリー! 最終ラウンド!』
ゴングが、高らかに打ち直される。
ジジ選手は、またもやサウスポーの構えであった。
そして、それと相対するユーリもまた――右の手足を前に出した、サウスポーの構えであった。
「え? え? あいつもスイッチなんて練習してたの?」
灰原選手が仰天した様子で声をあげると、多賀崎選手が切迫した声で「いや」と応じた。
「少なくとも、あたしはいっぺんも見かけたことすらないな。どうなんだよ、猪狩?」
「は、はい。ユーリさんはサウスポーの練習なんて、これっぽっちも積んでないはずっすよ」
「この土壇場で、奇策かよ。まさか、ヤケクソになっちまったんじゃないだろうな」
多賀崎選手は心から心配そうにしていたし、瓜子にもさっぱりわけがわからなかった。
しかし事ここに至っては、ユーリとセコンド陣を信じるしかない。
ユーリはいかにもぎこちない足取りで、ぴょこぴょこと中央に進み出た。
ジジ選手は見るからに憤然とした形相で、真正面から間合いに踏み込む。
その瞬間、ユーリが肉感的な左足を振り上げた。
絵に描いたように美しい、左ミドルである。
コンビネーションの中で足を入れ替えて左ミドルを打つというのは、ユーリにとっても骨身に叩き込まれた攻撃であった。
それが今回は最初からスイッチしているため、ノーモーションで左ミドルを繰り出した、ということだ。
相手はすでに、右のショートフックを繰り出している。
もはやキックではなく、パンチの間合いだ。
ジジ選手の右拳は頭部をガードしたユーリの左腕に突き刺さり、ユーリの左ミドルは膝のあたりが脇腹に激突していた。
これだけ間合いが詰まってしまえば、蹴りの威力も半減であろう。
しかしユーリは、規格外の怪力の持ち主である。
結果、相手は足もとをぐらつかせていた。
そしてユーリは相手が体勢を整える前に、その胴体に組みつくことがかなった。
双手差しの、有利な組手である。
ユーリはそのまま、どたばたと前進した。
ジジ選手は何とか倒れまいと、後退していく。
その背中がロープについた瞬間、まるでその反動を利用したかのように、ユーリが身体をのけぞらせた。
マリア選手ばりの、スープレックスだ。
これは、この日のために修練を積んでいた技のひとつであった。
頭から落として反則になってしまわないように、ユーリは途中で身をねじり、相手を肩からマットに叩きつける。
ユーリが上で、サイドポジションだ。
するとジジ選手は、ユーリにも負けない躍動感で腰を切り始めた。
ユーリも懸命に追いかけるが、なかなか重心を安定させられない。そうして最後にはユーリの重量を突き放し、ジジ選手は動物のような敏捷さで立ち上がってしまった。
控え室のあちこちで、嘆息がこぼされる。
きっと会場でも、同じ現象が起きていることだろう。ようやくユーリが序盤から攻勢に立てるかと思えたのに、ものの数秒で逃げられてしまったのだ。
(だけど……)
ジジ選手は、早くも肩を上下させていた。
口も開いており、紫色のマウスピースが見えている。
いきなりのスープレックスとグラウンドの攻防で、大きくスタミナを削られたのだ。
いっぽうユーリは元気いっぱいに立ち上がると、オーソドックスのスタイルに戻して無軌道なコンビネーションを発動させ始めた。
「うわー! こいつ、なんでこんなに元気なんだよ!」
瓜子の背後で、灰原選手がはしゃいだ声をあげている。
それぐらい、ユーリは意気揚々としていた。
ジジ選手もまたオーソドックスのスタイルに戻して、ユーリの攻撃を回避している。
いったいいつからサウスポーの練習をしていたのかは不明であるが、もちろん普段のスタイルのほうが身体に馴染んでいるのだろう。現在のスタミナでサウスポーを貫くのは危険であると見なしたに違いなかった。
ユーリは多彩なコンビネーションを振るいながら、三回に一回は足へのタックルを混ぜていた。
フェイントではなく、本当に足を取ろうという動きである。それに失敗したならば、すぐさまマットに背中をつけて、迎撃の姿勢を取る。魅々香選手との一戦でも、頻繁に見せていた姿だ。
しかしこのたびは、ユーリにブーイングをあげる観客もいなかった。
さきほどから、ジジ選手は逃げるいっぽうになっているのだ。ユーリは果敢に打撃技を振るっており、タックルだってアクティブに攻めている結果であるのだから、誰にも文句はつけられないはずであった。
そしてジジ選手は、ユーリがいくらタックルに失敗しようとも、上からのしかかろうとはしなかった。
グラウンドで上を取るよりも、スタンド状態でいるほうが楽なのだろう。なおかつ二ラウンド目の終わりにはスイープをされてマウントポジションまで取られているのだから、その記憶もまだ脳裏にこびりついているはずであった。
「今度はこっちが、奇襲技でペースを取ったわけだな。まったく、危ない真似をしやがるぜ」
身を乗り出した立松が、笑いを含みつつも真剣な口調でそう言った。
「だけど、スタンド状態は相手のフィールドだ。今はスタミナ温存で逃げまくってるけど、いずれ逆襲してくるだろう。そうしたら――」
「そうしたら、ようやく仕切りなおしっすね。ユーリさんだって、ジジ選手のインファイトに対抗できるように、死ぬほど稽古してきたんですから」
「ああ、そういうことだ」
ユーリは大技のハイやミドルもまじえて、ぶんぶんとコンビネーションを繰り出していく。
気づけば、時間も二分半だ。
あと二分半で、ユーリは勝負を決めなければならない。対するジジ選手は、このまま逃げきっても判定勝ちとなる。
(でも、この選手はそこまでステップワークが得意じゃないし……性格的に、きっと反撃してくるだろう)
これが沖選手や魅々香選手であれば、最後まで逃げに徹していたかもしれない。
しかし、全試合KO勝利という華々しい戦績を持つジジ選手は、逃げることが不得手であり、また、逃げきって勝つという行動が身体にも心にも馴染んでいないはずであった。
何せ相手は、完全に極まっているギロチンチョークを解除してまで、KO勝利を狙うような気質であるのだ。
今回はガラにもなく緻密な計略を立ててきたようであるが、これだけスタミナが切れれば、もっとも自分の得意とするスタイルで反撃してくるように思えた。
(怪物には怪物の倒し方があるってことなのかな)
時間は、刻々と過ぎていく。
三十秒が経過して、残りは二分だ。
ユーリは白い肢体を躍動させながら、コンビネーションを振るい続けている。
そのたびに汗が飛び散ってきらめいたが、その動きは鈍る気配もない。どうしてユーリはこうまで延々と動き続けられるのかと、ジジ選手も内心で舌を巻いていることだろう。
ユーリもまた、怪物であるのだ。
もしもジジ選手がその怪物っぷりに怯むような気質であったなら――このまま最後まで逃げきって、判定勝ちをものにできたのかもしれなかった。
また三十秒が経過して、残りは一分半。
ここで、ジジ選手が動いた。
最後に放たれたユーリの左ミドルにあわせて、一気に間合いを詰めたのだ。
ユーリはしっかりと、頭部のガードを固めている。
それゆえか、ジジ選手が繰り出したのは左のレバーブローであった。
ユーリの白い脇腹に、ジジ選手の左拳が突き刺さる。
しかしユーリは、不屈の闘志で相手に組みついた。
相手の首裏に腕を回し、首相撲の体勢を取ろうとする。
得たりと、ジジ選手は組み手争いに応じてきた。インファイターである彼女もまた、首相撲を得意としているのだ。
ただし、彼女の得意技は膝蹴りではなく、クリンチアッパーとなる。それを承知しているユーリは顔の下に空間を作らないように意識しながら、相手の首を抱え込もうとしていた。
「時間がないぞ。こだわらないほうがいいんじゃないか?」
焦れたように、多賀崎選手がつぶやく。
ユーリはなんとか相手の上体をねじり、一発の膝蹴りを打ち込んでから、すぐさま相手を突き放した。
ジジ選手は速やかに体勢を立て直して、あらためて前進の姿勢を取る。
その眼前で、ユーリの身体がぎゅるんと旋回した。
右の、バックスピンのハイキックである。
イリア選手や犬飼京菜に感化されて、「ユーリも覚えたい!」とサキにねだった結果であった。しかし、試合で使うのは初めてのことだ。数ヶ月間の反復練習を経て、ついに本日解禁とされたのだった。
ジジ選手が一歩でも踏み込んでいたならば、その物凄まじい破壊力を体感するとともに意識を吹き飛ばされていたことだろう。
しかしユーリは当て勘というものが欠如してしまっているため、その美しくも鮮烈なバックスピンキックは、虚しく空を切るばかりであった。
が、ジジ選手は一歩も動けずに、その攻撃を見送っていた。
おそらくその鼻先には、ぞっとするような風圧が届いたことだろう。
ジジ選手は半瞬硬直してから、前進を取りやめて後退した。
そこに、ユーリが迫り寄る。
ユーリもまた、バックスピンキックは空振りする前提で動いていた。
本当の狙いは、この後の組みつきだ。
ハイキックを意識した人間は、重心の上がることが多い。よってユーリのバックスピンキックは、タックルや組みつきに連動させる目論見でトレーニングが重ねられていたのだった。
逃げようとするジジ選手の腰に、ユーリがにゅるりと両腕を回す。
ジジ選手はすかさず腰を落とそうとしたが、一歩遅かった。再び胴体をクラッチされての、フロントスープレックスである。
再び、ユーリのサイドポジションだ。
ユーリにどっしりとのしかかられたジジ選手は、腰を切るスタミナも残されていないように見える。
しかし、残り時間は一分を切ってしまっていた。
ユーリは相手の脇腹に左膝を乗せ、腕をからめ取ろうとする。
しかしジジ選手は、すでにしっかりと両手をクラッチさせてしまっていた。ユーリはほとんどパウンドを振るうことがないので、腕さえ守っておけば一本を取られることはない――と、踏んでいるのだろう。無駄にあがこうともせずに、ただ両手だけをクラッチさせて、ユーリの重量に耐えている。
するとユーリは、相手の脇腹を圧迫していた左膝を支点にして、くりんと半回転した。一瞬でも全体重をそこに集約されたジジ選手には、地獄の苦しみだったことだろう。
そうしてジジ選手の下半身と相対したユーリは、無防備に放り出されていた右足につかみかかる。
ユーリの両腕が二匹の蛇のように蠢いて、あっという間にアンクルホールドの形を完成させた。
ジジ選手は狂ったようにのたうって、ユーリを自分の上からふるい落とそうとした。
しかしその頃にはアンクルホールドも解除されて、ユーリはマットに両足をついている。結果、ジジ選手はひとりで身をよじり、仰向けから腹ばいの体勢に成り果てた。
今度は腰を支点にして、ユーリが身体を半回転させる。
背後から相手の腰にまたがった、バックマウントの体勢だ。
ジジ選手はダンゴムシのように背中を丸めて、チョークスリーパーを取られまいと首をガードした。
すると――ユーリが三たび、半回転した。
ジジ選手が背中を丸めたために、さきほどより重心が前にずれている。その状態でユーリが半回転すると、せっかくのバックマウントを放棄して、頭の側から相手の背中にのしかかる、がぶりの体勢になってしまった。
MMAの試合においては、まったく考えられない行動である。数あるグラウンドポジションの中で、もっとも有利なのはバックマウントであるはずなのだ。
きっとジジ選手も事態を理解できていないまま、ただ膝をたてて立ち上がろうという挙動を見せた。
そこで一瞬、気がそれたのだろうか。
ジジ選手の右脇に、ユーリの左腕がにゅるんと入り込んだ。
背中の側から右脇に侵入し、咽喉の下を通過したユーリの左腕が、ジジ選手の首の横合いから顔を出す。そのネイルの美しい指先が、自身の右腕の肘裏をつかんだ。
そうして両腕をクラッチさせたユーリは、相手の右腕ごと咽喉もとを締め上げた。
これもチョークスリーパーの一種、ダース・チョークである。
本来であれば、相手のタックルを潰してがぶった状態や、それこそサイドポジションから狙うというのが定番であるはずであったが――ユーリはサイドポジションを取っていながら、足関節からバックマウント、バックマウントからがぶりの状態へと目まぐるしくポジションを移動させて、ついにその形を完成させたのだった。
ユーリが両腕を絞り合げると、ジジ選手は全身を突っ張らせて上を向こうとする。
が、途中でユーリの身体がつっかい棒となり、横向きの姿勢で停止した。
残り時間は、二十秒を切っている。
これで極まらなければ、もうおしまいだ。
タトゥーだらけのジジ選手の顔は、苦悶の形相で真っ赤になっている。
極まりが、完全ではないのだ。完全に技が入ったならば、頸動脈を圧迫されてブラックアウトに陥っているはずであった。
「極まってないなら、もうワンアクションだわよ!」
鞠山選手が、濁った声でわめきたてた。
すると――ユーリはクラッチをキープしたまま、今度は自分から身をよじって回転した。
両者は再び、うつ伏せの状態になる。
そしてユーリは、膝立ちになっていた。
そうしてさらに相手の首を絞め上げて、その上半身を浮かせると、その下に両足を滑り込ませたのだった。
ダース・チョークの形で、さらに相手の胴体を両足ではさみこもうという、無茶な動きである。
もしもそのアクションが成功していたなら、ジジ選手の首がへし折れていたかもしれなかった。
おそらくジジ選手は、そのアクションからもたらされる激痛にこらえかねたのだろう。自ら両足でマットを蹴って、ユーリの上で前方回転する格好となった。
両者は再び、仰向けの体勢となる。
そして今度はユーリのほうが先に身をよじって、横向きの体勢となった。
まるで相手が愛しくてたまらないかのように、ぎゅうっと腕を絞り込む。
ジジ選手の鼻から、鮮血が噴き出した。
目玉はくりんとひっくり返り、弛緩した口から唾液まみれのマウスピースが吐き出される。
それと同時に、レフェリーがユーリの肩をタップした。
試合終了のゴングが乱打され、控え室の壁が歓声で振動する。
『三ラウンド、四分五十七秒! ダース・チョークにより、ユーリ選手の勝利です!』
瓜子は脱力して、パイプ椅子の背にぐったりともたれかかった。
すると背後から、また温かい腕が回されてくる。
「やったやったー! あいつ、ほんとに勝っちゃったよ!」
「ふん。空前絶後の、薄氷の勝利だわよ」
「それでも、勝ちは勝ちさ」
背後からは灰原選手に抱きすくめられ、右腕は多賀崎選手に握られて、左脇腹を鞠山選手に小突かれる。
さらに、その隙間からサイトーが拳をのばして、瓜子のこめかみをいたぶってきた。
立松は隣のパイプ椅子に座したまま、そんな瓜子に笑いかけてくる。
「ついに、やったな」
さまざまな人々の温もりを満身で味わいながら、瓜子は「押忍」と応じてみせる。
「ついに、やりました」
モニターでは、ユーリが膝立ちの状態で右腕を上げられていた。
もはや、立ち上がる力も残されていないのだろう。
だが、ユーリは傷だらけの顔で、とびっきりの笑みを浮かべている。
瓜子の見間違いでなければ――そのピンク色をしたふくよかなる唇は、「やったよー!」という形に動かされたようだった。
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