03 若獅子たちの死闘

 その後は何事もなくルールミーティングを迎えることになったわけであるが――本日の出場選手が勢ぞろいすると、瓜子の胸にはまた新たな感慨がわきおこってきてしまった。


 本日は四大タイトルマッチなどが企画されているのだから、出場選手が豪華になるのも当然だ。

 しかしそれとは別の観点でも、その日は物凄い顔ぶれが集結してしまっていた。


 たとえば本日は、《アトミック・ガールズ》を黎明期から支えてきた古参の選手がほぼ勢ぞろいしてしまっている。

 来栖選手、雅選手、鞠山選手――足りていないのは、兵藤選手ぐらいであろう。《アトミック・ガールズ》の歴史は十余年にも及ぶので、その四名を除く選手というものはあらかた引退してしまっているはずであった。


 そして本日は何の因果か、赤星弥生子と青田ナナまで居揃ってしまっている。

 マリア選手には申し訳ないが、世間的にはそちらのほうが遥かにビッグネームであるのだろう。

 不勉強な瓜子は実際に対面するまで青田ナナのことを知らなかったが、彼女はいまや《アクセル・ファイト》に一番乗りで参戦した日本人の女子選手という身だ。試合結果は惨敗であろうとも、それは彼女が世界のプロモーターに認められた女子選手の筆頭であるという証になっているはずだった。


 そして、赤星弥生子である。

 彼女は《レッド・キング》にしか出場していない、女子格闘技界の裏番長的な存在だ。男子選手を相手に全勝無敗という冗談じみた戦績を持つ、舞台裏の最強選手と称されているのだった。


 そんな赤星弥生子と来栖選手が――裏と表で最強の日本人選手と呼ばれていた両名が、こんな形で居揃ってしまった。

 しかもこの場には、両名と因縁を持つベリーニャ選手まで居揃ってしまっている。

 ベリーニャ選手というのは、七年前の《レッド・キング》で赤星弥生子に敗北しており、三年前の《S・L・コンバット》で来栖選手に勝利したという、そんな経歴の持ち主であった。

 来栖選手は「MMAならベリーニャにも負けない」と宣言しており、ベリーニャ選手は「赤星弥生子にはまだ勝てない」という思いを抱えている。それほど複雑な因縁ではなかろうが、それぞれの舞台で最強の名を欲しいままにしている三名がこのような形で一堂に会するというのは、なんだか運命の悪戯めいて感じられた。


 ただし、会場内において、この三名がたがいに近づこうとする素振りは、一切なかった。せいぜいベリーニャ選手が、赤星弥生子に軽く挨拶をしていたぐらいのものである。

 今日の主役は、あくまで来栖選手とベリーニャ選手だ。

 所属選手のセコンドとして参じた赤星弥生子は、いったいどのような心持ちで両者の試合を見守るのか――そのようなことは、外から推し量れるものではなかった。


 そしてそんな厳粛なる面々とは打って変わって、この場には合宿稽古に参加したメンバーが勢ぞろいしてしまっている。

 ユーリ、瓜子、サキ、愛音、小笠原選手、小柴選手、鞠山選手、多賀崎選手、灰原選手、オリビア選手――その内の四名はセコンドであったとしても、これだってけっこうな運命の悪戯であろう。なおかつ立松の言っていた通り、敵対の関係となる組み合わせはひとつとして存在せず、おたがいの試合をぞんぶんに応援できる間柄であるのだ。こちらはジョンが言っていた通り、呉越同舟をめいっぱい楽しませていただきたいところであった。


                   ◇


 ルールミーティングを終えた後も、開演の準備が粛々と進められていく。

 遅刻をする選手もなく、メディカルチェックで弾かれる選手もなく、乱闘騒ぎを起こす選手もなく、ウェアの下に試合衣装を着込み、バンデージのチェックを受けて、開演の時を待つ。試合前の緊張とは無縁の瓜子でも、わくわくとした昂揚に満たされるひとときであった。


 そんな中、ささやかなハプニングとして特筆するべきは――灰原選手が、つい先日発売された格闘技マガジン女子選手特集号を控え室に持ち込んでいたことであろうか。


「ど、ど、ど、どうしてそんなもんをこんな日に持ち歩いてるんすか!!」


「えー? だって、マコっちゃんがまだ買ってないって話だったからさー。自慢しようと思って、持ってきたんだよ」


 瓜子は本気で、卒倒してしまいそうであった。その雑誌には、そのセンターのカラーページには、あの忌まわしき水着グラビアが山ほど盛り込まれていたのである。


 その見本誌は、瓜子たちも郵便で受け取っていた。そして、人知れず悶絶することとなったのだ。千駄ヶ谷は「水着グラビアなどフルコースにおけるデザートのようなもの」などとのたまわっていたが、こんな山盛りのデザートを出されたら胸やけで生命に関わるだろうというぐらい、グラビアのページはどっさり差し込まれていたのだった。


「いやー、あのオヤジ、ほんとに腕は確かなんだねー! 見てよ、これ! すっげー可愛いっしょ? ね? ね?」


「いや、あんた、あたしのセコンドって自覚はあるのかよ? こんなもん、精神集中のさまたげだろ」


「えー? どうして女の水着姿が精神集中のさまたげになるのさ? マコっちゃん、マジでそっちのケがあったの?」


「そんなわけあるか、馬鹿。あたしはともかく、猪狩が気の毒だろ」


 という、多賀崎選手の取り計らいをもって、その忌まわしき雑誌はバッグの中に封印されることになった。

 多賀崎選手にはいつか全力でこの御礼をせねばなるまいと、心に誓った瓜子である。


 そんなささやかなハプニングを経て、無事に開場の運びとなった。

 会場に、二千名もの観客たちがぞろぞろと足を踏み入れてくる。物販ブースなどは怒涛の勢いで人が押し寄せて、地獄絵図そのものである。今後の展開はさておくとして、本日も《アトミック・ガールズ》の興行は大盛況であるようだった。


 そうしてしばらくしたならば、開会式のために入場口へと集められる。

 本日も試合数は十二試合で、出場選手は二十四名だ。

 四大タイトルマッチは当然として、それ以外の試合に関しても、瓜子にはひときわ豪華に感じられてしまった。


 プレマッチの第一試合は、大江山すみれvs犬飼京菜。

 第二試合は、ライト級のアマチュア選手による一戦。

 本選の第一試合は、バンタム級の新人同士による一戦。

 第二試合は、小柴あかりvs神田佐和かんだ さわ

 第三試合は、バンタム級の若手同士による一戦。

 第四試合は、オリビア・トンプソンvs加藤昌緒かとう まさお

 第五試合は、時任香名恵ときとう かなえvsまじかる☆まりりん

 第六試合は、マリアvs多賀崎真実。

 第七試合は、雅vs金井若菜。

 第八試合は、メイ=ナイトメアvs猪狩瓜子。

 第九試合は、ジジ・B=アブリケルvsユーリ・ピーチ=ストーム。

 第十試合は、ベリーニャ・ジルベルトvs来栖舞。


 という試合順序になるのだ。

 やはり、合宿稽古をともにしたメンバーが六名まで出場するというのは、なかなか感慨深いものであった。


 そうして開会式で名前を呼ばれた二十四名の選手は、リング上にずらりと立ち並ぶ。ライト級を除く三名の王者たちは、それぞれ肩にチャンピオンベルトを掛けていた。

 その中で、選手代表となったベリーニャ選手がリングアナウンサーからマイクを手渡される。


『ワタシタチ、シアイ、ガンバります。サイゴまで、オウエン、おネガいします』


 ベリーニャ選手は通訳を介さずに、自分の言葉で開会の挨拶を行っていた。

 まだまだたどたどしい日本語であるが、これが普通であるのだろう。わずか数ヶ月であそこまでの日本語を体得しているメイ=ナイトメア選手のほうこそが、規格外であるのだった。


(……それに、ベリーニャ選手との対戦だけが目的なら、そんな熱心に日本語を学ぶ必要もないだろうにな)


 瓜子は横目で隣の様子をうかがってみたが、本日もフードつきパーカーを纏ったメイ=ナイトメア選手は石のような無表情のまま、火のような目でベリーニャ選手の背中を見据えているばかりであった。

 瓜子の前に立つのはユーリであるが、こちらはきっとうっとりとした面持ちでベリーニャ選手の言葉を聞いているのだろう。その隣に立つジジ選手は、片足重心で左手をポケットに突っ込んでおり、いかにも大儀そうにチャンピオンベルトを抱えていた。


 そうして開会式を終えたならば、それぞれのコーナーの控え室へと帰還する。

 オリビア選手と小柴選手、それに小柴選手のセコンドである小笠原選手は赤コーナー陣営になってしまうものの、こればかりは致し方がなかった。彼女たちはそれぞれ新人や若手選手を相手取るので、どうしたってそういう配置となってしまうのだ。


「で、マコっちゃんばかりじゃなく、あんたもトップファイターの時任とやりあうわけだね、魔法老女」


 と、控え室においては、灰原選手が珍しくも喧嘩腰でない口調で鞠山選手に声をかけた。

 試合に向けてメイクのお直しをしていた鞠山選手は、鏡に向かいながら「ふん」と鼻を鳴らす。


「あいつは膝の靭帯を痛めて、一年以上も休養してただわよ。復帰試合でわたいに当てられるなんて、気の毒な限りだわね」


「つっても、前回の対戦時にはあんたがKO負けをくらったんでしょ? だからあいつも、トップファイターに仲間入りできたんだろうしさ」


「ふん。一年以上も休んでたあいつが黒船女の防波堤になれるかどうか、これが査定試合だってわけだわね。そうは問屋が卸さないだわよ」


 と、鞠山選手は鏡ごしに瓜子を見やってきた。


「……そもそも黒船女の防波堤なんて、もう必要なくなるんだわよ。次に始まるのは、王座挑戦を懸けたサバイバルマッチだわね」


「押忍。ご期待に沿えるように、力を尽くします」


 鞠山選手は肩をすくめるばかりで、何も答えようとしなかった。

 そうして控え室のモニターにおいては、プレマッチの開始が告げられる。大江山すみれと犬飼京菜の一戦である。


 当然のこと、もっとも熱のこもった目つきでそれを見据えていたのは、愛音であった。愛音を下した大江山すみれと犬飼京菜では、いったいどちらが勝利を収めるのか。愛音としては、決して見過ごせない一戦であろう。


 大江山すみれのセコンドについているのは、赤星弥生子と見慣れぬ男性であった。メイ=ナイトメア選手と同じようにパーカーのフードを深々とかぶっているので人相はよくわからないが、ずいぶん小柄で細身の男性であるようだ。


「……こいつは、道場の上で商売をしてる整体師だよ」


 と、感情を殺した目でモニターを観ていたサキが、ふいにそのようにつぶやいた。


「え? 整体師って、サキさんもお世話になってるっていう、例のお人ですか? どうして整体師がセコンドなんかについてるんです?」


「さてな。道場お抱えの整体師って話だから、なんかしらの繋がりがあるんだろ」


 もしかしたら、その人物もかつては赤星道場の門下生であったのだろうか。そうとは思えないような体格ではあるが、まあ、体格に優れた人間ばかりが格闘技に取り組んでいるわけではないのだ。


(なんか、どっちの陣営もサキさんと少しずつ因縁があって……ちょっと奇妙な気分だなあ)


 ともあれ、現在の瓜子たちにとっては、大江山すみれも犬飼京菜も後輩たる愛音のライバルになりえる存在に過ぎない。どちらを応援するというわけでもなく、ただその実力のほどを見定めたいところであった。


『プレマッチ、第一試合。バンタム級、四十八キログラム以下契、三分二ラウンドを開始いたします!』


 リングアナウンサーが、朗々たる声音でそのように宣言した。


『青コーナー。百四十二センチ、四十キログラム。犬飼格闘鍛錬場ドッグ・ジム所属。……犬飼、京菜!』


 犬飼京菜はコーナーにもたれたまま、燃えるような目で大江山すみれをねめつけていた。

 かつては彼女たちの父親同士が、《レッド・キング》において熱戦を繰り広げていたはずであるのだ。その胸中にはどのような感情が渦巻いているのか、瓜子などにはとうてい計り知れなかった。


『赤コーナー。百五十九センチ。四十七・二キログラム。赤星道場所属……大江山、すみれ!』


 大江山すみれは、いつも通りの穏やかな面持ちで右腕を掲げていた。ヘッドガード、ニーパッド、レガースパッドの三点セットを装着しており、その身に纏うのは赤星道場の名がプリントされた競技用のTシャツだ。


 ちなみに、いまだ《アトミック・ガールズ》では一戦しかしていない大江山すみれが赤コーナーとなったのは、外部の興行における輝かしい戦績が鑑みられたのと、あとは同じ所属のマリア選手が赤コーナー陣営であるためなのだろう。犬飼京菜はすでにプレマッチで二勝をあげていたが、大江山すみれは通算戦績六連勝で、しかも五つのKOとひとつの一本という見事な結果であったのだ。


 レフェリーに招かれて、両者はリング中央で向かい合う。

 このたびの身長差は、十七センチ。頭半分以上の差異である。大江山すみれも多少はウェイトが増したようだが、そうでなくとも体格差は歴然としていた。


 大江山すみれがグローブに包まれた手を差し出しても、犬飼京菜はそれを無視して青コーナーへと引き下がる。

 そうしてゴングが打ち鳴らされると――やはり、犬飼京菜は頭から突進した。

 豪快な蹴り技か、あるいは低空タックルか。MMA三戦目にしても、やはりファーストアタックはそのどちらかであるようだ。


 それを迎え撃つ大江山すみれは、両腕をゆるく垂らした自然体のかまえである。

 しかし彼女は、まだコーナー際だ。その位置では、後ろに下がって攻撃をかわすこともできないはずであった。


 リングの対角線を一瞬で駆け抜けた犬飼京菜は、相手の二メートルほど手前で、身を伏せる。

 しかし、タックルではない。彼女は身を伏せたまま横回転して、水面蹴りを繰り出した。


 大江山すみれは――垂直にジャンプすることで、それ回避する。すぐ後ろがコーナーであったため、そうせざるを得なかったのだ。

 それを追いかけるようにして、犬飼京菜は身を起こした。

 すると大江山すみれは空中に浮遊したまま、右足を繰り出した。犬飼京菜の顔面めがけて、蹴りを放ったのである。


 犬飼京菜は首を振ることで、かろうじてその蹴りを避けていた。

 そして、いまだ空中にある大江山すみれの腰に、両腕を回す。

 犬飼京菜はそのまま身をねじり、相手の身体を肩からマットに叩きつけていた。

 そして、グラウンドの展開だ。


 犬飼京菜は子猿のような敏捷さで、すでに相手の腰にまたがっていた。

 そうして相手の左腕をひっつかみ、腕ひしぎ十字固めを狙おうとする。


 そうはさせじと、大江山すみれはブリッジで体勢をひっくり返した。

 犬飼京菜が、下になる。

 しかしその両手は、まだ相手の左腕をとらえている。相手に体重をかけられる前に腰を切って、横向きとなり、強引に腕をのばそうとした。


 大江山すみれは両手をロックして、あらためて相手に体重をあびせようとした。

 すると犬飼京菜は、片手で相手の足をすくいあげる。そうして自分は相手の横合いに回り込み、前のめりに倒れた相手の背中にのしかかった。


 大江山すみれはすかさず身をよじり、マットに背をつけて相手と正対する。

 その頃には、犬飼京菜の手が相手の腕にからみついていた。

 サイドポジションをキープしながら、アームロックを狙っている。

 とうてい十六歳同士とは思えない、目まぐるしい寝技の攻防だ。

 しかもプレマッチではグラウンド状態における打撃技も禁止されているため、両者は純然たるグラウンドテクニックを競うことになっていた。


 なんとか腕をロックした大江山すみれは、相手と正対しようと身体をずらしていく。

 すると犬飼京菜は相手の腕に手をからめたまま、相手の腹の上にするりとまたがった。

 大江山すみれもそれを阻止するべく膝を曲げて対応していたのだが、この際は体格差が犬飼京菜に有利に働いた。彼女はあまりに小柄であったため、異様に小回りがきくのである。よって、大江山すみれの立てた膝に干渉されることなく、あっさりとマウントポジションを奪取し得たのだった。


 ならばと、大江山すみれは激しく身体をバウンドさせる。体格差を活かして、パワーで相手を弾き返そうと試みたのだ。

 その試みは成功して、犬飼京菜はあっけなくマットに倒れ込んだかに見えたが――その両手は、まだ相手の左腕を握っていた。横合いのマットに倒れ込みつつ、またもや腕ひしぎ十字固めの形に持ち込んだのだ。


 しかし大江山すみれも、まだ両手をクラッチさせている。犬飼京菜の体重移動にあわせて身を起こした大江山すみれは、三たび体重をあびせようとした。

 だが、その頃にはまた犬飼京菜の手が相手の片足をとらえていた。

 今度は右手を相手の手もとに残したまま、左手だけで相手の左足をすくいあげる。両手をクラッチしていた大江山すみれは顔からマットに落ち、そして――相手の腕を解放した犬飼京菜は、相手の左足に全身でからみついていた。


 鞠山選手も得意とする、膝十字固めだ。

 相手に背中を向ける格好で、両足で相手の左腿をはさみ込み、両腕で相手の足首を抱え込み、細い背中を懸命にのけぞらせる。それもまた、誰よりも小さな身体をした犬飼京菜が、死に物狂いで理不尽な世の中にあらがっているような凄愴さであった。


 大江山すみれがタップをするよりも早く、レフェリーが犬飼京菜の手もとをタップする。

 その速やかな判断がなかったら、おそらく大江山すみれの膝靭帯は完全に破壊されていただろう。彼女の左足は犬飼京菜が背中をのけぞらせた時点で、危険な角度にまで反り返っていた。


 犬飼京菜はすぐさま技を解除して、マットの上に身を起こす。

 ゴングが打ち鳴らされる中、彼女は何か咆哮をほとばしらせたようだった。

 しかし、会場に沸き起こった歓声によって、それはかき消されている。


『一ラウンド、一分三十六秒、膝十字固めによるテクニカル一本で、犬飼京菜選手の勝利です!』


 こちらの控え室も、観客席に負けないぐらい騒然としていた。

 呆然としていた灰原選手が、我を取り戻した様子で瓜子につかみかかってくる。


「ちょ、ちょっと! こいつら、本当に高校生なの!? うちのジムにだって、こんなに寝技で動けるやつは、そうそういないよ?」


「はい。高校に通ってるかどうかは知りませんけど、高校二年生の年代のはずっすよ」


 そんな風に答えながら、瓜子も驚嘆を禁じ得なかった。

 彼女たちは、瓜子よりも遥かに卓越したグラウンドテクニックを有していたのである。


(まあ……あたしなんかは、キャリア一年半の新米だからな。きっとこのコらは、もっと前からトレーニングを積んでたってことなんだろう)


 しかしそれにしても、プロ顔負けの攻防であったことに疑いはない。

 鞠山選手は、いかにも気にくわなげな顔で「ふん!」と鼻を鳴らしていた。


「これこそ、ファイターを親に持つ恩恵ってやつだわね。こいつらは、子供の頃から寝技のトレーニングを積んでたに間違いないだわよ。まったく、小生意気な小娘どもだわね。……愛音」


「はいなのです!」


「あんたがこいつらに勝つには、立ち技で圧倒するしかないだわよ。寝技で勝つには五年がかりになるだろうから、明日からもせいぜいトレーニングに励むことだわね」


「はいっ! もとより、そのつもりであるのですっ!」


 威勢よく応じながら、愛音はとても口惜しそうにユーリの様子をうかがっていた。ユーリはまたもやモニターを見つめたまま、ぽろぽろと落涙してしまっていたのだ。


「……大丈夫っすか、ユーリさん?」


「うん……どうにも犬飼京菜ちゃんの試合は、涙腺を刺激されてしまうのだよねぇ」


 気恥ずかしそうに微笑みながら、ユーリは手持ちのハンカチで目もとをぬぐった。


「でも、ひとつ理解できたぞよ。やっぱりこれは、うり坊ちゃんの試合とはまったく異なるのじゃ。うり坊ちゃんが勝ったときは嬉しくて嬉しくて、その一生懸命な姿やかっちょいい試合運びに胸を打たれてしまうのだけれども……今のユーリの胸には、ひとかけらの喜びも感動も存在しないようじゃぞよ」


「それじゃあ、どうして泣いてるんすか?」


「それはユーリにもわからんちんだけども……もしかしたらユーリは……犬飼京菜ちゃんを可哀想だと思ってるのかにゃあ」


 ユーリ自身にわからないのなら、瓜子に理解できるわけもない。

 ただ確かに、瓜子の中にも犬飼京菜の勝利を喜ぶ気持ちは生じていないようだった。

 モニターに映し出される犬飼京菜は、いまだ闘志の消え去らない顔でレフェリーに腕を掲げられている。会場中の人々が声援や拍手で祝福してくれているのに、彼女はこれっぽっちも嬉しそうな様子ではなく――むしろそれは、耐えがたい痛みをこらえているような姿に見えてならなかったのだった。

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