ACT.4 そうる・れぼりゅーしょん#4
01 調印式
《アトミック・ガールズ》七月大会の開催十日前。都内某所のイベントスペースにて、四大タイトルマッチの調印式が執り行われることになった。
調印式とは、タイトルマッチに臨む王者と挑戦者がコミッショナーの前で調印書にサインをして、これが正当なタイトルマッチであると認定をもらうための式となる。調印書には、出場選手の細かなプロフィールに、試合の会場や日時、ルールの詳細、使用されるグローブの製造国やサイズなど、そういったことがびっしりと記載されているのだそうだ。
権威や格式とはあまり縁のなさそうな《アトミック・ガールズ》であるが、タイトルマッチを行う際には毎回この調印式が行われて、スポーツチャンネルや動画サイトなどでその模様が一部公開されている。おおよそはプロボクシングの形式を踏襲したものであり、これもまた興行を盛り上げるためのプロモーション活動の一環であるのだろう。
もちろん、瓜子がそのようなものに臨むのは初めてのことであった。
瓜子はいまだ、キックのほうでも王座挑戦をした機会はなかったし――なおかつ、今年は二度にわたってランキング戦のオファーを蹴ってしまったために、ついに降格の処分まで下されてしまった。一度も試合を行わぬまま、ランキング一位から四位に転落してしまったのである。
やはり、キックとMMAの両立というのは難しいものであるのだろう。
しかし瓜子に、後悔はなかった。キックのほうで王座挑戦が遠のいてしまった代わりに、一年ジャストで《アトミック・ガールズ》のライト級王座に挑戦する権利を得られたのだ。
相手は憧れのサキではないし、あくまで暫定王者決定戦である。しかし、そこに勝利すれば正規王者のサキと統一戦を行うことができる。今の瓜子に、それ以上のものを望むことなどできるはずもなかった。
そうして、調印式の当日――
イベントスペースの控え室には、何とも重い空気がたちこめていた。
控え室は、挑戦者側と王者側で分けられている。そしてそこには瓜子とユーリばかりでなく、ほとんど初対面となる金井若菜なる選手と、そして来栖選手が居揃っていたのだった。
パイプ椅子に座した来栖選手は、真っ直ぐに背筋をのばしたまま腕を組み、彫像のような無表情で瞑目している。その大柄な肉体からは他者を寄せつけないオーラがたちのぼっており、そしてその重い空気に若い金井選手がすっかり委縮してしまっていた。
金井選手はガイアMMAの所属で、何度か試合会場で見かけたことはあるが、挨拶をした覚えはない。二年前にプロデビューを果たした二十三歳の新鋭で、《アトミック・ガールズ》のみならず《NEXT》や《フィスト》にも参戦して、現在は七連勝の記録を打ち立てている。それで見事、バンタム級の現王者たる雅選手への挑戦権を勝ち取ったというわけであった。
瓜子よりも年長であるし、瓜子よりも立派な実績だ。きっと、タイトル挑戦に相応しいファイターなのだろう。
が、この場においてはすっかり威圧されてしまっている。ガイアMMAはフィスト系列のジムであり、天覇館とも良好な関係であるはずであったが、そのようなものは慰めにもならないようだ。
来栖選手は『天覇館』と刺繍をされた黒いTシャツと麻のゆったりとしたパンツというラフな格好で、ただ黙然と座している。左目の上に白い古傷の刻まれた、きわめて雄々しい風貌だ。もはやユーリに対して大きな確執はないものと、瓜子はそのように考えているのだが――しかし、こうまではっきりとガードを固めている来栖選手に声をかけられるものではなかった。
「はふう……ちょーいんしき、早く始まらないかにゃあ」
と、ユーリもくたびれきった顔で瓜子に囁きかけてくる。
ユーリは淡いピンクのタンクトップの上に、くしゅくしゅとした素材の夏用アウターをひっかけて、足もとは大胆なショートパンツに派手なレギンスだ。手首にはチェーンのブレスレットを重ねづけして、大きく開いた胸もとに光るのは、やはり四つ葉のクローバーのペンダントである。
過去の映像を鑑みても、調印式で着飾る選手はごく少なかったので、瓜子も道場のロゴが入ったオレンジ色のTシャツ一枚という簡素な姿であった。『ワンド・ペイジ』からいただいたTシャツを着るべきかどうか死ぬほど思い悩んだのだが、もしもメンバーにその姿を見られてしまったら気恥ずかしさの極致であったため、断腸の思いで取りやめた次第である。
しばらくして、ようやく控え室のモニターに人影が現れた。
《パラス=アテナ》の代表たる花咲氏と、コミッショナーの某氏だ。
『それではこれより、《アトミック・ガールズ》七月大会、四大タイトルマッチの調印式を執り行います』
ダンディな容姿だがぽこんとおなかのせり出た花咲氏が、よく響く声でそのように宣言した。
会場には、たくさんのフラッシュが瞬いている。格闘技関連の記者たちが、それなりの人数で来場しているのだ。
花咲氏が長々と挨拶をしている間に、スタッフが控え室へとやってくる。
「それでは金井選手、こちらにお願いします」
「はい!」と裏返った声で答えて、金井選手はそそくさと控え室を出ていった。調印式は、ウェイトの軽い階級の順番に行われるのだ。
ひとつの大会で四つのタイトルマッチが行われるというのは、《アトミック・ガールズ》においても史上初のことである。
引退を懸けた来栖選手、復活を果たしたユーリ、外敵たるベリーニャ選手にメイ=ナイトメア選手、無差別級への転向を要求するジジ選手、古豪にして三度目の王座を手にした雅選手、若き新鋭たる金井選手――および、瓜子。そういった話題性を持つ選手をひとつの興行にぶちこんだ、ごった煮のようなイベントであるのだ。
(まあ、ずいぶん思いきったイベントを考えついたもんだけど……問題は、その後だよなあ)
ベリーニャ選手にメイ=ナイトメア選手、それにジジ選手といった海外の強豪を、日本人選手がどこまで食い止めることができるか。それは、大いに話題を呼ぶことだろう。問題は、食い止めきれなかった後のことだ。これで外国人選手に蹂躙されたあげく、《アトミック・ガールズ》を離脱されたら、後には負け犬しか残らない――と、小笠原選手もかつてそのように語らっていたものであった。
(ま、自分は負ける気もないし、ユーリさんだって勝ってくれると信じてるけどさ)
瓜子がそんな風に考えている間に、雅選手と金井選手がモニターに現れた。
その瞬間、会場内にどよめきがあがり、いっそう激しくフラッシュがたかれる。雅選手は紫紺の生地に銀色の大蛇がとぐろを巻く、一種妖艶な浴衣の姿であったのだ。
髪はアップにまとめられており、後れ毛のかかった白いうなじが、ぞっとするほど艶めかしい。人の精気を吸う蛇の妖怪が人間に化けているような風情であった。
調印書にサインがされる前に、まずは記者陣からインタビューがされる。
その場でも、雅選手は本領を発揮していた。
『タイトルマッチなぁ……いうても、茶番やろぉ? うちはモチベーションの置き所に難渋しとるんよぉ』
『茶番とは? どういう意味でしょうか?』
『そんなん、わかってんやろう? よその三階級はごっつい外国人選手のおかげでえらい盛りあがっとるのに、うちだけこんなぺえぺえの娘っ子がお相手で、消化試合丸出しやんかぁ? 四大タイトルマッチいうお題目のためだけにこないなとこまで引っ張り出されて、ほんま迷惑やわぁ』
雅選手お得意の、トラッシュトークである。雅選手は相手が誰であろうとも、悪態をついて場を盛り上げようとするのが常套手段であるのだ。
気の毒な金井選手は、場に呑まれてしまったかのように小さくなっている。
すかさず、そちらに記者の声が飛んだ。
『現王者はこのように言っています。挑戦者の金井選手は如何ですか?』
『わ、わたしは……王座に挑戦できるというだけで、感無量です』
と、かぼそい声で答えた金井選手は――ふいに、にたりと微笑んだ。
『三十も半ばを過ぎたご老体にベルトをおあずけしておくのは、あまりに申し訳ないですから……わたしが精一杯頑張って、楽にしてあげたいと思っています』
『ははぁん。若いしか取り柄のあらへん娘っ子は、ほんま言うことちゃうねぇ』
『はい。わたしと雅選手って、干支が一緒らしいですよ』
雅選手は、けらけらと笑いだした。
が、きっと笑っているのは雅選手ひとりであろう。少なくとも、瓜子はそのような場で笑う勇気を持ち合わせていなかった。
『ああ、おかし。……おかげさんで、少しはおもろなってきたわ』
そうして調印書にサインがされて、向かい合う両者の写真がカメラに収められつつ、バンタム級の調印式は終了である。
瓜子は捨て犬のような目をしたユーリに別れを告げて、スタッフとともに会場に向かうことになった。
「引き続きまして、ライト級暫定王者決定戦の調印式を開始いたします。暫定王者決定戦に臨む、猪狩瓜子選手とメイ=ナイトメア選手です」
メイ=ナイトメア選手はもう七月であるというのに、相変わらずの赤いパーカー姿で現れた。
フードも深くかぶったままで、その陰から黒い瞳が陰鬱に燃えている。赤みがかった金色のドレッドヘアがこぼれて、その隙間から覗くのは石のような無表情だ。
花咲氏とコミッショナーをはさんで、瓜子とメイ=ナイトメア選手が着席する。
すると、記者からいぶかしそうな声があげられた。
「あの、花咲代表。通訳の方がおられないようですが?」
「はい。ご遠慮なく、ご質問をどうぞ」
ざわざわと、不審の念に満ちたざわめきがあげられる。
その中から、まだ若そうな記者が挙手をした。
「メイ=ナイトメア選手。わずか二戦でタイトル挑戦というのは時期尚早ではないかという声もあげられているのですが、その点に関してはどうお考えですか?」
メイ=ナイトメア選手は、暗く燃える目でその記者をねめつけた。
数メートルの距離があるのに、記者はびくっと身を引いてしまう。
そして、メイ=ナイトメア選手は低い声で答えた。
「……試合を決めた、僕じゃない。文句は、興行主に言うべき」
記者たちはいっそうざわめき、瓜子も大いに驚かされた。
「ず、ずいぶん日本語がお上手ですね。以前の大会では、通訳の方がついていたはずですが……」
メイ=ナイトメア選手は感情の欠落した声音で、ただ「勉強した」とだけ答えた。
「……今回のタイトルマッチに、勝つ自信はおありでしょうか?」
「勝つ。ベリーニャと試合するまで、絶対に負けない」
「ベリーニャ選手以外の相手は、眼中にないということでしょうか?」
「ない。僕が最強、証明する」
わずかに言い回しが独特であるけれど、メイ=ナイトメア選手の日本語はジョンよりもオリビア選手よりもレム・プレスマンよりも流暢であった。
すると、この中で唯一である女性記者が、薄く笑いながら発言した。
「メイ選手は、とても熱心に日本語の勉強をされたのですね。一人称に僕という言葉を選ばれたのは、何故なのでしょうか?」
メイ=ナイトメア選手は初めて即答せず、ほんの少しだけ首を傾げた。
「日本語、一人称がたくさんだった。どれが自分に相応しいか相談して、決めた」
「どなたに相談したのでしょう?」
「オリビア・トンプソン」
「ああ、なるほど……僕という一人称、とてもお似合いだと思います」
女性記者が引っ込むと、別の記者が声をあげた。
「では、猪狩選手におうかがいします。今回のタイトルマッチ、自信のほどは如何ですか?」
「はい。メイ=ナイトメア選手の実力は計り知れませんけれど、勝てるように稽古を積んできました」
「具体的には、どのようなトレーニングを?」
「相手のスピードに対抗できるように……あと、寝技の技術に関しては未知数ですので、そちらにも時間を割くことになりました」
このあたりの返答は、ある意味ブラフである。相手選手の目の前で、手の内をさらすわけにはいかないのだ。ただ、記者陣も記事を書くために、こういった通り一辺倒の質問をせざるを得ないのだった。
「正規王者は、同門のサキ選手となります。サキ選手はたびたび猪狩選手のセコンドについているようですが、暫定王者となったあかつきにはどのようにお考えでしょう?」
「プレスマンは、同門でも馴れあいは許しません。もしも統一戦が決まったら、どちらかが出稽古で距離を取ることになると思います。……ただ、それも今回の試合を勝った上でのことですね」
「メイ=ナイトメア選手は、ライト級の選手など眼中にないと言っています。その件に関しては、如何ですか?」
記者としては、記事が盛り上がるようなコメントを期待しているのだろう。
しかし瓜子としては、本音で答えるしかなかった。
「この世界は実力がすべてでしょうから、試合で示します。自分も、負ける気はありませんので」
花咲氏は満足そうに微笑んでおり、メイ=ナイトメア選手は無表情のままだ。
そうしていくつかの応答の後、調印書にサインをさせられた。
あとは、向かい合っての写真撮影だ。
瓜子は多くの選手がそうするようにファイティングポーズを取ってみせたが、メイ=ナイトメア選手は棒立ちのままだった。
こんな燃えるような眼光をしているのに、目の前にいる瓜子のことをまったく見ていない。
彼女の目には、ベリーニャ選手しか映されていないのだ。
その目を瓜子に向けられるかどうかは――やはり、リングで実力を示すしかないようだった。
そうして無事に会場を出ると、入り口のところにはすでにユーリがスタンバイしていた。
「うにゅう。やっぱりうり坊ちゃんはすらすら答えられてかっちょいいなぁ。ユーリはまた満天下におバカっぽさをさらしちゃうよう」
「いえいえ、それはユーリさんの持ち味っすから」
「むにゃー! それはどういう意味なのかしらん?」
「大声出すと、記者さんたちに聞こえちゃいますよ。モニターで見守ってますから、頑張ってください」
瓜子は有言実行の信念のもとに、速やかに控え室へと舞い戻った。
金井選手は、ドアの外で誰かに電話をしている。式の後には八名全員で撮影をされるという話であったので、まだ帰ることはできないのだ。
瓜子が控え室のドアを開けると、来栖選手の目が開いていた。
静かで、そして力強い目が、じっとモニターを見据えている。
瓜子はそのお邪魔にならないように気をつけながら、自分もモニターのそばにパイプ椅子を引き寄せた。
『引き続きまして、ミドル級タイトルマッチの調印式を開始いたします。現王者、ジジ・B=アブリケル選手。挑戦者、ユーリ・ピーチ=ストーム選手です』
これまで以上のフラッシュがたかれる中、ユーリが笑顔で登場する。
そして逆側から、ジジ選手がゆらりと現れた。
ジジ選手は――おそらく、《アトミック・ガールズ》に参戦している全選手の中で、もっとも個性的な風貌の持ち主であろう。
記者であればその姿を見知らぬ人間もいないはずだが、その場にはこらえかねたようなざわめきがあがってしまっていた。
ジジ選手は身長百六十五センチで、ミドル級だから体重は五十六キロていど。計量後に五キロやそこらをリカバリーするとしても、そこまで極端な体形ではない。外国人らしく、数字以上に逞しく見えるぐらいのことだ。
問題は、そのファッションセンスであった。
いや、これはファッションセンスの範疇なのだろうか。
その身に纏っているのは、あちこちに穴の空いたダメージTシャツとレザーのベストで、ボトムはダメージデニムに黒革のブーツとなる。沙羅選手にも通ずるもののある、パンクテイストの装いであった。
それ自体は、そこまで奇抜ではない。
奇抜なのは、彼女自身であった。
彼女は手足や胴体ばかりでなく、咽喉もとや顔面にまでタトゥーを入れているのである。
咽喉から右の頬にかけては、鉤爪を生やした赤い手の甲が描かれている。それは、背中に大きく刻まれた赤い悪魔の指先であった。悪魔が節くれだった指先で、ジジ選手の顔面をかきむしろうとしているような構図であるのだ。
逆の頬には、書き殴ったような字体で『Gigi』の名が刻みつけられている。
目の周囲には黒と青で隈取がされており、それもメイクではなくタトゥーであるのだ。
髪型は見るたびに変化するが、今回は鮮やかなグリーンで染めあげられており、右半分だけ剃りあげられている。そしてその側頭部にも、トライバルの紋様が渦巻いていた。
眉毛は存在せず、耳ばかりでなく右の小鼻と唇の左端にもピアスをぶら下げている。右の腕には蜘蛛や蝙蝠やムカデといった奇怪な生き物たちが群がり、左の腕には半分溶け崩れた天使がにっこりと微笑み――地肌がほとんど見えないぐらいである。
これが《アトミック・ガールズ》ミドル級の絶対王者、ジジ・B=アブリケル選手であった。
プロデビューを果たしたのは五年前で、アトミックに参戦したのは三年前。アトミックにおける戦績は九戦すべてKO勝利、海外の試合も含めれば十八勝三敗。負けのすべては反則による失格負けという、凄まじい戦績を持つ強豪選手であるのだった。
そんなジジ選手とユーリが着席すると、記者席にはまたざわめきがあげられる。
これが本当に同じ人類であるのかと、誰もが驚愕にとらわれている様子であった。
『ジ……ジジ選手は、王座を返上して無差別級に転向したいと要求されているそうですね。もはやミドル級に敵はいない、ということなのでしょうか?』
勇気ある記者が一番乗りで質問を投げかけると、ジジ選手のかたわらに寄り添った壮年の白人男性がそれを通訳した。彼女の所属するブロイFAの会長、マテュー・ドゥ・ブロイ――かつてはキックの世界で王者となり、MMAに転身してからは《JUF》の四天王と呼ばれて卯月選手らと覇権を争った、格闘技ブームの立役者のひとりだ。
格闘技ブームの黎明期から活躍していたマテュー氏はすでに四十代半ばであり、トレーナー業に専念している。かつては甘いマスクで女性ファンを賑わせたものであったが、今はすっかり肉がついて、現役時代の鋭さは見る影もなかった。
ただしその目は、現役ファイターにも負けない眼光を宿している。
ジジ選手はへらへらと笑いながらフランス語で答え、それをマテュー氏が重々しい声で通訳した。
『愚問です。私はこちらの大会で九戦しましたが、名前を覚えている選手はひとりとして存在しません。もはやこの階級に戦うべき相手はいないという証拠でしょう』
長きにわたって日本に滞在していたマテュー氏は、日本語もきわめて堪能であった。ややイントネーションにクセはあるが、言葉の言い回しも現地人さながらである。
『そこで名乗りをあげたのが、ユーリ選手なわけですね。ユーリ選手とは未対戦ですが、どのような印象をお持ちですか?』
『……本当に彼女はファイターなのでしょうか? ラウンドガールとしては一級品だと思います』
『ユーリ選手は去年から頭角を表し、無差別級のトップファイターである来栖選手や小笠原選手をも下しました。実績としては、十分なのではないでしょうか?』
『……その選手たちも、私は知りません。また、知る必要もないと思っています』
来栖選手と同席していた瓜子は、思わず首をすくめることになった。
しかし来栖選手は彫像のような無表情のまま、ただモニターを見つめている。
『ジジ選手は昨年、交通事故にあわれて《アトミック・ガールズ》の無差別級王座決定トーナメントを辞退されたそうですね。もうお怪我のほうは大丈夫なのでしょうか?』
『……去年の事故は、痛恨でした。あのトーナメントに出場できていれば、このように面倒な手順を踏まずに、ベリーニャ選手と対戦できたのです。一年近くを棒に振ってしまい、激しく後悔しています』
『お怪我のほうは、どうなのでしょう?』
『……問題ありません。出血多量で生死の境をさまよいましたが、血の気の多い自分にはちょうどよかったかと思います』
『ジジ選手はかつて《スラッシュ》に参戦していましたが、素行不良で契約を打ち切られたため、ベリーニャ選手と対戦することがかなわなかったそうですね。もしかしたら、北米で再び活動するために、ベリーニャ選手との対戦を実績にしたいというお考えなのでしょうか?』
『……素行不良とは、何のことでしょう? 心あたりがありすぎて、どれのことだかわかりません』
マテュー氏の渋い声を通しても、ジジ選手の人を食った性格はありありと伝わってきた。彼女はタトゥーまみれの顔ににやにやと笑みを浮かべており、実際にはもっと性悪なコメントを並べたてているのではないかと思えるほどであった。
『……私からも、ひと言よろしいでしょうか?』
と、通訳のマテュー氏が精悍な表情で身を乗り出した。
『皆さんもご存じの通り、我々の母国たるフランスにおいては、いまだMMAの興行が認められておりません。それゆえに、ジジを筆頭とするフランスの選手は国外に活動の場を求めるしかないのです。ジジは決して私利私欲のためにベリーニャ選手との対戦を望んでいるわけではなく、母国においてもMMAという競技の素晴らしさが認知されるように尽力しているのだと……どうかその真情をご理解いただきたく思います』
その話は、瓜子もサキから伝え聞いていた。フランスではまだMMAが危険で野蛮な競技と見なされて、興行を行うことが禁止されているそうなのである。ジジ選手の本心は不明であったが、このマテュー氏はその実情を何とかするために、さまざまな場所で啓蒙活動を実施しているとのことであった。
(フランスなんかは立ち技競技のサバットがあったおかげで、キックのほうは盛んだったのにな。いまだにMMAの大会が禁止されてるなんて、日本人には理解できないや)
瓜子がそんなことを考えている間に、記者陣のインタビューはユーリへと転じられた。
『挑戦者のユーリ選手にお聞きします。絶対王者ジジ選手へのタイトル挑戦が決まり、今はどのような心境ですか?』
『はぁい。タイトル挑戦なんて、光栄の限りですぅ。ジジ選手はすっごく強いので、ユーリもいっぱいお稽古を積んできましたぁ』
ユーリは、のほほんとした笑顔でそのように語らっていた。
とりあえず、ジジ選手の異様な迫力に気圧されたりはしていないようだ。
『ジジ選手は女子選手最強のストライカーと称されています。その対策は、如何でしょうか?』
『そうですねぇ。もともとユーリは打撃技がへたっぴなので、いつも通りといえばいつも通りですぅ』
ユーリは天然で、記者陣の質問を受け流していた。こまかいトレーニング内容などを決して口走らないようにと、サキからも口を酸っぱくして言い含められていたのだ。
『先日は《NEXT》のイベントで、素晴らしいステージを披露されたそうですね。今回の大会では、やはり難しいでしょうか?』
『はぁい。お歌はとっても疲れるので、試合の日には無理ですねぇ』
『ユーリ選手はこのまま歌手活動に専念されてしまうのではないかと噂されているのですが、そこのあたりは如何でしょう?』
『あははぁ。お歌は、あくまで副業ですよぉ。ユーリはカラダが動かなくなるまで、ファイターを続けたいと思いまぁす』
『「ベイビー・アピール」のヴォーカル漆原氏と熱愛疑惑の噂が流れているようですが、それに関しては?』
『根も葉もない噂ですぅ。ウルシバラさんは、他に意中のお相手が……あわわ、ここはカットでお願いしますぅ』
記者席に、初めて笑い声が響きわたった。
みんな、ユーリのペースに呑まれてしまったのだ。地上最凶のプリティファイター、おそるべしである。
それにやっぱりユーリはふにゃふにゃしていて手応えがまったく感じられないので、真面目な質問も続かないのだろう。ユーリは暖簾に腕押しという格言を、生きながら体現しているような存在なのである。
そうして質問の種も尽きて、サインが執行されることになった。
そののちに、両者は壇上で向かい合う。
すると――ジジ選手が、ユーリのほうににゅっと首を突き出した。
その口が大きく開かれて、ユーリの鼻先に舌がのばされる。
その舌は真ん中ぐらいまで縦に裂かれており、その先端にそれぞれピアスが光っていた。スプリットタンという、ファッションのための人体改造だ。
蛇のように先の割れた舌が、ユーリの鼻先の空気をねっとりと舐め回す。
ユーリはファイティングポーズを取ったまま、ずっとにこにこと笑っていた。
「来栖選手、準備をお願いいたします」
と、こちらではスタッフの若者が呼びかけてくる。
それを見送るために瓜子も立ち上がると、来栖選手の静かな眼差しがこちらに向けられてきた。
「……桃園は、まったく呑まれていないようだな」
来栖選手が、瓜子に語りかけてきたのだ。
それを知覚するのに二秒ほどかけてから、瓜子は「は、はい!」と答えてみせた。
「ユ、ユーリさんは神経が太いんで、ジジ選手の外見に威圧されることはないと思います」
「……ジジの恐ろしさは、外見ではなく中身のほうだ。あれは化け物だと、美香もずっと言っていた」
美香とは、魅々香選手のことである。
「ただし美香は、桃園のことも化け物だと言っていた。どちらの化け物が勝つのか楽しみにしていると、桃園に伝えておいてもらいたい」
「お、押忍! ……でも、せっかくでしたら、ご自分でお伝えしてはどうでしょう?」
瓜子がそのように言いたてると、来栖選手は――あの来栖選手が、わずかに口もとをほころばせた。
「さんざん桃園の存在を否定しておいて、今さらそんな言葉を交わすのは……いささか、バツが悪い。君とは何も因縁はないはずなので、どうかお願いする」
「しょ、承知しました」
来栖選手に思いも寄らぬ言葉をかけられて、瓜子は何だか胸の詰まるような思いであった。
が――真の驚きは、そこからであったのだった。
「そういえば……花子も、君のことを化け物じみていると言っていたな」
「え? ま、鞠山選手が?」
「うん。そして、君や私の対戦相手も、立派な化け物だ。君や桃園に負けないように、私も化け物を目指さなくてはな」
そうして来栖選手は、やきもきしていたスタッフとともに控え室を出ていった。
瓜子は、なんだか――タイトル戦を十日後に控えて、とてつもない激励をいただいたような気分であった。
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