06 ワンド・ペイジ with ユーリ
『ワンド・ペイジ』の演奏は、素晴らしいの一言に尽きた。
これはもう、瓜子自身が彼らのファンであるのだから、ひいき目と言われても致し方がない。入場口の扉ごしに彼らの演奏を聞きながら、瓜子は何度も「今は仕事中!」と自戒を繰り返すことになってしまった。
もちろん瓜子には好きなバンドのライブを観にいくという習慣もなかったので、普段はCDを聴いているばかりである。あとはせいぜい、テレビの音楽番組でライブ演奏をときたま目にする機会があるぐらいのものであった。
然して、生演奏というのは、やはりとてつもない迫力を持っている。たとえ扉ごしであろうとも、瓜子はその迫力に目眩を覚えるほどであった。
『ワンド・ペイジ』はアコースティック形態の演奏も好んでいたが、やはりその本領は激しいロックサウンドとなる。山寺博人の振り絞る歌声と激しいエレキギターの旋律は、瓜子の胸を何度となくえぐってくれた。
ドラムの西岡桔平はもともとジャズから音楽に入ったプレイヤーであり、人間臭いリズムと疾走感を売りにしている。いっぽうベースの陣内征生は見た目に寄らぬマルチプレイヤーで、彼の多彩な音色こそが、本来は噛み合わなそうな山寺博人と西岡桔平のプレイを繋ぎ合わせているのだ、と――意外に音楽にも造詣の深い瓜子の姉などは、そんな風に評していた。
「ま、カート・コバーンとアート・ブレイキーがバンドを組んだようなもんかな」という姉の寸評も、瓜子には理解不能だ。
しかし瓜子は頭で理解できないまま、彼らの音楽に魅了されていた。理屈ではなく、瓜子の心が彼らの音楽を欲しているのだ。
「ひとつ言えるのは、あれはあの三人じゃないと成立しない楽曲ってことだね」
姉は、そんな風にも言っていた。
それは瓜子にも、少し理解できるように思う。山寺博人のしゃがれたハスキーな歌声も、激しいエレキサウンドも、繊細さと荒々しさを兼ね備えたアコースティックサウンドも、陣内征生の優美なベースの音色も、西岡桔平の叩き出す心地好いリズムも、『ワンド・ペイジ』には欠かせない要素であるのだ。誰かひとりでもメンバーが入れ替わったのなら、それはたとえ同じ曲であってもまったくの別物になってしまうはずであった。
「では、ご準備を」
と、瓜子がそんな想念にひたっている間に、四曲目も終わりに差し掛かっていた。三曲目までは激しい曲を立て続けに演奏していたが、現在聞こえているのはアコースティック形態の重く静かな楽曲だ。
ユーリはすでにジャージを脱いでいたので、それ以上の準備も必要なかった。ステージで暴れ回るわけではないので、ストレッチも不要であろう。ただ、白いワンピースの姿で何度も深呼吸を繰り返している。
「あにょう……もしもステージで涙を流してしまったらメイクが乱れてしまうやもしれませんが、それでもかまわないでしょうか?」
「かまいません」と、千駄ヶ谷はユーリの悪あがきを一刀両断する。
ユーリはついに観念した様子で、「うーん!」と大きくのびをした。
「それでは存分に泣かせていただきましょう! うり坊ちゃん、愛情たっぷりのケアをお願いね!」
「はい。まかせてください」
瓜子がノータイムで応じると、ユーリは「あは」と可笑しそうに微笑んだ。
そんな中、扉の向こう側から聞こえていた音色がゆるやかな尾を引いて消えていく。
『それじゃあここで、今日のゲストを紹介します』
西岡桔平のマイクを通した声が聞こえてくる。
それを合図に、扉が開かれた。
さすがにユーリも元気いっぱいに登場する気分にはなれなかったのか、まるでファッションショーのモデルのように優美な歩調で、しゃなりしゃなりとステージに近づいていった。
客席には、歓声とどよめきが広がっている。やはり、ユーリのワンピース姿というのは誰にとっても新鮮であるのだろう。
『さっき「ベイビー・アピール」さんのステージでも登場した、ユーリさんです。今日はユーリさんと一緒に、一曲だけお届けします』
西岡桔平が、普段通りの笑顔でそのように語らっている。噂によると、ステージ上ではドラムの彼しかMCを受け持っていないのだそうだ。
ステージの中央に立ったユーリは、マイクスタンドの角度を調整している。
椅子に座った山寺博人はギターを抱えたままうつむいており、アップライト・ベースを抱えた陣内征生はきょときょとと目を泳がせていた。
『それじゃあユーリさん、曲の紹介をどうぞ』
『はぁい。……セカンドシングルに収録されてる、「ネムレヌヨルニ」という曲を歌わせていただきまぁす』
いつになくしんみりとした声で、ユーリはそう言った。
さきほどの元気なステージとは豹変したユーリの様子に、客席はいっそうざわついている。
しばらくして、何の前置きもなくアコースティックギターが奏でられた。
音量を抑えたドラムと歌うようなベースの音色も、それを追いかけるようにして響きわたる。
そして――ユーリの歌声が重ねられた。
それと同時に、瓜子はハッと息を呑んでしまう。
スタジオのリハーサルでは、最初のサビに至るまでそこまで大きな変化はなかったのだが――このたびは、歌い出しから雰囲気が違った。
ユーリの甘ったるい声が、切々と言葉を綴っている。
とりたてて特徴的でもない導入部の歌詞が、早くも瓜子の情動を揺さぶってしまっていた。
いや、やっぱりこれは、歌声の力であるのだ。ユーリの幼くてキーの高い声が、すでに悲しみの予兆に震えて、瓜子の胸に食い入ってくるのだった。
Bメロでは演奏もゆったりとした雰囲気になり、ユーリの歌声もそれにつれてトーンを落としていく。
ここからサビで、堰を切ったように熱量が上げられるのだ。それを知っている瓜子は十分に心がまえをしていたのだが、そんな備えもまったく用を成さなかった。
歌声と演奏が、もつれあうようにして吹き抜けていく。
ステージ上のユーリは、泣くのをこらえるような顔で、悲痛に声を振り絞っていた。
その横顔を見つめているだけで、瓜子のほうが涙をこらえられなくなってしまう。
会いたいのに、会えない。
歌詞の主題となるその悲しさを、ユーリはありったけの力で歌いあげているのだった。
サビが終わると、山寺博人はギターをかき鳴らす。
エレアコのギターであるのに、エフェクターを重ねたエレキギターにも劣らぬ迫力だ。
スタジオではそれに共鳴するようなサウンドであったベースが、今回は優しくなだめるようなフレーズを奏でている。ドラムが音数を増やすのはリハの通りであったが、さらにシンバルの音色が増やされているように感じられた。
二番のAメロでは、ギターだけが残ってリズムを刻み始める。
ただし、リハではぴたりと止められていたベースとドラムも、低音とシンバルの音色を長く後に残していた。
彼らが宣言していた通り、同じ演奏というものは再現できないのだ。彼らは家で考案したフレーズを元に、その場の空気で思い思いに楽器を奏でているのだった。
Bメロでは心臓の鼓動のようにバスドラが鳴らされて、その高鳴りとともに二番のサビに突入する。
その熱量も、瓜子の想定を凌駕していた。
ステージ上のユーリも、ついに涙をこぼしてしまっている。
甘くかすれた声が、想い人に会えない悲しさを痛切に叫んでいた。
大サビでは、激情の失墜を示すかのようにすべての音色が沈み込む。
ユーリの歌声は、ほとんどすすり泣きであった。
そこに、ギターの音色が優しく寄り添っている。
ベースは何か、悲しさから目をそらすように朗らかな音色を奏でていた。
かつて物足りないと称されたドラムは、まばらな雨音のようにリズムを刻んでいる。
そうして、暴風雨のようなサビがやってきた。
すべてのパートが、感情を爆発させている。ユーリの歌声に、その思いに、我も我もと亡者が群がっているような心地であった。
こんな悲しい生に生きる価値はあるのかと、ユーリに全身で訴えかけられているような心地であった。
会いたい相手に会えないならば、どのような幸福もくすんでしまう。こんな悲しみを抱えたまま生きていくことに、どんな意味があるのか。意味があるなら、教えてほしい。でもたぶん、どんな言葉を聞かされようとも、自分は納得することができない。
だから、会いたい。
ユーリは、そんな風に泣き叫んでいるように見えてしまった。
ユーリの歌声が尾を引いて消えていき、それを追うようにして演奏の音色も消えていく。
ユーリはぽろぽろと涙を流しながら、客席に向かってぺこりと一礼した。
観客たちはたったいま目覚めたかのように、歓声と拍手を爆発させる。それから逃げるようにして、ユーリはふらふらとステージ脇のステップに移動した。
『ゲストのユーリさんでした。素敵な歌声をありがとうございました』
西岡桔平の声を聞きながら、ユーリは覚束ない足取りでステップを下りてきた。
その手が、瓜子の手をぎゅっと握りしめてくる。
「ごめん……前がほとんど見えないの」
子供のように幼げな声で、ユーリはそう言った。
その指先は、小さく震えてしまっている。
「先導します。とりあえず、戻りましょう」
瓜子は自分の顔を濡らしていた涙を大急ぎでぬぐってから、ユーリの手を引いて花道を引き返した。
会場には、まだ割れんばかりの歓声と拍手が響きわたっている。おそらくそれは、現時点でもっとも大きく会場を震撼させていた。
スタッフの開いてくれた扉をくぐり、舞台裏へと帰還する。
とたんに、拍手の音色が届けられてきた。
手を打ち鳴らしているのは、千駄ヶ谷である。
「お疲れ様でした、ユーリ選手。こちらの期待を遥かに超越する、完璧以上のステージであったかと思われます」
千駄ヶ谷はまるで機械仕掛けのように、一定のリズムで手を打っていた。
ユーリはぐしぐしと泣きながら、「ありがとうございましゅ……」と頭を下げる。
「どうぞこの後は、ご自由におすごしください。何かありましたら、すぐにご連絡を。……猪狩さん、よろしくお願いします」
「承知しました。ユーリさん、控え室に戻りましょう」
ユーリはまだ、瓜子の手をしっかり握ったままだった。
その剥き出しの白い腕には、びっしりと鳥肌が立ってしまっている。しかしそれでも、瓜子の手を離すことができないのだ。
瓜子はバッグから取り出したタオルをユーリに手渡してから、控え室へと急いだ。
そこで待ち受けていたのは、やはり『オーギュスト』の面々だ。
「どうもお疲れ様でしたぁ。ユーリさん、あんなしっとりした曲もイケるんですねぇ。危うく、もらい泣きしちゃうところでしたぁ」
ピエロメイクのイリア選手は、まったく内心がうかがえない。瓜子はユーリの代わりに「ありがとうございます」と答えてから、すみやかにドレッシングスペースを目指した。
着替えの詰まったバッグを取り上げて、カーテンの向こう側へと身を隠す。
それでようやく、瓜子は息をつくことができた。
「ユーリさん、お疲れ様です。本当に頑張りましたね」
「うん……ぎゅーってしてもよい?」
「いいっすよ」と答えると、ユーリは何故だかその場に膝をついた。
そして、瓜子の腰に両腕を回して、胸の下あたりにピンク色の頭をすりつけてくる。それはまるで、母親に甘える子供のような仕草であった。
「……こんなに大変なのに、妥協しないできちんと歌ったユーリさんは、立派っすよ」
「……だって、ほどほどに手を抜くなんて器用なことはできないもん……」
むずかる子供のように言いながら、ユーリはぎゅっと瓜子の腰を抱きすくめてくる。
「……涙でとろけたメイクが、うり坊ちゃんのお洋服を汚しちゃうだろうなぁ」
「そんなの、いくらでもかまわないっすよ」
「うん。ユーリも自制心を発動させる余力はないにょ」
瓜子はひそやかに微笑みながら、ユーリのやわらかい髪を撫でてみせた。
「いちおう言っておきますけど、自分はユーリさんのおそばを離れたりしませんからね」
「わかってるよぅ……どうして妄想上の悲しみに、ここまで胸をかき乱されてしまうのだろう……」
「ユーリさんは、部分的に純真ですからね」
「にゅー」と不満の声をあげながら、ユーリは瓜子のみぞおちに頬をすりつけてきた。温かい涙が、瓜子の着ていたTシャツをしとどに濡らしていく。
小笠原選手たちは同じ場所で瓜子たちを待ってくれているはずだが、まだしばらくはそちらに出向けそうになかった。
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