03 魔法少女と極悪バニー

 定刻の午後四時に、日本国技会館の入場口は開かれた。

 普段のイベントよりも早めの開場であったのは、やはり長丁場を想定してのことである。試合というのは内容次第で終了時間が大きく変動するものであるが、さしあたってはすべての試合が時間切れの判定勝負にもつれこむことを想定してタイムスケジュールを定めなくてはならないのだ。


 その上で、本日は四組のバンド演奏が企画されている。

 各バンドの持ち時間は、それぞれ三十分。急遽ユーリをゲストに迎えることになった『ベイビー・アピール』と『ワンド・ペイジ』は四十分だ。

 それらのステージと格闘技の試合が七試合分で、最長五時間という見込みが立てられていた。


 なお、バンドの演奏は格闘技の二試合と交互に行われる予定となっている。


 オープニングアクトは、鞠山選手と『モンキーワンダー』のライブ演奏。

 第一試合は、若手の男子選手の一戦。

 第二試合は、灰原選手と女子選手の一戦。

 セカンドステージは、ユーリと『ベイビー・アピール』のライブ演奏。

 第三試合は、中堅の男子選手の一戦。

 第四試合は、小笠原選手と女子選手の一戦。

 サードステージは、ユーリと『ワンド・ペイジ』のライブ演奏。

 第五試合と第六試合は、それぞれトップファイター同士の一戦。

 フォースステージは、イリア選手と『ザ・フロイド』のライブ演奏。

 第七試合のメインイベントは、《NEXT》と《フィスト》の王者対決。


 以上が、本日のイベントの概要であった。

 メインイベントはノンタイトル戦であるが、国内ではもっともメジャーな二団体の王者対決である。今日というビッグイベントには相応しいカードであるはずであった。


「さあ、そろそろ魔法老女の出番だねー!」


 瓜子たちのかたわらで、灰原選手がはしゃいだ声をあげている。場所は、ステージを遥かな眼下に見下ろす二階席の一画だ。瓜子たちは灰原選手に誘われて、あまり席の埋まっていないエリアの二階通路から鞠山選手らの勇姿を観戦することになったのだった。


 本日は試合場と音楽ステージの二段構えであるため、いわゆる砂かぶりのアリーナ席は申し訳ていどしか準備されていない。その代わりに、一階の升席と二階の固定椅子の客席は、いい具合に賑わっていた。前売りチケットは七千枚ていどの売り上げと聞いていたが、それ以上のお客が詰めかけているように感じられる。


 それにやっぱり、相撲を見るための升席というのは、なかなかに新鮮であった。

 座布団などは撤去されているものの、金属のパイプで低い仕切りのされた平たい空間に、それぞれ四名ずつのお客らが座って舞台を見下ろしているのだ。そのようなスタイルでMMAの試合やバンドのライブ演奏を観戦するというのは、なかなか他の会場には見られない光景であるはずであった。


 やがて開演時間の四時三十分から五分ほどが経過すると、会場の照明が落とされる。

 歓声の中、花道から『モンキーワンダー』のメンバーと鞠山選手が姿を現した。


『モンキーワンダー』は、男女混合のロックバンドである。ヴォーカルとドラムが女性で、ギターとベースが男性という、ちょっと風変わりな編成であった。

 ポップな曲調からハードな曲調まで幅広い楽曲を取りそろえており、さまざまな層から支持を受けている若手の有望株バンドであると、瓜子はそのように聞いていた。


「うわー、魔法老女にステージ衣装を寄せてるんだね! ま、あいつよりトシくったメンバーはいないんだろうけどさ!」


 灰原選手はいちいち口が悪かったが、明らかにこの場で誰よりも浮き立っていた。

 ちなみにこの場には、灰原選手と小笠原選手の陣営六名が勢ぞろいしている。女子選手の四名は鞠山選手と合宿稽古をともにした間柄であるので、やはり誰もがこのステージを見逃せないと考えたようだった。


 ちなみに本日の鞠山選手は、普段以上に気合の入ったコスチュームを身に纏っている。やはり試合衣装というのはさまざまな規制がかかるので、装飾もおとなしめであるのだろう。アッシュブロンドの髪には巨大なリボンが揺れており、パステルイエローのワンピースには魔法少女に相応しいフリルやコサージュの飾りがぞんぶんに凝らされていた。


 そして共演者の『モンキーワンダー』は、ヴォーカルの女性が鞠山選手と色違いのピンク色をしたコスチュームを身に纏っている。ドラムの女性は魔女のような三角帽、左右の男性陣は吸血鬼のような黒マントとパンプキンヘッドのかぶりもので、ハロウィンパーティーさながらだ。


『みなさん、今日はご来場ありがとうございまーす!』


 ステージに上がったヴォーカルの女性が元気いっぱいの声をあげると、客席にはいっそうの歓声が渦巻いた。その間に、演奏陣は細かな機材チェックをしている。


『格闘技と音楽の祭典、「NEXT・ROCK FESTIVAL」、いよいよ開幕でーす! みなさん、準備はいいですかー?』


 観客たちは、なかなかのテンションで応じている。こういう混合イベントでは彼女たちを知らないお客も多数存在するはずであるが、この日の祭を楽しもうという意欲に不足はないようだ。


『トップバッターはわたしたち、「モンキーワンダー」でーす! そして今日は、お友達のまりりんちゃんと一緒にイベントを盛り上げたいと思いまーす!』


 鞠山選手はにまにまと微笑みながら、得意のバトン芸を披露していた。

 本日はすべてのバンドが女子ファイターとコラボすることになったが、この『モンキーワンダー』と鞠山選手だけは、旧知の間柄であったのだ。どうやら鞠山選手が過去にリリースした作品の楽曲提供やオケの演奏などでも、何度か関わっているらしい。魔法少女の人脈、おそるべしである。


『こっちも準備はオッケーかなー? それじゃあ、「モンキーワンダーwithまじかる☆まりりん」、スタートしまーす!』


 ギターの軽快なリフとともに、演奏が開始された。

 とたんに、瓜子の隣にいた小柴選手が「わ、わ」と身を乗り出す。


「これ、この曲、『スピードスター』です! わたし、大好きな曲なんです!」


「へえ。小柴選手は、『モンキーワンダー』のファンだったんすか?」


「いえ、これは好きなアニメの主題歌で……あ、いや! 好きって言ってもその、円盤を買うほどではないのですけれど!」


「えんばん?」と瓜子が首を傾げている間に、鞠山選手の歌声が響きわたった。

 鞠山選手の歌声は、その入場曲で耳にした覚えがある。もともと彼女は周波数が高いのにざらざらとした濁った声音という、なかなか奇妙な声質をしていたのであるが――歌となると、その声質がまたいっそう際立って聞こえた。


 キンキンと甲高い上に、鼓膜をこすりあげるようにして響く、独特の歌声である。初めて耳にしたときにはおかしな歌声だなあと思っていた瓜子であるが、その声には奇妙な中毒性があり、回数を重ねるごとに心を引きつけられてしまうのだった。


 歌がBメロに差し掛かると、本来のヴォーカルにバトンタッチされる。こちらはきわめてのびやかで、可愛らしいのに迫力のある歌声だ。

 そしてサビでは、二人の歌声が重ねられる。

 まったく似ていない声質であるため、対照の妙が楽しかった。なおかつ、おおよそはユニゾンであるのだが、ところどころにハモリのパートも入れられて、いっそう心地好く響く。本職のヴォーカルはともかくとして、鞠山選手の歌唱力というものもかなりのレベルに達しているようだった。


「すごいすごい! 鞠山さんって、こんなにお歌が上手なんですね! わたし、ファンになっちゃいました!」


 小柴選手は、すっかり少女のお顔になってしまっている。

 灰原選手は「ふふん」と斜にかまえつつ、腕を組んだまま身体を揺すってリズムを取っていた。


 観客席のほうも、大盛り上がりだ。

 さすが、オープニングアクトに選ばれただけはある。中には音楽などに興味のない格闘技ファンだっているのであろうに、会場には速やかに一体感というものが形成されているように感じられた。


『次の曲は、まりりんちゃんの曲でーす!』


 二曲目が開始されると、会場はいっそう盛り上がっていく。

 この日、鞠山選手は最初から最後まで出ずっぱりであった。『モンキーワンダー』の曲も鞠山選手の曲もツインヴォーカルのアレンジが為されており、三十分間のフルステージをこなすことになったのだ。話に聞くと、鞠山選手は『モンキーワンダー』のライブにもたびたびゲスト出演しており、そのたびに持ち曲が加算されていったとのことであった。


 日本国技会館はライブ会場として使用される頻度が多いためか、照明の設備などもそれなりに充実している。その華やかなる演出に後押しされて、彼女たちはオープニングアクトとしての使命を十分以上に達成していた。


『どうもありがとうございましたー! この後は、激しいバトルをたっぷり楽しんでくださーい!』


 大歓声の中、『モンキーワンダー』と鞠山選手が退場していく。

 天覇ZEROのコーチも、笑顔で拍手を送っていた。


「いやあ、花子のステージなんて初めて観たけど、なかなか大したもんなんだなあ。正直、ちょっと侮ってたよ」


「ファイターと歌手とカフェの経営者の三足のわらじですからね。すべては魔法少女を軸にしてるんでしょうけど」


 小笠原選手も、試合前とは思えぬ朗らかな笑顔であった。

 しばらく静かにしていた灰原選手が、「よーし!」と声を張り上げる。


「前座としては、まあまあだったじゃん! それじゃあ次は、あたしの番だ!」


「ああ。それじゃあ、出陣するか」


 多賀崎選手と四ッ谷ライオットの男性コーチを引き連れて、灰原選手は通路の奥へと消えていった。彼女は二試合目の出場であったので、すでにしっかりとウォームアップした後であったのだ。


 会場には、『それでは、第一試合を開始いたします!』のアナウンスが響きわたっている。まさしく、音楽と格闘技の饗宴であった。

 若手の男子選手たちが入場し、客席にまた新たな歓声が響きわたる。

 そちらの試合が開始された頃に、鞠山選手がひょこりと姿を現した。


「花さん、お疲れ様。試合に負けない熱気だったよ」


「ふん。音響の設備はいまいちだったけど、そんなもんで調子を崩すわたいたちじゃないんだわよ」


 鞠山選手はコスチュームの上からマントのようなポンチョを羽織っており、眠たげなカエルめいた顔はずいぶんメイクが溶けかけていた。やはり三十分間のステージというのは、試合に負けない運動量であるようだ。


「ピンク頭。あんた、セカンドステージに出るんだわね? こんなところでうだうだしてて、準備は大丈夫なんだわよ?」


「はぁい。ユーリの出番は四曲目なので、灰原選手の試合を観戦するお許しをいただきましたぁ」


「呑気なことをほざいてるだわね。……あんたは客寄せパンダなんだわよ? その使命を全うしなかったら、わたいがただじゃおかないんだわよ」


「はぁい。まりりんさんのステージを拝見したら、なけなしの自信も木っ端微塵ですけれど、全身全霊で頑張りまぁす」


 そのとき、会場に歓声が巻き起こった。

 早くも、第一試合に決着がついたのだ。右ストレートでダウンをした青コーナー側の選手がそのままパウンドをくらいまくり、KO負けを喫したようだった。


「ふん。お次はウサ公の出番だわね」


 瓜子たちも、いっそうの熱意で舞台を見守ることになった。

 まずは青コーナーから、灰原選手が意気揚々と入場してくる。両肩を剥き出しにした白いレオタードに、黒いストッキングさながらのロングスパッツ、金色の髪をウサギの垂れ耳に模した、いつも通りの試合衣装だ。彼女の珍奇な試合衣装も、《NEXT》の規定においてはかろうじて許されたのだという話であった。


 そして赤コーナー側からは、武中たけなかキヨなる選手が入場してくる。

 彼女は本日のメインイベントに出場する、《NEXT》の現バンタム級王者の実妹であった。もともと実力者として名を馳せていた兄に続いてプロデビューを果たし、《NEXT》や《フィスト》で輝かしい戦績を築いてきたのだ。

 デビュー後の戦績は、五勝一敗。そのうちの三勝はKO勝利という、女子選手としては立派な戦績であろう。


 いっぽう灰原選手は五勝五敗という戦績で、こちらはなんと勝った試合のすべてが一ラウンドKOとなる。デビューの時期も武中選手よりも先んじているし、本来であれば格上と見なされてもおかしくないところであった。


 が、一般的に灰原選手は穴だらけのファイターと見なされている。

 まず、グラウンドテクニックはからきしであるし、何よりスタミナが足りていない。五勝のすべてが一ラウンドKOというのも、二ラウンド目までもつれこんだら必ず敗北するという実情の裏面であるのだ。


 それに灰原選手は、アマチュアとしての経験をほとんど積んでいない。《フィスト》のアマ大会に一度出場した後は、すぐさま《アトミック・ガールズ》のプレマッチに専念し、そこでバニーガールのコスプレとファイターらしからぬ色気で人気を博し、大した苦労もなくプロデビューすることになったのだ。その後、減量に苦しんで階級を上げたのは、周知の通りである。


 武中選手はアマの試合でも実績を積み、確かな実力者としてプロデビューした。デビュー後も、外国人選手に一敗しただけでここ一年は連勝を重ねている。KOパワーを持つストライカーだがグラウンドの技術も磨いており、《NEXT》で女子の王座が制定されればまず間違いなく戴冠するであろうと囁かれる逸材であった。


 ――以上のことを、瓜子はサキから聞き及んでいる。

 武中選手は《アトミック・ガールズ》の興行に一度として参戦していないため、瓜子にとってはまったく未知の存在であったのだ。


 ケージに上がった武中選手は、実に堂々としたたたずまいであった。

 年齢は二十四歳で、おそらく灰原選手よりは若年であろう。二十歳を過ぎてから格闘技を始めたという灰原選手よりも、下積みの期間は遥かに長いはずだ。


 これは、武中選手のために準備されたマッチアップであった。

 本日のイベントは《NEXT》の主導であるために、《アトミック・ガールズ》の選手は外様の外敵という立場であったのだ。


 しかしもちろん、灰原選手にブーイングがあびせられるほどではない。観客たちが求めているのは、あくまで血の沸く熱戦であろう。《NEXT》の運営としては武中選手をプッシュしたいという思惑であっても、観客たちはそれに見合う実力があるかを見届けるだけのことであった。

 さらに言うならば、灰原選手はなかなか男好きのするビジュアルを有している。コスプレ衣装を嫌う硬派なファンも少なくはなかろうが、それでも試合場における歓声は武中選手に負けていなかった。


「ふみゅふみゅ。やはり見知った女子選手が金網の中に陣取るというのは、なかなか新鮮なものですにゃ」


 両選手のコールがされている間に、ユーリがそのようにつぶやいていた。

 それに反応したのは、小笠原選手である。


「アンタも何回か《NEXT》に出てたと思うけど、その頃はまだケージじゃなくってリングだったはずだよね。アンタはケージのこと、どう思ってんの?」


「はにゃ? どう思っているとは、どういった観点からでございましょうか?」


「まあ単純に、好き嫌いの話でいいよ。アンタ、ケージで試合をしたいとか思ってる?」


「それはまあ……あ、いえ、だけど、ユーリの浅ましき本性をさらけだしてしまうと、小笠原選手をご不快にさせてしまう可能性が……」


「そんなわちゃわちゃ考える必要ないって。ケージの試合が嫌なわけじゃないんだね?」


「はいぃ……ユーリがベル様に心を射抜かれた試合も、ケージが舞台でありましたので……ユーリとしてはかわゆさをアピールするのに、リングのほうが見通しがよくて望ましいように思わなくもないのですけれど……決してケージを嫌がっているわけではございませぬ」


 ユーリはもじもじと身をよじり、小笠原選手は声をあげて笑った。


「うん。なかなか斜め上の回答だったわ。でもまあケージを嫌ってないなら、幸いだ。アトミックだっていつケージに移行するかわかったもんじゃないから、アンタもタイトル戦が落ち着いたら対策を始めたほうがいいかもね」


「ふにゅ? アトミックでも、そのような話が持ち上がっているのでしょうか?」


「いや、まったく。むしろ、アタシの希望かな。《NEXT》も《フィスト》もケージに移行したら、またアトミックだけ出遅れることになっちゃうからね」


 話がそこまで及んだとき、ケージにて試合開始のブザーが鳴らされた。

 両選手はゆっくりと、ケージの中央に進み出ていく。その姿に、鞠山選手が「ふん」と鼻を鳴らした。


「また馬鹿みたいに突進するかと思ったら、意外に冷静だわね。セコンド陣の調教が行き届いてるみたいだわよ」


「灰原さんも、色々と考えなおしたみたいだよ。合宿稽古がいい転機になったんじゃないのかな」


 そういった話は、瓜子たちも多賀崎選手から聞いていた。

 歓声の中、両者はジャブを打ちあっている。確かにこれまでの灰原選手には見られなかった、落ち着いた立ち上がりだ。


(これは相手も、逆に面食らってるんじゃないのかな)


 灰原選手の過去の試合映像を分析したならば、そこには「猪突猛進」の四文字がくっきりと浮かびあがっていたはずであるのだ。瓜子のことをイノシシ呼ばわりしつつ、その称号に相応しいのはどう考えても灰原選手のほうであるはずであった。


 そんな灰原選手が、堅実にジャブを打って距離を測っている。

 相手はむしろその堅実さを嫌がるかのように、大きく踏み込んだ。右フックをフェイントにした、両足タックルだ。


 しかし灰原選手はすかさず両足を後方に引くバービーの動きでタックルを回避して、相手の背中にのしかかる。合宿稽古では、鞠山選手や多賀崎選手や、果てには瓜子や小柴選手からも、さんざんテイクダウンを奪われていた灰原選手であるのだ。そんな雪辱を晴らすかのような、見事な逃げっぷりであった。


 そして灰原選手は相手の横合いに回り込んで足をすくわれる危険をも回避してから、すみやかに距離を取る。

 その際に、指先でちょいちょいと手招きをして相手を挑発するのは、灰原選手の変わらぬ気質であった。


 武中選手はいくぶん熱くなった様子で、自分から乱打戦を仕掛けてしまう。

 序盤からあれこれ思惑を外されて、いささかペースを乱した様子だ。

 しかし驚くべきことに、灰原選手は足を使って乱打戦にも応じなかった。

 灰原選手は、意外にステップが軽い。グラップリング・スパーでもぴょこぴょこ逃げ回って、決して組み合おうとしなかったものである。彼女は下半身がしっかりしており、意外にバネのあるステップワークを体得していたのだった。


 しかし、それもまた、これまでの試合では決して見せることのなかった姿であった。

 試合中の彼女は猪突猛進で、常にインファイトばかり仕掛けていたのだ。なおかつ、二ラウンド目からはがくんと動きが落ちるので、その頃にはもうステップを踏む余力も残されていなかったのだった。


 武中選手の猛攻と灰原選手の軽妙なステップに、観客席は沸きたっている。

 中には「打ち合えよー!」と野次を飛ばしている人間もいるようであったが、灰原選手はおかまいなしであった。


 気づけば時計は、二分を過ぎている。

 灰原選手は円を描くように移動するサークリングもしっかりわきまえており、金網際に追い込まれることもなかった。

 猛打を振るっていた武中選手は、いったんあきらめた様子で動きを止める。

 とたんに、灰原選手が前に出た。

 油断していたのか、武中選手はおもいきり左のショートフックをくらってしまう。返しの右フックはかろうじてかわしていたが、バックステップの足取りは明らかに乱れていた。


 灰原選手は肉感的な右足を振り上げて、下がる武中選手の腹を打ち抜く。力強い、前蹴りだ。灰原選手がロー以外の蹴りを放つのも、なかなか珍しい話であった。

 バランスを崩した武中選手は、がしゃんと背中から金網に激突する。

 そこに、灰原選手が躍りかかった。

 左右のフックを振り回し、相手を金網に釘づけにする。さらに相手の頭を抱え込み、右の膝蹴りもお見舞いした。


 相手はよろけつつ、横合いに逃げようとする。

 その肩を、灰原選手が荒っぽく突き飛ばした。

 倒れ込んだ相手の上にのしかかり、今度は豪快なパウンドの嵐だ。

 すぐそばに金網が立ちはだかっているためか、武中選手は動きを取ることもできず、弱々しい動作で頭を抱え込んだ。


 レフェリーは低く腰を沈めて、じっと両者の挙動を見守っている。

 その足もとに、ふわりと白いものが落ちた。相手陣営が、タオルを投入したのだ。

 レフェリーは、すみやかに灰原選手の身体を武中選手のもとから引き剥がした。

 パウンドを振るうさなかであった灰原選手は、勢いあまってマットに倒れ込んでしまう。そうして不平がましくレフェリーのことをにらみあげたが、試合終了のブザーが鳴らされると、きょとんとした面持ちで周囲を見回した。


 大歓声が、灰原選手の勝利を祝福している。

 それに気づいた灰原選手はレフェリーを突き飛ばすようにして起き上がり、八角形の試合場を一周したのち、金網の上へと飛び乗った。


 偶然なのか計算なのか、瓜子たちがたたずむ二階席に面した位置である。

 灰原選手は両腕を振り上げて、何かわめきたてているようであった。

 まだケージ内に入ることも許されないセコンド陣も、外から灰原選手の太腿や背中をぴしゃぴしゃ叩いている。


『一ラウンド、三分四十五秒。パウンドアウトで、バニーQ選手の勝利です!』


 この距離では、灰原選手の表情もよくわからない。

 早くその顔を間近から拝見したいものだと、瓜子はそんな感慨を噛みしめることになった。

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