02 本番前
格闘技部門のルールミーティングと音楽部門のリハーサルが終了しても、会場内には騒然とした空気があふれかえっていた。
やはり、異なるジャンルのイベントを同時に執り行うというのは、大変な苦労がつきまとうのであろう。本番と同じ音量でバンドのリハーサルが行われるかたわらで、試合に臨む選手たちのメディカルチェックが同時進行されるさまなどは、なかなかにシュールで混沌としていた。
ともあれ、スタッフ陣の尽力あって、おかしなアクシデントも起きないまま、開場の準備が整えられていく。
ロビーに設営された物販ブースなども、なかなかに大変な騒ぎであった。本日は四組のバンドと《NEXT》と《アトミック・ガールズ》のアイテムがずらりと取り揃えられているのだ。壁には一面にタオルやポスターやTシャツなどの見本品が掲げられ、在庫を詰め込んだダンボールも山積みにされている。販売担当のバイトスタッフも、てんやわんやの騒ぎであった。
しかしまあ、リハーサルさえ終えてしまえば、ユーリもあとは本番を待つだけの身だ。
が、ユーリにあてがわれた控え室には、なんともいえない微妙な空気がたちこめてしまっていた。その場には、音楽部門に出演する三組の女子選手が集められてしまったのである。
三組の女子選手とは、すなわち鞠山選手とユーリ、そしてイリア選手の率いるダンスチーム『オーギュスト』となる。
リハーサルを終えた鞠山選手は、控え室にやってくるなり鏡に向かって、黙々とメイクに取りかかっていた。
イリア選手はソファに座って、何をするでもなくぽけっとくつろいでいる。
その他のメンバーはさまざまで、二名はやたらと大きな声でおしゃべりをしており、もう一名はヘッドホンをつけて読書にふけっており、もう一名は何かに取り憑かれたかのように延々とストレッチに励んでおり――とにかく彼女たちには、まとまりというものが存在しなかった。
誰も何も悪いことはしていないのだが。とりあえず、鞠山選手はイリア選手を嫌ってしまっているために、態度で接触を拒絶している。そして『オーギュスト』の側もよその人間にはいっさい無関心な様子で振る舞っているものだから、変に空気が強張ってしまっているのだ。それでもって、二名のメンバーだけが辺りをはばからぬ大声でずっと浮ついた会話を繰り広げているものだから、なんとも居たたまれない雰囲気になってしまっているのだった。
「……どうしよう、うり坊ちゃん。ユーリは傍若無人を売りにしているというのに、なんだかとっても居心地が悪いにょ」
と、控え室の隅で小さくなっていたユーリが、ぼしょぼしょと囁きかけてくる。こちらはとっくにメイクも着替えも済ませてしまって、まったくの手持無沙汰であったのだ。ちなみに千駄ヶ谷は、挨拶回りと称して姿を消してしまっていた。
「ユーリさんは意外に繊細な面もあるから、こういう場は苦手なんでしょうね。もちろん、自分も同感っすよ」
「うみゅ。できればお外にいたいぐらいなのだけれども……そうすると、鞠山選手がひとりぼっちになっちゃうしにゃあ」
ユーリがそんな風に鞠山選手を思いやっているのは、瓜子にとって嬉しい変化であった。
しかしそれゆえに、こちらも身動きが取れなくなってしまっている。鞠山選手と三人でおしゃべりに興じればよいようなものであるのだが、そうするとたちまちイリア選手も加わってきそうな気配であったのだ。
すると、鏡に向かっていた鞠山選手がふいに「うり坊」と声をあげてきた。
「わたいは、咽喉が渇いたんだわよ。表の自販機で、スポドリでも買ってくるだわよ」
「え? あの、今日は自分も仕事なんで、ユーリさんのおそばを離れるわけにはいかないんすけど……」
「だったら、そいつも連れていけばいいだわよ。合宿ではさんざん世話を焼いてやったんだから、それぐらいしたってバチは当たらないだわよ」
鞠山選手はずんぐりとした背中をこちらに向けていたため、どのような表情をしていたのかもわからなかった。
瓜子はしばし迷ってから、「了解っす」と腰をあげる。
「外の空気を吸いがてら、お飲み物を買ってきます。鞠山選手は、スポドリでいいんすね?」
「だから、そう言ってるんだわよ。うだうだ言ってないで、さっさと行くだわよ」
かくして、瓜子とユーリはおかしな空気の蔓延した控え室から脱出することがかなった。
外に出るなり、ユーリは「ふひー」と息をつく。
「にゃんか、おどろおどろした空気だったねぇ。もしかしたら鞠山選手は、ユーリたちに気をつかってくれたのかしらん?」
「きっとそうっすよ。ご自分とイリア選手の確執に巻き込むのは申し訳ないって考えてくれたんじゃないっすかね」
鞠山選手は、灰原選手よりもはっきりとイリア選手を嫌っている。長きの朋友たる雅選手もあのような感じであったのだから、きっと根の深い確執であるのだろう。しかも鞠山選手はイリア選手に二連敗しているために、いっそう錯綜した心情になってしまうはずであった。
「ユーリはべつだんイリア選手のこと、そんなに苦手じゃないんだけどにゃあ。……というか、ユーリも本来は鞠山選手に嫌われてる立場なのだよねぃ」
「合宿稽古であれだけお世話してくれたんすから、もうユーリさんに対する確執は解消されてると思いますけどね。……来栖選手と兵藤選手の一件もありますし」
「んにゃ? あのお二人が、どうかしたのかしらん?」
「そういうところは、鈍いんすね。たぶんアトミックの古参の方々も、ユーリさんのことを立派な選手だって認めてくれたんすよ。……あ、雅選手はどうだかわかりませんけど」
「にゃっはっは。ああやってロコツに嫌ってくださるお相手は、べつだん気にならないユーリちゃんなのです。むしろ、鞠山選手みたいにしがらみができちゃったほうが、ユーリはへどもどしちゃうにゃあ」
それはきっと、相手に嫌われたくないという気持ちが生じるためであるのだろう。
しかし、意外な繊細さを有しているユーリのために、瓜子も言及するのは避けておくことにした。
まだまだ騒然としているロビーを通り抜けて、会場の玄関口に設置された自動販売機を目指す。
すると、長身の人影がひょこひょこと追いすがってきた。
「どうもぉ。ボクもご一緒させてもらっていいですかぁ?」
予想に違わず、それはイリア選手であった。
歩きながら、瓜子は「どうも」と頭を下げてみせる。鞠山選手の目がなければ、イリア選手と交流を深めるのもやぶさかではなかった。
「さっきはなんか、申し訳ありませんでしたねぇ。ボク、鞠山さんに嫌われちゃってるもんだから、居心地が悪かったでしょう?」
「ええ、まあ……これが試合の控え室とかだったら、べつだん気にもならないんですけどね」
「あははぁ。そういう日は、みなさん試合に集中してますもんねぇ」
そんな風に言いながら、イリア選手は目を細めて微笑んだ。
「あと、今はうちのメンバーもちょっとギスギスしちゃってるもんだから、余計に空気が悪くなっちゃったんですよぉ。かさねがさね、申し訳なかったですぅ」
「え? そちらで何かあったんすか?」
「ええ。実は今日のイベントで、『オーギュスト』はしばらく活動休止することになっちゃったんですよねぇ」
のほほんとした顔で、イリア選手はそのように言いたてた。
「ちょっと人間関係であれこれあって、頭を冷やそうってことになっちゃったんですよぉ。ちょうど仕事の切れ間だったんで、一年ぐらい休もうかって話に落ち着きましたぁ」
「そうだったんすか。それは、大変だったっすね」
「あははぁ。いちおうリーダーなんて立場の人間としては、不甲斐ないばかりですぅ。……それでですねぇ、いい機会だから、ボクもしばらく格闘技のほうに力を入れてみようかなって考えてるんですよねぇ」
それは、意外な発言であった。
そこで自動販売機に到着してしまったので、とりあえずドリンクを購入する。イリア選手は、ミネラルウォーターを購入していた。
「どれだけオファーをもらえるかはわからないですけどねぇ。アトミックとか《NEXT》とか《フィスト》とか、思いつくプロモーターに売り込みをかけて、試合を組んでもらおうと思ってるんですよぉ。ヒマな時間は、スクールで技を磨こうと思いますぅ」
「そうなんすね。イリア選手が本腰を入れてMMAに取り組んだら、それこそ脅威的だと思いますよ」
「あははぁ。この前の試合では、猪狩さんに惨敗でしたからねぇ」
ユーリよりも背の高いイリア選手はのほほんと笑いながら身を屈めて、瓜子の顔を覗き込んできた。
「猪狩さん、わかってますぅ? ボク、猪狩さんに負けたのが悔しくって、こんな考えに至っちゃったんですよぉ?」
「え、あ、そうだったんすか?」
「そうですよぉ。ボク、試合の勝敗なんてどうでもいいと思ってたんですけど、あの試合だけは何だか悔しくてたまらなくなっちゃって……今でも夢に見るぐらいなんですぅ」
イリア選手はのんびりと笑っており、まったくつかみどころがなかった。
ただ――細めた目の中に輝く瞳は、どこか『マッド・ピエロ』じみた光を帯びているように感じられる。
「どうせだったら、舞台は大きいほうがいいですからねぇ。猪狩さんは是非、アトミックのチャンピオンになってくれませんかぁ? ボクも何とか頑張って、チャレンジャーとしての実績を積み上げてみせますからぁ」
「もちろん次の試合には、勝つつもりで挑みますけど……でも、それは暫定王者決定戦ですからね。次の挑戦者を受けつける前に、統一戦を行わないといけないんです」
「だから、それに勝って正規王者になってくださいってお願いしてるんですよぉ。お相手は、あのサキっていう赤い髪をしたお人でしょう? 猪狩さんなら、余裕で勝てますってぇ」
瓜子は一瞬で、頭に血がのぼるのを自覚した。
「あのですね……サキさんは、道場の先輩です。イリア選手との試合でもセコンドについててくれたんですけど、お気づきでなかったですか?」
「もちろん、気づいてましたよぉ。その上で、猪狩さんを煽ってるんですぅ」
イリア選手は屈めていた身体をのばして、百六十八センチの高みから瓜子を見下ろしてきた。
「昼からずっと、それをお伝えしたかったんですよねぇ。控え室に戻ったら、鞠山さんとおしゃべりを楽しんでくださいよぉ。もう猪狩さんに用事はありませんので、ボクもお邪魔をしたりしませんからぁ」
それだけ言って、イリア選手はさっさと歩き出してしまった。
そのひょろ長い背中に、瓜子は「あの」と呼びかけてみせる。
「イリア選手って、どうしてそんな風に憎まれ口を叩くんすか? 無自覚の天然さんってわけじゃないっすよね」
イリア選手は歩を止めないまま、瓜子たちに横顔を見せてにんまり微笑んだ。
「ボク、ピエロですからねぇ。ピエロってのは、場をひっかき回してナンボでしょう? それでもって、キングを踏みにじれるジョーカーになれるように、これからも精進いたしまぁす」
最後までふざけた態度を崩さず、イリア選手は立ち去っていった。
その手のスポーツドリンクをくぴくぴと飲んでから、ユーリは「ふみゅ」と声をあげる。
「イリア選手も、なかなか謎なお人だねぃ。嫌いじゃないけどサキたんをブジョクされてしまったから、もしも試合になったらうり坊ちゃん頑張ってね!」
「はい。あんな安い挑発に乗るわけじゃないっすけど……イリア選手が本当にやる気になったんなら、再戦が楽しみなところっすよ」
瓜子を熱くした頭の血は、すみやかに下げられていた。
その代わりに、胸の中が熱くなっている。イリア選手との再戦が実現するならば、瓜子としても望むところであった。
(鞠山選手たちと仲良くなれたのは、すごく嬉しいことだけど……こういう相手も、悪くないもんだよな)
瓜子はそんな思いを胸に、ユーリに笑いかけることができた。
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