04 大怪獣ジュニア

 第九試合は、ついに卯月選手の登場であった。

 ジョアン選手の勝利に熱くたぎっていた会場に、さらなる歓声が爆発する。

 ユーリは「おおう」とうめきながら、ニット帽ごしに両耳を押さえていた。


「ベル様のお兄様を上回るほどの大歓声ではにゃいですか。やっぱり卯月選手も大人気なのだねぇ」


 それは、当然の話であろう。卯月選手も格闘技ブームの象徴であり、しかもご当地の日本人選手であったのだ。なおかつこれは卯月選手にとって、数年ぶりの凱旋試合であるはずであった。


 卯月選手は、ジョアン選手ほど順風満帆なファイター人生を送っていたわけではない。《JUF》が消滅して、《アクセル・ファイト》にスカウトされたという経緯は同一であったのだが、彼はしばらく思うような結果を出すことができず、わずか二年で契約解除――いわゆる、リリースされてしまったのだ。


 当時の卯月選手は九十キロていどのウェイトで、ライトヘビー級であった。

《JUF》の試合ではそのウェイトで百キロ以上のヘビー級選手を相手取っていたのだが、《アクセル・ファイト》では苦戦を強いられることになった。《JUF》の試合場はリングであったため、ケージでの戦いに順応できなかったのだとか、どこかに故障を抱えていたのだとか、ただ単純に《アクセル・ファイト》のレベルについていけなかっただけであろうだとか、理由は諸説あるのだが――ともあれ、卯月選手は二勝四敗という望ましからぬ結果を残して、《アクセル・ファイト》を去ることになったのだった。


 それから二年近くの間、卯月選手は表舞台から姿を消した。

 そうして次に姿を現したとき、彼は大幅な肉体改造によってウェイトを七十七キロにまで落としていた。そうして、二階級も下のウェルター級の選手として復活を果たしたのだった。


 それから新生・卯月選手は、北米のローカルプロモーションで猛威をふるった。《JUF》で活躍していた時代よりも研ぎ澄まされた打撃技と緻密な寝技と、そして驚異的な爆発力でもって、立ちふさがる選手を次々とマットに沈めていったのだ。


 そうして卯月選手は二年ほどで、《アクセル・ファイト》に返り咲くことがかなった。二年ごとに異なる時代を刻み、六年ごしにかつての栄光を取り戻したのだ。

 それから現在までの二年ほどで、卯月選手は《アクセル・ファイト》のトップファイターとしての地位を確立させることがかなった。

 この節目が終わったならば、次こそは《アクセル・ファイト》の王座を目指せるのではないか、と――そんな期待をかけられているわけである。


 そんな卯月選手の半生を、瓜子とユーリはサキ先生から懇々と教示されていたのだった。


「ああ見えて、卯月選手は苦労人だったのだねぇ。いつもぽへーっとしてるから、ちっともわからなかったよぉ」


 ユーリにそんな風に評された卯月選手が今、花道を歩いている。

 セコンドとして同行しているのは、レム・プレスマンとジョン、そして見慣れぬ白人男性だ。


 ウェアを脱いだ卯月選手の肉体は、これ以上もなく研ぎ澄まされていた。

 やはり瓜子の記憶には、まだ《JUF》時代の姿が刻みつけられているためであろうか。無駄な肉が削ぎ落とされて、抜き身の日本刀みたいに鋭い肉体であるように感じられてしまう。


 身長百八十三センチで七十七・一キログラムがリミットであるのだから、MMAファイターとしては格別長身なわけでも小柄なわけでもない。昨今は特に長身で細身のファイターが増えているという話であったから、なおさらだ。


 しかし卯月選手は、おそらくリカバリーで十キロほど体重を戻している。たったいま体重を計測したならば、八十七キロぐらいはあるはずだ。

 それでいて、無駄肉というものは一片も見当たらない。稽古場ではずっとウェアを着込んでいたので、瓜子が彼の裸身を生で拝見するのは初めてであったのだが――広背筋の発達具合などは尋常でなく、シャープさと重量感が奇跡のような黄金比で体現されているかのようだった。


 しかしその顔は、お地蔵様のように穏やかである。

 糸のように細い目で、意外に彫りの深い顔には感情らしい感情も浮かべられていない。完璧なまでに鍛え抜かれた肉体との対比が、いっそ不気味であるほどであった。


 ケージに上がった卯月選手は、何のてらいもなくぺこりと一礼する。ステップを踏んだり舞台を駆けたりすることもなく、ただ大きな岩のようにその場にたたずんでいた。


 それと相対しているのは、やはり北米のトップファイターだ。

 身長は、卯月選手をわずかに上回っているぐらいであろうか。骨格が秀でている分、肉体の厚みもまさっているようだが――卯月選手に比べれば、至極ナチュラルな身体つきであるように思えた。


「相手はレスリング出身で、やっぱり打撃技が強力らしいっすよ。つくづく、レスリング&ボクシングってのがトレンドなんですね」


「ふみゅふみゅ。卯月選手も、オールラウンダーなのでせう?」


「そうっすね。生粋のオールラウンダーだと思いますよ。日本で活躍してた頃から、立ち技にも組み技にも寝技にも穴はありませんでしたし……柔術を取り入れるのにも積極的だったみたいですしね」


「うみゅ! 今度こそ、寝技の攻防を拝見したいところだにゃあ」


 大歓声の中、試合開始のブザーが鳴らされた。

 どちらもスタンダードな構え方で、距離を測りつつジャブやローを振っていく。

 大歓声に動じることもない、とても落ち着いた立ち上がりだ。


 サキいわく――卯月選手は、優等生であった。

 穴がない代わりに、ずば抜けたものもない。よくいえば優等生で、悪くいえば無個性な、そういうタイプのオールラウンダーであるというのだ。


「ただし、あいつの大怪獣っぷりは、おめーもガキの頃に拝見してんだろ?」


 サキは、そのように言っていた。

 無個性きわまりない卯月選手には、たったひとつだけ素っ頓狂な個性が隠されていたのだ。


 しかし、この試合の序盤ではその個性が発揮されることもなく、一種淡々としたペースで進行されていく。

 熱狂の坩堝であった歓声も、いつしかトーンが下げられていた。


 ジャブとローの間に、ミドルやハイも繰り出される。

 タックルのフェイントや、上体への組みつきも差し込まれる。しかしテイクダウンにまでは至らず、どちらかがケージ際まで追い込まれると、しばらく腕の差し合いが展開されてから、どちらともなく離脱した。

 離脱の際には、肘打ちや膝蹴りなどが繰り出される。

 しかしどちらも油断せず、そういった攻撃もしっかりガードできていた。


 きわめてレベルの高い攻防だ。

 が、メリハリというものが存在せず、熟練者同士のスパーを眺めているような心地である。おたがいにデフェンス能力が卓越しているため、有効な技を成立させることができず、消耗戦にも至らなかった。


「……なんか、よくも悪くも手が合っちゃってるみたいっすね」


 ここで貪欲な選手であれば、一気に形勢を自分のものにしてやろうと、奇襲技でも仕掛けそうな局面である。

 が、本日の両選手はそんな危険を犯そうともせず、ひたすらベターな攻撃を繰り出している。当人たちは極限まで集中して相手の隙をうかがっているのだろうが、それはおそらく格闘技の経験者でなければ感じ取れないほど静かな空気であった。


「うみゅう……せめて寝技の攻防だったら、こういう空気も楽しめるのににゃあ」


 ユーリはそのようにぼやいていたが、実力が伯仲しているために、どちらもテイクダウンを取れずにいる。また、強引にいって失敗するようなリスクは犯さないと、どちらもそのように考えているようだった。


 そうしてけっきょく大きな動きもないまま、第一ラウンドは終了する。

 第二ラウンドでは、相手がいくぶんアクティブに動き始めた。

 が、ステップワークを多用して、蹴り技を増やしたぐらいのものである。あくまで安全運転であったため、テイクダウンを取られるような隙は見せず、その代わりに有効な攻撃に繋げることもかなわなかった。


 いっぽう卯月選手は、まったく変わらぬペースである。

 きちんと攻撃は出しているし、相手の攻撃も防御しているのだが、意表を突くような動きは見せない。堅実で、いかにも優等生な試合運びであった。


 どちらかが逃げの姿勢を取っているわけでもないので、客席からブーイングがあがることもない。

 が、明らかにフラストレーションが蔓延していた。

 会場に満ちるのは、もはや歓声ではなく、間延びしたざわめきである。試合場に目をやりつつ、誰もが雑談を始めたような様相であった。


(ひとつひとつのテクニックはすごいんだけどな。どうしてこう、空気がゆるんじゃうんだろう)


 瓜子自身、両選手の力量に感心しつつも、この試合を楽しんでいるわけではない。何か、格闘技の教材テキストでも拝見しているような心地であるのだ。そして瓜子であるならば、こうまでレベルの高い優等生的なファイターを、がむしゃらなやり口で突破してやりたいと願うところであった。


 そんな微妙な空気の中、第二ラウンドも終了してしまう。

 チーフセコンドのレム・プレスマンは、椅子に座った卯月選手の正面に座り込み、その手足に氷嚢をあてがいながら、何か助言を送っている。この距離では彼の穏やかな眼差しも見て取れないので、赤鬼のような大男が叱責しているように見えてしまう。


 そうして行われた、第三ラウンドである。

 ここに至っても、試合の流れが変わることはなかった。

 どちらもスタミナは切らしていないので、大きく失速することもない。同じペースで、同じリズムで、淡々と試合が進行されていった。


(もしかして――)と、瓜子は思う。

 もしかして、相手選手は卯月選手の素っ頓狂な個性を警戒しているのだろうか?

 いつかはそれが発動されるのだろうから、それに備えてスタミナを温存し、ダメージをもらわないように安全策を取っているのではないか――と、瓜子にはそんな風に思えてしまった。


(だとしたら、ものすごい忍耐強さだな。このままじゃあ、判定だってどっちにつくかわからないし……そもそもスタミナを温存したところで、卯月選手のアレを防げるのかなあ)


 瓜子がそんな風に考えている間にも、時間は刻々と過ぎていく。

 こっそり隣を盗み見ると、ユーリは今にもうたたねを始めてしまいそうな目つきになってしまっていた。


(卯月選手のアレを見逃したら気の毒だし、今のうちに声をかけておこうかな)


 と、瓜子が口を開きかけたとき――

 相手選手が、猛然とラッシュを仕掛け始めた。

 これまでの安全運転が嘘であったかのように、打撃技の乱打を繰り出している。時計を見ると、ちょうど残り時間が二分を切ったところであった。


 会場内が一気にヒートアップしたので、ユーリもぱちりと目を開けた。

 卯月選手はケージ際まで追い込まれ、亀のように丸くなってしまっている。そのガードの上から、相手選手は暴風雨のような攻撃を叩きつけていた。


「うわぁ、大変。卯月選手が大ピンチだぁ」


 さしたる緊迫感もない調子で、ユーリがそのようにつぶやいた。

 相手選手は卯月選手の首裏に手をかけて、何度となく膝蹴りを叩きつけている。気の早いレフェリーであれば、今にもストップをかけてしまいそうな様相だ。

 突如として訪れた卯月選手の大ピンチに、会場内の観客たちは悲鳴まじりの声をあげている。


 と――丸くなっていた卯月選手の身体が、ふいにふわりと横合いに移動した。

 相手選手の膝蹴りが目標物を失って、黒い金網に叩きつけられる。

 相手選手は確かに卯月選手の首裏を押さえつけていたはずであるのに、卯月選手はうなぎのようにその腕をするりと逃げ出してしまったのだった。


 相手選手は慌てた様子で、卯月選手に向きなおる。

 その顔に、左ジャブが当てられた。

 相手選手は、バックステップで間合いの外に逃げようとする。

 しかし卯月選手はそれよりも早く足を踏み込んでおり、追撃の右フックを繰り出していた。


 ジャブとフックをクリーンヒットさせられた相手選手は、力なく頭部をガードしようとする。

 その瞬間には、空いたボディに卯月選手の膝蹴りが叩きつけられていた。

 相手選手はたまらず前屈みの姿勢となる。

 それと同時に、そのこめかみに右エルボーが打ち込まれた。

 行く先々に、卯月選手の攻撃が待ち受けている。まるで、自分から卯月選手の攻撃に当たりにいっているかのようだ。


 相手選手は、ほとんど背中を向けるようにして横合いに逃げようとする。

 その踏み出そうとした足の先には、卯月選手の足先が存在した。

 呆気なく足を払われた相手選手は、マットに倒れ込む。

 マットに倒れ込む頃には、卯月選手がその上にのしかかっていた。むしろ、卯月選手が足を掛けながら押し倒したような格好だ。


 倒れた頃には、卯月選手がマウントポジションを取っている。

 相手選手は、大きく腰を跳ね上げようとした。

 しかしその頃には卯月選手が腰を浮かせていたため、相手選手はひとりで腰を上下させたようなものだった。


 その腰がマットに落ちる頃には、卯月選手の右拳が相手の顔面に叩きつけられている。

 相手選手が顔面を防御しようと腕をあげかけた瞬間、空いた胸もとにエルボーが落とされた。

 相手選手はたまりかねた様子で、卯月選手の身体を突き放そうと両腕をのばした。

 その頃には卯月選手がその右腕をつかみ取り、横合いに身を倒している。

 魔法のように、腕ひしぎ十字固めの形が完成されていた。


 相手選手の右腕が、ありうべからざる角度にまでそり返っている。

 卯月選手が技を解いてから、レフェリーが卯月選手の肩を叩き、相手選手が狂ったように左手でマットをタップした。

 何もかもが、卯月選手よりも一歩遅れてしまっているのだった。


 試合終了のブザーが鳴らされて、荒波のように荒れ狂っていた歓声が頂点に達する。

 そんな中、卯月選手はばたりと大の字にひっくり返ってしまう。勝利者コールをするためにレフェリーが呼びかけても、卯月選手は起き上がろうとしなかった。この十数秒間で、卯月選手もすべての力を使い果たしてしまったのだ。


 大歓声の中、ユーリは垂れ気味の目をぱちくりとさせていた。


「えーと……いったいナニが起きたのでございましょう? 卯月選手だけ、動きが倍速再生されていたように感じられたのですが」


「はい。《JUF》の時代には、『大怪獣タイム』とか呼ばれてましたね。卯月選手はどんなにスタミナ切れを起こしてても、いざとなったら三十秒だけ無茶苦茶な身体能力を発揮できるんすよ」


「えー、なにそれ! マンガみたい!」


「ほんとっすよね。当時は八百長とかを疑われてたみたいっすよ。そんなの、人間技じゃないってね。……どうやら父親の赤星大吾さんもそういう無茶苦茶なお人だったらしくて、余計に疑われてたみたいです」


 しかし、天下の《アクセル・ファイト》がそのようなイカサマを許すはずがない。そもそも卯月選手の人気を売り物にしていた《JUF》とは異なり、《アクセル・ファイト》には卯月選手を特別扱いする理由もないのだ。そうであるからこそ、卯月選手も移籍当時は結果を出せずにリリースされることになったのだろう。


 それに、卯月選手が人間離れした身体能力を発揮するというのは、厳然たる事実であるのだ。

 たとえ元気いっぱいの状態でも、あんな化け物じみた動きのできる人間が、どこに存在するというのか。ユーリの言う通り、それは常人の倍ぐらいのスピードで動いているように感じられる、脅威的な反応速度であったのだった。


「でも、ああやって暴れると三十秒ぐらいでスタミナが尽きるから、使いどころを間違えると大惨敗しちゃうんすよ。《JUF》時代のジョアン選手とも、戦績は五分だったはずですしね」


「ううむ。東洋の神秘じゃのう。……であれば、赤星弥生子殿もその驚異的なパワーを受け継いでおられるのであろうか?」


 瓜子は完全に意表を突かれて、言葉に詰まることになった。


「そんな話は聞いたこともないっすけど……想像したら、ちょっと恐ろしいっすね」


「うみゅ。ま、あの御方がアトミックに参戦してこない限り、ユーリには関係ナッシングだけどねぇ」


 そんな言葉を交わしている間に、ようやく起き上がることのできた卯月選手が勝利者コールを受けて、会場内にまた歓声を爆発させていた。

 こんな試合を見せられれば、誰もが我を失うであろう。斯様にして、卯月選手というのは素っ頓狂な個性を持つファイターであったのだった。


 レフェリーに腕をあげられた卯月選手はバケツで水をかぶったように汗だくで、分厚い肩と胸もとを激しく上下させている。

 しかしまた、その顔はお地蔵様のように無表情そのもので、糸のように細い目はどこを見ているのかもわからなかった。


「何はともあれ、ジョン先生が嬉しそうで何よりだわん。ユーリたちも、心から卯月選手の勝利を祝福いたしましょう」


 そう言って、ユーリはぺちぺちと拍手を送っていた。

 会場内の興奮も冷めやらぬ中、両選手は退場して、最終試合が開始される。

『アクセル・ロード』の、コーチ対決である。それはどちらも北米のヘビー級選手であり、試合は第一ラウンドのKO劇で速やかに締めくくられることとなった。


 勝利者インタビューも終了したならば、本日の興行も無事に終了である。

 一万名の人間が織り成す人混みをかきわけるつもりにはなれなかったので、瓜子たちはしばらくその場で待機することを余儀なくされた。


「ユーリさん、お疲れ様でした。アマ大会に続いて二度目の試合観戦はいかがでした?」


「うみゅう……卯月選手に秘密にしてくださるのでしたら、言葉を飾らずに打ち明けますけども」


「それがもう、答えになっちゃってますね。やっぱりお気に召しませんでしたか」


「うみゅ。男子選手の試合ばかりで、寝技の攻防もほぼ皆無であったから、大満足とは程遠い心情でありますにゃあ。四時間ばかりも拘束されて、至福と呼べるようなひとときは、ベル様のお兄様と卯月選手が垣間見せてくださった数秒間だけだったのではないかしら」


 おおよそは、瓜子の予想した通りであった。

 瓜子としても、《アクセル・ファイト》の試合を観戦できたという感慨が先だって、試合そのものにはあまり心を動かされなかったのだ。ユーリと同様に、心に強く焼きつけられたのは卯月選手とジョアン選手のふたりのみであった。


「やっぱり自分らには、アトミックのほうが合ってるってことっすかね。志が低いって叱られちゃいそうっすけど」


「どのような罵詈雑言をあびせかけられようとも、本音を偽ることはできませんにゃあ。これが女子選手の興行だったり、もっと寝技の攻防を楽しめるような試合展開だったりしたら、その限りではないかもしれないけれどねぇ」


 そんな風に言いながら、ユーリは「ふわあ」と大あくびをした。

 瓜子はもうひとたび広大なる試合会場を見回してから、ユーリに視線を戻す。


「でも、これでケージの試合に予備知識がつきました。来週の『NEXT・ROCK FESTIVAL』はケージの試合場っすからね。小笠原選手や灰原選手がそこで試合をするって考えると、ちょっとワクワクしませんか?」


「うみゅう。しかし、あのおふたりもストライカーだからにゃあ……」


「そうっすか。だけどユーリさんだって、他人事じゃないっすよ。ここ最近はご無沙汰っすけど、以前は《NEXT》からもしょっちゅうオファーを受けてたじゃないっすか。年内はアトミックの興行に集中するとしても、来年にはケージでやり合う機会があるかもしれないっすよ」


「にゃっはっは。そんな先のことは、なかなか考えが及ばないですにゃあ」


 ユーリは呑気に笑っていたが、瓜子は別なる感慨にとらわれていた。

 よくよく考えれば、ユーリは去年も一昨年も、《JUFリターンズ》からのオファーを受けているのだ。去年は負傷のためにオファーを断り、一昨年はノーマ・シルバ選手と引き分けという結果に終わってしまったが、もしも現在のモンスターっぷりをその場で披露することがかなったのならば――《アクセル・ファイト》のプロモーターの目にとまる可能性もなくはない、ということであるはずであった。


(ユーリさんだったら……《アクセル・ファイト》の舞台をしっちゃかめっちゃかにできるんじゃないのかな)


 そんな風に考えると、瓜子はやたらと昂揚してしまう。

 しかしそれは、見果てぬ将来の話であった。

 まずは来週の、『NEXT・ROCK FESTIVAL』――そしてその次は、来月のタイトル挑戦だ。そこでジジ選手を打ち倒し、無差別級王者たるベリーニャ選手に挑むというのが、現在のユーリが注力すべき一大事であるのだった。


(それに……ユーリさんが《アクセル・ファイト》にスカウトされたら、自分とは離ればなれになっちゃうわけだしな)


 そんな思いを込めながら、瓜子はユーリの顔を見つめた。

 サングラスをかけなおそうとしていたユーリは、「ふにゅ?」と小首を傾げている。


「どったの、うり坊ちゃん? そんな喜びと悲しみの入り混じった目で見つめられたら、ユーリはドギマギしちゃうぞよ」


「忘れた頃に鋭い勘を働かせるのはやめてください。……なんでもないっすよ」


 瓜子とて、《スラッシュ》の軽量級王者であったメイ=ナイトメア選手との一戦を控えているのだ。

 それを打ち倒すことができたならば――世界でも戦えるという証になるのではないだろうか?

 しかし、それもまた、見果てぬ将来の話であった。

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