03 黒き豹
メインカードの第三試合は、ついに女子選手による一戦であった。
早見選手の敗北に――というよりも、それをサポートする立松の心情を思いやってしょんぼり気味であったユーリが、にわかに瞳を輝かせる。
「どっちもよく知らない選手ってことに変わりはないけど、女子選手の試合ってだけで、ユーリはちょっぴりワクワクしてきちゃったぞよ」
「はい。しかも、青田選手の登場っすからね」
青コーナーから、かつて《フィスト》のアマチュア大会で出くわした青田ナナ選手が入場してきた。セコンドは、彼女の父親である青田コーチと、見知らぬ大柄な男性――おそらく、大江山すみれの父親たる師範代であろう。そして最後のひとりは、なんとレオポン選手であった。
青田ナナは、気合の乗ったいい顔をしている。メディカルスタッフの前でウェアを脱ぎ捨てると、その下からは日本人離れした頑健なる肉体があらわにされた。
彼女も対戦相手と同じく六十一・二キロ以下の階級であるはずだが、このたびは急な代役出場であったので減量の期間も設けられなかった。よって、六十五キロ以下のキャッチウェイトで試合が行われることになったのだ。その規定すらぎりぎりのクリアーだったのではないかと思えるほど、彼女は逞しい身体つきをしていた。
(この階級で四キロも違ったら、余裕でひとつ上の階級になっちゃうもんな。青田選手は急なオファーで大変だったろうけど、対戦相手だってそんな重い相手と試合をするのはけっこうなリスクになるはずだ)
そんな風に念じる瓜子に見守られながら、青田ナナはケージに入場した。
お次は相手選手、《アクセル・ファイト》の女子バンタム級王者、アメリア・テイラー選手の入場だ。
アメリア選手は打って変わって、にこやかな笑顔の入場であった。
ブロンドの髪は細かく編み込まれて、白い顔に青い瞳が輝いている。ものすごい美人というわけではないが、それなりに整った顔立ちで、とにかく表情が朗らかなものだから、やたらと愛嬌が感じられた。
ウェアを脱いだ後はセコンド陣とひとりずつハグをして、マウスピースをくわえた上で、メディカルスタッフの前に立つ。筋骨隆々というタイプではなく、どっしりとした力のありそうな体格であった。
(たしか身長は、百七十センチぐらいだったよな。そうすると、ベリーニャ選手とほとんど変わらないサイズのはずだけど……肉付きのよさは比べ物にもならないな)
まあ、十日ほど前に対戦相手が変更されて、そこで減量の必要がなくなったのだ。ならばあちらも、ほとんど平常体重で出てきているのかもしれなかった。
ボディチェックを受けたアメリア選手は、にこやかな面持ちのままケージに足を踏み入れる。
《アクセル・ファイト》のプロモーターが魅了された実力選手で、現役王者でもあったが、日本における知名度はまだまだであるのだろう。《アクセル・ファイト》で女子選手の試合が行われるようになってから、いまだ一年も経過していないのだ。観客席の人々は、これまでに出てきた外国人選手に対するのと変わらぬ熱量でまばらに拍手を送っていた。
「ふみゅふみゅ。ほどほどにかわゆらしい選手ですにゃ。えーと、あの御方はレスリング出身だったっけ?」
「ええ。しかも、世界大会の銀メダリストっすよ。海外では、レスリングや柔道のメダリストがMMAに転向するのも珍しくないみたいっすね」
それだけの栄誉と報酬が、《アクセル・ジャパン》には存在するということなのであろう。しかも彼女はいまだ二十三歳であり、アスリートとしてはこれからピークを迎える世代であるはずであった。
リングアナウンサーは、いくぶん芝居がかった調子で両選手のプロフィールをアナウンスする。
青田ナナは黙然とシャドーをしたまま腕を上げようともしなかったが、アメリア選手のほうは笑顔で両手を振っていた。ユーリにも負けない愛想のよさだ。
そうして両選手は、レフェリーのもとに招き寄せられ――
そうして間近に相対することで、体格の差異がはっきりとした。
アメリア選手のほうが、明らかに大きい。
身長はほんの数センチであるが、手足や胴体はひと回りも違うように感じられた。
もしも両者が規定通りに減量をしていたとしても、リカバリーで同じだけの体重を回復させていたら、けっきょくこの体格差であったのだろうか。これまでの試合よりも、外国人選手との骨格差がはっきりと浮き彫りになっているようだ。
(これは……急なオファーだった青田選手のほうが不利っていう要素しか残らなそうだな)
レフェリーに簡単なルール確認をされたのち、両選手はケージ際まで引き下がる。
そうして試合開始のブザーが鳴らされるなり、アメリア選手は勢いよく飛び出した。
形相が、変わっている。
さきほどまでのにこやかな表情はどこへやら、眉間から額にまで深い皺が刻まれて、青い瞳は爛々と輝き――まるで闘犬のごとき形相であった。
しかし青田ナナも怯みはせず、真っ向からアメリア選手の突進を迎え撃つ。
が――アメリア選手が豪快な右フックを放つと、その勢いに負けて後退してしまった。
アメリア選手はぶんぶんと両腕を振り回し、青田ナナをケージ際まで追い詰めていく。
そうして青田ナナの背中がケージに触れるなり、アメリア選手はいきなり身を屈めて相手の胴体に組みついた。
そのまま腰の下で両腕をクラッチして、青田ナナの身体を軽々とかつぎあげてしまう。
後方はケージなので、右側に身をよじって、青田ナナの身体をマットに叩きつける。そして、相手の両足に胴体をはさまれたガードポジションのまま、またぶんぶんと両腕を振り回した。
青田ナナは頭を抱え込んでガードするばかりで、逃げるアクションを起こすこともできない。
するとアメリア選手は、青田ナナの腹部に容赦のないエルボーを落とし始めた。
青田ナナは苦しげに身をよじり、腹をかばおうとする。
それで空いた顔面に、アメリア選手は再びパウンドを振るい始めた。
この距離でも、赤い血が飛沫いているのが見て取れる。
そのパウンドが五発を数えたところで、レフェリーは試合をストップさせた。
起き上がったアメリア選手は満面の笑みで試合場を一周し、最後にケージの上へと飛び上がる。そこにまたがって観客席に投げキッスをする彼女は、もう試合前の朗らかな笑顔を取り戻していた。
ドクターやスタッフに囲まれた青田ナナは、起き上がることもできない。
マット上の凄惨さとアメリア選手のにこやかな笑顔が、非現実的なぐらい断絶していた。
「……なんか、あっという間に終わっちゃったねぃ」
ユーリは椅子の上でずるずると沈み込みながら、不平がましい声をあげた。
「グラップリングの攻防を期待してたのに、けっきょく殴るばっかだったし……期待してたぶん、ガッカリだにゃあ」
「それはまあファイトスタイルの好みに関しては、どうにもならないっすけど……でも、アメリア選手は《アクセル・ファイト》のチャンピオンなんすよ。世間的には、彼女こそが現在の女子最強選手なんです。これまでの最強選手だったベリーニャ選手とどっちが強いのかって、北米なんかではけっこうな盛り上がりらしいですからね」
「ベル様だったら、絶対に負けないよぉ。……たとえ何かの間違いでお負けになられてしまったとしても、ユーリの憧れに一片の曇りも生じたりはしないしねぇ」
ユーリの目標は、「ベル様のようにかわゆくて強いファイター」であるのだ。このアメリア選手というのは、色々な意味でユーリの美意識にそぐわなかったということなのだろう。瓜子としても、それに反論する気持ちにはなれなかった。
(卯月選手は、ユーリさんだったらこのアメリア選手にも勝てるっていう見込みなのかなあ)
瓜子がそんな風に考えている間に、青田ナナ選手は父親に肩を貸されて退場していた。それに付き従うレオポン選手も、がっくりと肩を落としている。
そうしてアメリア選手も退場したならば、第八試合の開始だ。
青コーナーから大柄な日本人選手が入場しても無反応であったユーリは、赤コーナー陣営が入場するなり、「にょわあ!」と雄叫びをあげた。
「う、うり坊ちゃんうり坊ちゃん! ベル様だよ! ベル様がご降臨しておられるよ! これはユーリだけの見ている幻覚ではないよね!?」
「あんまり騒がないでくださいよ。ベリーニャ選手がお兄さんのセコンドについてたって、何もおかしくないでしょう?」
そんな可能性すら微塵も考えていなかったのかと思うと、瓜子は何だか可笑しかった。これだけベリーニャ選手に心酔していながら、ユーリはどこか抜けているのだ。
ともあれ、ジョアン・ジルベルト選手の入場である。
彼こそ、《アクセル・ファイト》の誇るミドル級の絶対王者であった。
おそるべきことに、彼は《アクセル・ファイト》に移籍してから七年間、無敗の記録を打ち立てているのだ。ミドル級の王者になってからは五年ほどが経過しており、その間に十回の防衛記録を打ち立てている。かつては《JUF》の四天王と呼ばれていた若き天才が、北米でその才覚を爆発させたような在り様であった。
身長は百八十七センチで、ミドル級のリミットは八十三・九キログラムとなる。その褐色の身体は革鞭のように引き締まり、スマートにすら感じられる。彼はベリーニャ選手と同じくナチュラル・ウェイトで試合に臨んでいるために、数字の通りの体格であるのだった。
その顔も、ベリーニャ選手によく似ていて、端整である。
その身に纏っている静かな空気も、兄妹でよく似ていた。
ただし、眼光だけが静かに鋭い。闇の中にひそむ黒豹を思わせる眼差しである。
そんなジョアン選手がケージの内に入場すると、会場内にはこれまでで一番の歓声が沸き上がった。
彼こそは、日本国内における格闘技ブームの象徴のひとりであったのだ。
八年ほど前まで日本を熱狂させていたジョアン選手が、ほとんど変わらぬ姿でその場に立っている。当時小学生であった瓜子も、何だかその時代にタイムスリップさせられたような心地であった。
「おおう。ベル様のお兄様って、こんなに大人気だったのだねぃ。ユーリちゃんは、今度こそワクワクドキドキしてきちゃったぞよ」
格闘技ブームに関与せず、ジョアン選手の試合を去年の大晦日にしか観たことがないというユーリは、そのように言いたてていた。
その対戦相手である日本人選手は、自国でありながらアウェイのような立場に立たされてしまい、じっと闘志をたぎらせているようだ。
この選手は、《NEXT》のライトヘビー級現王者であった。
ライトヘビー級はミドル級の一階級上で、上限は九十三キロとなる。本日の試合は、ライトヘビー級の契約で執り行われるのだった。
その理由は、もはやミドル級にジョアン選手の相手が存在しないためである。
ジョアン選手はMMAの最高峰と呼ばれる《アクセル・ファイト》の舞台で、絶対王者としての立場を確立してしまったのだ。七年にわたって猛威をふるったジョアン選手は、それで挑戦者たりうる実力選手を一掃してしまったのだった。
普通であれば、それこそ体重を増やしてライトヘビー級王座に挑み、二階級制覇でも目指すところであろう。
が、ジョアン選手はナチュラル・ウェイトで戦うことを望んでおり、体重を増やす気がまったくない。本日も《アクセル・ファイト》の規定に違反しないように、ミドル級の上限を数百グラムだけでも超えるように調整しているはずであった。
この方法でかまわないならライトヘビー級に転向してもかまわないと、ジョアン選手はそのように主張していたという。
しかし《アクセル・ファイト》のプロモーターは、その提案に肯んじなかった。《アクセル・ファイト》は安全性を確保するために、ウェイトの規定を厳しく定めているのだ。八十四キロていどの体重しかないジョアン選手を、上限九十三キロのライトヘビー級に転向させることは安全性に問題があると判じたようだった。
しかしジョアン選手は人気選手であるために、なんとか試合を組ませたい。
それで、苦しまぎれにこういう単発の試合を設定しているようだった。そうでもしなければ、ジョアン選手がもっと規定のゆるい別の興行に移籍してしまうのではないかと危ぶんだのだろう。
(大晦日の《JUFリターンズ》でも、ジョアン選手はライトヘビー級の選手を相手取ってたもんな)
かつて運営の不祥事で壊滅した《JUF》は、しばらくして《アクセル・ファイト》に吸収合併されて、その下部団体に成り上がった。現在は《アクセル・ファイト》が新たな日本人選手を発掘するために、不定期に興行を行っているばかりである。それが昨年、大晦日に民放で放映されるという栄誉にあずかれたのも、かつての日本国内のカリスマ選手であったジョアン選手をゲスト参戦させることがかなったためであったのだ。
言ってみれば、ジョアン選手も見世物パンダであるのだろうか。
しかしジョアン選手は、怪物じみた力量を有している。昨年の大晦日も、ひと回りも大きなライトヘビー級の選手を一ラウンドで秒殺していたのだ。
本日の対戦相手も、体格差は顕著であった。
きっとあちらは規定に則り、上限ぎりぎりのウェイトであるのだろう。なんならリカバリーをして、五キロや十キロはウェイトを戻しているのかもしれない。背丈はジョアン選手よりも頭半分小さかったが、その図体には力士のようにみっしりと肉がついていた。
「相手は百キロぐらいありそうだねぇ。こんなのほとんど、無差別級だねぇ」
そんな風に言いながら、ユーリは期待に瞳を輝かせている。
まあ、ユーリ自身も無差別級で、三十八キロも重いリュドミラ選手をマットに沈めた身であるのだ。柔術の選手が柔よく剛を制する試合こそ、ユーリはもっとも昂揚するのだろうと思われた。
大歓声の中、試合開始のブザーが鳴らされる。
対戦相手はスタンダードなMMAのスタイルで、ジョアン選手は背筋ののびた、ややアップライトのスタイルだ。ジョアン選手は柔術ばかりでなく、立ち技の技術もきわめて優れているのだった。
相手選手は、慎重に出方をうかがっている。
そこに、ジョアン選手の前蹴りが繰り出された。
それなりにせり出た相手選手の腹部に、ジョアン選手の中足が突き刺さる。
相手選手はいったん下がったが、それで火がついた様子で猛然と突進した。
ジョアン選手は軽やかなステップワークでその突進を回避して、横合いから右のローを叩きつける。
さらに左フックから右ストレートを繰り出すと、相手選手は今度こそ力なく後退した。
そこに、ジョアン選手の右ミドルが炸裂する。リーチやコンパスでまさる上に、身のこなしも軽いジョアン選手に対して、相手選手はあまりに鈍重すぎた。
ジョアン選手はパンチとキックで相手選手をケージ際に追い詰めていく。
相手がケージに詰まったら、今度は肘打ちに膝蹴りだ。
このまま試合が終わってしまいそうな、一方的な展開である。会場は沸きに沸きたっていたが――ユーリは、ハラハラとした面持ちで両手をもみしぼっていた。
相手選手は死力を振り絞り、ジョアン選手につかみかかった。
ジョアン選手は相手の右腕と左肩に手を添えると、身体をねじりながら相手の左足に右足を引っかけた。
出足払いのような格好で、相手選手はマットに倒される。
それと同時に、ジョアン選手は相手に覆いかぶさっていた。
横向きに倒れた相手の腰の上に乗り、無慈悲なパウンドを落としていく。
相手選手がたまらずに背を向けると、その首にしゅるりと右腕が差し込まれた。
両足は、相手の両腿あたりに掛けられている。背中はすでにのびきっており、ジョアン選手がチョークスリーパーの形を完成させると同時に、相手選手はマットをタップしていた。
ジョアン選手は悠然と身を起こし、会場には歓声が爆発する。
ユーリは「ふひー」と椅子の背にもたれかかった。
「あのまま立ち技で決まっちゃうかと思ったわん。お兄様の試合まで立ち技決着だったら、ユーリは不完全燃焼で窒息死していたやもしれんわい」
「そうっすね。寝技で勝負が決まって、ご満足っすか?」
「うーん。正直に言って、それほどでも……実力に差がありすぎて、グラウンドの攻防にも至らなかったからねぇ」
そんな風に言いながら、ユーリはにこりと微笑んだ。
「でもでも、立ち技からの崩しとチョークスリーパーへの移行は垂涎ものの美麗さでありましたわね! さすがはベル様のお兄様なのです!」
それはユーリが入場以来、初めて見せる笑顔であるかもしれなかった。
試合場ではジョアン選手が正座をして、相手の回復を待っている。まるでベリーニャ選手と兵藤選手の一戦を思い出させるような光景だ。
ともあれ――格闘技ブームの申し子がいまだに健在であることを、会場内の観客たちは心から満足している様子であった。
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