02 開演

《アクセル・ジャパン》の興行は、粛々と進行されていった。

 北米きってのエンターテイメント・ファイティング・ショーと称されながら、その内容は質実剛健そのものであるのだ。


 それはおそらく、《アクセル・ファイト》がプロボクシングを意識して改革を進めてきた団体であるためなのだと思われた。

 もともとの《アクセル・ファイト》はブラジルのヴァーリ・トゥードを基調にした、極めて荒っぽい興行であったのだ。グローブ着用の義務もなく、目潰しと噛みつきと金的攻撃だけを反則とした、野蛮な喧嘩マッチと評されていた。


 それで《アクセル・ファイト》は、しばらく興行にも制限が掛けられていた。北米の多くの州ではあまりに危険な見世物であると見なされて、興行を開くこともテレビ放映することもままならなかったのである。

 また、風の噂ではプロボクシングの関係者が、MMAの台頭を阻止しようとしていたとも伝えられている。このような興行が人気を博すれば、自分たちの顧客を奪われかねないと危惧したゆえである。


「そういえば、海外ドラマなんかでさ、『お前はボクシング派? MMA派?』なんてやりとりを何回か見かけたことがあるな。しょせんドラマのネタだけど、北米ではMMAがボクシングに並ぶメジャースポーツに成り上がったってことは事実なんじゃないのかね」


 と、かつての合宿稽古では、多賀崎選手が雑談の場でそのように語らっていた。

 伝統あるボクシングか、新興のMMAか。どちらの競技を支持するかという、ちょっとした派閥争いのようなものが生じているという話であるのだ。


 その真偽はともかくとして、《アクセル・ファイト》がプロボクシングの興行形態をあるていど下敷きにしているというのは事実であるのだろう。

 よって、興行そのものは質実剛健である。日本の興行で見られる開会式や、スモークやスポットライトによる入場の演出なども廃されて、一種おごそかに感じられるほどである。


 最初に英語で大会の開始が告げられたのちは、すみやかに入場曲が流されて、第一試合の出場選手が入場してくる。その名が告げられるのも、選手がケージに上がった後となるのだ。

 そうしてケージに選手がそろったのちも、アナウンスを務めるのは北米から来日した専属のリングアナウンサーとなる。もちろん言語は英語であり、それを通訳する人間もいない。これはあくまで北米のイベントであるのだと、まざまざと体感させられる心地だ。


 しかしながら、出場選手の半数近くは日本人となる。

《アクセル・ファイト》のプロモーターにとって、これは新たな日本人選手を発掘するための催しでもあるのだ。

 その中で、《アクセル・ファイト》と正式に契約をしている選手は、ごくわずかである。この日の試合でプロモーターをうならせることができれば、のちのち正式に年間契約が交わされて北米の興行にも招かれるという、そういうシステムであるのだった。


「ううむ。だけどユーリは、男子選手なんてほとんど知らないからにゃあ。レオポン選手と早見選手と卯月選手と……おおう、名前まで知っているのは三人こっきりではないか」


「いや、プレスマンにだって早見選手の他に三人のプロ選手がいるじゃないっすか。レオポン選手を入れるなら、そのお人たちも入れてあげてください」


 とはいえ、瓜子もそこまで男子選手の情勢には通じていない。アトミック内の情勢を突き詰めるほうに尽力して、それ以外のフィールドにはほとんど目が向かなくなってしまったのだ。


 よって、その日に出場する選手も、大半は見知らぬ相手であった。

 いちおう事前にひと通りの顔や名前や経歴などはチェックしてきたのだが、もともと見知らぬ相手ばかりであるので、記憶が薄くなってしまっている。なおかつ、リングアナウンサーの言葉がうまく聞き取れないため、その場で再確認することも難しかったのだ。


 ついでに言うならば、出場選手もセコンド陣も全員が《アクセル・ファイト》指定の試合衣装やトレーニングウェアに身を包んでいるため、所属ジムを確認するすべもない。

 以前はもっと自由であったはずだが、どうやら最近になってスポーツウェアのブランドと専属契約をしたらしく、全員がそのブランド名と『Accele Fight』のロゴが入ったウェアを纏っているのだった。


 試合衣装はスパッツかハーフパンツの二種で、カラーリングは赤、青、黄、緑、白、黒、とさまざまだ。が、デザインはすべて統一されており、ロゴに関しても然りである。そういった様相もまた、《アクセル・ファイト》がいかに統制されたシステムを確立させたかを示しているかのようであった。


「だけどやっぱり、レベルは高いっすね。日本人選手は各団体のトップランカーばかりが集められてるんだから、当然っすけど」


 その日の試合は、おおよそ日本人選手と外国人選手の対戦という形式で組まれていた。サキいわく、日本国内で実績を残している選手を《アクセル・ファイト》の若手や新人選手にぶつけて、その実力を測ろうというコンセプトであるのだそうだ。


 対戦相手はカナダ、ドイツ、中国、ドミニカ共和国など、多岐にわたっている。アトミックでは馴染みのない国にも、MMAという競技はしっかり普及されているのだと、瓜子はそんな感慨を新たにすることになった。


 そうして最初の四試合が終了したところで、リングアナウンサーが何事かを告げてくる。

 ユーリが首を傾げていたので、瓜子がこっそり説明してあげることにした。


「これからメインカードが開始されるって告知されてるんすよ。……たぶん」


「ふみゅみゅ? もう最後の試合なにょ? まだ卯月選手も早見選手もベル様の兄上様も出てきておらぬようですが……」


「いや、アトミックとかでいうメインイベントとは違うんすよ。《アクセル・ファイト》では前半のプレリミナルカードと後半のメインカードで分けられてて、ペイパービューで配信されるのはメインカードのみらしいです。これまでの四試合は、いわゆる前座だったわけっすね」


「ああ、プレマッチのプレってそういう意味だったのねん。アトミックのプレマッチはアマ選手の試合なのに、プロ選手の四試合が前座あつかいなんて贅沢なお話ですわねぇ」


 そんな言葉を交わしている中、メインカードの第一試合に出場する選手たちが入場してくる。

 その姿を見て、ユーリは「おやおや?」と小首を傾げた。


「次の試合は、両方とも日本人選手なにょ? それとも片方は、また中国の御方だったりするのかしらん」


「いや、どっちも日本人選手っすよ。サキさんがあれこれ説明してくれたのに、ユーリさんは何にも聞いてなかったんすね」


 それは《アクセル・ファイト》において『アクセル・ロード』と銘打たれた企画に参加した選手たちであった。

『アクセル・ロード』というのは《アクセル・ファイト》への出場を望む十六名の選手を合宿所に集めて、現役のトップファイターの指導のもとにトレーニングを積ませて、トーナメント戦を行うという企画である。そのトレーニング風景やトーナメント戦の模様をテレビで放映する、いわゆるリアリティ番組であるのだった。


 選手たちは八名ずつ二チームに分けられて、それぞれ異なるトップファイターに指導される。トーナメント戦は数日置きに実施されて、敗北した選手は合宿所から退去させられるというシステムだ。

 そうしてトーナメントの決勝戦と、コーチ役を務めたトップファイター同士の対戦が、こうして《アクセル・ファイト》の本選で執り行われる。この決勝戦に勝利した選手だけが、《アクセル・ファイト》と正式に年間契約を結ぶ資格を得るのだった。


「もともとは北米の選手を対象にした企画だったんすけど、そのうちブラジルだとかカナダの選手なんかを対象にしたインターナショナル版が始められたみたいっすね。で、今回は《アクセル・ジャパン》の開催にあわせて、日本人版の『アクセル・ロード』が進行されてたわけです」


「ふみゅう。なかなか愉快そうな企画だけど、ユーリのちっちゃなアンテナにはこれっぽっちも引っかかってなかったですわん」


「日本でもその番組は放映されてるらしいっすけど、《アクセル・ファイト》と同じ有料チャンネルですからね。正直なところ、自分も『アクセル・ロード』についてはうっすらとしか知りませんでしたし、その日本人版が進行されてたってのも初耳でした」


 MMAのプロ選手としてはあまりに不見識やもしれないが、その有料チャンネルというのはスポーツ系でも何でもなく、映画やドラマを主体とした独立系のBS放送局であったのだ。《アクセル・ファイト》の試合を観るためだけに、月額数千円を支払うというのは、清貧をもって任じる瓜子にはいささか難しかったのだった。


「まあとにかく、メインカードの第一試合は『アクセル・ロード』の決勝戦で、最終試合はコーチ対決ってわけです。《アクセル・ファイト》との正式契約が懸かってるんすから、どっちの選手もそうとう気合が入ってるでしょうね」


 そんな瓜子の予想に違わず、その試合は最初からフルスロットルの乱打戦であった。大きな試合であるゆえに堅実な戦法を取ってしまう選手というのも珍しくはないのであろうが、このたびはどちらもそういうタイプではなかったようだ。


 あまりに序盤から飛ばしてしまったために、最終ラウンドはどちらもスタミナ切れを起こしてしまったが、それでも気迫で戦っている。けっきょく最後まで決着はつかず、勝負は判定に持ち越されることになった。

 勝利を告げられた赤コーナー側の選手は、マットに突っ伏してむせび泣いていた。

 多くの選手が最終目標にしているという《アクセル・ファイト》の契約を勝ち取ったのだ。観客たちも、その勝利を大きな拍手と歓声で祝福していた。


「……ユーリさんは、あんまり盛り上がってないみたいっすね」


「うん、まあ、見知らぬ殿方同士の試合であったからねぇ。最初っから最後まで、ずーっと立ち技の勝負だったし」


 瓜子はそれなりに昂揚していたのだが、ユーリは終始フラットなテンションであった。今のところ、休日の自主トレーニングよりも有意義な要素は見いだせていないようだ。


「でも次は、いよいよ早見選手の出番っすからね。腰を据えて応援しましょう」


 早見選手は《アクセル・ファイト》と契約を結んでからまだ一年ていどの身であったが、それまでの実績が鑑みられて、メインカードに抜擢されたのだ。

 暗い場内に入場曲が流されて、早見選手が入場してくる。セコンドは、篠江会長と立松コーチとサブトレーナーの柳原である。


「おお、立松先生だ! 声援を送ったらご迷惑かしらん?」


「あのですね……ご自分が同じ目にあったとき、どんな気持ちだったかをもうお忘れですか?」


「あうう、そうだった……そっかぁ。あのときのユーリのファンたちは、こんな熱情に突き動かされていたのかぁ」


 あなたは立松コーチのファンなんですかと、瓜子は内心で大いに笑わせていただいた。

 しかしまた、ユーリの気持ちはわからなくもない。毎日存分に顔をあわせている相手が、見慣れぬ《アクセル・ファイト》のウェアを纏って、粛然と入場しているのである。その姿が全米の――いや、全世界の視聴者たちにも届けられているのかと思うと、なんだかむやみに心臓が高鳴ってしまった。


 土台、篠江会長に早見選手というのは、ほとんど交流のない相手であるのだ。それに篠江会長は、ユーリにあまりいい感情を抱いていない。自分が留守にしている間にあまりおかしな人間を入門させるなよと、立松やジョンは陰で叱責されていたのだそうだ。瓜子の入門当初、そんな話をこっそり伝えてくれたのは、サブトレーナーの柳原であった。


(あれはきっと、ユーリさんとあまり馴れ合うなよっていう忠告のつもりだったんだろうな。……ま、知ったこっちゃないけどさ)


 興行側の準備したボディガードに警護されて入場してきた四名は、ケージの下でメディカルスタッフのもとに向かう。出場選手はそこでウェアを脱いで試合衣装になり、顔にワセリンを塗られ、不正がないかボディチェックをされ、マウスピースとファウルカップの着用を確認されたのちに、ケージへと上がるのだ。

 そのチェック後は、もう試合開始までセコンド陣と触れることも許されない。それが《アクセル・ファイト》の厳密なルールであった。


 ケージに上がった早見選手は右腕を軽く振りながら、軽いステップで舞台を一周する。その姿に、観客たちは惜しみない声援を送っていた。

 早見選手はフェザー級で、ウェイトの上限は六十五・八キログラムとなる。大柄な選手の多くない日本国内においては、それなりのボリュームゾーンであろう。その激戦区を勝ち抜いて世界に羽ばたくことのできた、日本屈指の実力選手であった。


「ユーリは早見選手とスパーしたこともないんだけどさ。卯月選手とのスパーを拝見するに、けっこうな実力者なのだろうねぃ」


「そりゃあそうっすよ。うちの道場だけじゃなく、日本の期待の星ですからね」


 早見選手の《アクセル・ファイト》における戦績は、二勝一敗というものであった。初陣こそ敗れたものの、その後の連勝で波に乗っている。年間契約も更新されて、これが二年目の第一戦となるのだ。


 そんな早見選手に準備されたのは、本場北米の中堅選手であった。

《アクセル・ファイト》における戦績は、五勝二敗。立松いわく、レスリング出身でありながら、ストライカー寄りのオールラウンダーであるそうだ。


「最近の《アクセル・ファイト》は、パンチ主体のストライキングがトレンドらしいっすからね。グラウンド状態が長引くとブーイングなんかが起きるから、立ち技で仕留めようとする選手が多いらしいっすよ」


「おおう。嘆かわしい限りだねぃ」


 ブラジリアン柔術をきっかけとして勃興した北米MMAが、今では立ち技主体の競技となっている。寝技の攻防は地味だと判じられ、多くの選手が立ち技を磨き、グラウンドに移行する前に決着をつけようと試みているのだ。パンチが主体となったのは、蹴り技はどうしても不安定な体勢になり、テイクダウンされる危険がつきまとうためだとされている。言ってみれば、北米の合理精神や派手な試合を好む国民性が、MMAの潮流にも大きく作用しているのかもしれなかった。


 対戦相手も入場すると、リングアナウンサーによって両者の紹介が為される。

 対戦相手は、早見選手よりもひと回りは大きいように感じられた。これも、骨格の差異ゆえであろう。また、計量の後に体重を戻すリカバリーの技術に関しても、北米の選手は抜きんでているという話であった。


 一万名のあげる歓声の中、試合が開始される。

 序盤は、静かな様相であった。ジャブを振りながら距離を測る、オーソドックスな立ち上がりだ。


 しばらくして、早見選手が蹴り技もまじえながら、距離を詰め始める。

 早見選手もまた、ストライカー寄りのオールラウンダーである。かつてはジョンにもみっちりしごかれていたため、ムエタイ流の蹴り技も得意にしているのだ。


 相手選手はその鋭い蹴り技を嫌がるように、後退していく。

 日本人選手の攻勢に、観客たちはいっそう沸き立った。


 と――相手選手がいきなり距離を詰め、早見選手を金網まで押し込む。

 四ツの組みの展開となり、しばし動きが膠着した。

 早見選手は何とか相手を押し返そうとするが、パワーでは明らかに負けている。しかも相手はレスリング出身で、組み技に長けているのだ。


「ふみゅふみゅ。これがサキたんの言っていた、壁レスリングというやつでありんすね」


 片方の選手がケージに背中をつけた状態で、ポジション争いが繰り広げられる。壁レスリング、あるいはケージレスリングと名付けられた攻防の場であった。

 早見選手がこの状態から脱するには、相手を押し返すか、横合いに逃げるか、体勢を入れ替えるか――あるいは、密着した状態から打撃技を返すしかない。相手はそれらの動きを封じながら、テイクダウンまで持ち込むか、あるいはやっぱり打撃技を狙うのだ。肘打ちか膝蹴りか、もしくはクリンチアッパーなど、密着した状態でも有効な打撃技というのはそれなりに存在する。


 が、実力が拮抗すると、どちらも有効な展開を作れず、膠着状態に陥ってしまうものだ。

 有利な組手を取ろうと腕を差し合いながら、時おり横合いから嫌がらせのパンチや掌打を当てたり、もしくは足の甲を踏みつけたりする。グラウンド状態においてポジションキープに徹する塩漬けと同様の、一見は地味なる消耗戦であった。


 そんな状態がしばらく続くと、レフェリーからブレイクがかけられる。

 そうすると、また中央に戻って仕切り直しとなるわけだが――相手選手は、この組み合いに戦法を切り替えてしまったようだ。早見選手に蹴りを出す隙も与えず、再びケージへと押し込んでしまう。


 そんな展開が三度くり返されたところで、客席からはブーイングが飛び交い、ユーリはベレー帽とショールの隙間で「ふみゅう」と息をついた。


「ねえねえ、うり坊ちゃん。これだったら、グラウンドのほうがまだ動きがあるのじゃないかしらん?」


「そうっすね。グラウンドへの移行を嫌がるあまり、ケージ際で膠着することがめっきり増えてきたって、立松コーチはそんな風に仰ってましたよ」


「選手のみなさんは、どうしてそうまでグラウンドを嫌がるのでありましょう? 柔術ラブのユーリちゃんには、まったく解せないのです」


「最近は、上を取ってもポジションキープに徹する選手が多いっすからね。マリア選手も沖選手も魅々香選手もそうだったでしょう? そうすると、下の選手が仕掛けることも難しいし、ポイントも奪われちゃいます。それでもって、客席からはブーイングがあがったりするもんだから、グラウンドへの移行をなるべく避ける傾向になってきたんでしょう」


「であれば、くるくる楽しく動けばよかろうに」


「そうすると、上の選手も逆転を許すリスクが生まれますからね。堅実に勝つ方法が煮詰められたのが、最近の北米のスタイルなんだって、サキさんも立松コーチも口をそろえて仰ってました」


「ううむ。どうにもユーリの好みには合致しないスタイルであるようですにゃあ」


 なんだかユーリがとても残念そうであったので、瓜子は補足しておくことにした。


「でも、今のはあくまで一般論っすよ。そういうスタイルが主流になったからって、誰も彼もがそうしてるわけじゃありません。生粋のグラップラーとか、蹴り技メインのアウトタイプとか、上を取ってもばんばんサブミッションを狙ってくオールラウンダーとか、そんな連中も山ほど存在するのが《アクセル・ファイト》だぜーって、サキさんが言ってました」


「にゃはは。うり坊ちゃんがサキたんの口真似するの、かわゆいから大好き!」


 そんな間抜けな会話をしている間に、ケージ上では何度目かのブレイクがかけられていた。

 瓜子とユーリがついつい雑談にふけってしまうほど、その試合では膠着状態が乱発していたのだ。


 おおよそは、早見選手がケージに押し込まれての膠着状態である。相手も立ち技が得意であるという評判であったのに、早見選手の蹴り技にはつきあいたくないと判じたのか、やたらと組み合いを仕掛けてくる。そんな調子で第三ラウンドまで進んでしまったので、会場内の空気はいくぶん弛緩しかけていた。

 瓜子も視線は試合場のほうに向けつつ、ついつい口を開いてしまう。


「この膠着状態ってのも、ケージの試合の特徴らしいっすよ。これがリングだったらロープがたわんで、そうそうポジションも安定しないっすからね。金網の壁ががっちり固定されてるからこそ、グラウンド状態と似たような膠着状態が生まれちゃうわけです」


「ふみゅ。では、金網に押しつけられてる早見選手のほうが、グラウンドで下になってるようなものなのかしらん?」


「そうっすね。金網に寄りかかってる分、押してる相手よりスタミナのロスは少ないって面もあるでしょうけど……ただ、好きに動けないってストレスはでかいですし、必死に相手をはねのけようとしてたら、やっぱりスタミナは削られるでしょう。早見選手、見るからに苦しそうですしね」


「ではでは、判定になったら相手選手に軍配があがっちゃうのかしらん?」


「どうなんでしょうね。相手も有効な攻撃は仕掛けられてないし、打撃の交換では早見選手のほうが手を出してますから、なかなか難しいんじゃないでしょうか」


 そんな言葉を交わしている間にも、刻々と時間は過ぎていく。

 そうして何度目かのブレイクが為された後、ふいに局面が一変した。

 これまで愚直に組み合いを挑んでいた相手選手が、目の覚めるような両足タックルを決めてみせたのである。


 早見選手のスタミナが切れるのを待ち受けていたのであろうか。

 あるいは、判定までもつれこむと勝負がわからなくなると、そのように判じて意を決したのだろうか。

 何にせよ、その攻撃は誰にとっても意想外であり、早見選手も回避することができなかった。


 早見選手は相手の右足を両足ではさみこんでハーフガードのポジションを取ったが、相手選手はかまわずにパウンドを振るってくる。

 この急展開に、観客席は怒涛の盛り上がりを見せていた。


「まずいっすね。なんとか、この状態から逃げないと」


「うん。だけど、相手のポジションはすっごく安定してるよぉ。あんなにぶんぶんパウンドを振るってるのに、がっちり重心が安定してるもん」


 ユーリの言う通り、早見選手がどれだけ身をよじっても、相手の姿勢は乱れなかった。その間に、何発もの拳が早見選手の顔面に叩きつけられていく。

 試合時間は、残り一分だ。

 早見選手は横向きになり、力なく頭を抱え込んでしまった。

 対戦相手は大きく身を起こし、頭をガードした早見選手の腕に強烈なエルボーを落とし始める。

 それが四発目に及んだところで、レフェリーが試合をストップさせた。

 ゴングならぬブザーが鳴らされて、試合の終了が告げられる。

 相手選手は喜び勇んでケージの上にまたがって、勝利の雄叫びをほとばしらせた。


「早見選手、負けちゃったねぃ。……立松先生、ガッカリしてるだろうなぁ」


 そんな風に言いながら、ユーリは心から残念そうに溜息をこぼしていた。

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