ACT.2 Accele Japan
01 開場
六月の第三日曜日。
その日は、《アクセル・ファイト》の日本大会、《アクセル・ジャパン2》の開催日であった。
イベントタイトルのナンバリングからもわかる通り、《アクセル・ファイト》の興行が日本で開催されるのはこれが二度目のこととなる。今後も定期的に日本における興行が行われていくかどうかは、本日の盛り上がりにかかっているはずであった。
会場は、さいたま新都心に存在するティップボール・アリーナとなる。
かつては格闘技の聖地と呼ばれた会場であるが、格闘技ブームが終焉を告げてからはほとんど興行も行われていない。その理由は、アリーナ会場を埋めるほどのイベントを企画することが難しくなってしまったためである。
ティップボール・アリーナは、三万六千名ていどの観客を収容できる。さらに立見席まで設置すれば、もう一万名ほど詰め込むことが可能であるという。
然して、本日の集客は一万名ていどと発表されていた。北米では最大規模を誇る《アクセル・ファイト》ですら、この体たらくであるのだ。
格闘技ブームが吹き荒れていた時代には、このティップボール・アリーナでも満員札止めとなる日があったと聞く。さらに東京のドーム会場で開催された日などは、六万七千名もの集客を達成したという記録が残されていた。
「でもでも、一万人でも十分にすごいよねぇ。日本でそんなたくさんのお客を呼べるイベントなんて、そうそうないでしょう?」
ティップボール・アリーナに隣接した広場にぽけっと立ち尽くしたユーリが、いくぶん眠そうな声でそのように言いたてた。
二人はゆとりをもってこの場所に到着していたが、会場前の混雑っぷりががあまりに凄まじかったために、波が引くのを待っているのだ。じわじわと会場内に吸い込まれていく人の動きを目で追いながら、瓜子は「そうっすね」と答えてみせた。
「そもそもこんな大きな会場でMMAの試合ができるってだけでも、大したもんっすよ。この会場を満員にできた時代があっただなんて、なかなか想像もつかないっすよね」
「うんうん。でもその頃には、まだ女子の試合なんかはなかったんでしょ?」
「ええ。《JUF》では女子の試合も組まれてなかったっすからね。アトミックもようやく軌道に乗って、不定期開催ながらもPLGホールなんかで試合ができるようになった頃じゃないっすか」
「おお、PLGホールといえば、来月の大会の会場だね! 二千人ものお客さんに試合を観てもらえるなら、ユーリはそれで大満足じゃよ」
そんな風に言ってから、ユーリは「ふわあ」と大あくびをした。
「にしても、眠いにゃあ。この開始時間の早さは何とかならなかったのかしらん」
「何ともならないっすよ。これはあくまで、北米のイベントの出張版なんすからね。リアルタイムでペイパービューの番組が配信されるから、あっちの時間に合わせなくちゃならないわけです」
大会の開始は、午前九時である。日本と北米の時差は十四時間ていどという話であるので、あちらでは土曜日の午後七時ていどとなるはずだ。生配信されるメインカードの開始はもっと時間が深くなるのだから、本来であればもういくらかはイベントの開始を早めたかったぐらいであろう。しかしそれでは現地たる日本でお客を集めるのも難しいし、そもそも会場のレンタルも時間外であろうから、これがおたがいの妥協点なのであろうと思われた。
そして本日は完全無欠にプライベートの遊楽であるために、瓜子たちはタクシーを使わずに電車で参じている。マンションのある三鷹からこの場所までは一時間強の距離であったため、こちらもそれなりの早起きを強いられたわけであった。
「《アクセル・ファイト》ってのは、そのペイパービュー番組の視聴料なんかが収益のメインって話ですからね。北米本国だけじゃなくって、全世界の二百ぐらいの地域から莫大な収益をあげてるとか何とか……日本ではペイパービューってのがあんまり浸透してないから、ピンとこないっすけど」
「うみゅ。まあ大変なのは、出場する選手のみなさまだものねぇ。卯月選手なんかもこの試合に合わせて、めっちゃ早寝早起きの生活だったんでしょ?」
「午後の七時に寝て午前の二時に起きる生活だったみたいっすね。午前の九時に開演ってことは、遅くても六時頃には会場入りしてたんじゃないっすか?」
「むはー! 聞いてるだけで、ぐったりしちゃうわん。本日出場するすべての選手のみなさまに尊敬の意を表明するユーリちゃんなのです」
そんな言葉を交わしている間に、会場前の人だかりもずいぶん落ち着いてきていた。現在は午前の八時五十分で、すでに開演の十分前となっていたのである。
本日は格闘技ファンの真っ只中に突入するということで、ユーリはニット帽とサングラスとショールの三点セットで入念に人相を隠蔽していた。なおかつ最近は瓜子自身も顔が割れてきてしまったので、いちおう申し訳ていどにキャップなどをかぶっている。
(でも、《アクセル・ファイト》と《アトミック・ガールズ》の客層なんて、どれだけ重なってるんだろうなあ)
そんな風に思わなくもなかったが、ともあれこのような場で騒ぎを起こしてしまったら、チケットをプレゼントしてくれた卯月選手にも申し訳が立たなくなってしまう。瓜子とユーリはかなう限り人目を忍びつつ、ティップボール・アリーナに突撃することになった。
屋外の物販ブースでは、イベントのパンフレットや『Accele Fight』のロゴが入ったTシャツにタオルにトレーニングウェア、それにオープンフィンガーグローブなどが販売されている。そのスペースもそそくさと通過して会場内に足を踏み入れると、ロビーにはまだまばらに人影が残されていた。
案内表示板で座席の場所を確認し、映画館のように立派な扉をくぐりぬけると、一万名の人間の織り成すざわめきと熱気が押し寄せてくる。
その会場の広大さに、ユーリは「ほへー」と息をついていた。
「ほんとに、すっごく広いんだねぇ。こんなの、テレビとかでしか見たことないやぁ」
客席は、試合場と同じ平面に位置するアリーナ席と、傾斜のついた一階スタンド席、それより上部の二階スタンド席、さらに上部のバルコニーめいた立見席が存在する。立見席はほとんど無人で、二階スタンド席も大半は空席であり、アリーナ席と一階スタンド席にほとんどのお客が集められているようであった。
そしてそれらの中央に、試合の舞台が設えられている。
黒い金網の壁に囲われた、八角形の試合場である。
本当にこのような場でMMAの試合が行われるのだという実感が、今さらのように瓜子の内側にわき起こってきた。
「そろそろ開演のはずっすね。席に急ぎましょう」
瓜子とユーリは階段を下りて、地上のアリーナ席を目指した。
アリーナ席は、適度にお客で埋まっている。が、前に進めば進むほど空席が目立つようになり、最前列から三列目までなどは、半分ぐらいが空席であった。
理由は、明白である。最前列から三列目まではVVIP席などと銘打たれて、チケット代が二十万円にも及ぶのである。その場所に座しているのは、おおよそ外国人や芸能人や国内の富裕層と思しき面々ばかりであった。
そして、ユーリが卯月選手からプレゼントされたのは、アリーナ席の四列目である。
四列目から十列目まではVIP席であり、チケットの価格は十万円だ。
後日その事実に気づいたユーリは慌てて卯月選手にチケットを返却しようとしていたが、それは断固として拒絶されてしまっていた。
「今さら払い戻しはできませんし、俺には他にチケットを贈る相手もいません。ユーリさんに受け取ってもらえないなら破り捨てる他ありませんが、どうしましょう?」
「だ、だったらチケット代をお支払いしますぅ。二枚で、二十万円ですよねぇ?」
「ユーリさん。もしもあなたが誰かにプレゼントを贈り、その代金を返却されたなら、いったいどのような気持ちになるでしょう?」
そうして卯月選手に言いくるめられたユーリは、このVIP席に大きなおしりを落ち着けることになったわけである。
二人の正面は三列目まで無人であったので、黒くコーティングされたケージの試合場を好きなように観賞することができた。ついでに左右も一席ずつ空席であったので、ユーリも他者に触れる心配をせずに済んだ。
サングラスだけを外したユーリは、とろんとした垂れ気味の目でぼんやりと試合場を見やっている。瓜子がその横顔を眺めている間に、ユーリのまぶたはとろとろと下がってきてしまった。
「うみゅう。座ったら、怒涛の勢いで睡魔が押し寄せてきたぞよ……」
「いやいや、こんな場所で居眠りは勘弁してください。そろそろ試合が始まるはずなんすから」
「そうは言っても、今日は早起きさんだったからねぃ。……何か眠気覚ましの話題でも提供していただけたら、ありがたいですわん」
「眠気覚ましの話題っすか……あ、アクセルって単語は和製英語らしいっすよ。もともと加速装置とかのことをアクセラレータっていうらしいんすけど、それを略して使ってるのは日本だけらしいっす」
「……その話題でユーリちゃんの眠気を撃退できるであろうか……?」
「いや、続きがあるんすよ。だって、《アクセル・ファイト》は北米のイベントなのに和製英語が使われてるって、不思議じゃないっすか? それはもともとプロモーターのお人が日本の格闘技業界に注目してて、日本に通ってるうちに『アクセル』って言葉を知ったらしいんすよ」
「ぐう……」
「だから、寝ないでくださいってば」
ちょっと荒療治であったが、瓜子は両手でユーリの右手をぎゅっと握りしめてみせた。
ユーリはうっすらとまぶたを開き、夢見るような眼差しで瓜子を見つめてくる。
「ぞわぞわ鳥肌がたってるのに、睡魔がいい具合に気色悪さを緩和してくれておりまする……大好きなうり坊ちゃんに手を握られながら眠れるというのは、なんとも幸福な心地じゃわい……」
「いや、寝ないでくださいよ」
その瞬間、会場の照明が落とされた。
ケージにスポットが当てられて、観客たちに歓声をあげさせる。さすがに一万名もの歓声をあびせかけられれば、ユーリも寝てはいられなかった。
ついに、《アクセル・ジャパン2》が開始されるのだ。
男子選手にはさしたる思い入れも抱いていない瓜子であったが、それでも胸の内にはえもいわれぬ感慨がふくれあがることになった。
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