03 ワンド・ペイジ
「ふひー、疲れたあ!」と、ユーリは待合室のソファに汗だくの身を投げだした。
その白い顔はわずかに上気して、普段以上の色っぽさになっている。それを複雑な心地で眺めながら、瓜子は自販機で購入したスポーツドリンクを差し出した。
「わぁい、ありがとぉ! うり坊ちゃん、愛してるぅ」
「どういたしまして。……ユーリさんも、後半はノリノリでしたね」
「うん! 演奏がズンズンおなかに響いて、踊れ踊れと煽られているような心地だったのじゃよ。歌とかダンスとか興味なかったけど、これまでで一番楽しかったかもぉ」
ユーリの笑顔があまりに無邪気であったため、瓜子も苦笑をこぼしてしまった。
「それなら、何よりです。きっと本番は、もっと楽しいっすよ」
「うみゅみゅ? うり坊ちゃんは、何やら複雑な面持ちだねぃ?」
「ええ、まあ……あのお人らが変なイタズラを仕掛けたりしなかったら、自分も楽しい気分だったんでしょうね」
「にゃっはっは。うり坊ちゃんは、優しいからにゃあ。ユーリなんて最初から誰にも何にも期待してないから、あんなていどのイタズラではビクともしないのです!」
「あれれ。自分にも、何にも期待してくれてないんすか?」
「いやーん、わかってるくせにぃ。うり坊ちゃんとサキたんは別格だよぉ」
そうしてユーリがくぴくぴとスポーツドリンクで水分補給をしていると、隣のスタジオの様子をうかがっていた千駄ヶ谷が舞い戻ってきた。
「『ワンド・ペイジ』の方々も、セッティングが完了したようです。呼吸が整いましたら、移動をお願いいたします」
「あ、了解ですぅ。今すぐにぃ」
「……リハーサルの間に休憩時間を設定しなかったのは、こちらの落ち度となります。『ベイビー・アピール』とのリハーサルが二時間もあれば、合間に休憩が取れるのではないかという甘い見込みで時間を設定してしまいました」
「いえいえ、体力だけが取り柄のユーリちゃんですので、問題ナッシングですぅ」
「恐縮です。……ですが、ユーリ選手と『ベイビー・アピール』の方々の尽力あって、素晴らしい成果を手にできたように思います。人間性に難はあれど、ミュージシャンとしては確かな力量を備えておられるようでしたね」
「にゃっはっは。ユーリもおかしなちょっかいはかけられなかったですしねぇ」
千駄ヶ谷の眉が、ぴくりと痙攣した。
さきほどのスタジオを後にする際に、『ベイビー・アピール』の漆原は、こともあろうに千駄ヶ谷と連絡先の交換をねだっていたのである。もちろん千駄ヶ谷はけんもほろろにお断りしていたが、そのときの漆原のしょんぼりとした顔こそ見ものであった。
「まったく、度し難い方々です。……では、移動いたしましょう」
ユーリと瓜子も立ち上がり、千駄ヶ谷とともに『ワンド・ペイジ』の待つCスタジオへと向かうことになった。
その道中で、瓜子はこっそりユーリに囁きかける。
「……ユーリさん。自分との約束は忘れてないっすよね?」
「うみゅ。お口にチャックのユーリちゃんなのです。……サインとか握手とかも不要かにゃ?」
「不要っす。自分が求めてるのは、あのお人たちの音楽だけっすから」
そんなやり取りを経て、三名はCスタジオに到着した。
そこに足を踏み入れたならば、『ワンド・ペイジ』とのご対面である。ユーリに告げた言葉に嘘いつわりはなかったが、それでも瓜子は心臓が騒ぐのを止めることができなかった。
瓜子は音楽に無関心であったが、『ワンド・ペイジ』の曲にだけは、どうにも心を揺さぶられてしまうのだ。
彼らの存在を瓜子に教えてくれたのは、姉であった。瓜子がキックの選手としてプロデビューをする際に、なにか入場曲に相応しい曲を見つくろってくれないかと、瓜子のほうから姉に相談することになったのである。
そのときに教えてもらったのが、『ワンド・ペイジ』の曲であった。
それで瓜子は、いっぺんで彼らの音楽に魅了されてしまった。
理由は、自分でもわからない。歌声も、歌詞も、演奏も、すべてが瓜子の心に深く響いてしまったのだ。
それから今日までの三年半、瓜子は彼らの曲を聞き続けてきた。彼らのアルバムの他に、CDというものを買ったこともない。映画やテレビ番組や小説や漫画といった娯楽作品に興味のない瓜子にとって、彼らの音楽は唯一の娯楽であり、唯一の趣味であるのかもしれなかった。
(……そうだからこそ、お近づきにはなりたくないんだよなあ)
有り体に言って、瓜子は自分の内にある彼らのイメージを壊したくなかったのだ。
善人だとか悪人だとか、そういう話も関係ない。彼らの人間臭い一面を知ることで、歌声や歌詞や楽曲から得られるイメージに変化をきたすのが我慢ならなかったのだった。
「お待たせいたしました。こちらが今回のイベントでヴォーカルを担当させていただく、ユーリ選手です」
そんな瓜子の心情もよそに、千駄ヶ谷がスタジオ内のメンバーに一礼していた。
『ワンド・ペイジ』のメンバーは、三名。こちらはフルネームを記憶してしまっている。ヴォーカル&ギターのヒロこと山寺博人、ベースのジンこと陣内征生、ドラムのキッペイこと西岡桔平である。
山寺博人は椅子に座って、エレクトリック・アコースティックギターを抱えていた。
陣内征生は、大きなエレクトリック・アップライトベースを支えて立っている。
西岡桔平はドラムセットから立ち上がり、柔和な表情で挨拶を返した。
「どうも、初めまして。ユーリさんの試合は、番組でいつも拝見しています」
「あ、そうなんですかぁ。どうもありがとうございますぅ」
「猪狩さんも、もちろん拝見してますよ。先月の試合は、どっちも凄かったですね」
「あ、はい……どうもありがとうございます」
今回のイベントに参加する四組のバンドは、いずれも《NEXT》と何かしらのご縁があって声をかけられたのだ。その中で、『ワンド・ペイジ』は西岡桔平が格闘技ファンであったことから生じたご縁であるとの話であった。
「ご紹介が遅れました。こちらは私の業務を補佐してもらっている、猪狩瓜子です」
「はい。猪狩さんがユーリさんのマネージャーをしてるって話は有名ですからね。猪狩さんに入場曲を使ってもらってるのって、俺にとってはひそかに自慢だったんです」
『ワンド・ペイジ』のメンバーにこのように言われては、瓜子も赤面の至りである。
西岡桔平は中背だがしっかりとした身体つきをしており、口もとや下顎に無精髭をたくわえている。メンバーは全員二十代後半であるはずであったが、彼はもっと年長に見えるぐらい落ち着いていて貫禄があった。
山寺博人は痩せぎすの若者で、ぼさぼさの黒髪を長くのばして目もとまで隠してしまっている。いっぽう陣内征生はずんぐりとした体形で眼鏡をかけており、さきほどからせわしなく目を泳がせていた。
「うちのメンバーは不愛想なもんで、申し訳ありませんね。ヒロ、ジン、挨拶ぐらいしたらどうだ?」
「あ、ど、どうも。ベースの陣内です。きょ、今日はよろしくお願いします」
と、ユーリのほうに目を向けるや、陣内征生は顔を真っ赤にしてしまう。今どき珍しいぐらい純情な人物であるようだ。
それに引き換え山寺博人のほうは、いかにもけだるげにぺこりと頭を下げるのみである。目もとが見えないので、何を考えているのかもわからない。
「それじゃあさっそく、始めましょうか。まずは歌ぬきで演奏してみますんで、どこか気になる場所があったら後で教えてください」
西岡桔平がうながすと、山寺博人は無造作にギターを奏で始めた。
こちらで演奏される『ネムレヌヨルニ』は、バラード調の楽曲である。よって、そういう楽曲を得意にする彼らに白羽の矢が立てられたのであった。
繊細だが、どこか人間臭いアコースティックギターの旋律に、ドラムとベースの音色もかぶせられる。ついきさきほどまで目を泳がせていた陣内征生も、半分まぶたを閉ざして自分たちの演奏にひたっている様子であった。
こちらの原曲はピアノやストリングスが主体であったため、もちろん大幅にアレンジが為されている。ギターはおおよそアルペジオで、その上にゆったりと流れるベースの音色が、まるで歌っているかのようだ。ドラムは音量も音数も抑えられており、とても心地好いリズムを刻んでいた。使用しているのはスティックではなく、ジャズなどで使われるワイヤーブラシという器具だ。
「……ま、こんな感じです」
演奏が終了すると、ユーリは笑顔でぺちぺちと拍手をした。
「すごいすごーい! 綺麗な音ですねぇ。うり坊ちゃんの入場曲ってけっこう激しめだったから、ああいう感じになるのかと思ってましたぁ」
「エレキを持たせると、こいつは人が変わりますからね。アコギでも激しい曲は激しいんですけど、今回はゆったり系でまとめました」
「まったく問題はないかと思われます。急なオファーにも拘わらず、素晴らしいアレンジをありがとうございます」
千駄ヶ谷はそのように語っていたし、瓜子ももちろん大満足であった。かねてよりのファンである『ワンド・ペイジ』がユーリの曲を演奏するというのが、あらためて不思議な気持ちだ。
「それじゃあ、歌と合わせてみましょう。歌いにくい場所があるようだったら、それも後で聞かせてください」
そうしてこのたびのリハーサルは、滞りなく進められるかに思われたが――そんな安寧は、わずか一分ほどで叩き壊されることになった。
ユーリの歌が最初のサビに差し掛かったところで、山寺博人がギターの演奏を止めてしまったのである。
「……あのさ、もうちょっとちゃんと歌ってくれない?」
ぼそぼそとした陰気な声で、山寺博人はそのように言いたてた。
ユーリはきょとんとした面持ちで、そちらを振り返る。
「ごめんなさぁい。どこかおかしかったですかぁ?」
「おかしいよ。自分でわかるだろ」
すると、西岡桔平が「おいおい」と苦笑した。
「お前は何を難癖つけてるんだよ。音源でもらった通りの歌声だったし、音程を外したりもしてなかったろ」
「……音源とか、俺、知らないし」
「知らないってことはないだろう。それじゃあお前はどうやってギターのフレーズを考えたんだよ」
「インストのほうで聞いてた。生歌を聞くまで、変なイメージつけたくなかったから」
そんな風に言いながら、山寺博人は前髪に隠された目をユーリのほうに向けたようだった。
「歌と歌詞が合ってないじゃん。きちんとメロディに歌を乗せてよ」
「いや、だから何も間違えてなかったって。それとも、まさかお前――」
「乗ってなかった。歌詞が死んでた」
「まいったな」と頭をかきながら、西岡桔平もユーリのほうを振り返った。
「えーと、わかりにくいんで、俺が通訳をしますね。早い話、こいつはもっと歌に感情を込めてほしいってお願いしてるんです」
「はにゃ? 感情ですかぁ?」
「そう。ほんと、はにゃ? ですよね。うちのレコーディングでも、いっつも歌入れに一番時間がかかっちまうんです」
西岡桔平は、とても申し訳なさそうに笑っていた。
「あのな、ヒロ。お前が自分の歌入れにこだわりを持つのはいいけど、人様にまで指図するなよ。いつだったか、女の子ヴォーカルをゲストに迎えたときは、何も言わなかったじゃないか」
「……あれは歌詞がクソだったから、歌声もクソでちょうどよかった。でも、今日は違うだろ」
「いや、お前なあ……」
そうして西岡桔平が嘆息をこぼすと、ユーリは「あのぅ」と声をあげた。
「ユーリはシロウトなんで上手くできるかわかんないですけど、もういっぺんチャレンジさせてもらってもいいですかぁ? 感情を込めて歌えるように、頑張ってみますぅ」
「うん、申し訳ない。あんまりしつこいようだったら、俺がきちんと言い聞かせますんで」
ということで、『ネムレヌヨルニ』のテイクツーである。
が、今度は最初のサビを歌い終えたところで、山寺博人は演奏を放棄してしまった。
「クソだな。メロディも歌詞もいい感じなのに、あんたの歌い方がクソだ」
「おい、いい加減にしろって。いくらなんでも、ユーリさんに失礼だろう」
「いえ、きっとユーリが悪いんですぅ。どこがどんな風に悪いのか、もうちょっと詳しく教えてもらえますかぁ?」
山寺博人は、また隠された目でユーリのほうを見据えたようだった。
「そんなの、歌詞の内容でわかるだろ。自分の恋人のことでも考えて歌ってみろよ」
「恋人ですかぁ。ユーリ、恋人さんはいないんですよねぇ」
「いや、昔の恋人とかでいいんだよ」
「うーん、今も昔もいないんですよねぇ」
山寺博人の痩せ細った身体が、ぴくりと蠕動した。
「……あんた、マジで言ってる?」
「はぁい。マジで言ってますぅ」
「ふぅん……」と、山寺博人は押し黙った。
数秒間の重たい沈黙ののち、その口がようやく開かれる。
「それじゃあ恋人じゃなくてもいいから、大事な人のことを考えろよ。これまでに大事な人がひとりもいなかったってんなら、あんたにこの歌は歌えない」
「大事な人……ですかぁ」
ユーリの目が、ちらりと瓜子のほうを見やってきた。
「でも、これって眠れない夜に恋人と会えなくてさびしいっていうお歌ですよねぇ? それを、大事な人と会えなくてさびしいっていう風に置き換えるんですかぁ?」
「それ以外に、解釈のしようがあんの?」
「いえいえぇ……でも、なんだかどっぷり悲しい気持ちにひたっちゃいそうですねぇ」
「どっぷり悲しい歌詞なんだから、しかたないじゃん。文句は、歌詞を書いたやつに言ってよ」
そんなやりとりを経て、テイクスリーである。
ユーリは普段よりもしっとりとAメロを歌いあげ、至極なだらかにBメロへと繋ぎ――そして、サビに突入した。
それと同時に、瓜子ははっと息を呑む。
ユーリは同じ声で同じメロディをなぞっているはずであるのに、その言葉が思わぬ鋭さで瓜子の胸に食い入ってきたのだ。
会いたいのに、会えない。そんな切々とした気持ちが、直接瓜子に届けられているかのように――また実際、それは瓜子を想定して歌っているのかもしれないが――とにかく、とてつもない勢いで瓜子の胸を揺さぶってきたのだった。
会えないのは、自分が悪いからだ。
相手には、なんの罪もない。
それでも会いたいと願ってしまう自分は、どれだけ浅ましい人間であるのか、と――歌詞には書かれていないそんな言葉までもが、瓜子の胸には吹き荒れてしまっていた。
(ユーリさんは、なんにも悪くないっすよ!)
瓜子は、そんな風に叫んでしまいたいぐらいであった。
そこに、荒々しい旋律がかぶさってくる。
最初のサビが終わると同時に、山寺博人が激しくギターをかき鳴らし始めたのだ。
しかし、コード進行はきちんと曲に沿っているようで、演奏はそのまま続けられていた。
いや、ベースやドラムもギターにあわせて、演奏の内容を変えている。ベースは流麗な歌声のようなメロディから悲痛なすすり泣きのような音色に変じ、ドラムはテンポをキープしたまま音の数を倍に増やしていた。
次のAメロに入ったところで、ベースとドラムは消失する。
アルペジオではなく力強いバッキングに変じたギターに乗せて、ユーリは二番を歌い始めた。
その半分ぐらいが過ぎたところでベースの重く長い音がかぶさり、ドラムはシンバルを細かく震わせる。
Bメロでは、心臓の鼓動のようにバスドラが刻まれて、ベースもそこに重低音を乗せた。
波がせり上がるようにして、サビに突入する。
ユーリの歌も、演奏の音色も、すべてが倍ぐらいの音量に達していた。
そしてそれ以上の圧力で、ユーリの歌が瓜子の胸を揺さぶってくる。
ユーリはその目に、涙をにじませていた。
声はわずかに震えており、普段とは異なる場所にブレスが入っている。音程も、わずかに外れてしまっているかもしれない。しかし、その乱雑さが、この歌にさらなる力を与えていた。
そうして大サビに差し掛かると、申し合わせたように全員が沈み込む。
ギターは囁くような音色でユーリのか細い歌声に寄り添い、ベースはむしろのびやかに吹き過ぎていき、ドラムは金物だけでひそやかにリズムを取っている。
そうして最後のサビでは、また暴風雨のような盛り上がりだ。
瓜子はもう、胸が痛くて聞いているのが苦しいほどであった。
今すぐユーリのもとに駆け寄って、その身体を抱きしめてあげたい。あなたはひとりぼっちじゃありませんよと、なんとかわからせてあげたい――そんな埒もない想念に衝き動かされそうになってしまう。
そうして、曲は終了した。
ユーリがぺたりと座り込んでしまったので、瓜子は本当に駆け寄ってみせる。
「だ、大丈夫ですか、ユーリさん?」
「うん……どっぷりひたってしまったよぉ」
ユーリは気恥ずかしそうに目もとをぬぐってから、瓜子に微笑みかけてきた。
ようやく母猫を見出した子猫のような笑顔である。
あともう少し理性が減退していたら、瓜子は人目もはばからずに、ユーリを抱きしめてしまっていたかもしれなかった。
そこに、「やればできるじゃん」というぶっきらぼうな声が投げかけられてくる。声の主は、もちろん偏屈なギタリストだ。
「いや、お前さ、セッションじゃないんだから、勝手にアレンジを変えるなよ」
西岡桔平が苦笑まじりの声をあげると、山寺博人は「は?」とそちらを振り返った。
「なに言ってんの? 今のがベストのアレンジだったじゃん。大サビのドラムは、ちょっと物足りなかったけど」
「うるさいよ。準備運動もなしに全力疾走させんな。なあ、ジン?」
「え、なんですかあ? ……すっごく気持ちよかったですねぇ」
ベースの陣内征生は、陶然とした面持ちで微笑んでいた。
西岡桔平はワイヤーブラシの柄で頭をかきながら、ユーリとそれに寄り添った瓜子のほうに向きなおってくる。
「ユーリさん、すごかったですよ。毎回あんな風に歌えたら、歌で食ってくこともできるんじゃないかな」
「毎回は無理ですぅ。ユーリのココロがもちませぇん」
「ははっ。なんか、ブレーキの壊れたラッセル車みたいですね。試合でも、ときたまそんな風になりますけど」
そう言って、西岡桔平は千駄ヶ谷のほうに視線を巡らせた。
「千駄ヶ谷さん。今の演奏は、如何でしたか?」
「それはもう、完璧以上だったのではないでしょうか? 私は胸が打ち震えて、落涙を禁じ得ないほどでした」
などと言いながら、普段通りの冷徹な表情をさらしている千駄ヶ谷である。
西岡桔平は「そうですか」と口もとをほころばせた。
「でも今のって、出たとこ勝負のセッションだったんですよね。同じようには、二度とできません。それがセッションの醍醐味ですから」
「……なるほど。反復練習も無意味ということでしょうか?」
「はい。それはもちろん練習すればするほど洗練されていくでしょうけど、爆発力は減退していきます。初期衝動は、消耗品ですからね」
そうして西岡桔平は、いっそう柔和な笑顔を見せた。
「これから時間いっぱいまで練習して洗練させるか、本番の一発勝負にかけるか、どっちがお望みです? 一発勝負だと、大失敗する恐れもありますけどね」
千駄ヶ谷はしばし黙考してから、「承知しました」と首肯した。
「それでは、本番の日まで温存という形を取らせていただきたく思います。どのみちユーリ選手は、同じテンションを持続させることも難しいようですので」
「オッケーです。ヒロもジンも、文句はないな?」
「……別に、どっちでもいいけど」
「ぼ、僕も異存はありません。一点集中のほうが気持ちいいですからねぇ」
かくして、『ワンド・ペイジ』とのリハーサルは十五分も経たぬうちに打ち切られることになってしまった。
彼らは余った時間を自分たちの練習にあてたいということで、瓜子たちはスタジオの外に失礼する。ユーリは再びぐったりとソファに沈み込み、千駄ヶ谷は冷徹きわまりない目つきでそれを見下ろした。
「ユーリ選手。貴女のヴォーカリストとしての潜在能力を今日まで引きだせなかったこと、私は心より申し訳なく思っています」
「いえいえぇ。ユーリなどはただガムシャラに歌っていただけですので、そんな大したアレではないですよぉ」
「……サードシングルのレコーディングに関しては、演奏を含めて一発録りの方式に修正する必要があるようです。また、アップテンポの楽曲とバラードソングの両A面シングルという形態を取るべきでありましょう。申し訳ありませんが、私は会社に戻ってスタッフたちと臨時の会議を行いたく思います」
そんな言葉を残して、千駄ヶ谷は速やかに立ち去ってしまった。
取り残されたユーリと瓜子は、顔を見合わせるばかりである。
「えーと……千さんはどうしてしまったのかしらん?」
「ユーリさんの思わぬ才能に、度肝を抜かれちゃったんでしょう。正直なところ、自分も同じ気持ちっすよ」
「えー? これでお歌の稽古が増えちゃったりしないよねぇ? ユーリはやっぱりお歌を歌うより、グラビア撮影のほうが気楽でいいですわん」
「そうなんすか? 『ベイビー・アピール』とのリハでは、ずいぶん楽しそうに見えましたけど」
「ああ、うーん……楽しさ半分、めんどさ半分ってところかなあ。生バンドの演奏のほうが楽しいってのは、厳然たる事実だけれどもねぇ」
そう言って、ユーリはふにゃんと微笑んだ。
「そして何より、ユーリは早くお稽古をしたいのです! 副業にうつつを抜かすよりも、本業でみっちり汗をかきたいのだよ!」
「そうっすか。それじゃあ、タクシーの手配をしますね」
そうして携帯端末を操作しながら、瓜子はしみじみとした感慨を噛みしめていた。
きっとユーリには多かれ少なかれ、シンガーとしての才覚も備わっていたのだ。ユーリに強い思い入れを抱く瓜子ばかりでなく、千駄ヶ谷や『ワンド・ペイジ』の面々までもがあのような反応を見せていたのだから、それは間違いのないことだろう。
ユーリはそのような才覚を欲してはいないのだろうが、しかし瓜子は純粋に嬉しかった。ユーリが感情を込めて歌った歌が、人の心を揺さぶれるのだとしたら――それはユーリが外見ばかりでなく内面をさらした上で、他者の理解や共感を得られるということになるはずだからだ。
(ユーリさんは、ひとりぼっちなんかじゃないですよ)
タクシー会社への連絡を終えた瓜子は、そんな思いを込めてユーリを見つめてみせた。
ユーリはきょとんとしていたが、それでも何だかはにかむような顔で笑ってくれていた。
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