02 悪ふざけ

 そうしてユーリは自分の手で耳をふさぎつつ、リハーサルが続行されたわけであるが――その結果は、実に惨憺たるものであった。

 まず、まったく音程が取れていないのだ。

 音楽には疎い瓜子でも、ユーリの歌がまったくの調子っ外れであることは嫌というほど理解できた。それも、部分的に音を外すというレベルではなく、最初から最後まで余すところなく不協和音となってしまっていたのだった。


 それにそもそも、演奏が爆音すぎて、ユーリの歌声がかき消されてしまっている。それを聞き取ろうとして意識を集中すると、音程の狂ったユーリの歌声が演奏の爆音とまじりあい、聞いているだけで頭痛を覚えるほどであった。


「いやあ、これはちょっと、社交辞令でも褒める言葉を思いつかないなあ」


 とりあえず『リ☆ボーン』を完奏したのちに、漆原は無邪気に笑いながらユーリを振り返ってきた。


「ね、ユーリちゃんって、ボイトレとかしたことないの?」


「そうですねぇ。そういうのは、一切やってないですぅ」


「そっかそっか。まあ、歌を歌うってのは専門外って話だったもんね。そんなに可愛くて歌まで上手かったら、あまりに不公平ってもんかあ」


 金色の前髪をかきあげながら、漆原は子供のような顔で笑っている。


「でもさ、これじゃあさすがにステージでお披露目するのも厳しいレベルだよね。よかったら、俺がヴォーカルの先輩としてレクチャーしてあげよっか?」


「あ、本当ですかぁ? もしご迷惑じゃなかったら、お願いいたしますぅ」


「オッケー。じゃ、レッスン料は、ほっぺにチューね」


 瓜子は一瞬で、沸点を超えそうになってしまった。

 が、ユーリはのほほんとした顔で笑っている。


「ほっぺにチューですかぁ。それはちょっと、レッスン料がお支払いできないみたいですぅ。申し訳ないので、自力で頑張りますねぇ」


「あ、そう? この調子じゃ二時間あっても間に合わなそうだけど、大丈夫?」


「はぁい。ユーリのお歌がへたっぴなのは周知の事実ですので、別に問題はないと思いますぅ」


「ふーん?」と、漆原は笑顔のまま首を傾げた。


「そっか。ユーリちゃんは、そういうスタンスなんだね。ステージで大恥かいちゃっても、別にかまわないんだ?」


「そうですねぇ。ユーリが人前でお歌を歌うなんて、最初っから羞恥プレイみたいなものでしたのでぇ」


「なるほどなるほど。それじゃあ俺たちは、ユーリちゃんのプレイにつきあわされてるってことだ。ユーリちゃん、面白いこと言うね」


 漆原は無邪気な顔でにこにこと笑い、他のメンバーはにやにやと笑っている。その顔を眺めているだけで、瓜子はまた火がついてしまいそうだった。


「だったら俺たちも、一緒に恥をかいてあげてもいいけどさ。それなら、見返りが欲しいなあ」


「えー? 見返りって何ですかぁ?」


「何だろうね。ユーリちゃんだったら、色々と楽しませてくれそうじゃない?」


「あのですね――!」と、瓜子が怒声をあげかけたとき、スタジオ内の照明が何度か明滅した。

 防音の扉を押し開けて入室してきたのは、紺色のレディススーツを纏った千駄ヶ谷である。その姿を見て、漆原がぴゅうっと口笛を鳴らした。


「また美人さんの登場だ。あんた、誰?」


「私はスターゲイトの千駄ヶ谷と申します。そちらのユーリ選手のチーフマネージャーを担当させていただいておりますので、どうぞお見知りおきください」


 漆原たちのかもしだす不良少年めいた雰囲気に気圧された様子もなく、千駄ヶ谷はいつも調子で冷然と一礼した。


「本日は大事なリハーサルに遅参してしまいましたこと、心よりお詫びを申し上げます。……猪狩さん、リハーサルの調子は如何でしょうか?」


「……はい。色々と問題があって、どうしたものかと考えあぐねていたところです」


「問題」と繰り返しながら、千駄ヶ谷はふちなし眼鏡の角度をなおした。


「承知いたしました。では、時間の猶予もございませんので、どうぞリハーサルをお続けください」


「あはは。美人さんの観客が増えて、テンション上がるなあ。じゃ、どうする? もう片方の曲もやってみる?」


「あ、できればもういっぺん、『リ☆ボーン』をお願いできますかぁ? 慣れれば、もうちょっとはまともに歌えるかもしれませんのでぇ」


「りょうかあい」と間延びした声で応じて、漆原はドラムに合図を送った。

 ドラムはにやにやと笑いながら、外していた耳栓を詰めなおす。その姿を見て、千駄ヶ谷はわずかに目を細めたようだった。


 何回目かの前奏が繰り広げられて、スタジオ内の空気を大きく震わせる。

 ユーリは耳もとをふさぎながら、じっとドラムの挙動を注視していた。耳をふさいでも音が割れていてフレーズがはっきり聞き取れないため、ドラムの動きで歌い出しのタイミングを計っているのだろう。


 ドラムがスネアを連打して、それを合図にユーリが歌い出す。

 しかしやっぱり、調子っ外れの歌声だ。聞いているだけで、気分が悪くなってしまう。


 と――ユーリがAメロを歌いきったところで、千駄ヶ谷が足を踏み出した。

 向かう先は、漆原のもとである。千駄ヶ谷は、漆原の手前に設置されていたスタンドからマイクを取り上げた。


「もう結構です。演奏を中止してください」


 千駄ヶ谷の冷たい声がスピーカーで増幅されて、演奏の爆音を叩き斬る。

『ベイビー・アピール』の面々は、とりたてて驚いた様子もなく演奏の手を止める。


「どうしたの? さっきよりは、ユーリちゃんの歌もマシになってたと思うけど」


「そうですね。この劣悪な環境下では、賞賛に値するレベルであるのかもしれません」


 瓜子はひとりで、首をすくめることになった。千駄ヶ谷の声音が、説教タイムの冷徹さを帯びていたのである。

 いや、少し離れた場所では、ユーリも小さくなってしまっている。ユーリなどは瓜子よりも千駄ヶ谷とのつきあいが長いのだから、こうした微細な変化にもより敏感であるのだろう。

 しかし、千駄ヶ谷の冷たく光る切れ長の目は、ひたすら『ベイビー・アピール』の面々に向けられていた。


「劣悪って、ひどい言い草だね。ユーリちゃんの曲をアレンジするのに、こっちもけっこう手間をかけたのになあ」


 漆原がにこやかに笑いながら言いたてると、千駄ヶ谷の視線がそちらに突きつけられた。


「はい。各パートのアレンジに関しては、素晴らしい出来栄えであるように思いました。ですがこの劣悪な環境では、それを判じるのも難しいのではないでしょうか?」


「いったい何が劣悪だってのさ? このスタジオ、都内でもトップクラスの機材を置いてるはずだけど」


「でしたら、宝の持ち腐れと称するしかないでしょう。それを腐らせているのは、あなたがたに他なりません」


 氷の刃を思わせる声音で、千駄ヶ谷はそのように言い切った。


「その理由は、二点。まず、この音量は如何したことでしょう? これではリードギターのフレーズすら、まともに聞き取ることはかないません」


「ああ、瓜子ちゃんもそんな風に言ってたね。でも、俺たちはもともと爆音バンドで、音作りにも生命を懸けてるからさ」


「それは私も存じあげています。では何故ご自身の手によって、その生命を殺してしまっているのでしょう? 貴方のギターは休符のポイントでも絶えずハウリングを起こしており、演奏の邪魔立てをしてしまっています。察するに、エフェクター側のゲイン調節に問題があるのではないでしょうか?」


「いやいや、ファズサウンドなんてハウってなんぼだから――」


「貴方は音楽雑誌のインタビューにおいて、まったく反対のコメントを述べておられました。『ベイビー・アピール』においてはハウリング音すらもが楽曲の一部であり、余計な部分で雑音を鳴らすのは三流のやることだと主張されていたはずです」


 漆原は、きょとんとした顔で口をつぐんだ。

 千駄ヶ谷の声は、ますます冷たく凍てついていく。


「なおかつ貴方がたは、全員が耳栓などをしておられます。観客席の人間が耳栓やイヤーマフを装着してライブ会場に臨むことは、音作りに生命を懸けている自分たちへの冒涜だと仰っていましたね。また、ライブはもちろん雑誌やSNSなどで公開されていたリハーサル風景においても、耳栓などを着用しているお姿は一度として拝見できませんでした。それは、今日という日に限って普段以上の音量を出しているという、何よりの証なのではないでしょうか?」


「……あんた、俺たちのファンだったの?」


「いいえ。このたびのプロジェクトのために、事前調査をしたまでのことです」


 漆原の反問を一刀両断して、千駄ヶ谷はさらに言葉を重ねていく。


「そして、もう一点。貴方がたは、弦楽器のチューニングを半音下げた状態で演奏しておられました。それは事前に通告が為されていたのでしょうか、ユーリ選手?」


「ひゃい!? チュ、チューニングとは、なんのことでしょう? 音楽用語はよくわからないユーリちゃんなのです!」


「チューニングとは、楽器の音程を調律することです。ユーリ選手は多少ながらカラオケをたしなまれるというお話でしたが、そちらの機器にも音程を調整する機能が備わっているでしょう? それを操作するのと同じことで、さきほどの演奏は本来よりも半音低いキーで演奏されていたのです」


「あ、そうだったのですかぁ。ユーリ、ちっとも気づきませんでしたぁ。だからあんなに歌いにくかったのですねぇ」


「不必要な大音量のためにギターリフの旋律すら輪郭がぼやけていたのですから、キーの違いにも気づくことができなかったのでしょう。『ベイビー・アピール』の方々は意図的に、ユーリ選手を歌いづらい状況に追い込んでいたというわけです」


 そうして千駄ヶ谷は、あらためて『ベイビー・アピール』の面々を見回していった。


「では、おうかがいいたしましょう。貴方がたは、どうしてそのような真似をされたのですか? 所属事務所の方々からは、非常に前向きな姿勢で今回のオファーを受けていただけたと聞き及んでいるのですが」


「どうしてって言われると困るけど……まあ、サプライズってやつかなあ。ユーリちゃんが泣きを入れるようだったら、すぐに種明かしするつもりだったんだけどね」


 漆原は困ったように笑いながら、千駄ヶ谷のことを見返していた。他のメンバーたちは、悪戯を見つけられた子供のようにもじもじとしている。


「……子供じみていますね。これは契約不履行と見なすべきでしょうか?」


「そんなに怒んないでよ。曲のアレンジなんかは、ほんとに頑張ったんだから」


「では、それをお聞かせ願いましょう」


 それだけ言って、千駄ヶ谷はきびすを返して瓜子のもとまで舞い戻ってきた。

 どこかうっとりとした面持ちでその後ろ姿を見送ってから、漆原は他のメンバーに号令をかける。


「じゃ、仕切り直しだな。今度こそ、チューニングは念入りにな。あと、エフェクターの調節も忘れんなよ」


 弦楽器を携えた三名が、またチューニングを開始する。

 それらの姿を見やりながら、瓜子は溜息を止められなかった。


「……申し訳ありません。チューニングとか、自分にはさっぱりわかりませんでした」


「何も謝罪の必要はありません。あれだけの大音量では、キーの違いに気づくことも難しかったでしょう。すべては約束の時間に遅れてしまった私の落ち度であるかと思われます」


「そういえば、ずいぶん早いご到着でしたね。一時間ぐらい遅れるっていう話じゃありませんでしたか?」


「道が空いておりましたので、想定よりも早く到着することがかないました」


 千駄ヶ谷は冷然としていたが、それはいつものことである。瓜子の至らなさに腹を立てている様子はなかったので、それだけが救いであった。


 そうしてあらためて、『リ☆ボーン』の演奏が始められたわけであるが――その出来栄えは、素晴らしいものであった。もともとは軽快である楽曲が重々しいヘヴィサウンドでアレンジされており、それでいて、疾走感も増している。最初からこのような演奏が披露されていたならば、瓜子も即時で感心させられていたはずであった。


 そして、ユーリである。

 ユーリの歌声も、これまでと様がわりしていた。

 演奏の音量は適度に抑えられていたが、それでも普段のバックミュージックに比べれば格段に轟音で、迫力も凄まじい。それに対抗するように、ユーリもこれまで以上の声量で歌っているようであるのだ。


 ギターがどれだけかき鳴らされても、ユーリの歌声が埋もれることはない。もともと周波数の高いユーリの声に艶と張りが増幅されて、耳だけではなく胸もとにまで響くような心地であった。


 そうして一曲終えたところで、漆原がユーリを振り返る。


「ユーリちゃん、すっげー声が抜けるね。あと、声量もなかなかのもんじゃん。ほんとにボイトレとかやってなかったの?」


「そうですねぇ。ユーリもこんなおっきな声で歌ったのは初めてですぅ」


「ナチュラルに、腹から声が出てるんだよな。ボイトレもしてないのに腹式呼吸ができてるって、けっこう凄いことだよ」


「ありがとうございますぅ。お稽古で鍛えた腹筋もちょっとはお役に立ってるんですかねぇ」


 あんな悪質なイタズラを仕掛けられたというのに、ユーリは平気な顔で笑っている。とことん他者からの悪意にはタフなユーリであるのだ。


「でも、Aメロの一番と二番が同じ調子になっちゃってるね。二番のAメロって、演奏はけっこう音を抜いてるっしょ? それに合わせてユーリちゃんも少しだけ力を抜いたほうが、メリハリも出るんじゃないのかな」


「わかりましたぁ。できるかどうかはわかりませんけど、気をつけてみまぁす」


「よし。それじゃあもういっぺん、通してみようか」


 そんな言葉も交わされて、『リ☆ボーン』はますます魅力的に仕上げられていく。ユーリばかりでなく、演奏陣のほうも細かい部分でアレンジを修正し、よりよいものを作りあげようという気概を見せていた。


「もうちっと詰めたいところだけど、もう一曲のほうもやっておかないとな。そっちのほうを納得いくまで練りあげて、時間が余ったらこっちの曲にももういっぺん手をつけるってことにしようか」


「はぁい。ご随意にぃ」


 ということで、今度はファーストシングルの『ピーチ☆ストーム』が開始される。

 こちらの楽曲こそ、瓜子は驚かされてしまった。もともとは電子音を主体にした可愛らしい楽曲であったのに、それが『リ☆ボーン』にも負けない迫力に仕立てられていたのだ。

『ベイビー・アピール』にキーボーディストはいないので、ギターによってシンセサイザーの音がなぞられる。その音色は確かに電子音を意識してエフェクターが掛けられているようであったが、もともとの躍動感はそのままに、重厚さと鋭利さが加えられていた。


「なるほど。基本のリフはタッピングで再現しているのですね。スペイシーな浮遊感は残しつつ、尖ったエッジが重ねられて、原曲とはまた異なる魅力が導き出されているようです」


 千駄ヶ谷は、低い声でそのようにつぶやいていた。

 その声が聞こえていたのは瓜子だけであったので、瓜子の責任において問うてみる。


「あの……千駄ヶ谷さんも、以前に何か音楽活動でもされてたんですか?」


 千駄ヶ谷はきろりと瓜子を見下ろしただけで、何も答えようとしなかった。

 その間に、ユーリは「ふひー」と息をついている。


「おっきな声で歌うのって、こんなに疲れるもんなんですねぇ。なんか、いいトレーニングになりそうですぅ」


「あはは。でも、ユーリちゃんはずっと棒立ちだよな。本番で暴れるつもりなら、少しはリハでも動いたほうがいいと思うよ」


「え、いいんですかぁ? みなさんのお邪魔になったらいけないなと思って、ずっと我慢してたんですけどぉ」


「こんだけスペースがあれば、邪魔になんてならないよ。ていうか、邪魔にならずに暴れられるように、練習しておいたほうがいいんじゃない?」


「なるほど! それでは失礼して、ちょっぴり動かせてもらいますねぇ」


 ユーリは弾んだ声で言いながら、ピンク色のカーディガンを脱ぎ捨てた。

 下には七分丈の丸襟カットソーを着込んでいるが、何せユーリである。漆原を除く三名が、「おお!」と歓声をあげていた。


「やっぱ、すげえスタイルだなあ。さっきのウルのジョークじゃねえけど、見とれてミスらないようにこっちもリハが必要だわ」


 ドラムセットに陣取ったダイなる人物が、笑いながらそのように言っていた。さきほどまでの嫌な笑い方ではなく、実に気さくな笑い方だ。


 そうして二時間の練習時間は、瞬く間に過ぎ去っていったのだった。

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