8th Bout ~Three big events~
ACT.1 Sing a Song
01 ベイビー・アピール
六月の第二火曜日。
卯月選手から招待された《アクセル・ジャパン》を数日後に控えたその日、瓜子とユーリは世田谷の音楽スタジオを訪れていた。
《アクセル・ジャパン》の一週間後には、格闘技と音楽の祭典たる『NEXT・ROCK FESTIVAL』が控えている。その音楽部門のステージに立つユーリのために、このスタジオでリハーサルが行われるのである。
集合時間の十五分前に到着した瓜子は、携帯端末に残されていた千駄ヶ谷からのメッセージを入念に確認してから、ユーリを振り返った。
「ユーリさん。やっぱり千駄ヶ谷さんは、到着が一時間ほど遅れるみたいです。他の仕事で、ちょっとゴタゴタがあったみたいっすね」
「そっかぁ。でもまあ千さんがいないほうが、ユーリはのんびりくつろげるかなぁ。千さんがユーリの現場に立ちあうなんて、すっごくひさびさだもんねぇ」
「そうっすね。それで千駄ヶ谷さんのいない分の重責は、自分の両肩にのしかかってくるわけっすよ」
瓜子がそのように答えると、ユーリは「にゃっはっは」と愉快そうに笑った。
「うり坊ちゃんも、いつになく気負っておるねぃ。ついに憧れのヒロ様とご対面ということで、胸が高鳴ってしまうのかにゃ?」
「……ユーリさん。そんな軽口を本人の前で叩いたら、どうなるかわかってるでしょうね?」
「おおう、うり坊ちゃんが本気で苛立っておられる! そんなおっかにゃい目つきをしなくても、うり坊ちゃんが嫌がるようなことは絶対にしないよぉ」
瓜子はぐいっとのびあがって、黒縁眼鏡の奥に輝くユーリの瞳を覗き込んだ。
「絶対の絶対っすよ? 自分は本気で、好きなアーティストのプライヴェートとか、いっさい関わりたくないんすから。自分がワンドのファンだとか、余計なことは口走らないでくださいよ?」
「うみゅうみゅ。バンド名をワンドと略すあたり、隠しきれないファン魂がこぼれ落ちておりますにゃあ」
「…………」
「むにゃー! シリアルキラーのごとき眼光! ユーリが眼力で息絶える前に出発いたしましょっかぁ」
そんな不毛なやりとりを経て、二人は音楽スタジオの入り口をくぐった。
このスタジオはプロアーティストの御用達ということで、カウンターにはきちんとした身なりの受付係が控えている。瓜子が来意を告げると、受付係の女性はにこやかに通路の奥を指し示した。
「本日の最初のご予約は、Bスタジオとなっておりますね。『ベイビー・アピール』の方々は午前のリハーサルからそのまま待機されておりますので、そちらにどうぞ」
本日の練習時間は三時間で、最初の二時間が『ベイビー・アピール』、次の一時間が『ワンド・ペイジ』との音合わせとされている。ユーリがイベントでお披露目するのはわずか三曲であるのだが、演奏を受け持つバンドの面々にはそれぐらいの時間が必要となるのだろう。
あちこちにポスターの張られた通路をてくてくと歩きながら、ユーリはいつも通りののほほんとした面持ちだ。さすがにデビューシングルの発売から一年近くが経過して、歌の仕事にも慣れてきたらしい。夏にはサードシングルの発売も予定されているので、心強い限りであった。
「あ、ここがBスタジオっすね。ユーリさん、心の準備はいいっすか?」
「うみゅ。ユーリはいつでも平常心だよぉ」
それならば、幸いである。最初に相対する『ベイビー・アピール』というバンドは、どちらかというと強面の部類であるのだ。千駄ヶ谷がわざわざ同行を申し出てきたのも、このバンドと悶着を起こさないように、という思いからであるはずだった。
(……その分は、あたしが身体を張ってフォローしないとな)
防音の扉ではノックの意味もないので、スタジオ内の照明を室外から何度か明滅させて、入室の前触れをする。音楽関係の仕事でつちかった、瓜子の数少ない知識である。
そうして二重の扉を開いて入室すると、たちまち煙草の臭いがむわんと顔に吹きつけてきた。鼻をつまみたくなるのを我慢しながら、瓜子はユーリを招き入れて、扉を閉める。
「お待たせしました。スターゲイトの猪狩と申します。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
瓜子はお行儀よく一礼してみせたが、言葉が返ってくることはなかった。
スタジオ内には、『ベイビー・アピール』のメンバーが四名、きっちりと居揃っている。音響スタッフなどは呼ばれていなかったので、それが総勢であった。
「えーと……こちらが今回のイベントでヴォーカルを担当させていただくユーリさんです。音楽は本職でないので色々と至らない面もあるかもしれませんが、よろしくお願いいたします」
「ユーリですぅ。よろしくお願いいたしまぁす」
ユーリもお気に入りのキャスケットを外して、愛想よく笑顔で挨拶をした。
が、やっぱり返事は聞こえてこない。『ベイビー・アピール』の面々は思い思いの場所に座り込んで、にやにやと笑いながらユーリと瓜子を見やるばかりであった。
すでに千駄ヶ谷が相手方の関係者と入念に挨拶を交わしているので、本日はひたすらリハーサルに取り組むべし、と瓜子は聞かされている。しかし彼らはユーリが到着したというのに、立ち上がろうともしなかった。
(やっぱりちょっと、ガラの悪いお人たちだよな……)
『ベイビー・アピール』は、ヘヴィな楽曲と派手なビジュアルで知られる、インディーズあがりの若手バンドである。瓜子はあまり趣味でないので詳細はわからないが、「ミクスチャー・ヘヴィ・ロックの申し子」などと称されているらしい。
《NEXT》の興行で使用されるテーマソングは彼らの楽曲であり、また、メンバーの誰かが《NEXT》で活躍する有力選手の元クラスメートだとかで、これまでにも何度かコラボイベントを行っている。そもそも《NEXT》がミュージシャンとのコラボレーションに乗り出したのも、この『ベイビー・アピール』との出会いがあってこそなのだという話であった。
「あ、そうだ。本当はチーフマネージャーの千駄ヶ谷も同行する手はずだったんですが、別件のトラブルで到着が遅れています。あと一時間ていどで到着する予定ですので、どうかご容赦ください」
千駄ヶ谷であればこのように舐められることもないのだろうかと念じつつ、瓜子はそのように言葉を重ねてみせる。
するとようやく、メンバーのひとりがゆらりと立ち上がった。
「どうでもいいけどさ。荷物ぐらい置いたら? 荷物置きは、そっちだよ」
ヴォーカル&ギター担当の、漆原という人物だ。金色に染めた髪には部分的に赤いカラーリングが施されており、両サイドは大胆に刈り込まれている。ひょろひょろに痩せ細っているが、Tシャツから覗く右腕には手の甲にまでびっしりとタトゥーが施されており、迫力は満点であった。顔立ちも端整ではあるのだが、目の下に隈が浮かんで、頬もげっそりとこけているので、たいそう不健康そうに見えてしまう。
「ありがとうございます。それじゃあ、バッグと帽子だけ置かせていただきますね」
瓜子はユーリをうながして、横手の壁際に設置された棚のほうに歩を進めた。
棚には脱衣カゴのようなものが詰め込まれており、空いているのはひとつだけであるようだ。それを何気なく引っ張り出した瓜子は――愕然と立ちすくむことになった。
カゴの中に、一冊の雑誌が広げられている。
そこに掲載されていたのは、ユーリと瓜子の水着姿に他ならなかった。
それは去年の夏に発売された、ファッション誌『ミリアム』の水着特集号であったのだ。
瓜子が硬直している間に、スタジオ内は爆笑に包まれる。
瓜子がのろのろと振り返ると、『ベイビー・アピール』のメンバーは四名全員が腹を抱えて笑っていた。
「いやあ、ごめんごめん! ちょっとしたイタズラ心だったんだよ! そんな、幽霊でも見たような顔しないでくれよ!」
と、漆原が笑い涙をぬぐいながら近づいてきた。
「いや、実はドラムの彼女が、そっちのユーリちゃんのフリークでさ。マネージャーのコもめっちゃ可愛くて、一緒にモデル活動してるって教えてくれたんだよ。で、びっくりさせようと思って、その雑誌を借りてきたわけ。あんた、ほんとに可愛いね」
病的なぐらいに痩せているのに、漆原の笑顔は子供のように屈託がなかった。
しかし瓜子は、返す言葉が見つからない。相手が無邪気であればあるほどに、気持ちのぶつけどころを見失ってしまったのだ。
「そう……ですか。はい、びっくりしました。自分……いや、わたしはモデルなんかじゃなくって、これはたまたま……そういう流れになっただけですので」
「モデルじゃないの? そんなに可愛いのに? もったいないなあ。あんたが写真集でも出したら、俺は絶対に買っちゃうよ」
それだけ言って、漆原はくるりときびすを返した。
「さ、それじゃあサプライズも終了ってことで、リハを始めっか。お前ら、チューニングは念入りにな」
他のメンバーも身を起こして、めいめいの楽器を生音で鳴らし始めた。
『ミリアム』のページをそっと閉ざして、二人分のバッグをカゴの中に詰め込む瓜子を、ユーリが横から心配そうに覗き込んでくる。
「だいじょーぶ、うり坊ちゃん? 撮影嫌いのうり坊ちゃんには、ちょっぴり刺激の強いサプライズだったねぃ」
「……ええ、大丈夫っすよ。ユーリさんも、準備をお願いします」
「うん。でも、ユーリはお歌を歌うだけだからにゃあ」
瓜子は呼吸を整えつつ、ユーリとともにスタジオの中央へと舞い戻った。
ドラムを除く三名は、それぞれの楽器のチューニングをしている。リードギターはドレッドヘアー、ベースはスキンヘッド、ドラムは坊主頭にバンダナと、容姿はさまざまであるが、纏っている雰囲気に大きな違いはない。ガラの悪い高校生が、そのまま大人になったような雰囲気だ。よくいえば無邪気であるし、悪くいえば無節操であった。
(……まあ、音楽の出来に人柄の善し悪しなんて関係ないんだろうしな)
しばらくして、サイケなペイントの施されたギターを抱えた漆原がユーリに向きなおってきた。
「そういえば、自己紹介もしてなかったね。俺はウルで、ギターのリュウ、ベースのタツヤ、ドラムのダイだ。よろしくな、ユーリちゃん」
「はぁい。よろしくお願いしまぁす」
「……ユーリちゃんは、アイドル兼ファイターなんだろ? 格闘技のことはよくわかんないけど、やっぱアイドルってのは着てるもんからしてセンスが違うなあ」
不健康な顔に屈託のない笑みを広げつつ、漆原はそんな風に言っていた。
本日のユーリは丸襟のカットソーにピンク色のカーディガンを羽織り、スキニーデニムとスニーカーというカジュアルな格好だ。男の園に飛び込むということで、とりわけ露出は控えられていた。
ただし、もともとのプロポーションが卓絶している上に、色気とフェロモンが垂れ流しのユーリである。瓜子も千駄ヶ谷も、まずバンドのメンバーにユーリが色目を使われることを警戒していた。
が、今のところ、漆原からそういった気配は感じられない。派手なファッションや不健康な顔立ちと相反して、彼はひたすらに無邪気そうであった。
「じゃ、始めよっか。楽曲のアレンジはもう固めてるからさ。何回か通してみて、気になるところがあったら指摘してよ」
「はぁい。承知いたしましたぁ」
「それじゃあまず、セカンドシングルのほうからね。えーと、タイトルは何だったっけ?」
「タイトルは、『リ☆ボーン』ですねぇ。よろしくお願いしまぁす」
「オッケー。俺も気が乗ったら、適当にコーラスを入れてみるからさ」
漆原は右耳をほじるような仕草を見せてから、他のメンバーを見回した。
ドラムがスティックでカウントを取り、巨大なアンプからギターとベースのエレキサウンドが放出される。
その瞬間、瓜子はぎょっと身をすくめることになった。
それは、予想以上の轟音であったのだ。
イントロなどはリードのギターがメインで、残りのパートは音数も少ないはずであるのに、とにかく音量が尋常でない。特徴的なギターリフも、何を弾いているのかさっぱりわからないぐらいであった。
スタンドマイクの前で待機していたユーリも、きょとんと目を丸くしている。
やがてドラムがスネアを乱打すると、音の圧力がさらに膨れあがった。サイドギターの漆原やベースのタツヤなる人物も、それぞれの楽器をかき鳴らし始めたのだ。
そんな音の奔流が十数秒ほど駆け巡った後、漆原が演奏の手を止めて、自分のマイクに「ストップストップ!」とがなりたてた。
「どうしたの、ユーリちゃん? 歌詞、飛んじゃった?」
「え? もうお歌のパートに入ってましたかぁ? ごめんなさぁい。うまく聞き取れませんでしたぁ」
ユーリが申し訳なさそうに頭を下げると、漆原は「そっかそっか」と笑み崩れた。
「ま、生演奏ってのは、音圧が違うからね。俺たちは、ただでさえ爆音バンドだからさ」
「そうなんですねぇ。すごい迫力で、びっくりしちゃいましたぁ」
「じゃ、もう一回、頭からやってみよっか」
漆原の合図で、同じ演奏が繰り返された。
が、やはり結果は同じである。瓜子にしても、何が演奏されているのかも聞き取れないのだから、ユーリを責めることなどできようはずもなかった。
再び演奏が止められて、笑顔の漆原がユーリを振り返る。
「うーん、こいつはピンチだね。これじゃあリハにならないなあ」
「あ、あの、もう少し音量を下げてもらうことってできませんか?」
瓜子がたまらず呼びかけると、漆原がけげんそうな顔をした。
そしてまた右耳をいじってから、「なに?」と首を傾げる。
「いま、なんか言ったよね。聞こえなかったから、もういっぺんお願いできる?」
「あ、はい。できれば、もう少し音量を――」
そこで瓜子は、言葉を詰まらせることになった。漆原が右手につまんでいるものの正体を見て取ったのである。
「あ、あの、それって耳栓ですか?」
「うん。俺たちにとって、耳は生命だからねえ。できる限りは、いたわってやらないと」
音楽に疎い瓜子は、すっかり混乱することになってしまった。
「す、すみません。自分は素人なんで、よくわからないんですけど……耳栓をしていて、ご自分らの演奏が聞こえるものなんですか?」
「そりゃあ聞こえるよ。聞こえなかったら、演奏にならないでしょ。特にベースやドラムなんかはズンズン響くから、リズムを取るのに支障もないしね」
「それなら、弦楽器だけでも音量を下げていただくとか……」
「いやいや、出したい音に必要なゲインってのがあるんだよ。俺ら、音を歪ませてナンボだからさ。そこは妥協できないってわけ」
その妥協できない音色というものを耳栓ごしに聞くというのが、瓜子には理解できなかったのだが――しかし彼らの目的は、聴衆に演奏を聞かせることであるのだ。自分は耳栓をしてでも、好みの音色を聴衆に届けたい、ということなのだろうか。
「わ、わかりました。素人が口をはさんですいません。それじゃああの、ユーリさんにも耳栓を貸していただけないでしょうか……?」
「あー、予備はないんだよねえ。お前らは? ストックある?」
後半の言葉はマイクを通されたので、他のメンバーも聞き取ることができたようだ。しかしその返事は、いずれも「ノー」であった。
「うーん。でも、これじゃあリハにならないしなあ。しかたない。俺の耳栓を貸してあげるかあ」
「え、いいんすか?」
「うん。その代わり、ジャンケンで勝てたらね」
にこにこと笑いながら、漆原はそのように言いたてた。
「俺にジャンケンで勝てたら、かたっぽだけ貸してあげる。二回勝てたら、両方ね。で、ユーリちゃんが負けたら、一枚ずつ脱いでくの」
「は?」と、瓜子は声が尖るのを止めることができなかった。
「あの、何を仰ってるんですか、漆原さん? 悪い冗談はやめてください」
「ウルでいいよ、瓜子ちゃん。でも別に、冗談じゃないんだなあ。俺も大事な耳を爆音にさらすリスクを負うんだから、リターンが欲しいじゃん」
「でも、だからって――!」
「それにユーリちゃんは、どうせ本番でセクシー衣装なんでしょ? 試合のカッコとか見せてもらったけど、あんなんで一緒にステージ立ってたら、こっちはもう煩悩まみれでヘロヘロだよ。だから、免疫をつけておきたくってさ」
「……それならそれで事前に話を通していただかないと、困ります」
「うん。だからこっちも、無理にとは言わないよ。ジャンケンだったら、対等な勝負でしょ?」
漆原は、あくまでも無邪気な笑顔である。
しかし他のメンバーは、にやにやと人の悪い笑みを浮かべている。明らかに、このシチュエーションを面白がっているのだ。
正直に言って、瓜子のあまり長くない導火線は、すでに危ういところまで焼け落ちてしまっていた。
それを救ってくれたのは、ユーリである。
「だったらユーリはこうやって、自分の指で耳をふさいでみますねぇ。野球拳は恥ずかしいので、カンベンしてくださぁい」
ユーリは漆原に負けないほど、にこやかに笑っていた。
漆原もまた同じ笑顔のまま、ユーリのほうを振り返る。
「ユーリちゃんは、それでいいの? オッケー。じゃ、試しにやってみようかあ」
「はぁい。お願いしまぁす」
自分の耳もとに両手をあてがいながら、ユーリは瓜子にこっそりウインクを飛ばしてきた。
が、瓜子は感情を押し殺しつつ、うなずき返すことしかできない。漆原に悪気があるにせよないにせよ、こらえようもない憤懣が腹の底に渦巻いてしまっていたのだ。
(本当にこのお人は、悪気もなしにあんなふざけたことを言ってるのか?)
漆原は鼻歌でも歌い出しそうな面持ちで、その手のギターをかき鳴らしている。さまざまな個性をあわせもったその人物が、いったいどのような本性を隠しているものか、未熟者の瓜子にはなかなか判ずることができなかった。
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