02 招待状

 沙羅選手へのお見舞いを敢行した、翌日――

 某パラエティ番組の収録を終えたユーリと瓜子は、お台場から新宿を目指してタクシーに乗車していた。

 予定よりも押してしまったが、それでも時刻は午後の三時半だ。これならば、夜の稽古にはゆとりをもって到着できるはずであった。


 その移動中に、ユーリの携帯端末が着信を告げた。

 ディスプレイに表示された相手の名前を確認して、ユーリは「おりょりょ?」と目を丸くする。


「プレスマン道場からお電話だぁ。これから向かうところなのに、いったい何のご用事だろうねぃ」


 ユーリは小首を傾げつつ、通話をオンにする。

 するとその目が、いっそう大きく見開かれることになった。


「あ、レムさんですかぁ? はいはい、こちらはユーリのお電話ですぅ。いったいどうされたのですかぁ?」


 相手は道場の名誉師範、レム・プレスマンであったのだ。それは瓜子にしてみても、なかなか意外なお相手であった。


「ああ、はい。そうですねぇ。ついさっきお台場を出たところですので、小一時間はかかるかもですぅ。……はい、この時間はけっこう道が混んでいるのですよねぇ。……はいはい、そうですぅ。……え? 今からですかぁ? うーん……ちょっぴりお待ちくださいねぇ」


 ユーリは通話口を手でふさぎ、あんまり気乗りしていない顔を瓜子に向けてきた。


「あのね、お稽古の前にレムさんたちのお泊まりしてるホテルに寄ってくれないかっていうんだけど……これはどうしたものだろう?」


「ホテル? ホテルって、たしか……新宿からすぐ近くの、グランドホテルっすよね。そりゃあまあ時間的には問題もないでしょうけど、でも、なんのご用事なんです?」


「それが今ひとつ要領を得ないのだよねぇ。ケッしてワルいハナシじゃないです、シンパイ・ゴムヨーです……と、レムさんは仰っているのですけれども……なんか、卯月選手の出場する《アクセル・ジャパン》についてお話があるんだってよぉ」


 それは、ますますわからない話であった。そもそもレム・プレスマンや卯月選手とは、数日置きに顔をあわせているのだ。今日に限って滞在先のホテルにまで出向いてほしいとは、いったいどういう了見なのだろう。


「うーん……念のために、自分もお話をさせてもらってもいいっすか? ユーリさんのマネージャーとして、いちおう確認しておいたほうがいいように思います」


「うわぁ、たすかるぅ。それじゃあ、ちょっと待っててねん」


 相手の了承を取りつけた上で、瓜子が電話をかわることになった。


「どうも、猪狩です。お手数をかけて、申し訳ありません」


『ウリコ・サン、メッソウもないです。おハナシ、ありがとうです』


 重々しい声音で丁寧な言葉づかいでやや片言という、さまざまな要素をはらんだレム・プレスマンの声が聞こえてくる。眼差しだけが柔和なマフィアのボスめいた顔が見えないのは、果たして安心感と威圧感のどちらが増幅されるものか、瓜子にはあまり判然としなかった。


「えーと、ユーリさんにホテルまで来てもらいたいっていうお話らしいっすけど、道場では難しいようなお話なんでしょうか?」


『ハイ。ドージョー、カマいません。でも、アスからミッカカン、アえません。ユーリ・サン、シゴトです』


 確かにユーリは明日から三日間、夕方まで仕事が詰まってしまっている。卯月選手とは日中にしかスパーを行えないため、いちおうざっくりとした週間スケジュールは伝えるようになっていたのだ。


『キョウ、ドージョーでアえるなら、おハナシするつもりでした。でも、マにアわないようなので、ホテル、キてほしいです。OK、モラえますか?』


「ええ、そうっすね。……お二人はやっぱり、五時前に帰られてしまうんですか?」


『ハイ。ウヅキ・サン、ファン、ニガテです。アマチュアモンカセイ、カオをアわせたくない、イっています』


 卯月選手はそういった理由から、日中にしか道場に姿を現さないのだ。それに、《アクセル・ジャパン》は試合の開始時間がいささか特殊であるため、それに向けて体内時計の調整をしているという面もあるはずであった。

 瓜子は「うーん」と思い悩みつつ、おそるおそる言葉を重ねてみせる。


「もちろんレムさんからのお頼みでしたら、こちらもお引き受けしたいんですけど……ユーリさんて、ちょっとややこしいお立場なんすよね」


『ハイ、ショウチしています。スキャンダル、ゴハットですね? ウヅキ・サン、それイッショです。マスコミタイサク、バッチリです。シンパイ・ゴムヨーです』


 なるほど。卯月選手は北米で大活躍をしているMMA選手であるのだ。アイドル・ファイターたるユーリとは、また異なる意味でマスコミに注目されている存在であるはずであった。


「承知しました。それじゃあ、おうかがいいたします。……何もおかしな話ではないんすよね?」


『ハイ。シンパイ・ゴムヨーです』


 そうして、通話は打ち切られることになった。

 携帯端末を受け渡すと、ユーリは「むにゅう」と息をつく。


「いったい何のお話だろうねぇ? 《アクセル・ジャパン》なんて、ユーリには1ナノグラムも関係ないお話のはずなのだけれども」


「ええ。何か興行にまつわる話だったら、運営のほうから連絡があるでしょうしね。まさか、ユーリさんにセコンドを頼みたいってわけでもないでしょうし……」


 ともあれ、瓜子たちが頭を悩ませても詮無きことであった。ここはもう、レム・プレスマンや卯月選手の人間性といったものを信用するしかないだろう。彼らと悶着を起こしてしまったら、ユーリはプレスマン道場に居づらくなってしまう立場であるのだ。


「なんか卯月選手らが来て以来、柳原さんの風当たりがいっそうキツくなったっすよね。卯月選手とユーリさんとのスパーに関しても、いまだに面白く思ってないみたいですし」


「そうだねぇ。ユーリの不徳のなすところですわん」


「そもそも柳原さんって、どうしてあんなにユーリさんを嫌ってるんです? 以前に何かあったんすか?」


 ユーリは、にこーっと微笑んだ。

 瓜子は、溜息をついてみせる。


「やっぱり、そうなんすね。どういう内容だったか、聞かせてもらってもいいっすか?」


「いえいえ。このようなお話は、うり坊ちゃんのお耳を汚すばかりでありましょうから……」


「なるほど。柳原さんに、プロポーズされたってわけっすか」


「おおう、テレパシスト! ユーリの脳内を覗き見ないでー!」


「ふざけてる場合じゃないっすよ。そういうお話をうやむやにしておいたら痛い目を見るって、ベリーニャ選手との一件で思い知らされたでしょう? 立松コーチとかは、その一件を承知してるんすか?」


「いやぁ、個人主義の徹底されたプレスマン道場でありますので、そのあたりのことは我関せずでありましょう。……あ、だけど、サキたんだけは承知しておりますぞよ。だーれも見てないところで、柳原さんを蹴り飛ばしちゃったりしてたしねぃ」


「け、蹴り飛ばしちゃったんすか?」


「うん。サキたんって、そういうとこ鋭いからさぁ。おめーは性根が腐ってんのかって、お尻をばしーんとね! おかげさまで、それ以降はおかしな嫌がらせをされることもなくなったのだけれども……ただ、柳原さんと女子MMA門下生の間には、深い深い溝が刻まれることになってしまったのでぃす」


 そう言って、ユーリはふにゃんと微笑んだ。


「うり坊ちゃんもきっとユーリの巻き添えで、柳原さんに距離を取られているのだろうねぇ。申し訳ない限りなのです」


「いや、自分はどうでもいいっすよ。デビュー戦ではセコンドについてもらいましたけど、サブトレーナーなのに何もしてくれなかったですからね。それでサイトー選手や立松コーチが、自分から遠ざけてくれたみたいです」


 それに、ユーリに振られて逆恨みするような人間など、仲良くなりたいとも思わない。そのような人間がプレスマン道場に存在すること自体、瓜子には腹立たしく思えてならなかった。


「まあ、卯月選手の滞在も試合の日までですからね。そうしたら、柳原さんも大人しくなるでしょう」


「うんうん。柳原さんは卯月選手のことが大好きみたいだからねぇ。だから、ユーリの存在がいっそう目障りに感じてしまうのでしょう。申し訳ない限りであるのでぃす」


「いや、ユーリさんが申し訳なく思う理由なんて皆無っすよ」


 瓜子がそのように言いたてると、ユーリは「にゅっふっふ」とおかしな笑い声をあげた。


「そうは言っても、卯月選手とのスパーは至福のひとときなので、柳原さんの冷たい目なんてこれっぽっちも気になっていないのです。柳原さんに嫌われるていどであの至福の時間を噛みしめられるなら、ユーリは痛くもかゆくもないのだぞよ」


「お、ひさびさに黒い顔を見せたっすね。最近は妙に物分かりがよくなってたんで、ちょっと心配してたんすよ」


「むにゃー! うり坊ちゃんにはかないませんですにゃあ」


 そんな阿呆な会話を交わしている間に、目的地はじわじわと近づいていた。

 卯月選手の滞在先は、新宿駅から徒歩十五分のグランドホテルである。面倒なので、タクシーをホテル前までつけてもらうことにした。


 卯月選手は著名人だが、ことさらマスコミに狙われているわけでもないだろう。そのネームバリューは、むしろ北米でこそ轟いているはずであるのだ。格闘技ブームの去った昨今、MMAファイターのスキャンダルを追い回そうとするマスコミなどそうそう存在しないはずであった。


 それでもユーリは普段よりもいっそう入念に深々とキャスケットをかぶり、黒縁眼鏡をサングラスに改めていた。あとはショールで口もととピンク色の髪を隠せば、正体不明の不審人物である。ただ、首から下のシルエットで、決して只者ではあるまいという存在感をかもしだすばかりであった。


「うわぁ、立派なホテルだねぃ。なんだか、尻込みしちゃうわん」


 ホテルの威容を見上げながら、ユーリはそのように述べたてていた。このホテルは地上二十五階建てであったので、このような近距離から見上げていたらひっくり返ってしまいそうである。


 ぴかぴかに磨きあげられたガラスの扉をくぐってロビーに足を踏み入れると、想像を裏切らない豪奢な光景が待ち受けている。存在自体がきらびやかなユーリはともかく、普段着でマネージャー業に励んでいる瓜子のほうこそ尻込みしてしまいそうであった。


 ともあれ、このような場所でまごついていたら、本当に不審人物と見なされてしまう。瓜子は意を決してフロント係のもとに突撃し、さきほど電話で聞いていた卯月選手らの部屋番号を告げて連絡を入れてもらうことにした。


 しばらくすると、エレベーターから謎の外国人が出現する。

 ジョンの横幅を一・五倍ぐらいにしたような、厳つい黒人男性である。ヘビー級のプロファイターでも裸足で逃げ出しそうな巨体をダークスーツに包んだその人物が、瓜子たちを卯月選手らの部屋まで案内してくれた。


(すごいな。日本みたいに平和な国でも、ボディガードをつけてるのか)


 卯月選手が道場で稽古をする際には、いつもトレーナーのレム・プレスマンしか同行させていないのだ。卯月選手が北米ではどれだけの著名人であるものか、あらためて思い知らされた心地であった。


 そうして案内されたのは、最上階のスイートルームである。

 部屋の前には、同じぐらい立派な体格をした白人男性が立ちはだかっていた。

 その人物が部屋をノックすると、ほどなくしてレム・プレスマンの赤ら顔が覗く。


「おマちしてました、ユーリ・サン、ウリコ・サン。どうぞ、ハイってください」


「はい。失礼します」


 扉の向こうは、広々としたリビングである。マホガニーブラウンを基調とした落ち着きのあるデザインだが、豪奢であることに間違いはない。このクラスのホテルのスイートルームでは、一泊で十万円は切らないはずであった。


「いらっしゃいませ、ユーリさん。わざわざお呼びたてしてしまって、申し訳ありません」


 ソファに腰かけていた卯月選手も、立ち上がって瓜子たちを出迎えてくれる。クリーム色のポロシャツにゆったりとしたスラックスという、まったく気取らない格好だ。しかしその姿は、この落ち着いた部屋模様にとても似合っているように感じられた。


「どうぞお座りください。お飲み物は如何ですか?」


「いえいえ、おかまいなくぅ。これからすぐに、お稽古ですのでぇ」


 最上階ならば盗撮の危険もあるまいということで、ユーリはキャスケットとサングラスとショールの三点セットを解除した。

 恐れ多きことながら、上座に当たるソファをすすめられてしまったので、瓜子とユーリはそこにちょこんと座らせていただく。小さなテーブルをはさんで、卯月選手とレム・プレスマンはそれぞれスツールに着席した。


 卯月選手は私服の姿でも、いつもと変わらぬ静謐な雰囲気だ。

 糸のように目の細い仏像めいた顔にも、表情らしい表情は浮かべられていない。


「無駄にお時間をつかわせてしまうのはご迷惑でしょうから、単刀直入におうかがいさせていただきます。……ユーリさんは、《アクセル・ジャパン》を観戦するご予定ではないのでしょうか?」


 年齢はすでに三十歳で、世界に名だたるMMAファイターであるというのに、卯月選手は誰に対しても丁寧な態度を崩さない。

 そんな卯月選手に対して、ユーリは「あ、はいぃ」とよそゆきの笑顔を差し向けた。


「ユーリって、日曜日とかにも急な仕事が入っちゃったりするので、なるべく予定を空けるようにしているのですよねぇ。あと、非常に申し訳ないのですけれど、自分の出場しないイベントにお客としておうかがいしたこともなくってぇ……」


「しかし先日は、後輩選手の試合を観戦に行かれたと聞いていますが」


「あ、そういえばそうでしたねぇ。思えばそれが、人生で初めての試合観戦だったんですぅ」


「そうですか。実のところ、俺も他人の試合を客として観戦した経験はありません。ですから、こんな話をするのはとても気が引けるのですが……ユーリさんを、《アクセル・ジャパン》に招待させていただけませんか?」


 そう言って、卯月選手はテーブルに置かれていた白い封筒をユーリのほうにすっと押し進めた。

 ユーリはきょとんとした顔で、卯月選手の顔と手もとを見比べる。


「えっとぉ、お気持ちはありがたいのですけれどぉ……そのイベントって、ほとんど男子選手の試合ばっかりなんですよねぇ?」


「はい。女子選手の試合は、一試合しか予定されていません。ですが、女子選手にとっては非常に重要な試合であるはずです。ユーリさんにとっても、その試合を見届けることは決して損にならないはずです」


 その試合に出場するのは、《アクセル・ファイト》の女子バンタム級王者、アメリア・テイラーという選手である。《アクセル・ファイト》が女子選手の試合を興行で行うようになったのは、その選手の強さとスター性にプロモーターが感服したゆえであると囁かれていた。


 なおかつその日の試合に関しては、ここ数日で驚くべきニュースが舞い込んできていた。

 なんと、アメリア選手の対戦相手が負傷欠場となり、青田ナナが代役出場することとなったのだ。

 おそらくは、《フィスト》の女子バンタム級王者という肩書きが、そのオファーを招き寄せたのだろう。《アトミック・ガールズ》の選手にお呼びがかからなかったのは忸怩たる思いであるが、そもそもこちらにはウェイトの合いそうな選手があまり見当たらない。ここは日本人女子選手の代表として出場する青田ナナを応援するしかなかった。


(そういえば、その青田選手は卯月選手が所属してた赤星道場のお人だけど……まあ、そこには触れないほうが無難だよな)


 瓜子がそんな風に考えている間に、卯月選手は言葉を重ねていた。


「そして俺はそれ以上に、自分の試合をユーリさんに観てもらいたいと願っています。……ご迷惑でしょうか?」


「うーん、えーっとぉ……どうして卯月選手は、ユーリなんかをお誘いくださるのですかぁ? ユーリなんかのお世話を焼いても、卯月選手には何のメリットもないように思うのですけれども……」


「それは、下心があるからです」


 そんな言葉を発してから、卯月選手はいきなり自分の頬をぴしゃんと叩いた。


「失礼しました。そんな言い方では、誤解されてしまいますね。俺は決してそういう意味で、ユーリさんに興味を抱いたわけではありません。少なくとも、現時点では」


「現時点では……」


「はい。ユーリさんはこれだけ魅力的なのですから、先のことはわかりません。ただ、現時点ではファイターとしてのユーリさんに興味を抱いています。ユーリさんであれば、きっと世界で戦えるだろうと思うのです」


 何やら、話が大きくなってきた。

 瓜子はわけもなく手の平に汗をかきながら、こっそりユーリの表情をうかがう。

 ユーリは、ただひたすらに困惑の表情であった。


「ユーリさんは、パワフルでアグレッシブです。俺はずっと北米でトレーニングを積んでいますが、あちらでもユーリさんほどの女子選手を見たことはありません。まだまだ技術は粗削りですが、それこそ今後のトレーニングでどうにでもできることでしょう。ユーリさんには、世界で戦えるだけの資質が備わっているように思うのです」


「はあ……ですがユーリは、べつだん北米進出などという恐れ多いことを考えていたわけではありませんので……」


「ですがユーリさんは、ジョアンの妹を目標にしていたのでしょう? 日本のイベントでも対戦のチャンスはあるそうですが、彼女はすでに来年から《アクセル・ファイト》で活動していくことを宣言しています。ユーリさんは、それを追いかけたいと願ってはいないのですか?」


「うーん!」と、ユーリはいっそう困り果てた顔になった。


「ベル様を追いかけたいとは思っていますけれど、それはあくまで精神面の問題といいますか……そもそもユーリはおつむが弱いので、あんまり先のこととか考えられないのですよねぇ。後悔のないように、目の前の試合に集中したいっていうか……」


「ならばそれを導くのが、周囲の人間の役割だと思います。ユーリさんは、世界に出るべきだと思います」


 そうして卯月選手は淡々とした口調で、さらに驚くべきことを言い出した。


「俺は本当は、ユーリさんを北米にお連れしたいと考えていました。今月の試合が終わったら、そのままユーリさんを俺たちのジムまで連れて帰りたかったのです」


「うにゃ!? そ、それはあまりに、突然の申し出でありますねぇ」


「はい。ジョンさんや立松さんにもたしなめられました。思いつきで人の人生をかき回すな、と。……ただ俺は、ユーリさんの存在をかけがえのないものだと思っています。ユーリさんとの寝技のスパーは、ひどく心地がいいんです。本音を言えば、それだけでも北米に連れて帰りたいぐらいです。最初の内は、スパーリングパートナーとして雇用させてもらえないかどうか、相談しようと考えていたぐらいなんです」


 いつも相手を困惑させるユーリが、今回ばかりは防戦一方であった。

 そしてそれ以上に、瓜子は困惑してしまっている。何せ相手は、日本人選手でもっとも輝かしい実績を誇っているMMAファイターであるのだ。


「だけどそれも、ジョンさんたちにたしなめられました。ユーリさんはとても繊細な人柄なので、自分のペースで進まないとすぐに調子を崩してしまうだろう、と。……俺もそのあたりのことは、万全の態勢でフォローさせていただこうと考えていたのですが……」


「そ、そこまでユーリのことを買いかぶってくださるのは光栄の至りなのですけれども、今はジョン先生たちにお礼を言いたくてたまらない心持ちでありまする。繊細かどうかはともかくとして、ユーリはその……ワガママいっぱいに生きているので、自分の人生は自分で決めたいと願っているのです」


「はい、承知しました。ですが、どうか自分の言葉も今後の選択肢のひとつとして、頭の片隅に留めておいてもらいたく思います。そして、もしもユーリさんがその気になられたら、いつでも俺を頼ってもらいたく思います」


 そんな風に言いながら、卯月選手は白い封筒を取り上げて、それをユーリの胸もとにまで差し出してきた。


「その上で、これを受け取っていただけませんか? これまでスパーにつきあってくれたお礼と、親愛の証と、大事な後輩選手へのアドヴァイスとして、このチケットをユーリさんにお送りしたいと思っています。チケットは二枚準備しましたので、ご自由に誰かお誘いください」


「あうう……うり坊ちゃん、どうしよう?」


 と、これまで健気に孤軍奮闘していたユーリが、ついに瓜子を頼ってきた。

 瓜子はフル回転で思考を巡らせて、なんとか答えをひねり出してみせる。


「卯月選手がそこまで言ってくださるんですから、ありがたく受け取るべきじゃないっすかね。ユーリさんの将来に関して、これだけ親身になってくれてるんすから……光栄な話だと思うっすよ」


「うにゅう……でも、下心なのですよねぃ?」


 ユーリがおそるおそる問いかけると、卯月選手は仏像のような面持ちのまま、太い首をわすかに傾げた。


「はい。ユーリさんを北米に連れ帰りたいという意味での、下心です。だけどもちろん、ユーリさんのお気持ちを最大限に優先します。……人の敷いたレールの上を進む人生なんて、馬鹿げていますからね。そうだからこそ、俺は父親のもとを離れて、レムさんと一緒に自分の道を進むことになりました」


「ああ、なるほどぉ……」


「人に物事を強制するというのは、俺にとってもっとも忌むべき行為です。だから、俺はあくまで、助言をしているだけです。最終的に進むべき道を選ぶのは、ユーリさん本人です」


 ユーリはさんざん迷った末に、その封筒を受け取ることになった。


「相分かりましたぁ。きわめて高い確率で、ユーリは卯月選手のご要望には応えられないかと思いますけれど、それでよろしければ……」


「はい。ありがとうございます」


 卯月選手はひとつうなずくと、壁の時計を確認したのち、スツールから立ち上がった。


「では、そろそろ食事の時間ですので、お引き取り願えますか? 今日はわざわざ、ありがとうございました」


「え? あ、はいぃ。ど、どうも失礼いたしましたぁ」


 ユーリは慌ただしく変装用の三点セットを装着した。

 ついに最後まで無言であったレム・プレスマンは、とても優しげな眼差しでユーリの挙動を見守っている。


 そうしてユーリと瓜子は半ば部屋を追い出されるような心持ちで、退室することになった。

 ボディガードに見送られてエレベーターを下り、豪華なラウンジを抜けて屋外に脱出してから、ユーリは深々と息をつく。


「あーあ、肩が凝っちゃった! 卯月選手って、内心がまったく読めないよねー!」


「そうっすね。ただ、究極的にマイペースで正直者なだけなのかもしれないっすよ」


「ううむ。それにしたって、ユーリを北米に連れ帰りたいなどとは……何をどんな風に考えたら、そんな素っ頓狂な結論に行きついてしまうのだろうねぃ」


「それも本人が言ってた通りなんじゃないすか? 要は、ユーリさんの才能に惚れ込んだってことっすよ」


 だいぶん日の陰ってきた道を新宿駅の方角に歩きながら、瓜子はそんな風に言ってみせた。


「何せ卯月選手は、こんな立派なホテルのスイートルームに一ヶ月以上も滞在できるようなお人ですからね。スパーリングパートナーとして雇ってもらったら、破格のお給料をもらえるかもしれないっすよ」


「にゃっはっは。どれだけのお金を積まれようとも、うり坊ちゃんのいない生活なんて耐えられませんわん。卯月選手の矛先がうり坊ちゃんに向かわないように、さっきは発言を控えていたけれどね!」


 そう言って、ユーリはにこりと微笑んだ。


「さあ、それじゃあ今日もお稽古だあ! 打倒ジジ選手に向けて頑張るぞぉ!」


 やはりユーリの頭は、目の前の試合にしか向いていないようだ。

 もちろんそれは、瓜子も同じことである。タイトルマッチという大舞台を目前にしながら、別の方向にまで気をもむ器用さは持ち合わせていなかった。


 ただ――卯月選手ほどのお相手がユーリに目をかけてくれたことを、心から誇らしく思う。

 そんな卯月選手が《アクセル・ジャパン》でどのような試合を見せてくれるのか。これまで以上に、楽しみにすることができた。

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