インターバル

01 お見舞い

《フィスト》のアマチュア大会以降、新宿プレスマン道場における女子MMA部門の門下生たちは、いっそう熱のこもったトレーニングに打ち込んでいた。


 大江山すみれに敗北を喫してしまった愛音はもちろん、ユーリと瓜子もタイトルマッチを控えた身なのである。なおかつ、小笠原選手や小柴選手や多賀崎選手が出稽古でおもむいてきたことによって、いっそう拍車がかけられたようだった。


「《NEXT》のイベントは、試合場がケージなんだろ? そのへんの対策は大丈夫なのかよ?」


 サキがそのように問いかけると、小笠原選手は笑顔で「うん」と応じていた。


「そのあたりのことは、フィストや天覇なんかでみっちり鍛えてもらってるよ。プレスマンではそれ以外の部分を鍛えてもらえれば十分さ」


「ふーん。わざわざ稽古先を変える甲斐があるもんなのかね」


「そりゃあるさ。余所のジムには、アンタも桃園もいないからさ」


「ふん。重し役の牛はともかく、アタシなんざ毛ほども役に立ってねーだろ」


「そんなことないよ。ジョン先生や立松先生はもちろん、アンタの指導力ってのはかなりのもんだからね。今後もよろしくお願いしますよ、サキ先生」


 そんな軽口も飛び出すぐらい、小笠原選手はプレスマン道場の空気に馴染んでいた。

 いっぽう新参の小柴選手と多賀崎選手は若干の緊張感をかもし出しつつ、貪欲にトレーニングに励んでいる。瓜子とユーリにしてみても、やはり体格の近い両者とスパーを行えるのは極めて有意義なものであった。


 それらのメンバーが勢ぞろいした日などは、グラップリング・スパーのサーキットを行うのが定番となっている。合宿稽古の地獄再びといった様相だ。しかしそれは、誰にとっても有意義きわまりない地獄であるはずだった。


 いっぽう立ち技のスパーに関しても、有意義さにおいては負けていない。寝技においても立ち技においても、体格の近いスパーリングパートナーというのは重宝するものであるのだ。


「今さら言うまでもないだろうけど、ジジって選手は突進力がハンパじゃないんだよ。典型的なインファイターで、組みつきからの逃げ方も磨き抜いてる。要注意は、ギロチンチョークだね。下手に組みついたら、ギロチンの餌食だよ」


 ミドル級の絶対王者たるジジ選手との対戦経験を持つ多賀崎選手は、そのように語らっていた。そこにうろんげな目を向けたのは、ますます作戦参謀の感が出てきたサキである。


「確かにあいつは、タックルをギロチンで迎え撃つのが定番みてーだな。だけど、一本勝ちの経験はねーだろ? 何せ、全試合KO勝利っていう馬鹿げた記録をおったててるんだからよ」


「そういうあんたも、勝った試合は全部KOだろ。……映像じゃわかりにくいかもしれないけど、あいつはタップを奪えるぐらいギロチンが極まっても、途中で解いてパウンドを振るってくるんだよ。あたしも沖さんも、それでやられちまったんだ。つくづく、人をぶん殴るのが好きなんだろうね」


「ふん。極まってる技を自分で解いちまうなんて、おめでたい野郎だな。……しかしまあ、ギロチンで意識朦朧にされたら、あとは殴られ放題ってことか」


「そう。だから、ギロチンは要注意だ。桃園は特に、その……タックルの精度が、いまひとつだしね」


「あははぁ。ユーリはどうにも、距離感をつかむのがへたっぴなのですよねぇ。こればっかりは、どれだけお稽古を重ねても改善されませんでしたぁ」


「ジジを相手に、そいつはけっこう致命的だけどな。あの猛烈な打撃をどうかいくぐって、テイクダウンまで持ち込むか。まずはそいつを練り倒すべきだろうと思うよ」


 試合の日まで、残すところはひと月と少しだ。それまでに、ユーリと瓜子はそれぞれの難敵を討ち倒すための作戦を練りあげなければならなかった。


                 ◇


 そんな六月の、ある日――

 瓜子とユーリは多忙なスケジュールの合間をぬって、都内の大学病院を訪れていた。

 目的は、プロレスの試合で全治三ヶ月の重傷を負ってしまったという、沙羅選手のお見舞いである。


 沙羅選手というのは、普段それほどおつきあいのある相手ではない。プライベートで交流を結んだのは、去年の夏に海で一緒に遊んだぐらいのものであるのだ。

 ただ、彼女も芸能活動にいそしんでいるために、撮影スタジオやテレビ局でニアミスすることは多かったし、顔をあわせれば気安く声をかけてくれるものだから、瓜子にとってはそれなりに思い入れの生じた相手であった。


 また、彼女はユーリが地上最凶のプリティモンスターとして生まれ変わるための、契機となった存在でもある。沙羅選手に敗北すれば、《アトミック・ガールズ》にユーリの居場所はなくなってしまうかもしれない――と案じたサキに発破をかけられたことにより、ユーリはこれまで忌避していた荒っぽい打撃技のトレーニングを重ねて、心機一転することがかなったのだ。


 それは沙羅選手がひたすら脅威的な存在であったという証左であり、何もこちらが感謝をするいわれはなかったのであるが。とりあえず、沙羅選手の存在が強く印象に刻みつけられる一因には成り得た。そののちに、プライベートで言葉を交わす機会を得て、案外悪い人間ではないんじゃなかろうか――という思いを深めることによって、沙羅選手は瓜子の中で一種特別な存在に成り上がったのだった。


 そんな瓜子が沙羅選手のお見舞いを提案し、ユーリが「いいよー」と気軽に承諾したことによって、いま二人は大学病院におもむいている。

 二人が病室に足を踏み入れると、ベッドに横たわった沙羅選手は「よう」といつもの調子で挨拶をしてくれた。


「わざわざこんな場所まで、ご苦労やな。冷やかし半分でもありがたいこっちゃ」


「お元気そうでよかったです。お怪我の具合はいかがっすか?」


「そらまあ、見た通りや」


 沙羅選手は額のあたりに包帯を巻かれて、ギプスに固められた左足を吊るされていた。

 額は十針の裂傷、左足はくるぶしの足関節骨折と聞いている。骨折した箇所は外科手術を行い、こちらが全治三ヶ月の重傷であるという話であった。


「ま、適当にくつろいでや。茶ぁが飲みたかったら、セルフサービスでな」


「はい。あの、こちら自分とユーリさんから、お見舞いです」


 瓜子が手にさげていた紙袋を手渡すと、沙羅選手は「はあん」と複雑そうな顔で笑った。


「なんや、あらたまってこんなもん頂戴するのは、おかしな気分やな。……ふん。チョコの詰め合わせに、ファッション誌かいな」


「はぁい。巻頭グラビアはユーリが飾っておりますので、よろしかったらお楽しみくださぁい」


「この白ブタは、相変わらずやな。なんやら、ほっとしてまう自分が腹立たしいわ」


 沙羅選手はお見舞いの品を紙袋に戻しながら、手もとの装置でベッドの角度を調節した。沙羅選手は七十五度ぐらいの角度で座った格好になり、瓜子とユーリも椅子に座らせていただく。


「今回は大変でしたね。アトミックの七月大会も欠場になったそうで、残念でした」


「ふん。ウチの穴は多賀崎いう雑魚が埋めることになったんやろ? 交流のある自分らにとっては、万々歳だったんやないか?」


「え? 多賀崎選手と自分らが交流を持ってるって、よくご存じでしたね」


「ウチの情報網をナメたらあかんで。……なんや、何か言いたそうなツラやな、白ブタ」


「ああ、はい、えっとぉ……沙羅選手の個人的見解にユーリが口出しする筋合いはないのですけれど……できればユーリたちの前では、多賀崎選手を悪く言わないでいただけたらありがたいですぅ」


「せやったら、ウチのことなんざほっときゃええやん。のこのこやってきたんは、自分らの勝手やろ」


 そう言って、沙羅選手はぷいっとそっぽを向いてしまう。

 その姿に、ユーリは「おりょりょ?」と目を丸くする。


「沙羅選手、ずいぶんしょんぼりしちゃってるみたいですねぇ。沙羅選手のこと、初めてかわゆらしいって思っちゃいましたぁ」


「……おう。おのれがどれだけ腹立たしい白ブタやったか、ふつふつと思い出してきたわ」


「まあまあ、落ち着いて」と取りなしながら、瓜子もいくぶん沙羅選手の様子が気になってきてしまった。表面上は変わりないように見えるのだが、それも空元気なのではないかと思えてきてしまったのだ。


 ベージュ色の入院着を纏った沙羅選手は、とてもほっそりとして見えた。もともとシャープに研ぎすまされた身体を売りにしていた沙羅選手であるが、プロファイターとは思えないぐらい、細くてはかなげに見えてしまう。メイクをしていないその横顔も、以前より頬がそげてしまっているようだった。


(……そりゃあ三ヶ月もトレーニングできないなんて、誰にとっても憂鬱な話だよな)


 瓜子がそんな風に考えていると、沙羅選手はそっぽを向いたまま横目でにらみつけてきた。


「……あんなあ、あわれみの目で見るのは勘弁してくれへん? 自分ら、弱り果ててるウチにとどめでも刺しにきたんかいな?」


「い、いえ、そんなつもりはありません。お気を悪くさせてしまったんなら、謝ります」


「そういうハレモン扱いが、ウチのプライドにストンピングをかけるんよ。……なんや、あのクソッタレな記事を真に受けたんやないやろな?」


「記事? いえ、それは知りませんけど。……沙羅選手のことが、何か記事になってたんすか?」


「相変わらずアンテナのしょぼい連中やな。ウチはこのまま引退きめこむんやないかって、ネットなんかではそこそこ騒ぎになってるはずやで」


「引退?」と、瓜子はユーリと同時に声をあげることになった。


「引退って、プロレスラーをですか? たった一敗で、そんなわけないでしょうに」


「プロレスだけやあらへん。MMAファイターも、ついでに芸能活動もや。……プロレスでもMMAでも結果を出せへんあげくに、顔面に傷痕こさえて芸能活動も絶望的! てな感じ、えらい煽ってくれとるようやで」


「いい加減な記事っすね」と、瓜子は頭が熱くなるのを感じた。

 そんな瓜子を見やりながら、沙羅選手はまたそっぽを向いてしまう。


「せやけどまあ……いまの団体は、事実上の追放処分やからな。ウチも進退を考えなあかん状況に追い込まれとるわけや」


「え? 追放処分って……プロレスの団体をっすか? 沙羅選手って、ジュニアとかいう階級のチャンピオンなんでしょう?」


「そないなベルトは、とっくに譲り渡しとるわ。うちの団体のジュニアのベルトは、若手にどんどん譲ってくスタイルやからな。もともと一年以上は持てへんお約束やねん」


 そっぽを向いたまま、沙羅選手はそのように言葉を重ねた。


「で、うちのババアどもは前々から、ウチのアトミック参戦を煙たがっとったからな。それがこの前のボロ負けで、ついに堪忍袋の緒が切れたっちゅうわけや。よそで恥さらすな、本業に専念せえいうて……それをシカトこいたら、このザマや」


「このザマって……まさかその怪我は、言うことを聞かなかった報復だっていうんすか? そんなの、無茶苦茶じゃないっすか」


「知らんがな。ま、どうせ記者連中にあることないこと吹き込んだんのも、同じ連中やろ。用意周到なこっちゃで、まったく」


 そう言って、沙羅選手は口もとだけで笑った。


「ま、ウチのサクセスストーリーが初っ端からつまずいたんは、事実やしな。そこの白ブタを踏み台にして天下取ったろ思て、うちはアトミックに参戦したんや。それでコケたんやから、なんもかんも因果応報っちゅうこっちゃろ」


「むにゅう」と、ユーリがおかしな声をあげた。


「でもでも、沙羅選手はこのままあきらめちゃったりしないですよね? プロレス団体をクビにされちゃっても、アトミックをやめちゃったりはしないですよね?」


「なんやねん。自分には関係あらへんやろ」


「ありますよー! ユーリはこの前、魅々香選手と再戦して、すっごく楽しかったんです! 沙羅選手と再戦したら、もっともっと楽しいかもなーって、ずーっと夢想してたんですよぉ?」


「なんやそら。全部おのれの都合やないか」


「はい! ユーリはどうしようもない未熟者なので、自分のことで頭がいっぱいなのです! でもでも、ユーリも沙羅選手もこの一年ちょっとで、すっごく成長してますよね? 去年の試合はおたがい途中でケガしちゃいましたし、不完全燃焼だったと思うのです! いま再戦したら、もっともっと楽しい試合ができそうじゃないですかー?」


 沙羅選手は深々と溜息をつきながら、まだ手もとに携えていた紙袋をぎゅっと抱え込んだ。


「相変わらず、人とは思えんIQと品性やな。……もうええから、さっさと去ねや。お帰りはあちらやで」


「わかりました! ……でもでも、沙羅選手はアトミックをやめたりしないですよね?」


 ユーリがぐぐっと身を乗り出すと、沙羅選手は紙袋でその顔面をはたいた。

 ユーリは「うみゃあ」と身をのけぞらせ、沙羅選手は咽喉で笑う。


「なんでうちがアトミックをやめなあかんねん。プロレスかて、別の団体で仕切りなおしや。……そら、さっさと去ねや」


「わかりました。療養中にお騒がせしてしまってすいません。……自分も沙羅選手の復帰をお待ちしてますよ」


「やめいや、アホ。人の世話やいとる場合か、ボンクラ。自分たちは仲良くタイトルマッチなんやろがい、ド低能」


 ひたすら悪罵を連呼しながら、沙羅選手はベッドを水平に倒してしまった。

 そうしてお見舞いの紙袋を抱えたまま、毛布を頭からかぶってしまう。


 瓜子は不満げな顔をしたユーリの袖を引いて、「お大事に」と病室を退去することにした。

 看護師や入院患者の行き交う廊下を歩きつつ、ユーリは「にゅー」と赤くなった鼻をさする。


「にゃんか、お見舞いは逆効果だったみたい。やっぱりユーリはおうちで大人しくしているべきだったかしらん」


「いえ。きっとそんなことはないと思いますよ」


 おそらくユーリの存在は、何より沙羅選手を励ますことになったのではないだろうか。

 もちろんそれは、瓜子の希望的観測に過ぎなかったが――しかし、沙羅選手がこのまま引退してしまうようなことはないと、心から信じることができた。

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