04 決勝戦
『第十八試合。女子アトム級、四十七・六キログラム以下契約。三分二ラウンドを開始いたします』
機械のように淡々としたアナウンスが、ついにその言葉を館内に響かせた。
待機スペースに控えていた愛音と大江山すみれが、試合場へと足を踏みいれる。
『赤、新宿プレスマン道場所属、邑崎愛音選手。青、赤星道場所属、大江山すみれ選手』
プロの興行ではないので歓声があがることもないし、選手たちがアピールをすることもない。ただ、大勢の人間の生み出す熱気とざわめきだけが、二人のほっそりとした身体を包み込んでいた。
年齢も身長も体重も、ほとんど同一の両者である。
愛音はこの数ヶ月で多少は増量していたが、何にせよ上限は定められている。大江山すみれが四十六キロのままであったとしても、たかだか一キロ強しか変わらないのだ。
身長は、たしか大江山すみれのほうが一センチだけ上回っていたはずだが、そんなものも誤差であろう。頭が小さめで手足が長いという体格まで、両者はよく似通っていた。
年頃は、どちらも高校二年生。身長も体重も、それぞれ伸びしろを残していることだろう。また、骨格だってもっともっと逞しくなっていくはずだ。
しかし現時点で、両名は鏡合わせのように似通っている。
さしあたって、リーチやコンパスに有利や不利は存在しないはずだった。
「うーむ。ちょっぴりドキドキしてきちゃったぞよ」
瓜子のかたわらで、ユーリがそのようにつぶやいていた。
瓜子も、それは同感である。最初の試合では気負うことなく観戦できたのだが、今回はいささか心臓が騒いでしまっている。それはやはり、相手がきわめて奇妙なファイトスタイルを有しているためなのだろうと思われた。
「ファイト!」
レフェリーの宣言で、軽やかなベルの音色が鳴らされる。
愛音と大江山すみれは、それぞれのファイティングポーズを取って試合場の中央に進み出た。
愛音はサウスポーのアップライトで、大江山すみれはノーガードの棒立ちだ。ただ、肘と膝だけは軽く曲げられて、いつでも攻撃を繰り出してきそうな不気味さを漂わせている。
愛音は大胆に、初手から左のハイキックを繰り出していた。
もちろん遠い間合いからの一撃で、何がどう転んでもカウンターをもらう距離ではない。大江山すみれは一歩だけ足を引き、その攻撃を楽々とすかしていた。
愛音は蹴りを出した左足をそのまま前方に下ろすと、今度はそちらを軸足にして右のローを放った。
今度はいささか、危うい距離感だ。
しかし大江山すみれはカウンターを狙うことなく、また一歩だけ退いていた。
すると愛音は、再び蹴り足を前方に下ろして、今度は左のミドルを放った。
一撃ごとに軸足を切り替える、空手家の本領発揮である。
なおかつ、愛音のほうが大きく足を踏み出しているので、一撃ごとに距離が詰まっている。最後の左ミドルをかわすために、大江山すみれは二歩の後退を余儀なくされた。
合計で、大江山すみれは四歩下がったことになる。
その四歩で、場外のラインがすぐ背後に迫っていた。愛音の攻撃がスピードフルであったため、サイドに回り込む余地がなかったのだ。
(そんな歩くような動き方じゃあ、それが当然だ。さあ、どうする?)
しかしまた、愛音の攻撃はまだ止まらなかった。
左ミドルを出した足を、三たび前方に下ろしたのだ。
場外ラインが近いことを察してか、さしもの大江山すみれもすり足で右手の側に逃げていこうとする。
これは横移動なので、両者の距離は詰まったままだ。
なおかつ相手はアウトサイドに動いているために、愛音も迂闊な攻撃を仕掛ければ、カウンターをもらってしまうかもしれない。
だが、愛音は周到であり、大胆であった。
左足を軸として、今度は右の上段後ろ回し蹴りを繰り出したのだ。
大江山すみれの動いた方向に、蹴り足を送り届けた格好である。
これは大江山すみれも意表を突かれたらしく、大きくのけぞって愛音の蹴りをかわしていた。
以前、両者の距離は近い。
瓜子であれば、右ストレートでも叩き込んでいたところだろう。
しかし後ろ回し蹴りを振りきった愛音は、その右足をマットにつけるなり、今度は右ミドルとして射出した。
スウェーしたことで体勢が崩れ気味であった大江山すみれは、有効なカウンターを狙うこともできないまま、また後方に下がっていく。横移動をして身体の向きも若干ずれたため、場外ラインに沿って後ずさる格好になっていた。
愛音の右ミドルは、ぎりぎりのところでかわされてしまう。
が――愛音はなおも、蹴り足を前方に下ろしていた。
そして、左足を振り上げる。
その蹴り足は横に振られず、真っ直ぐに相手のもとを目指した。相手の腹部を狙った、前蹴りだ。
その足が、ついに相手のもとまで届いた。
鋭くのばされた中足が、相手の腹の真ん中を撃ち抜く。
後退のさなかであった大江山すみれは、そのまま背中から倒れ込むことになった。
愛音は大きく息をついて、倒れた相手から距離を取る。やはり、寝技を仕掛ける気は皆無であるようだ。
レフェリーは、大江山すみれに「スタンド!」の声をかける。どれだけのダメージを与えられたのか、大江山すみれの挙動から見て取ることはできなかった。
「いやぁ、やっぱムラサキちゃんはすごいねぇ。今の、五連発? 六連発? ユーリだったら、二発目の蹴りをまともにくらっちゃってただろうなぁ」
「ハイ、ロー、ミドル、バックスピン、ミドル、フロントで、六連続っすね。そこまでしのいだ大江山さんも、大したもんっすよ」
しかしまた、大江山すみれがゆったりとしたすり足の動き方であるものだから、ここまでコンビネーションを繋げることができたのだろう。普通にステップを踏んでいれば、もっと早い段階で間合いの外に逃げられたはずであった。
つまり、これがサキとジョンの授けた作戦であったのだ。
あのようにゆったりとした動き方であれば、愛音のスピードについていくことは難しい。なおかつ、射程の長い蹴り技であれば、カウンターを狙うことも難しい、という計算であるのだ。
それを立証するかのように、愛音は再び蹴り技のみのコンビネーションを繰り出した。
長きにわたって空手を学んできた愛音だからこそ、可能な連携技である。愛音がどれだけ足クセの悪いファイターであるかは、瓜子もこの半年ほどで思い知らされていた。
愛音の蹴り技の多彩さに、さすがの大江山すみれも翻弄されている。
リズムを読まれることを嫌ってか、愛音も前方に踏み込むばかりでなく、時にはきちんと蹴り足を後方に戻して、相手のサイドに回り込んだり、届かない位置からジャブを振ったりして、相手を幻惑していた。
完全に、愛音のペースである。
現段階では、愛音のスピードと機動力が相手の動きを潰している。
やはり、大江山すみれのファイトスタイルというのは、あまりにリスキーであるのだ。あのようなすり足で愛音の攻撃を回避できるのは大したものであるが、彼女はいまだに一発の攻撃も出せずにいた。
いっぽう愛音の攻撃は、少しずつ相手に届き始めている。
ローは相手の足をかすめて、ミドルハイは肩口に命中した。もっとも命中率が高いのは前蹴りで、すでに三発が相手の腹を叩いている。もっともカウンターの危険が少ない分、ここぞというときには前蹴りを繰り出す作戦であるようだ。
「二分経過! 残り一分! 気を抜くなよ!」
サキの声が、こちらまで聞こえてくる。
それと同時に、愛音の右アウトローがクリーンヒットした。
それでよろけた相手のもとに、すかさず左のハイが繰り出される。相手は両腕を下げているために、ハイキックはスウェーかバックステップでかわすしかないのだ。
大江山すみれは、スウェーでかわそうとしていた。
その横っ面に、愛音の爪先が命中する。
ヘッドガードがなければ、紙一重でかわせたのであろうか。愛音の爪先に防具の頬の部分をひっかけられるような格好で、大江山すみれは吹き飛ばされていた。
プロの試合でも、ダウンと見なされるような倒れ方だ。
これが《アトミック・ガールズ》のプレマッチであれば、最初の前蹴りのダウンとあわせてTKO勝利となっていたことだろう。
しかし《フィスト》にダウン制度はないので、愛音がグラウンドで上にのしかかるか、距離を取って仕切り直すかの二者択一だ。愛音はもちろん、後者を選んでいた。
(相手の寝技の力量は未知数だからな。スタンドで圧倒できてるんだから、それが当然だろう)
レフェリーは粛然と、「スタンド!」と大江山すみれに呼びかけた。
大江山すみれは、軽く頭を振りながら立ち上がる。
そして――細長い身体を、ぐっと前方に屈めた。
MMAのスタンダードな構えよりもさらに前屈みとなった、レスリングのごときクラウチングスタイルである。
「相手にすんな! 足を使って、距離を取れ! 残り四十秒だ!」
サキは、そのように声をあげていた。
相手がいきなり、ファイトスタイルを変えてきたのだ。もはやポイント差は圧倒的であろうから、ここは時間いっぱい逃げきって、次のラウンドに勝負を持ち越すべきであろう。
愛音はサキの指示通りに、足を使って逃げ始めた。
アウトタイプの愛音にとっては、何より得意な領域である。
そんな愛音に、大江山すみれは不気味に接近していく。
やはりすり足だが、これまでよりもよほど敏捷な動きだ。それで腰を屈めているものだから、なんだか痩せた猿が人間を追いかけているような様相であった。
愛音はめいっぱいに、足を使っている。
しかしまた、この時間までずっと攻勢に出ていたので、相応にスタミナは削られているのだろう。初めての公式戦という緊張と昂りも、ひそかに愛音を疲れさせていたのだろうか。愛音にしては、重い足取りであるように感じられた。
「残り二十秒!」
サキの声も、いくぶんの切迫感を帯びているように感じられてしまう。
大江山すみれの不気味な挙動が、見ている者の心臓を騒がせるのかもしれない。瓜子もいつしか、両手の拳を握り込んでしまっていた。
愛音は肩を上下させながら、なんとか逃げ惑っている。
その背後に、場外のラインが迫っていた。それも、相手側のコーナーだ。愛音の背後に、レオポン選手や青田ナナの姿が見えた。
逃げ場を封じられた愛音は、意を決したように左の前蹴りを繰り出した。
場外エスケープで反則を取られるのは、彼女の矜持が許さなかったのだろう。瓜子が同じ立場でも、そのように振る舞ったはずだ。
しかし大江山すみれは素早く身体をねじることで、その前蹴りを回避してしまった。
そうしてインサイドに踏み込むや、前にのばしていた両腕を愛音の両脇に差す。そのまま両手をクラッチして、大江山すみれが屈み気味であった身体を後方にのけぞらせると、愛音の足がマットから浮かされた。
マリア選手さながらの、豪快なフロントスープレックスだ。
頭から落として反則にならないように、途中で身体を左側にひねり、肩からマットに叩きつける。
そして大江山すみれは、倒れ込むなり愛音の左脇に頭をもぐらせていた。
そうして愛音の左腕ごと、首をロックする。肩固めの体勢である。
「残り五秒!」
サキの声は、ほとんど怒号と化していた。
愛音は苦しげに、両足をばたばたと泳がせている。
それを見届けたレフェリーが、大江山すみれの背中を二回叩いた。
技を解除した大江山すみれは、半身を起こして深々と息をついた。
ベルが三回鳴らされて、試合の終了が告げられる。
愛音も猛然と身を起こし、レフェリーに食って掛かった。
「愛音はタップしていないのです! あと五秒なら耐えられたのです!」
そんな声が、瓜子たちのもとまで届けられてきた。
しかし、アマチュアの試合にはテクニカル一本というものが存在する。サブミッションが完全に極まったと見なされた場合は、負傷や失神といった危険な状態に陥る前に試合を止められてしまうのだ。
また、愛音は両足をばたつかせていた。あれは、タップと見なされても仕方のない行為である。ルール上、「相手の身体かマットを、手や足で二回以上叩いたらギブアップの意思表示」とされているのだ。
そんな説明が、レフェリーから施されたのだろう。愛音はがっくりとうつむいて、そのまま動かなくなってしまった。
レフェリーは身を起こし、大江山すみれの右腕を掲げる。それと同時に、アナウンスが流された。
『一ラウンド、二分五十七秒。肩固めによるテクニカル一本で、大江山選手の勝利です』
まばらな拍手が、大江山すみれの勝利と愛音の健闘をたたえた。
瓜子の隣では、多賀崎選手が嘆息をこぼしている。
「惜しかったな。終盤まで、完全にこっちのペースだったのに……相手は本当に高校生なのかよ? ふざけた戦い方ばっかりしやがって」
「そうっすね。あれじゃあペースを乱されるのも当然です」
しばらくして、愛音たちがこちらにやってきた。
愛音は頭からタオルをかぶり、表情を隠してしまっている。サキは地獄のような仏頂面で、ジョンは眉尻を下げた寂しげな笑顔であった。
「お疲れ様です、邑崎さん。いい試合だったっすよ」
「ああ。地力じゃまったく負けてなかった。次にやったら、絶対に勝てるよ」
瓜子と多賀崎選手がそのように声をかけても、愛音は小さくうなずくばかりである。サキはいよいよ不機嫌そうな形相で、その小さな頭をタオルごと引っかき回した。
「今回は完全に、アタシらの作戦ミスだ。ダウンを取ってもグラウンドに行かせなかったから、寝技に自信がねーんだろうって相手を勢いづかせちまったんだよ。最後も逃げるんじゃなく首相撲で迎撃させてたら、流れも変わってたかもしれねーしな」
「いえ……愛音の実力不足なのです……もっと寝技の技術があったら……もっとスタミナがあったら……きっと勝てていたはずなのです」
愛音は震える声で、そんな言葉を振り絞っていた。
理央はとても心配そうに愛音の姿を見上げており、加賀見老婦人はただ気の毒そうに微笑んでいる。
と――ずっと無言であったユーリが、愛音の前に進み出た。
その手が、ぽんと愛音の肩に乗せられる。
「もうちょっとで勝てたのに、残念だったねぇ。明日からも、お稽古いっぱい頑張ろぉ?」
愛音はのろのろと顔を上げて、ユーリの顔を見返した。
その目に、ぽろぽろと涙があふれかえる。
愛音は顔をくしゃくしゃにして、ユーリの胸に取りすがると、そのままわんわんと泣きくずれてしまった。
「あ、あの、邑崎さん……」
瓜子がためらいながらも声をかけようとすると、ユーリが片手をあげてそれを押し留めてきた。深くかぶったキャスケットの陰で、その顔はとても優しげな微笑をたたえている。
「ムラサキちゃん、すっごくかっちょよかったよ。きっとムラサキちゃんは、もっともっと強くなれるからね」
そんな風に言いながら、ユーリは愛音の背を優しく撫でていた。
その手の甲も、カットソーから覗く咽喉もとも、ユーリはびっしりと鳥肌になってしまっていたが、その顔には優しげな微笑みがたたえられたままであった。
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