03 すみれの一回戦

『第二試合。女子アトム級、四十七・六キログラム以下契約。四分一ラウンドを開始いたします』


 愛音の勝利の余韻など知った風でもなく、試合は粛々と進行された。

 お次は赤星道場の大江山すみれと、小柴選手の後輩選手の一戦である。


『赤、武魂会船橋支部所属、谷宏佳たに ひろか選手。青、赤星道場所属、大江山すみれ選手』


 二つの人影が、試合場の中央に進み出る。

 身長百五十九センチの大江山すみれに対して、相手の谷選手はやはり五センチほど小柄であった。最軽量のアトム級では、それぐらいが相応であるのだろう。それでも、階級が上でプロ選手の瓜子よりも長身であるのだ。


「ふみゅふみゅ。オオエヤマちゃんの試合を拝見するのは、二月の浜松以来だねぇ。やっぱりあの、奇妙不可思議なノーガード戦法なのかしらん」


「そうなんでしょうね。なにせ、赤星弥生子さんの直伝らしいっすから」


 大江山すみれに恨みはないが、やはりここは小柴選手の後輩たる谷選手を応援するべきであろう。いつまで経っても気心の知れない大江山すみれよりも、瓜子にとっては小柴選手のほうがよほど思い入れのある相手であったのだ。


「ファイト!」というレフェリーの声が、肉声で伝えられてくる。

 やはり大江山すみれは、腰よりも低い位置に両方の拳を垂らした、直立の立ち姿であった。

 谷選手も武魂会であるのだから、生粋のストライカーであるのだろう。それなりに腰は落としつつ、いかにも打つ気まんまんで左右の拳を揺らしている。


(大江山さんのスタイルは、小柴選手にざっくり伝えておいたけど……さて、どうだろうな)


 とりあえず、大江山すみれは徹底したカウンタータイプだ。それを知らされた谷選手は、しきりに上体を動かしながら、慎重に距離を測っていた。

 大江山すみれは、ただ泰然とたたずんでいるように見えてしまう。

 足を前後に開いてはいるが、身体が完全に正面を向いているために、いっそう無防備に見えてしまうのだ。


(リーチがあるから、けっこう厄介だよな。こうしてみると、イリア選手に似たタイプでもあるわけか)


 格闘技のキャリアが浅い人間であれば、このように棒立ちの相手にどう攻撃を仕掛けるべきか、ずいぶん悩まされることだろう。

 しかしまた、谷選手は武魂会の出身だ。空手の選手がMMAに挑むということは、すでに空手でそれなりのキャリアを積んでいるに違いない。大江山すみれの不可解なスタイルに慎重にはなっていたものの、臆している様子はまったくなかった。


 そうして二十秒ばかりも静かな時間を過ごしたのち、谷選手がついに手を出した。

 まずは無難に、左のインローだ。カウンターを警戒して、しっかりガードを固めている。

 大江山すみれは、左の前足を一歩引くことで、そのローを回避した。

 二月の試合で見た通りの挙動だ。


 谷選手はさらに踏み込んで、鋭く左ジャブを振る。

 大江山すみれは右足を引いて、さらに距離を取った。

 ステップを踏むでもなく、ただ一歩ずつ下がっていくだけなのだから、やはり格闘技のセオリーからは外れた動きだ。


 いくぶん気勢を削がれた様子で、谷選手もいったん後退する。

 それに合わせて、大江山すみれが右足で踏み込んだ。

 右足で踏み込んで、左足を振り子のように振り上げる。

 大江山すみれの長い足が大きく弧を描いて、谷選手の下顎を真下から撃ち抜いた。


 谷選手は、棒のように倒れ込む。

 レフェリーは慌てて腕を振り、ベルが鳴らされるのと同時にドクターが駆け寄ってきた。

 館内には、さきほど以上のどよめきがあげられている。


『……ただいまの試合、一ラウンド、三十六秒。青、大江山選手のKO勝利です』


 大江山すみれは息ひとつ乱すことなく、右腕を掲げられていた。

 浜松大会以上の、圧倒的勝利である。

 瓜子たちのかたわらでは、加賀見老婦人が「まあまあ」と声をあげていた。


「あんな倒れ方をして大丈夫なのかしら。ちゆみさんの言っていた通り、とても危険な競技なのですねえ」


「そうっすね。今のはちょっと、危ない倒れ方でした」


 今のは完全に、失神した人間の倒れ方である。ヘッドガードを装着していなかったら後頭部を強打して、さらなる危険に見舞われたはずであった。

 谷選手は担架で搬送され、大江山すみれは悠然とした足取りで試合場を出ていく。対戦相手を心配する素振りも見せないのは、十六歳の高校生としてあまり普通ではないように思えてならなかった。


 館内はまだ少しざわめいていたが、試合は進行されていく。他に女子の試合はなかったようで、第三試合は男子のミドル級であった。

 その試合が一分ほど進んだところで、サキと愛音が近づいてくる。


「よー。噂通りの、ふざけた試合っぷりだったな。アレが大怪獣ジュニア直伝の、古武術モドキの奥義ってわけか」


「押忍。ある意味、イリア選手よりも常識外れっすよね」


「ふん。距離とタイミングのつかみ方に生命をかけてるってこったろうな。……ただし、高校生のガキんちょなんぞに、そんな奥義が体得できてたまるもんかよ。次の試合では、化けの皮を剥がしてやらあ」


 どうやら大江山すみれの試合を目にしても、サキの自信に揺らぎはないようだ。そのかたわらで、愛音は爛々と肉食ウサギの目を燃やしていた。


「愛音は、絶対に負けないのです! ユーリ様! 愛音が完勝する姿を、どうか見届けていただきたいのです!」


「うん。ムラサキちゃんなら、きっと大丈夫だよぉ。……それよりまず、MMA初勝利おめでとうねぇ」


 ユーリがにっこり笑いかけると、愛音はたちまち真っ赤になってしまった。


「あ、ありがとうございます。次の試合に意気込むあまり、勝利の余韻などすっかり吹き飛ばされてしまっていたのです」


「そんなの、もったいないよぉ。人生で一回しかない瞬間なんだから、思うぞんぶん噛みしめてあげないとねぇ」


「は、はい! その大事な一瞬をユーリ様に見届けていただくことができて、愛音も感無量なのです!」


「でけー声だすなよ。人様の試合中だぞ、ジャリ」


 サキはいつもの調子で、愛音の頭をぺしんと引っぱたいた。

 その隙に、瓜子たちもお祝いのコメントを届けさせていただく。やはり愛音は怒ったような顔で頬を火照らせならが、「ありがとうございます」と頭を下げていた。


「それで、次の試合まで一時間以上は空く予定なんだよねぇ? ユーリたちは二時半までにここを出ないといけないから、もしも見届けられなかったらごめんねぇ?」


 と、ユーリがとても申し訳なさそうな顔で、そんな風に言っていた。

 この後は男子選手の試合が続き、女子アトム級の決勝戦はなんと第十八試合目に設定されているのだ。すべての試合が判定までもつれこんだりした場合は、こちらの出発時間に間に合わなくなる計算になっていた。


「そのときは、恐れながらメールにて勝利のご報告にあがるのです! ユーリ様に試合を見届けていただけないのは涙をおさえがたいほどに無念でありますが、その悲しみをも試合にぶつけたく思う所存なのです!」


「う、うん。頑張ってねぇ」


 と、ユーリがへにょへにょ笑ったとき、小柄な人影が駆け寄ってきた。誰かと思えば、小柴選手である。


「お話の最中に申し訳ありません。わたしは後輩に付き添って、病院に向かわなければならなくなってしまったので……今日のところは、これで失礼します」


「あ、了解っす。後輩さんは、大丈夫っすか?」


「たぶん脳震盪を起こしただけですので、問題はないと思うのですが……念のために、病院でみてもらうことになりました」


 そのように語る小柴選手の目から、ほろりと涙がこぼれ落ちた。

 小柴選手は肩を震わせながら、手の甲で目もとをぬぐう。


「失礼しました。あまりに、悔しかったもので。……邑崎さん、どうぞ頑張ってください。試合は観戦できませんが、邑崎さんの勝利を祈っています」


「はい! 愛音は、勝ってみせるのです! 小柴センパイにも、メールで勝利のご報告をさせていただくのです!」


 小柴選手はぺこりと頭を下げてから、人混みの向こうに駆け去っていった。

 その後ろ姿を見送りつつ、瓜子は嘆息をこぼす。


「秒殺ってのは、悔しいもんっすよね。この日のために積み上げてきた努力が、そんな短い時間で木っ端微塵にされちゃうんすから」


「ふーん? おめーも今のちびタコを、秒殺で沈めてなかったっけか?」


「え? あ、いや、小柴選手との試合は、一分以上かかったはずっすよ。それにやっぱり、たった一回の攻撃で試合を終わらせられちゃうってのは、レベルの違う話でしょう?」


「秒殺だろうが判定だろうが、負けは負けだろ。……ま、悔しさのレベルは違うのかもしれねーけどよ」


 ぶっきらぼうに言い捨てて、サキは愛音に向きなおった。


「とにかくこっちは、勝つだけだ。おめーのお粗末な頭に、もういっぺん作戦を叩き込んでおくぞ」


「押忍なのです! みなさま、失礼いたしますです!」


 そうしてサキと愛音も、立ち去っていった。

 すると、すっかり存在を黙殺されていた加賀見老婦人が「なるほどねえ」と笑みを浮かべた。


「ちゆみさん、すごくいきいきしてるみたい。……だから理央さんも、このMMAっていう競技を好きになったのね」


 車椅子の理央は、はにかむような微笑で応えた。

 そちらにうなずきかけてから、老婦人は瓜子たちに向きなおってくる。


「ところで、ご相談があるのですけれど……次の大会のチケットというものは、お二人にお願いすれば準備していただけるのかしら?」


「次の大会って、自分たちの出る七月のアトミックっすか? それならもちろん、ご準備できますけど」


「それじゃあ二枚、予約をお願いいたしますね。私と理央さんでおうかがいしたく思っておりますので」


 すると理央が、いくぶん心配そうな面持ちで加賀見老婦人の袖を引いた。

 老婦人はとても優しげな眼差しで「いいのよ」と微笑む。


「理央さんがそんなに行きたいのなら、私だって一緒に応援したいもの。……その日、ちゆみさんは一緒に行けないのでしょう?」


「あ、はい。まだちゃんと決まったわけじゃないっすけど、きっとセコンドをお願いすることになると思います」


「それならやっぱり、私の出番ね。遠慮なんていらないから、一緒にお二人を応援しましょう?」


 理央は加賀見の袖をつかんだまま、子供のようにこくりとうなずいた。

 それから、上目づかいに瓜子を見上げてくる。瓜子は車椅子のかたわらに腰を屈めて、理央に笑いかけてみせた。


「理央さんたちが応援してくれるなら、いっそう負けられないっすね。ユーリさんと二人で、チャンピオンベルトを巻く姿をお披露目するっすよ」


 理央は頬を赤く染めながら、幸福そうに笑ってくれていた。

 一月の大会以降はサキもずっとセコンドを務めていたので、理央を観戦に誘うこともできなかったのだろう。それで理央の心中を察して、加賀見はこのように申し出てくれたのだ。


(こんな頼りになるお人がいるなら、理央さんもサキさんも安心だ)


 瓜子がそんな感慨を噛みしめている間も、試合は粛々と進められている。

 おおよその試合は四分一ラウンドであったので、驚くほどに進行は早かった。まあ、そうであるからこそ、これほどの数の試合が詰め込まれているのだろう。試合表によると、本日は午後だけで三十試合以上も組まれているのだ。


 本日は全階級においてトーナメント戦が行われているので、まずはその一回戦目が消化されていく。残念ながら、プレスマンから出場した二名の男子選手は、どちらも一回戦目で敗退してしまっていた。彼らは入門して一年未満の若手選手で、力試しの意味合いで出場していたのである。


「やー、こっちはオわっちゃったよー。イッカイセンメをカちヌけたのは、アイネだけだったねー」


 と、セコンドの業務を終えたジョンが、わざわざ挨拶に出向いてくれた。

 そこで瓜子は、すぐさま多賀崎選手に連絡を入れる。幸か不幸か、彼女がセコンドを務めていた男子選手も一回戦目で敗退しており、すでに手は空いているとのことであった。


「初めまして。四ッ谷ライオットの多賀崎と申します。実は出稽古について、ご相談があるんですが……」


「ウン。トキコからキいてるよー。ウチはダレでもダイカンゲイだからねー。ドウジョウのスケジュールは、ユーリやウリコにカクニンしておいてもらえるかなー?」


「押忍。ありがとうございます」


 というわけで、多賀崎選手の出稽古についても、あっさり解決してしまった。

 社交性の権化であるジョンは、ごく短い時間で多賀崎選手や加賀見老婦人や理央と親交を結び、やがて愛音たちのもとに立ち去っていく。ジョンもサキもおたがいの選手のサブセコンドとして登録していたので、愛音の次の試合には付き添うことがかなうのだ。


「赤星道場の大江山ってのは、聞きしにまさる奇妙なやつだったね。あれが、狙いすました一撃だってんだろう?」


 その場に居残った多賀崎選手が、神妙な面持ちで問うてくる。瓜子はそちらに、「はい」と応じてみせた。


「ジョン先生が言うには、そうらしいっすよ。自分は浜松のプレマッチを拝見しましたけど、そのときも一撃KOでしたからね」


「ああ、鞠山さんもそんな風に言ってたな。大怪獣ジュニアと同じスタイルだとかいう話だったけど……あいつの試合って、真剣勝負なのかねえ?」


 後半はいくぶん声をひそめて、多賀崎選手はそのように囁きかけてきた。

 瓜子は赤星弥生子の凛然とした面立ちを思い出しつつ、「どうでしょうね」と答えてみせる。


「自分は赤星弥生子さんの試合を拝見したことがないんで、なんとも言えないんすけど……ただ、台本のある試合を楽しむようなお人には見えなかったっすね」


「ふうん。男子選手を相手に連戦連勝なんて、いまひとつ信用ならないんだけどなあ。……だけどまあ、大怪獣ジュニアはどうでもいいか。問題は、赤鬼ジュニアのほうだ」


「はい。彼女が二試合連続でKO勝利してるのは事実ですからね。ちなみにその前も、《フィスト》や《パルテノン》のアマ大会で三連続KO勝利だったらしいっすよ」


「それじゃあ、五試合連続KOってことか。アマの大会とはいえ、十分に化け物じみてるな。こいつは腰を据えて、邑崎の応援をさせてもらうことにするか」


 そんな風に言ってから、多賀崎選手はふっとユーリのほうを振り返った。


「……ところで、さっきからずいぶん静かだな。あたしが居座るのは迷惑かい?」


「いえいえ、滅相もない! ただ、ユーリが口をはさんでもお邪魔になるだけかと思いまして……」


「あんたって、もっと傍若無人なイメージだったんだけどな。……あたしのことが気に食わないなら、はっきりそう言ってくれよ?」


 などと、怖い顔を作りながらも、ちょっと心配そうな眼差しになっている多賀崎選手である。いっぽうユーリは、困り果てた様子でへにょへにょ笑っていた。


「多賀崎選手のことが気に食わないなんて、そんなのありえないですよぉ。ユーリって、ぽんぽん悪口を飛ばしてくるようなお人のほうが、あんがい喋りやすかったりするのですよねぇ」


「なんだよ、そりゃ。沙羅選手みたいに白ブタ呼ばわりしろとでも言うのかい?」


「あうう。多賀崎選手のように誠実そうなお人から罵倒されると、いくぶん精神ゲージを削られてしまうやも……」


「だったら、どうしろってのさ」


 何やら微笑ましいぶきっちょさで交流を深めている両名である。

 そんな中、ついに愛音たちが待機スペースに現れた。試合場では、第十七試合が開始されようとしている。


「なんとか間に合いましたね。まだ十五分ぐらいは余裕があるから、判定までもつれこんでも見届けられるっすよ」


「うん? あんたたちは、この後に予定でもあるのかい?」


「はい。午後はグラビアの撮影です。……あ、もちろんユーリさんだけっすよ?」


「そうか。仕事の合間に駆けつけたってわけだね。それならなおさら、めいっぱい応援してやらないとな」


 多賀崎選手は、もはや同門の選手を見守るような眼差しになっていた。そういえば、合宿稽古では多賀崎選手もけっこう愛音を可愛がってくれていたのだ。


 待機スペースでは、ヘッドガードとオープンフィンガーグローブを装着させられた愛音が、ジョンとサキからアドヴァイスを受けている。

 試合場をはさんだ向こう側のスペースでは、大江山すみれがレオポン選手や青田ナナとともに同じような姿をさらしていることだろう。


 幼少の頃よりグローブ空手を学んできた愛音と、ルーツもよくわからない古武術めいたファイトスタイルの大江山すみれ――いったいどのような試合が展開されて、どちらが勝利を収めることになるのか。瓜子にも、まったく見当をつけることができなかった。

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