02 愛音の一回戦

「あ、ユーリ様! ご来場ありがとうございます! 愛音などのために貴重なお時間を割いていただき、恐悦至極なのです!」


 ようやく巡り合うことのできた愛音は、これ以上もなく発奮していた。

 黒目がちの目はぎらぎらと輝いて、肉食ウサギの本領発揮である。すでにウォームアップも完了しているようで、そのほっそりとした身体からは蒸気でも噴きあがりそうな入れ込みようであった。


「まったく、暑苦しいよなー。ちっとは頭をクールダウンさせろって言ってんのに、聞きゃしねーんだよ」


 と、セコンド役たるサキは肩をすくめている。本日はジョンも来場しているが、そちらは男子選手の担当であったのだ。プレスマンからは、二名の男子選手がエントリーしているはずだった。


「今日は出場選手四名の、ミニトーナメントなんだよね? ムラサキちゃんとオオエヤマちゃんと……あとは、武魂会とフィスト・ジムのお人らだったっけ?」


「はいっ! 愛音の初戦は、フィスト・ジムの佐々木選手なのです! 噂によると、柔道ベースのグラップラーであるのです!」


「そっかぁ。でも、ムラサキちゃんの立ち技はみんなのお墨付きだからねぇ。きっと優勝できるよぉ」


「はいっ! ユーリ様にそのように言っていただけるだけで、愛音は百人力なのですっ!」


 そんな風に吠えてから、愛音はくりんと瓜子に向きなおってきた。


「あ、猪狩センパイもご来場ありがとうございます。ご挨拶が遅れて失礼しましたのです」


「いいっすよ。いつものことですからね」


 瓜子が苦笑まじりに答えたとき、ユーリが「あれれぇ?」と目を丸くした。


「あの可憐なるお姿は、ひょっとして……うわぁ、やっぱり牧瀬理央ちゃんだぁ」


「え、マジっすか?」


 ユーリの視線を追いかけると、こちらに向かってくる車椅子の姿が見えた。そこにちょこんと収まっているのは、まぎれもなくニット帽をかぶった可憐なる少女である。

 そして瓜子はその車椅子を押している人物の姿に、また驚かされてしまった。


「ああ、いたいた。どうやら間に合ったみたいですねぇ。遅くなっちゃってごめんなさい、ちゆ――」


「その名前で呼ぶんじゃねーって何百回も言ってんだろ、ババア」


 サキがぶっきらぼうな声で、その人物の言葉をさえぎった。

 白髪頭で品のいい面立ちをした、とても優しそうな老婦人――瓜子とユーリも一度だけ対面したことのある、あけぼの愛児園の副園長、加賀見である。


「みなさん、初めまして。私は加賀見で、こちらは牧瀬理央さんと申します。本日はお招きいただいて、心から嬉しく思っておりますよ」


 加賀見はにこにこと柔和に微笑みながら、白髪頭を下げてきた。

 それを見やっていたサキは、深々と溜息をつく。


「おめーらをお招きした覚えは、これっぽっちもねーけどな。……それと、こっちの二人は初めましてじゃねーんだよ」


「あらあら、それじゃああなたがたが、桃園さんと猪狩さんなのですね」


 同じ笑顔を保持したまま、加賀見がユーリと瓜子を見比べる。


「ごめんなさいねえ。去年の夏頃は、私もちょっと神経がまいってしまっていたもので……お二人とお会いした日のことを、すっかり忘れてしまったのですよ」


「あ、はい。サキさんからうかがってます。あらためて、今後ともよろしくお願いいたします」


 瓜子たちが加賀見と対面したのは、昨年の七月である。当時の彼女は理央の境遇に胸を痛めるあまりに、精神が不安定になってしまっていたのだ。

 が、理央が回復すると同時に、加賀見も回復した。それからの彼女は八面六臂の働きを見せて、廃園寸前であったあけぼの愛児園を見事に立て直してみせたそうなのである。


 そして彼女は無職のサキに臨時のバイト職員という肩書きを与え、今年の春で卒園しなければならない年齢であった理央を園内で庇護できるように取り計らったのだという。

 あのおっとりとした老婦人がそこまでの辣腕であったのかと、瓜子は驚き果てていたのであるが。ほとんど一年ぶりに再会した加賀見は、瓜子の記憶にある通りの優しげな老婦人であった。


(でも、確かに……目つきなんかは違ってるのかもな)


 以前の彼女は、夢遊病者のようにぼんやりとした眼差しであった。園内の職員が理央を虐待し、自殺未遂にまで追い込んでしまったことに打ちのめされて、心が現実世界から乖離してしまったようであったのだ。

 だが、今の加賀見はひたすら優しそうな眼差しをしていた。そして、皺の寄った手でしっかりと理央の車椅子を支えてくれている。サキは多くを語らなかったが、彼女は相当な無理を通して、理央の健やかな生活を守ってくれているはずであった。


「理央さん、おひさしぶりなのです。今日は愛音などのためにご来場してくださって、心からありがたく思っているのです」


 愛音がしゃっちょこばって一礼すると、理央も「あい」と頭を下げた。

 そして、瓜子の顔をおずおずと見上げてくる。


「……ういこしゃん、おひしゃしぶいでしゅ」


「はい、おひさしぶりです。またちょっと言葉がはっきりしてきましたね」


 理央は恥ずかしそうに頬を染めて、「あいがとうごじゃいましゅ」とまた頭を下げた。


「今日来るとは聞いてなかったんで、びっくりしちゃいました。でも、会えて嬉しいっすよ」


 瓜子がそのように言葉を重ねると、理央は不思議そうにサキのほうへと視線を転じた。サキは仏頂面で、赤黒まだらの髪をかき回している。


「なんでもかんでも報告する義理なんざ、アタシにはねーんだよ。そら、ぼちぼち試合の時間だ。野次馬どもは、とっとと引っ込みやがれ」


「押忍。それじゃあ邑崎さん、頑張ってください」


 とりあえず、瓜子とユーリは理央および加賀見老婦人と壁際まで引っ込むことにした。だいぶん見物客が増えてきたようで、館内にはまた新たな熱気がたちこめている。


「ちゆみさんは、私たちのことをお話ししていなかったのですね。きっと、恥ずかしかったのじゃないかしら」


「そうかもしれないっすね。サキさんはああ見えて、奥ゆかしいお人ですから」


 本人のいない気安さで、瓜子はそんな風に答えてみせた。

 そこで、大会の開始がアナウンスされる。開会式などは午前中に終了しているらしく、すぐさま試合が始められるようであった。


『それでは、アマチュア・フィスト東京六月大会、午後の部を開始いたします。第一試合に出場する邑崎選手、佐々木選手、第二試合に出場する谷選手、大江山選手は試合場の待機スペースに集合してください』


 愛音の出番が午後一番であるということは、サキからメールで知らされていた。

 また、愛音が赤コーナー側であることも同様であるので、瓜子たちはそちらの待機スペースに近い場所で試合場を見守っている。やがてサキとともにやってきた愛音は、待機スペースでヘッドガードとオープンフィンガーグローブを装着させられた。


 ニーパッドとレガースパッドはあらかじめ自前のものを装着しており、本日は赤一色のハーフパンツを着用している。それらはいずれもフィスト協会認定のアイテムであり、出場選手は所属ジムで借りるか自分で買いそろえなければならない取り決めになっていた。

 よって、自由がきくのは上半身の試合衣装のみとなる。こちらは身体にフィットしていればOKという規定であったので、愛音は当然のようにユーリのコラボ商品であるピンクとホワイトのラッシュガードを身につけていた。


 試合場のかたわらには横長のテーブルが置かれており、そこに協会の役員とタイムキーパー、そしてアナウンス係が控えている。第一試合に出場する愛音たちが防具を着用したのを見届けて、アナウンス係はあらためてマイクのスイッチをオンにした。


『第一試合。女子アトム級、四十七・六キログラム以下契約。四分一ラウンドを開始いたします。赤、新宿プレスマン道場所属、邑崎愛音選手。青、フィスト・ジム川口支部所属、佐々木有紗ささき ありさ選手』


《アトミック・ガールズ》におけるバンタム級である愛音も、《フィスト》においてはアトム級だ。そして愛音はこの半年ほどでウェイトを増やし、平常体重が四十八キロとなっていた。今日の試合を迎えるにあたって、わずか四百グラムていどであったものの、人生初の減量を行うことになったのである。


 しかし身長は百五十八センチであるので、まだまだ細身の部類であろう。対戦相手の佐々木選手は愛音よりも五センチほど小さかったため、そのぶん体格ががっしりしているようだった。


 両選手が試合場の中央に進み出ると、レフェリーがこちらには聞こえない声量でルール確認を行った。

《フィスト》におけるアマ・ル-ルと《アトミック・ガールズ》におけるプレマッチの大きな相違点は二点、試合時間とダウン制度の有無であった。


《アトミック・ガールズ》においては三分二ラウンドで統一されているが、《フィスト》のアマ大会では一日に複数の試合をこなすことが多いため、その場合は四分一ラウンドとなる。ただし、ワンマッチやトーナメントの決勝戦では、やはり三分二ラウンドであるようだ。


 そしてそれよりも重要であるのは、やはりダウン制度の有無であろう。

《フィスト》においてもかつてはダウン制度が採用されていたが、近年になって撤廃されたのだ。それはやはり、アマチュアとプロのルールをなるべく近いものにして、移行をスムーズにするためであったようだった。


(しかも、アマの全日本選手権では試合場をケージにしようって動きもあるらしいしな)


 そもそもMMAのアマチュア大会で全日本選手権などというものが存在するだけで驚きであるし、それをリングではなく金網のケージで行おうというのは――《フィスト》があくまでも、北米のMMAこそがスタンダードであると見なしている証であった。


 やはり誰が何と言おうとも、今やMMAの本場は北米であるのだ。

 野蛮な喧嘩マッチと見なされていたMMAが、現在ではプロボクシングに迫る勢いの人気を誇っているという。《アクセル・ファイト》の人気選手などは、一試合で数千万から億に届くファイトマネーを得ているという話である。格闘技ブームの終焉した日本においては、なかなか望むべくもない栄光と報酬であるはずだった。


 日本の総合格闘技はガラパゴス化が進んでいたため、海外から持ち込まれた近代MMAのルールでも勝てるようにと進化を遂げたのだと、かつてサキはそのように語らっていた。その当時ほど大きな変革ではないのだろうが、現在もなお同じ状況に置かれているのだろう。以前は禁止されていた肘打ちの攻撃も、男子選手の試合においてはおおよそ解禁されていたし、どの興行においてもリングからケージへと試合場の移行が進められている。それらはすべて、日本人選手が世界で戦えるようになるための進化であり、革新であるはずだった。


(だからあの青田ナナって選手は、アトミックを馬鹿にしてるわけだな)


《アトミック・ガールズ》においてはいまだにダウン制度が健在であるし、肘打ちも解禁されておらず、ケージの導入という話も聞こえてこない。それらはすべて、理由あってのことであるのだろうが――「世界水準ではない」という事実に変わりはないのだ。そこに、他の興行では決して許されないような試合衣装やペイントメイク、アイドルファイターの起用などという要素も加わって、「軟派なショーマッチ」という裁定が下されてしまったわけである。


(かといって、《フィスト》や《NEXT》では女子選手の試合なんてロクに組んでくれないからな。こればっかりは、どうしようもないよ)


 瓜子がそんな想念にひたっている間に、ゴングが打ち鳴らされてしまった。

 いや、ゴングではなく、ベルというべきだろうか。「チーン」と「リーン」の中間のような、ひどく澄み渡った細い音色だ。

 ともあれ瓜子は慌てて気持ちを切り替えて、試合場に集中する。マットの上では、愛音が見慣れたファイティングポーズを取っていた。


 MMAに転向しても、愛音はアップライトのスタイルだ。いっぽう佐々木選手は、深く腰を落としたクラウチングのスタイルであった。

 愛音が《G・フォース》と武魂会のアマ王者であったという経歴は、おおよそ知れ渡っていることだろう。そうして少しでも調べれば、サウスポーのアウトスタイルであるという情報もキャッチできるに違いない。佐々木選手は慎重に距離を取りながら、愛音の様子をうかがう構えであるようだった。


 と――ふいに大きく踏み込んだ愛音が、奥の左腕を真っ直ぐにのばす。

 鋭い左ストレートが両腕のガードをすり抜けて、相手の鼻っ柱を打ちのめした。

 そしてさらに、右ジャブが相手の頬を打つ。左から右の逆ワンツーだ。


 佐々木選手は後ずさり、愛音はそれに追いすがった。

 あっという間に、佐々木選手は場外のライン際まで追い込まれてしまう。自らそれを踏み越えたら、反則で減点である。

 逃げ場をなくした佐々木選手は、頭から愛音に突っ込んだ。打撃技ではなく、上半身への組みつきだ。

 愛音はすかさず相手の首裏を取り、首相撲に持ち込んで、しなやかな膝蹴りを繰り出した。


 レバーのあたりを強打された佐々木選手は、ライン際でうずくまってしまう。

 愛音は迷う素振りも見せず、すみやかに後ずさった。愛音もこの半年ほどで寝技の稽古を重ねてきたが、相手はグラップラーであるのだ。わざわざ自分から、寝技の勝負に持ち込む理由はなかった。


 ダウン制度が存在しないため、レフェリーはただ「スタンド!」と佐々木選手に呼びかける。

 佐々木選手は緩慢な動作で起きあがり、さきほどよりも前屈みの姿勢でファイティングポーズを取った。いまの膝蹴りが、かなりのダメージになったようだ。


「四十五秒経過! 油断すんなよ!」


 赤コーナーに設定された試合場の角で、サキが声をあげている。具体的な指示がないのは、愛音が圧倒しているゆえであろう。少なくとも、立ち技の技術には大きな差があるようだった。


「ファイト!」というレフェリーの呼びかけに従って、愛音は再び前進する。

 その圧力に負けて、佐々木選手は後退した。


「勝負しろ! 逃げてても勝てないぞ! 距離を計って、タックルを狙え! 相手は腰が高いから、お前ならテイクを取れる!」


 これは、相手方のセコンドの声である。

 佐々木選手は決死の表情で、愛音のアウトサイドに回り込もうとした。

 が、愛音はすぐさまバックステップで距離を取り、角度を修正した上でさらに踏み込み、右のアウトローを繰り出した。それでバランスを崩した佐々木選手に、今度は左フックを叩きつける。


 立ち技の技術ばかりでなく、スピードでも愛音が圧倒していた。

 その敏捷性には、瓜子もユーリも道場のスパーでさんざん悩まされているのだが。同階級の相手でも、やはり愛音のスピードについていくのは至難であるようだった。


 愛音は軽妙にステップを踏んで、的確に打撃を当てていく。

 ほとんど、サンドバッグ状態だ。

 愛音はまだまだパワー不足だが、これだけもらえばダメージも蓄積されていくだろう。佐々木選手の動きは目に見えて鈍っていき、いっぽう愛音はいよいよエンジンがかかってきたようだった。


「距離が詰まってんぞ! 組みつきに気をつけろ!」


 サキがそのように声を飛ばした瞬間――佐々木選手が、再び愛音に組みついた。

 しかし愛音は腕を突っ張って相手の身体を押しのけると、離れ際に右のローを叩きつける。

 さらに、返しの左フックが相手のこめかみを撃ち抜いた。


 ヘッドガードさえなければ、これはダウンを奪えるぐらいのクリーンヒットであったかもしれない。

 佐々木選手は力なく後ずさり、愛音は容赦なく追撃した。

 左右のフックを繰り出すと、佐々木選手は頭を抱え込む。それでがら空きとなったボディに、狙いすました左ミドルが炸裂した。


 レバーに二度目のダメージを負って、佐々木選手はへたり込む。

 愛音はやはりグラウンドに持ち込もうとはせず、そのままあっさりと退いた。

 レフェリーは無情に「スタンド!」と呼びかけたが、佐々木選手はうなだれたまま起き上がれない。その姿を見届けて、レフェリーは両腕を交差させた。


 軽やかなベルが三回鳴らされて、試合の終了が告げられる。

 試合場の周囲からは、それなりのどよめきがあげられていた。


『ただいまの試合、一ラウンド、二分五十五秒。赤、邑崎選手のKO勝利です』


 プロの興行とは異なり、ひどく淡々とした声で試合結果がアナウンスされる。

 レフェリーが愛音の右腕を掲げると、館内にはまばらな拍手が響きわたった。


「ほへー。試合中も試合の後も、歓声があがったりしないのだねぇ。女子のKO勝利なんて、珍しいはずなのにぃ」


 周囲の目を気にして控え目にぺちぺちと拍手をしながら、ユーリがそのように言いたてた。

 同じように手を打ち鳴らしながら、瓜子は「そうっすね」と応じてみせる。


「でも、嬉しい気持ちに変わりはないっすよ。邑崎さんにとっては、MMAの初勝利なんすから」


「うんうん。これは確かに、運動会の応援に来たママさんの気分かもぉ」


 瓜子たちがそんな言葉を交わしている間に、愛音は試合場から退いて、運営スタッフにヘッドガードとオープンフィンガーグローブを返却していた。

 この距離では、その表情を細かな部分まで見て取ることも難しかったが――その顔は、人前で取り乱すことを我慢するあまり、むしろ怒っているかのような表情を浮かべているようであった。

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