ACT.4 アマチュア・フィスト東京六月大会

01 会場入り

 瓜子にとっては悪夢であった撮影地獄から、数日後――六月の第一日曜日である。

 その日は愛音のMMAデビュー戦となる、《フィスト》のアマチュア大会の当日であった。


《フィスト》というのは天覇館と並んで、日本でもっとも長い歴史を持つ総合格闘技団体の一大勢力となる。また、もともと武道の道場であった天覇館とは異なり、総合格闘技をプロスポーツとして確立させるために尽力してきた存在でもあった。


 そうした理念があるゆえに、《フィスト》はアマチュア選手の育成にももっとも力を入れている。プロスポーツとして確立するにはアマチュア選手の裾野を広げる必要があるという、至極まっとうな理念に基づいているわけである。


「――その甲斐あって、《フィスト》は日本のMMAにおける最大勢力に成り得たわけっすね。《フィスト》で結果を出せれば、北米進出の最短ルートになるわけっすよ。プレスマンの早見選手なんかも《フィスト》の環太平洋王者っていう実績が認められて、《アクセル・ファイト》と契約できたわけっすからね」


 午前の仕事を片付けて、愛音の勇姿を観戦するべくタクシーで試合会場に向かいながら、瓜子はそんな風に説明してみせた。

 隣の座席に収まったユーリは、あんまりピンときていない面持ちで「ふみゅふみゅ」とうなずいている。


「ユーリはこれまで、《フィスト》にまったくご縁がなかったからにゃあ。……そういえば、ユーリは以前からほのかな疑問を抱いていたのです」


「はい。なんっすか?」


「《アトミック・ガールズ》はパラス=アテナ、《レッド・キング》は赤星道場が主催者でしょ? 《フィスト》はフィスト・ジムが主催者っていう認識でよかったのかしらん?」


「ああ、そのへんはちょっとややこしいっすよね。そうだなあ……《フィスト》っていうのを競技の名前だって考えると、わかりやすいかもしれないっすね」


「にゅにゅ? 競技の名前?」


「はい。実際問題、《フィスト》ってのは総合格闘技って名前が定着する前から存在するらしいんすよ。これまでになかった新しい格闘技の競技を確立させるために、《フィスト》が創立されたわけっすね。だから、《フィスト》っていう競技を練習する場所がフィスト・ジムで、今日開催されるのはその競技のアマチュア大会。正式な主催者は、たしかインターナショナル・フィスト・コミッションだったはずっすよ。それとは別に、運営の管理者として日本フィスト協会ってのも存在するはずっすけど」


「おおう。ユーリの脳内でゲシュタルト崩壊が起きそうだわん。……何にせよ、《フィスト》では女子選手が有り余ってるから、ユーリにはお呼びがかからないってことなのかしらん?」


「いや、《フィスト》でもそこまで女子選手は充実してないから、試合そのものの数が少ないんすよ。だからフィスト・ジムに所属してる沖選手や山垣選手なんかも、アトミックに参戦してるんでしょうしね」


「ふみゅふみゅ。多賀崎選手や灰原選手の所属してる四ッ谷ライオットなんかも、フィスト・ジムの系列にゃんだよね?」


「雅選手のパイソンMMAや亜藤選手のガイアMMAなんかも、フィスト系列っすよ。さすがは国内最大規模っすよね」


 そんな言葉を交わしている間に、試合会場に到着した。

 本日の試合会場は、区立の体育館である。そこにひしめく人波に、ユーリは「むにゃー」とおかしな声をあげた。


「なんだか、すごい人手だねぃ。プロの興行顔負けではございませぬか」


「今日の大会は二部構成だから、午前の部の関係者やお客さんが帰るところなんでしょう。ゆとりをもって到着できたみたいっすね」


 もちろんアマチュアの大会であるのだから、プロの興行ほどお客が入るわけもない。その代わりに、出場選手の身内などが気軽に応援に来ているのだろう。アマチュアの大会であるゆえに、入場料などは発生しないのだ。


「ふみゅう……つまりこれは、草野球だとか子供のサッカーチームの応援みたいなものなのかにゃ?」


「ええ。ニュアンスとしては、そんな感じでしょう。キックのアマ大会なんかも、こんな感じだったっすよ」


 人混みをかきわけて入場口を目指しつつ、瓜子はそんな風に答えてみせた。

 人との接触を念入りに回避しつつ、ユーリは「むにゅう」と息をついている。本日も大きなキャスケットと黒縁眼鏡で人相を隠しているユーリであるが、その顔にはユーリらしからぬ神妙な表情が浮かべられているようだった。


「どうしたんすか? 便秘っすか?」


「ユーリの胃腸の頑健さは、うり坊ちゃんとて先刻承知であろうに……いや、ユーリっていきなりプロデビューしちゃったから、アマチュアの世界とかまったく未知なる領域だったのだよねぇ。格闘技の試合を家族がわいわい応援するだとか、まるでパラレルワールドにさまよいこんだような気分なのです」


「うーん、家族よりは練習仲間とかのほうが多いと思いますけどね。それに、プロの興行だって家族が観にくることは多いでしょうから……そこから選手のファンとかをさっぴいたようなもんじゃないっすかね」


 そのように答える瓜子とて、MMAのアマチュア大会を観戦するのは初めてのことであるのだ。《アトミック・ガールズ》のプレマッチなどはプロの試合の前座であるのだから、ニュアンスはずいぶん違っているはずだった。


 そうして入場口をくぐりぬけると、屋内には午前の試合の熱気が濃密に残されていた。

 ただし、人間の数はさほどでもない。まだ午後の部のお客などはほとんど入っていないのだろう。トレーニングウェアに身を包んだ出場選手や関係者などが、あちこちに散らばってウォームアップに励んでいる様子であった。

 その光景を見回して、ユーリがまた「おりょりょ?」と声をあげる。


「ねえねえ、うり坊ちゃん。リングが見当たらないようですが」


「はい。今日はリングを使わないみたいっすね。邑崎さんが、そんな風に話してました」


 それもまた、アマチュア大会ならではの光景であっただろう。館内の中央に敷かれているのは、淡いグリーンをしたマットのみである。

 畳ぐらいのサイズである長方形のマットが、十メートル四方ぐらいに敷き詰められている。試合の舞台となるのはその中央の六メートル四方ていどで、場外との境目はオレンジ色のマットで区別がつけられていた。


「さて、邑崎さんたちはどこでしょうね。もう準備を始めてると思うんすけど……」


 そうして瓜子たちが雑然とした館内を見回していると、「猪狩さん!」と呼びかけてくる者があった。

 振り返ると、大小の人影が速足で近づいてくる。それは、四ッ谷ライオットの多賀崎選手と武魂会の小柴選手であった。


「ああ、どうも。おひさしぶりっすね、お二人とも」


「はい! 猪狩さんもお元気そうで何よりです! ……あ、桃園さんも」


 男の子のようにさっぱりとしたショートヘアの小柴選手が、はにかむように笑いかけてくる。いっぽう大柄な多賀崎選手は、曖昧な表情で瓜子とユーリの顔を見比べていた。


「きちんと話すのは、先月の試合以来だよな。……いや、試合の日はきちんと話せてもないか。とにかく二人とも、王座挑戦おめでとうさん」


「押忍。ありがとうございます」


 本日この両名は、それぞれ同門の選手が出場するためにセコンドとして同行しているのである。それを事前に知ることができたのは、合宿稽古で連絡先を交換し合った恩恵であった。


「邑崎さんにも、さっきご挨拶をさせてもらったんですけど……試合が終わるまではなれ合いたくないって、追い返されちゃいました」


 と、小柴選手がちょっぴりしょげた顔になる。彼女の同門である後輩選手は、愛音と同じ階級であったのだ。


「それは、すみませんでした。何か失礼な態度を取られたりしなかったっすか?」


「いえ。そんなことはありませんけれど……やっぱり猪狩さんとお話しするのも、試合が終わるまで控えるべきでしょうか……?」


 と、子犬のような目で瓜子を見つめてくる小柴選手である。相変わらず、年長者とは思えない謙虚さであった。


「いえ。自分たちはセコンドじゃなく、ただの応援っすからね。そうまでピリピリする必要はないと思うっすよ」


「そうですか! それなら、よかったです!」


 小柴選手はぱあっと顔を輝かせて、尻尾を振る子犬さながらであった。

 いっぽう多賀崎選手は、まだ曖昧な表情でユーリのほうを見やっている。


「ああ、ええと……この前は、うちの灰原が世話になったね。こっちこそ、何か失礼はなかったかい?」


「いえいえ。失礼なんて、とんでもないですぅ。灰原選手も、なかなかのかわゆらしさでありましたよぉ」


「あいつは見てくれぐらいしか取り柄がないからな。それでもやっぱり桃園の水着姿は反則だって、ちょいとめげてたよ」


 そんな風に言いながら、多賀崎選手は何とか笑顔をこしらえている。彼女はけっこう強面であるが、意外に人見知りな気質であるようなのだ。それもまた、合宿稽古をともにすることで知り得た一面であった。

 そんな風に考える瓜子に対して、小柴選手は熱っぽく話しかけてくれている。


「撮影の後には、みんなで食事に行かれたそうですね。わたしは、すごく羨ましかったです。……機会があったら、是非わたしたちもお願いいたします」


「ええ、もちろん。そういえば、出稽古の話はどうなったんすか?」


「あ、はい。実はそのことでも、ご相談があって……」


 と、小柴選手は多賀崎選手のほうに視線を移動させた。

 いくぶんやわらかくなりかけていた多賀崎選手の顔が、きゅっと引き締まる。


「猪狩。桃園。あとで正式に、コーチのお人にご挨拶をさせてもらいたいんだ。悪いけど、取り次ぎをお願いできるかい?」


「はい。それはかまいませんけど……何かあったんすか?」


「あたしは武魂会の人間じゃないから、小笠原ごしじゃなく自分できっちり話を通すべきだろ。早々に、プレスマンへの出稽古をお願いしたいんだよ」


 そのように語る多賀崎選手は、いよいよ真剣な眼差しになっていく。


「実はさ、七月大会に代役出場することになったんだ。対戦相手は、赤星道場のマリア選手」


「え? それじゃあ、沙羅選手が欠場になったってことっすか? 撮影の現場では、すごくお元気そうでしたけど……」


「詳しくは知らないけど、プロレスの試合であちこち痛めちまったらしいよ。全治三ヶ月で、七月大会は絶望的だとさ」


 全治三ヶ月――それは、かなりの重傷であるはずだった。

 瓜子は思わず、ユーリのほうを振り返ってしまう。


「ユーリさん。沙羅選手から連絡は入ってないっすよね?」


「うん。ここ最近は、さっぱりだよぉ」


 去年の夏に海水浴の約束をした際に、沙羅選手とは連絡先を交換し合っていたのだ。が、彼女も多忙な身であるため、それが活用される機会はほとんど存在しなかったのだった。


「そうっすか。沙羅選手の容態は心配っすけど……多賀崎選手は、チャンスっすね」


「ああ。こんなことでもなきゃあ、しばらくオファーはなかっただろうからね。しかも相手は、格上のマリア選手だ。二連敗の大失態を挽回するには、絶好のチャンスだよ」


 と、多賀崎選手は静かに闘志をたぎらせた。


「でも、あたしが前回マリア選手とやりあったのは、もう二年近くも前の話だ。三月の試合でやり合ったばかりの桃園やプレスマンのコーチ陣に、お力を借りたいんだよ。桃園のほうこそタイトルマッチを控えてて、他人の世話なんざ焼いてるヒマはないんだろうけど……でも、あたしはあたしでジジ選手とやりあったことがあるし、たまたま体格も同じぐらいだ。あたしも力になれるように尽くすから、なんとか協力してもらえないかい?」


「はぁい。きっとサキたんやコーチの方々だったら、おたがいのためになるようなトレーニング方法を考えてくれますよぉ。こちらこそ、よろしくお願いいたしまぁす」


 ユーリが笑顔で応じると、多賀崎選手は拍子抜けした様子で目を丸くした。


「……いいのかい? てっきり迷惑がられるんじゃないかって覚悟してたんだけど……」


「迷惑なんて、とんでもないですぅ。ユーリがこの前の試合で沖選手や魅々香選手に勝てたのは、きっとみなさんのおかげですからねぇ」


 と、ユーリはますます朗らかな顔で笑った。よそゆきではあるが、作り物ではない笑顔である。


「それに多賀崎選手って身長も体重もユーリと同じぐらいだから、寝技のお稽古がすっごく楽しいんですぅ。まりりん選手や卯月選手とのお稽古も至福の極致なのですけれど、試合勘が一番刺激されるのは多賀崎選手みたいなんですよねぇ」


「卯月選手? ……ああ、そうか。今は卯月選手もプレスマンでトレーニングしてるのか」


「そうですねぇ。でも、一般門下生が来る夕方の前にはいなくなっちゃうんですぅ。昼間は卯月選手で夜は多賀崎選手にスパーしてもらえたら、ユーリもありがたい限りですよぉ」


 にこにこと笑うユーリを見やりながら、多賀崎選手は「まいったな」と苦笑した。


「なんか、篭絡されそうだ。あたしにそっちのケはないはずなんだけどな」


「ええ? ユーリだって、そういう趣味はないですよぉ?」


「冗談だよ、馬鹿。……とにかく、感謝する。猪狩も、よろしくな」


「はい、よろしくお願いします。……小柴選手も、頑張りましょう」


「ええ。わたしも、ここが正念場ですので」


 小柴選手も、七月大会に出場が決まっているのだ。しかも相手はプロデビューの新人選手で、三連敗している小柴選手は多賀崎選手以上の土俵際であるのだった。


「小笠原さんと灰原は六月に試合だし、鞠山さんとオリビアは七月に出場するんだよな。それでもって、今日は邑崎のデビュー戦か」


「はい。合宿稽古に参加したメンバーが、みんなこの二ヶ月以内で試合をするわけですね。リハビリ中のサキさんは残念でしたけど」


「しかも、桃園と猪狩はタイトルマッチだもんな。……それでも全員が勝てるように、力を振り絞ろう」


 そんな風に言ってから、多賀崎選手は小柴選手に人の悪い笑みを向けた。


「悪いけど、今日ばかりは邑崎の応援をさせていただくよ。あんたは敵陣の人間だ」


「えーっ! わたしだけ仲間外れなんて、ひどくないですか?」


 小柴選手が泣きそうな顔になってしまったので、多賀崎選手は「冗談だよ」と繰り返した。


「あんたの応援はするけど、あんたの後輩までは応援してらんないってことだ。邑崎は、同じ釜の飯を食った仲間だからな」


「なんだか、ちょっと物寂しいです……もちろん、みなさんに後輩の応援をしてほしいなんて言えないですけど……」


 小柴選手が悄然としてしまったので、瓜子が元気づけることにした。


「それよりもまず、初戦っすよ。小柴選手の後輩さんは、赤星道場の大江山さんと対戦でしょう? 前にメールでお伝えした通り、大江山さんはトリッキーな手を使う強敵っすよ。おたがいに初戦を勝ち抜いて、対戦できるように祈りましょう」


「……そうですね。まずは、後輩のケアに努めます」


 そうして小柴選手と多賀崎選手は、それぞれのチームメイトのもとまで戻っていった。

 その背中を見送りながら、ユーリは「ふにゅう」とおかしな顔をする。


「にゃんか……多賀崎選手も小柴選手もよそのジムのお人なのに、勝利を祈りたくなっちゃうねぃ」


「お、ついにユーリさんにも仲間意識が芽生えましたか?」


「どうだろぉ? まあ、うり坊ちゃんとサキたんは別格として……ムラサキちゃんと同じぐらいのポジションにはなってるのかもねぃ」


「それはいい傾向だと思いますけど、邑崎さんの前では口をつつしんでくださいね。たぶん、ショックで試合どころじゃなくなっちゃうでしょうから」


 それはおそらく愛音の位置が低いわけではなく、多賀崎選手らの位置が急浮上した、ということなのだろう。瓜子にしてみても、合宿稽古に参加したメンバーには小さからぬ思い入れが生じているのだ。

 しかしまた、まぎれもない同門である愛音にしてみれば、不本意きわまりない言い草であろう。彼女はこれで、もう半年近くもプレスマン道場に在籍している身であるのだった。


「それじゃあ、邑崎さんたちと合流しましょうか。ユーリさんが激励してあげたら、邑崎さんも百人力っすよ」


 そうして瓜子とユーリもあらためて会場内を突き進んだのだが、またもや目的を達成する前に別の一団と出くわすことになってしまった。


「よう、ユーリちゃんに瓜子ちゃん。今日は、後輩の応援かい?」


 赤星道場の、レオポン選手である。

 そのかたわらには出場選手の大江山すみれと、見慣れぬ女性が控えている。とりあえず、瓜子は「どうも」と頭を下げてみせた。


「レオポン選手は、今日もセコンドっすか。今年になって、ずいぶん顔をあわせる機会が増えたみたいっすね」


「ああ。俺もすっかり、ヒマになっちまったからな。不甲斐ない姿をさらした分、道場に貢献してるのさ」


 レオポン選手は昨年まで、北米の興行に何戦か出場していた。それは《アクセル・ファイト》の下部団体であるローカルプロモーションであったのだが、レオポン選手は思わしい結果を出せないまま、けっきょく契約を打ち切られてしまったのだ。瓜子たちがその話を聞いたのは、大阪大会の狂乱の打ち上げ会場においてであった。


「あっちで実績を積んで《アクセル・ファイト》に殴り込みをかけるつもりだったのに、またイチからやり直しだ。ま、泣き言を垂れる前に、まずはトレーニングだな」


 ビールのグラスを何杯も空けながら、レオポン選手はそのように語らっていたのだ。あの夜と同じように、レオポン選手は本日も不敵に笑っていた。


「今日は二戦目で対戦する可能性が濃厚だから、またなれ合うなって叱られちまうかな。すぐに引っ込むから、こっちのこいつだけ紹介させてもらえるかい?」


 見慣れぬ女性が、冷めた目つきで瓜子たちを見やっている。多賀崎選手をさらに逞しくしたぐらいの体格で、強面のほども負けていない。ただ、多賀崎選手よりはずいぶん若そうで、二十歳そこそこであるように思えた。


「こいつは、青田ナナだ。大阪で紹介した青田コーチの娘さんだよ。名前ぐらいは知ってるんじゃねえか?」


 瓜子がきょとんとしていると、レオポン選手は苦笑を浮かべた。


「心当たりがないって顔だな。まあ、アトミック一本鎗だとそうなっちまうのか。……ナナは、《フィスト》の女子バンタム級王者だよ。対戦相手が少なくて、あんまり試合数をこなせてないけどな」


「あ、そうでしたか。それは失礼いたしました。自分は新宿プレスマン道場の猪狩と申します」


 青田ナナなる人物は軽く顎を引くような仕草を見せただけで、無言のままであった。


「たしか《フィスト》は、男子と同じ体重で階級が分けられてるんすよね。それでバンタム級っていうと……」


「上限は百三十五ポンド、六十一・二キログラムだな。ユーリちゃんのひとつ上だから、アトミックだったら無差別級あつかいになっちまうわけだ」


 だが、彼女は《アトミック・ガールズ》に参戦していない。ゆえに、瓜子も名前を知る機会がなかったのだ。


「まあ、こいつもメインは《レッド・キング》だからよ。《フィスト》で結果を出せば北米進出の足がかりになるんじゃないかって参戦してたんだけど、こうまで対戦相手が少ないんじゃな。なかなかプロモーターの目には止まらねえみたいだ」


「そうっすか。やっぱり女子選手の北米進出ってのは難しいんすね」


「そりゃあ難しいだろう。ベリーニャ・ジルベルトでもぶっ潰せれば、話は違ってくるかもしれないけどな」


 にやにやと笑いながら、レオポン選手は青田ナナを振り返った。


「お前も、後悔してんじゃないのか? アトミックに参戦してりゃあ、ベリーニャと対戦のチャンスもあったかもしれないんだからさ」


「……あんなイロモノのショーマッチに出場する気はありません」


 低くしゃがれた声で、青田ナナはそのように言い放った。


「いまだにダウン制度を撤廃していない試合でどれだけ勝っても、大した実績にはならないでしょう。北米進出なんて、夢のまた夢ですよ」


「へえ。お前は、そういうスタンスだったのか。……こりゃあ紹介する相手を間違ったな」


 レオポン選手は閉口した様子で、瓜子たちに軽く頭を下げてきた。


「悪いね。赤星道場もプレスマンと一緒で、自由気ままが信条なんだよ。選手それぞれに考え方があるってことで、勘弁してくれ」


「押忍。別に気にしてませんよ」


 やはり《アトミック・ガールズ》というのは、余所の興行よりもショー的要素が強いと見なされているのだろう。アイドルファイター・ユーリに加えて、コスプレ三銃士やらアイドルレスラーやら、話題性重視の感が否めない。また、パラス=アテナの運営陣がいかに偏向しているかも、瓜子はこの一年半ほどでずいぶん思い知らされてしまっていた。


(それでも自分は、アトミックを観て育った人間だからな)


 自分はあの場所で、サキの背中を追いかけたいと願ったのだ。瓜子にとって、それは北米進出よりも大きな夢であったのだから、別の夢を追いかける人間に何を言われようとも、心が揺らぐことはなかった。


「それじゃあ、自分たちは失礼します。……あ、大江山さん。立場上、応援はできませんけど、そちらも頑張ってください」


「はい。ありがとうございます」


 栗色の頭をツインテールにした大江山すみれは、いつも通りの愛想のよさで微笑んでいた。相変わらず、愛想はいいが内心の読めない娘さんである。

 そうして赤星道場の面々と別れを告げてから、瓜子はユーリに語りかけてみた。


「けっきょく赤星道場では、大怪獣も赤鬼も青鬼も、みんな娘さんたちが格闘技の道に進んでたんすね。なんかちょっと、驚きです」


「そうだねぃ。ユーリには計り知れない世界だわん」


 やはりユーリも、青田ナナの挑発的な発言に心を揺らしている様子はなかった。ユーリもまた、ベリーニャ・ジルベルトという別なる夢を追いかけている存在であったのだ。


(百人の選手がいたら、百通りの考え方があるんだろうからな。いちいち気にしてたらキリがないさ)


 そんな思いを胸に秘めながら、瓜子は館内を一望した。

 この場には、男女あわせて何十名ものアマチュア選手が集められている。そんな彼らだって、それぞれの思いを抱え込みながら、この場に立っているのだろう。異なる目標に向かっていても、道はあちこちで繋がっている。このアマチュア大会の会場も、たくさんの道と繋がった大きな交差点であるはずだった。

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