04 戦乙女の饗宴
個人の撮影が完了したのちは、グループになっての撮影である。
どの顔ぶれでグループを組むかは、編集部のほうからリクエストが出されている。まずは、ライト級とミドル級に分かれての撮影と相成った。
「なんだか珍妙な組み合わせねぇ。ほら、適当に並びなさい」
トシ先生の指示に従って、瓜子と『コスプレ三銃士』の面々が進み出る。
そうして灰原選手が瓜子の横に並ぼうとすると、トシ先生が眼鏡の奥の目を鋭くきらめかせた。
「まだら髪のアンタ、アンタはダメよ。瓜子ちゃんとは反対の端に引っ込みなさい」
「えー、なんでさ! 適当に並べって言ったじゃん!」
「アンタのために言ってあげてるのよ。雑誌を買った人間に、汚い肌だって笑われてもいいの?」
灰原選手は一瞬きょとんとしてから、倍なる勢いで憤慨した。
「き、汚い肌って、失礼すぎるっしょ! あたしのどこが汚いってのさ!」
「アンタは、並よ。シロウトにしちゃ、まあまあでしょうね。でも、瓜子ちゃんみたいに極上のお肌と並んだら、並の人間はくすんじゃうの。アタシのファインダーを通したら、余計にね」
「だったら、わたいはどうなんだわよ?」
と、スクール水着姿の鞠山選手がずずいと進み出た。
うろんげに眉をひそめつつファインダーを覗いたトシ先生は、「ふぅん」と鼻を鳴らす。
「アンタは、ギリギリOKね。シロウトにしちゃ、やるじゃない」
「ふふん。そこらのウサ公とは格が違うんだわよ」
「あんたなんて、手と足しか出してないじゃん! 顔なんて、ごってごての厚化粧だし!」
「それをナチュラルに見せるのが、魔法少女の矜持なんだわよ。ほら、お肌のケアもままならないウサ公は隅っこに引っ込むだわよ」
なんとも、不毛な騒乱である。
瓜子がひそかに溜息をついていると、トシ先生が「ちょっと」と尖った声をあげた。
「シャッキリなさいな、瓜子ちゃん。毎回毎回言ってるけど、アンタは表情が死んでるの。それじゃあせっかくのお肌も台無しよ。アンタはユーリちゃんとのツーショットに堪えられるぐらいの逸材なんだから、もっと自信を持ちなさい」
「いや、自分は本当に、こういうの苦手なんで……」
トシ先生は嘆息をこぼしつつ、斜め後方で撮影の様子を見守っていた格闘技マガジン編集部の面々へと視線を突きつけた。
「どうしても、このメンツで撮らないといけないのかしら? ユーリちゃんと一緒なら、瓜子ちゃんも少しは硬さが取れるんだけど」
「あ、はい。階級別のピンナップは、できるだけ押さえておきたいんですが……」
「カイキューベツって何さ。しかたないわねぇ……アンタたち、瓜子ちゃんをくすぐりなさい」
「へ?」と瓜子がおかしな声を出してしまった瞬間、脇腹に毛虫でも這いずったような感触が炸裂した。
瓜子は「ひゃー!」と悲鳴をあげながら、思わずうずくまってしまう。首だけを後ろにねじ曲げると、そこには両手の指先をくねくねと動かしているイリア選手の姿があった。
「い、いきなりナニするんすか、イリア選手!」
「ごめんなさぁい。猪狩さんをくすぐれって聞こえたんですけど、ボクの聞き間違いでしたかねぇ?」
「聞き間違いじゃないわよ。瓜子ちゃんをリラックスさせてあげなさい」
「はぁい」と間延びした声をあげながら、イリア選手が覆いかぶさってこようとする。
それを間一髪で脱した瓜子は、思わずファイティングポーズを取ることになってしまった。
「む、無茶苦茶っすよ、トシ先生! ちゃんとやりますから、勘弁してください!」
「そんなこと言って、この前だってマトモな顔を作るのに一時間がかりだったじゃない。今日はそんな余裕はないのよ。タイムリミットは、五時までなんだから」
トシ先生はすました顔で、手を打ち鳴らした。
「ほら、三人がかりなら何とかなるでしょ。時間がないんだから、さっさとしてちょうだい」
イリア選手と対峙する瓜子の身体が、背後から羽交い絞めにされることになった。犯人は、灰原選手である。
「……あんた、ほんっとにスベッスベだね。いったいどうやってケアしてんの?」
「ケ、ケアなんてしてないっすよ! いいから、離してください!」
「やなこった。ケアもしないでこんなスベスベお肌とか、許されないっしょ」
かくして、瓜子は撮影地獄の中でさらなる地獄に突き落とされることになったのだった。
◇
「それじゃあ最後は、全員集合ね。並びは決まってるんだったかしら?」
「はい。人気投票の順位通りでお願いします」
スタッフの指示で、立ち位置が決められていく。欠席している三名を除くと、ユーリ、瓜子、沙羅沙羅、鞠山選手、マリア選手、灰原選手、イリア選手という順番に相成った。
「これじゃあ身長差でガタガタねぇ。瓜子ちゃんとまりりんちゃんの両サイドは、ちょっと屈んであげなさい。あと、端っこのピエロは――」
イリア選手は、かくんと体勢を低くした。首と足の糸を切られて、腕と肩だけで吊られたマリオネットさながらである。
「うん、いい感じね。……瓜子ちゃん、アンタだけ棒立ちよ。身体に角度をつけるなり何なりしなさいな。そうそう、右手は腰にでも置いて」
「押忍」と瓜子は従順に従った。我を張れば張るほど痛い目にあうのだと、この小一時間ばかりで痛感させられたためである。
「はい、OK。水着は、これで終了ね。二十分後に、着替えて集合よ」
それだけ言って、トシ先生はカウチに身を投げだした。瓜子たちは自分以外の撮影がされている間に息をつくこともできたが、トシ先生は働き詰めであるのだ。肉体的には、もっとも疲弊していることだろう。
(……精神的に一番疲れてるのは、絶対に自分だろうけどな)
そうして瓜子が自分のガウンを探していると、入り口のほうから背の高い人影が近づいてきた。
「や、お疲れ様。撮影って、こんなに大変なものだったんだね」
「あ、小笠原選手。どうしてここに?」
「あれ、聞いてなかった? 表紙の撮影は、今日の内に済ませるんだってよ」
小笠原選手はジップアップのパーカーにゆったりとしたチノパンツというラフな格好で、にこやかに笑っている。その笑顔を、瓜子はじっとりとした目で見上げることになった。
「……小笠原選手は、水着の撮影にNGを出されたそうっすね。心の底から、羨ましく思います」
「あはは。アタシの水着姿なんて、お目汚しにしかならないっしょ。アンタみたいに可愛く生まれついてりゃ、考えてたけどさ。……いやホント、猪狩は想像以上の可愛さだったんで、びっくりしちゃったよ。本職のモデル顔負けだね」
「わ、悪い冗談っすよ」
すると、小笠原選手の登場に気づいた他の面々も、わっと押し寄せてきた。その中から、ガウンを肩に引っ掛けた灰原選手が真っ先に詰め寄る。
「トキちゃん、聞いてよ! あたし、肌が汚いからうり坊の隣に並ぶなとか言われたんだよ! ひどくない?」
「へえ、そいつは厳しいお言葉だね。灰原さんも、さすがの色っぽさじゃん。グラビアアイドルでも務まるんじゃない?」
「でしょー? それなのに、あのオヤジがさあ!」
「カメラマンの先生をオヤジ呼ばわりするんじゃないんだわよ。とりあえず、メイク室に向かうんだわよ」
ということで、一行はひとかたまりとなってメイク室を目指すことにした。
ドレッシングルームは二つしか準備されていないため、順番に着替えを済ませていく。その間も、小笠原選手を中心にして雑談が繰り広げられることになった。
この場にいる半数以上は、合宿稽古に参加した顔ぶれとなる。そんな中、沙羅選手とイリア選手は自ら輪を外れ、マリア選手は自分から積極的に接近してきた。
「へえ! 表紙はユーリ選手と猪狩選手と小笠原選手なんですかー! それは、売れそうな表紙ですねー!」
「どうだかね。こんな美形どもにはさまれるアタシは戦々恐々さ」
「び、美形はユーリさんだけっすよ。……でも、ユーリさん以外の人間も表紙に使おうっていう格闘技マガジンの方針は、ありがたく思います」
「ああ、これがパラス=アテナの主導だったら、桃園ひとりになってたんだろうね。そういうやり口は、アタシもどうかと思ってるよ」
いくぶん考え深げな顔になりつつ、小笠原選手はそんな風に言った。
「アタシ個人は、桃園に含むところはないけどさ。パラス=アテナの連中は、やり口が極端なんだよ。だから舞さんやアケミさんも、あんなカリカリすることになっちゃったんだろうしね」
「……そういえば、来栖さんはついに引退宣言しちゃったね」
と、さしもの灰原選手も神妙な面持ちでそのように言いたてる。
そちらに向かって、小笠原選手はにっと白い歯をこぼした。
「それはあくまで、ベリーニャに負けたらでしょ? 舞さんは最初から勝負を投げだすような人じゃないからね。アタシらは、黙って応援するだけさ」
「ふん。黙ってたら応援はできないだわよ。力の限り、エールを送るんだわよ」
「で、同じ日にはこいつらもタイトルマッチなわけだけどね」
灰原選手が、横目で瓜子とユーリをねめつけてくる。
小笠原選手はゆったりと笑いながら、肩をすくめた。
「まったく、豪勢なイベントだよね。ま、合宿稽古の成果が出たってことで、おめでたい限りじゃん。アンタたちのこともしっかり応援させてもらうから、おのおの納得のいく結果を出せるようにね」
「押忍。ありがとうございます」
瓜子がそのように答えると、小笠原選手はぷっとふきだした。
「あ、ごめんごめん。そんな可愛い顔で押忍とか言ってるのが面白くてさ。……猪狩はもともと美形だけど、化粧も似合うんだね」
「……ほんとに、勘弁してもらえないっすか? 小笠原選手にまでいじられたら、自分は逃げ場がありません」
「アンタには、とっておきの逃げ場所があるじゃん」
小笠原選手が、親指でユーリのことを指し示した。
まだガウン姿であったユーリは、満面の笑みで両腕を広げる。
「……いや、飛び込まないっすよ?」
「ががーん! ひときわかわゆらしいうり坊ちゃんを、ぎゅーってしたかったのにぃ」
そんな言葉を交わしている間に、お着換えタイムは刻々と過ぎ去っていった。
小笠原選手も含めて、全員が試合衣装となって撮影スタジオに舞い戻る。カウチから身を起こしたトシ先生は、八名に増えた女子選手たちをいぶかしそうに見回してきた。
「ふうん……それがアンタたちの本来の姿ってわけね」
「はーい、そうでぇす。そういえば、トシ先生に試合衣装を見てもらうのって初めてですよねぇ」
余人の目があるためか、本日のユーリはトシ先生に対してもかしこまった態度を保持している。そんなユーリの姿を見返しながら、トシ先生は何やら難しげな面持ちであった。
「……まあいいわ。それじゃあ、始めちゃいましょ」
水着や普段着の撮影と同じように、まずは一名ずつの撮影であった。
バニーガールさながらの、灰原選手。
パステルイエローを基調とした魔法少女ルックの、鞠山選手。
黒地のタンクトップにキックトランクスの、イリア選手。
グリーンとブラックのハーフトップにハーフスパッツの、沙羅選手。
ブルーとレッドのハーフトップにハーフスパッツの、マリア選手。
ブラックとシルバーのハーフトップにキックトランクスの、瓜子。
ホワイトとピンクのハーフトップにショートスパッツの、ユーリ。
全員が、その手にオープンフィンガーグローブを装着している。瓜子にとっては、何よりも見慣れた姿であった。表紙の撮影のためだけに参じた小笠原選手は、試合衣装の上に自前のパーカーを羽織り、壁際でメイクを施されている。
「あ、ファイティングポーズだけじゃなく、それぞれ得意技の画も押さえてもらっていいですか?」
格闘技マガジン編集者の言葉に従って、灰原選手は左右のフックを繰り出した。
トシ先生が、そこでピクリと反応する。
「……角度が悪いわね。もう二十度ばかり、右を向きなさい」
「二十度って? これぐらい?」
身体を少し傾けて、灰原選手が再び両腕を振り回す。
トシ先生は、いよいよ難しい顔になり始めた。
「二回動いても、写真は一枚しか撮れないのよ。右か左か、どっちかになさい」
「そんじゃあ、右フックね」
灰原選手は、ぶうんと右腕を振り回した。
トシ先生は、薄くなりかけた頭をがりがりとかきむしる。
「違うわね……それじゃあ、ニュアンスが変わっちゃうわ。もう一回、両腕でやりなおして」
「なんだよー。あたしは言う通りに動いてるだけだからね!」
不満そうに言いながら、灰原選手は指示に従った。
ファインダーを覗いてシャッターを切っていたトシ先生は、じれったそうに「もう一回」と繰り返す。
「もー、なんなのさ? さっきオヤジとか言っちゃったのが聞こえてたの?」
「誰がオヤジよ! いいから、もう一回!」
灰原選手はべーっと舌を出してから、さらなるフックを繰り出した。
その姿を見やりながら、ユーリが瓜子に囁きかけてくる。
「ね、トシ先生、かなり熱が入ってきたんじゃない?」
「はい。熱が入ると、おでこにシワが寄りますもんね」
瓜子も撮影の現場において、トシ先生のそういった姿は何度となく目にしていた。
灰原選手は五十発ばかりも虚空を殴ってから、ようやく交代である。鞠山選手に順番を譲られてひょこひょこと進み出たのは、イリア選手であった。
「ボク、得意技っていっぱいあるんですよねぇ。どれが写真映えするか、そちらで判断していただけますかぁ?」
「OKよ。とりあえず見せてみなさい」
イリア選手はまず、上半身をひねってから射出する後ろ回し蹴り、「アルマーダ」をお披露目した。
続いて、蹴り足を半月のように旋回させる前蹴りの「ケイシャーダ」、そして側転の体勢で蹴りを繰り出す「シバータ」である。
トシ先生は、両手で頭をかきむしることになった。
「選べないわよ! 全部撮るから、順番にやりなさい!」
「せ、先生。技の写真は一枚で十分なのですが……」
副編集長がおずおずと声をかけると、トシ先生は広い額にびっしりと皺を刻みながら、そちらをにらみ据えた。
「だったら、撮った後に選別するわよ! シロウトは口をはさまないでちょうだい!」
いよいよヒートアップしてきてしまった。ユーリのようにワガママなトシ先生の真骨頂である。
その後も沙羅選手の上段蹴りやマリア選手のミドルキックにもたっぷりと時間を使い、お次はユーリの出番である。カメラの前に立ったユーリは、「うーん」と可愛らしく小首を傾げた。
「あのぉ、ユーリはこういうときっていっつもハイキックなんですけどぉ、それじゃあ沙羅選手とかぶっちゃうので、別の技を試してみてもいいですかぁ?」
「まずは、両方見せてちょうだい。どっちを使うかは、アタシが決めるから」
「はぁい。かしこまりましたぁ」
ユーリはまず、うっとりするほどフォームの美しいハイキックを繰り出した。
それから次に披露したのは、なんと首相撲からの膝蹴りである。空気で形成された対戦相手の首裏を両手で抱え込み、斜め四十五度の角度で腹部をえぐる『ピーチ=ストーム・アックス』であった。
「へえ、すごい迫力ですねぇ。おなかを抱えてうずくまる対戦相手の姿が幻視できちゃいましたぁ」
と、いきなり頭の上からとぼけた声が響きわたり、瓜子は思わず首をすくめてしまう。振り返ると、ピエロの顔がにんまりと微笑んでいた。
そして、トシ先生はまた頭をかきむしっている。
「選べないわね! まずは最初のハイキックとやらからよ!」
「はぁい。お手数をおかけして恐縮ですぅ」
そうしてようやく、瓜子の出番であった。
が、瓜子にも得意技というほどのものは存在しない。瓜子が得意とするのは突貫ラッシュであったので、それを一枚の写真に収めることは不可能であろう。
「あの、自分もトシ先生に選んでもらっていいっすか?」
ハイキックを得意技と言い張るのはおこがましいような気がしたので、ボディアッパーとバックハンドブローを披露することにした。ボディアッパーは地味だが写真に撮りやすく、バックハンドブローは撮影に不向きだが成功すれば絵になるのではないかと考えた次第だ。
が、トシ先生の返答はけっきょく「選べないわよ!」だった。
ならば最初から、ボディアッパーだけにしておくべきだったかもしれない。瓜子は二十回ばかりもバックハンドブローの動作を繰り返すことになり、目が回りそうになってしまった。
「猪狩さん、お疲れ様ですぅ。……なんだか、レバーが疼いてきちゃいましたよぉ。もしかしたら、ボクへの嫌がらせでボディアッパーを選んだんですかぁ?」
「え? いえいえ、とんでもない! そんなつもりは、毛頭なかったっすよ!」
「あはは。冗談ですよぉ。猪狩さんって、純情なんですねぇ」
不気味なピエロのメイクでそのように言いたてられると、冗談が冗談に聞こえなかった。こういう部分も、彼女が他者の反感を買う一因なのではないだろうか。
そうして全員に出番を譲った鞠山選手が、満を持して進み出る。
「わたいの得意技は、サブミッションなんだわよ。ひとりじゃ成立しない技だわね」
「ああそう。それじゃあ誰か、相手を見つくろいなさい」
「承知しただわよ。……うり坊、あんたを指名するだわよ」
「え? 自分っすか?」
「あんたの足が、サイズも肌質も最適なんだわよ。とっとと寝っ転がるだわよ」
不承不承、瓜子は鞠山選手の足もとに身を横たえた。
「えーと、なんの技をお披露目するんすか?」
「膝十字固めだわよ。背中をあっちに向けて、右足を出すだわよ」
「え、膝十字固めっすか? ……あの、力加減を間違えないでくださいね?」
膝十字固めとは、相手の足を両足ではさみこみ、足首をつかんで足全体を関節とは逆の側に反らせる技となる。完璧に極まれば膝靭帯を破壊することのできる、きわめて危険な技であった。
「……あんたの膝がぶっ壊れたら、タイトルマッチも台無しだわね」
そう言って、鞠山選手は眠たげなカエルのような顔でにんまりと微笑んだ。
「もちろん、わたいがそんな外道な真似をするわけがないだわよ。安心して身をゆだねるだわよ」
「はあ……お手柔らかにお願いします」
床に寝転んだ鞠山選手が、立派な腿で瓜子の右腿をきゅっとはさみこむ。
かつての試合でも味わわされた感触である。あのときは膝を曲げつつ、鞠山選手の背中にしがみついて、なんとか難をのがれたのであるが、このたびは無防備な右足を受け渡さなければならなかった。
「ストレッチもしてないから、関節も強張ってるはずだわね。ちょっとでも痛みを感じたら、すぐにタップするだわよ?」
「そ、それなら最初から力加減を考えてくれませんか?」
「それじゃあ、絵にならないだわよ。あんたも覚悟を決めるだわね」
右の足首に手がかけられて、じわじわと膝がのばされていく。
膝関節よりも先に、ふくらはぎの筋肉がぴんと張り詰めた。痛みに変化するぎりぎりの角度である。
「ふうん。ケッタイな格好ねぇ。でもまあ、面白いじゃない」
と、いつの間にやら忍び寄っていたトシ先生が、パシャパシャとシャッターを切っていく。瓜子には鞠山選手の後頭部と背中しか見えないので、どのような絵面になっているのかは想像の外であった。
「はい、OKよ。動きがないから、これは楽だったわね」
トシ先生が身を起こすと、瓜子の右足が解放された。
ほっと息をつく瓜子に、鞠山選手がにまにまと笑いながら顔を寄せてくる。
「うり坊の緊張がひしひしと伝わってきて、なかなか楽しかっただわよ。あんた、わたいを信用してないんだわね」
「あ、いや、そういうわけじゃないんすけど……こんなシチュエーションだったら、誰でも緊張するでしょう?」
「冗談だわよ。あんたはからかい甲斐があるんだわよ」
そんな一幕を経て、ようやく個人の撮影が完了した。
あとはあちらで設定されたグループごとの写真と全員集合の写真で、この日の仕事も完了であった。
ただし、瓜子とユーリと小笠原選手の三名には、表紙の撮影が残されている。その準備が整えられている中、鞠山選手が小笠原選手へと声をかけた。
「なんとか定刻通りに終わりそうだわね。先に着替えて、待ってるだわよ」
「うん、了解。……あ、花さん。よかったら、こいつらと灰原さんも誘っちゃわない?」
なんの話かと思えば、小笠原選手はこのまま鞠山選手とディナーおよび夜の稽古をともにする約束をしていたのだそうだ。
「いきなりの出稽古はおたがいに難しいだろうから、せめて食事だけでもさ。二人はなんか、予定でも入っちゃってる?」
「いえ、自分は大丈夫っすよ。ユーリさんは、どうっすか?」
「ふにゅう……それはまあ、うり坊ちゃんが行くというのなら……」
「あはは。相変わらず、アンタたちはべったりだね。稽古や寝る場所まで一緒なんだから、こういうときぐらいはつきあいを大事にしなって」
「はいぃ。小笠原選手がそう仰るのでしたら……」
「よし、決まりね。花さんは、灰原さんに声をかけといてくれる?」
「ふん。あのウサ公が泣いて頼むなら、連れていってやらないこともないだわよ」
そんな言葉を残して、鞠山選手も撮影スタジオを出ていった。
そこで、撮影準備完了の声がかけられる。コンクリの壁には、無地の黒い布が張り巡らされていた。
「さ、ちゃっちゃと並びなさい。ユーリちゃんと瓜子ちゃんが椅子に座って、アンタはその後ろよ」
その場には、背もたれのない椅子が二脚並べられていた。瓜子とユーリが並んで座り、背後に立った小笠原選手と三角形を描く構図であるようだ。
「目線はこっちで、腕を組んで……瓜子ちゃん、表情が硬いわよ」
最後まで駄目出しをされつつ、それでも瓜子は何とかこの日の試練をやりとげることができた。あとは、いずれ送られてくるであろう見本誌と対決するのみである。
トシ先生はまたぐったりとカウチに沈み込み、ユーリは笑いながらそちらに近づいていった。
「トシ先生、お疲れ様! トシ先生に試合衣装を撮影されるって、すっごく新鮮だったよー!」
「ふん。こっちは他の連中と折り合いをつけるので、いっぱいいっぱいだったわよ。……特に、水着の撮影ではね」
そんな風に言ってから、トシ先生はふっと微笑んだ。
「でも、試合衣装とかいうやつに着替えてからは……みんな、いい顔してたわねぇ。思わず、熱が入っちゃったわよ」
「うんうん! トシ先生、とっても楽しそうでしたぞよ」
「アンタこそ、ね。今でもユーリちゃんがそんな野蛮な真似をしてるなんて、ぞっとしちゃうけど……アンタは本当に、そのMMAとかいう競技が好きみたいねぇ」
「モチのロンです! MMAと出会ってなかったら、ユーリなんてどうなってたかわからないですからねぇ」
そんな風に語るユーリはとても幸福そうな笑顔であり、それを見返すトシ先生も、いつになくやわらかい笑顔になっていた。
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