インターバル

怪獣の子

 きわめて充実した合宿稽古を終えてから、数日後――《アトミック・ガールズ》の五月大会を十日後に控えた、とある日のことである。

 その日もユーリと瓜子は新宿駅前のカフェにおいて、千駄ヶ谷と打ち合わせをすることになった。


「六月の、《NEXT》と《アトミック・ガールズ》の合同イベント――『音楽と格闘技の祭典、NEXT・ROCK FESTIVAL』の詳細が決定されました」


 これから道場での稽古を控えているユーリはホットのジャスミンティーをすすりながら、「はあ」と眉を下げている。


「ついに決定されてしまいましたかぁ。……イベントまであとひと月半しかないのに、ユーリなどが割り込んじゃって大丈夫なのですかぁ?」


「はい。大阪大会のライブ映像を《NEXT》の運営陣に提出したところ、二つ返事でユーリ選手の参加が承認されたのだと聞いています。……ユーリ選手は、何かご不満なのでしょうか?」


「いえいえ、滅相もない! ……ただ、ユーリはお歌に自信がないので、こういうイベントは気が引けちゃうのですよねぇ」


「ユーリ選手の歌唱力は、ご自身の評価よりも高い水準に達しているものと愚考いたします。こちらのイベントに出演なされば、《アトミック・ガールズ》の今後の集客やサードシングルの売り上げにも、大きく関わってくることでしょう」


「サードシングル……発売されちゃうのですねぇ」


「はい。夏の発売に向けて、鋭意作業を進めさせていただいています」


 ふちなし眼鏡の角度を正しつつ、千駄ヶ谷はユーリの顔を睥睨した。


「しかしまずは、六月のイベントについてです。ご説明を始めさせていただいてもよろしいでしょうか?」


「はいぃ。ご随意にぃ」


「……すでにご承知かと思われますが、こちらのイベントにおいてはロックバンドの演奏と格闘技の試合が交互に行われる予定となっています。音楽サイドの出演バンドは四組、格闘技サイドの出場選手は十四名で、七試合。この内の二試合が、女子選手の試合に設定されています」


 その二試合に出場するのが、小笠原選手と灰原選手であるわけだ。対戦相手は、どちらも《NEXT》や《フィスト》を主戦場にする、アトミックとは馴染みのない選手たちだった。これはあくまで《NEXT》が主体のイベントであるため、アトミックの選手は「外敵」という立ち位置なのである。


「また、音楽サイドの出演バンドについてですが――『ベイビー・アピール』『ザ・フロイド』『ワンド・ペイジ』『モンキーワンダー』の四組となりますが、ユーリ選手がご存じのバンドなどはありましたでしょうか?」


「いえいえ、ユーリは流行りの音楽なんて、さっぱりわからんちんなので……うむむ? しかし、『ワンド・ペイジ』というお名前には、どこか聞き覚えがあるような……」


「『ワンド・ペイジ』は、猪狩さんが入場曲として楽曲をお借りしているバンドとなるようですね」


「えーっ! ってことは、うり坊ちゃんがCDの発売日を気にしてた、あのバンド?」


 ユーリがくりんと向きなおってきたので、瓜子はいささか慌てることになった。


「いや、自分のことはいいんすよ。これはユーリさんのお仕事なんすから」


「でもでも、大好きなバンドのライブを見られるなら、大コーフンじゃない? 舞台裏で、挨拶とかできちゃうかもよぉ?」


「いいんですってば! 自分はその、どちらかというとそういうお相手とは、距離を取っておきたい人間なんです」


 そんな風に答えながら、瓜子はわずかに頬が熱くなるのを感じた。

 ユーリは「にゅははあ」と楽しげに笑っている。


「そういえば、サキたんと初めてご対面したときも、うり坊ちゃんはガチガチだったねぇ。うり坊ちゃんが羞恥に悶えるお姿を拝見すると、ユーリはにゃんだか胸の中がぽかぽかしてくるのだよ」


「だ、誰も悶えてませんってば! 千駄ヶ谷さん、お話の続きをお願いします!」


「……この内、『モンキーワンダー』は鞠山選手、『ザ・フロイド』はイリア選手とのコラボレーションが企画されています。それにならって、ユーリ選手もバンドの生演奏をバックに歌っていただくことになりました」


「えっ! まさか、『ワンド・ペイジ』じゃないっすよね?」


 瓜子が思わず身を乗り出すと、千駄ヶ谷が冷ややかに見つめ返してくる。


「……『ピーチ☆ストーム』と『リ☆ボーン』に関しては、『ベイビー・アピール』の方々に演奏していただくことになりました。幸いなことに、『ベイビー・アピール』の方々はカバー演奏というものを得意にされているそうですので」


「あ、ああ、そうっすよね。『ワンド・ペイジ』がユーリさんの曲を演奏するなんて、あまりにジャンル違いですもんね」


「……そして、セカンドシングルのカップリング曲たる『ネムレヌヨルニ』に関しては、アコースティックバージョンとして『ワンド・ペイジ』の方々に演奏していただくことになりました」


「ええーっ!」と、瓜子は大声を張り上げてしまった。


「マ、マジでワンドが演奏するんすか? アコースティックバージョンってことは、ヴォーカルのヒロさんがアコギを弾くんすか?」


「……猪狩さん。あなたの公私混同を避けようとするさきほどの態度には、私もいたく感銘を受けていたのですが」


「す、すみません。あまりに、いきなりの話だったもんで……」


 瓜子が恥じ入って小さくなると、ユーリが横から顔を覗き込んできた。


「うり坊ちゃんは、そのヒロ様という御方に懸想しておるの? ついにユーリが愛のキューピッド役をつとめる瞬間がやってきたのかにゃ?」


「いやいやいや! 絶対の絶対に、余計なことはしないでください! 自分は本当に、そういうのイヤなんすよ! 好きなミュージシャンのプライヴェートな情報とか、いっさい耳に入れたくないタイプなんです!」


「……猪狩さん」


「押忍! すいません!」


「ユーリ選手も、軽率な言動はおつつしみください。猪狩さんももはや《アトミック・ガールズ》のトップファイターと認知されつつあるのですから、芸能関係者とのスキャンダルなどは絶対に避けねばならないお立場であるのです」


「えー? ユーリはただ、うり坊ちゃんの幸せな行く末を祈っているだけなのですけれど……あわわ、申し訳ありません! 軽率な言動はつつしむユーリちゃんなのです!」


「恐縮です。……イベントの開催は六月の最終日曜日となりますため、その二週間ほど前にリハーサルの日程を組めるように調整させていただいています。スケジュール管理は弊社の管轄となりますが、ユーリ選手もいちおう念頭に置いていただければ幸いに存じます」


 そうしていくつかの打ち合わせを終了させて、ユーリと瓜子は解放されることになった。

 トレーニングウェアの詰まったバッグを抱えて、昼下がりの雑踏を歩きつつ、ユーリがまた瓜子の顔を覗き込んでくる。


「さて。千さんの耳もなくなったので、あらためて聞かせていただきましょう。ユーリはキューピッド役として勇躍すべき?」


「いや、だから本当に勘弁してください。余計な雑音が入ると、純粋に音楽を楽しめなくなっちゃいそうじゃないっすか。本音を言ったら、スターゲイトの人間として挨拶をすることすら気が引けるぐらいっすよ」


「ううむ。ユーリはたとえベル様が極悪非道な人間であられたとしても、幻滅とかはしなかったと思うけどにゃあ」


「あ、ユーリさんはベリーニャ選手を極悪非道なお人と思ってたんすか。今度お会いしたら、伝えておいてあげますね」


「ちーがーうー! わかったよぅ。本気でイヤがってるみたいだから、余計な真似はしないよぅ。……ユーリはうり坊ちゃんの幸せを祈ってるだけなのになぁ」


「それだったら、自分が試合に勝てるように祈っててください。少なくとも現役でいる間は、色恋沙汰にうつつを抜かす気もないっすから」


「にゃっはっは。うり坊ちゃんは情熱的だから、殿方に夢中になったら試合が手につかなくなっちゃうかもだもんねぇ」


 瓜子は頭にきたので、ユーリの左腕をおもいきり抱きすくめてやることにした。

 歩きながら、ユーリは幸福そうに「にゅわー!」と雄叫びをほとばしらせる。


 そうして往来の皆様をお騒がせしつつ、プレスマン道場に到着した。

 ガラスの扉を開けると、何やら道場内が騒然としている。現在はまだビギナークラスのレッスンも始まっていない自由練習の刻限であったのだが、やたらと大勢の人間が集まっているようだった。


「あ、そうか。今日は――」


 瓜子がそのように言いかけたところで、サブトレーナーの柳原が近づいてきた。


「なんだ、ずいぶん早かったな。こっちの邪魔はしないでくれよ?」


 柳原は、ユーリを嫌っている門下生の筆頭だ。ユーリは恐縮しきった様子で「はぁい」と頭を下げた。


「すみっこで大人しくしてますので、どうぞよろしくお願いいたしますぅ」


 柳原はぷいっと顔をそむけて、トレーニングルームのほうに戻っていった。

 瓜子はユーリとともに靴を下駄箱に仕舞い込み、人垣を避けて更衣室へと向かう。


「今日は、名誉師範のレム・プレスマンさんと卯月選手が来る日でしたね。すっかり忘れちゃってましたよ」


「ユーリもぉ。叱られないように、すみっこでこっそり頑張ろうねぇ」


 卯月選手は来月に、《アクセル・ファイト》の日本大会に出場する。その最終調整を、この新宿プレスマン道場で行う予定であったのだ。


「レムさんって、この道場で一番えらいお人なんでしょお? 道場を追い出されちゃわないように、死力を尽くしてちっちゃくならないとなぁ」


「いや、レムさんは、あくまで前のオーナーですからね。現時点では、部外者のはずっすよ。……もちろんコーチ陣やベテランの選手さんたちはレムさんを慕って集まったんすから、何かあったら黙ってないでしょうけどね」


「うひー、おっかにゃい! ユーリはこのプレスマン道場を、ついの住処にする予定なのだからね! よーし、この一ヶ月はウスバカゲロウのように儚き存在を目指すぞぉ」


 そんな風に宣言しながら、ユーリは長袖のラッシュガードに頭を突っ込んだ。

 が、タイトなサイズであるために、巨大な胸がつっかえてしまっている。ユーリは特注品のチェストガードを装着しているために、余計に胸もとのボリュームがかさんでしまうのだ。それを苦労して押し込むと、いつも通りの肉感的で色香あふるるシルエットが完成された。


「……ユーリさんが人目を忍ぶのは、ちょっと難しいかもしれませんね」


「にゅにゅ? そのココロは!?」


「だって、ほら……頭も、ド派手なピンク色ですし」


「ががーん! どこかでレスラーマスクでも調達してこようかしらん」


「いつだったかも、こんなやりとりをした覚えがありますね。……まあ、普通にやりすごしましょう。大人しく稽古してれば、叱られることはないっすよ」


 そうして瓜子も競技用のTシャツとハーフパンツに着替えを済ませて、ユーリとともに更衣室を出た。

 すると今度は、コーチの立松が「よう」と近づいてくる。


「お前さんたちは、レムさんとも初めてだったよな? 名誉師範に、挨拶をしておけよ」


「えっ! 軒先をお借りしているだけのユーリは、差し出がましい真似をつつしみたく思っているのですが……」


「何を言ってやがる。お前さんが入門して、あと二ヶ月かそこらで二年になるんだぞ? いいから、こっちに来い」


 立松は厳つい容貌をしているが、本日は機嫌のよさが満身からあふれかえっていた。コーチの立松とジョンこそが、レム・プレスマン名誉師範を慕っている筆頭格であるのだ。このたびの来訪は数年ぶりという話であったし、喜びもひとしおなのであろうと思われた。


 ユーリは肩を落としつつ、瓜子は背筋をのばしながら、立松の後をついていく。集まっているのは男子選手ばかりで、いまだ学校の時間である愛音はもちろん、サキやサイトーの姿も見えなかった。


「おい、レムさん。こっちの娘らにも挨拶をさせてくれ」


 人垣の中央に、きわめて大柄な人物が立ちはだかっていた。

 背丈は百八十五センチほどもあり、体重も百キロではきかないだろう。どっしりとしたアンコ型の体形で、まるで巨岩のようである。

 金色の髪はもしゃもしゃと渦巻いており、瞳は青く、厳つい顔は酒でも飲んでいるかのように赤らんでいる。現役時代は彼も『赤鬼』と称されており、《レッド・キング》で大江山と対戦するときなどは、「日蘭・赤鬼対決」などと銘打たれていたのだという逸話が残されていた。


 なおかつ彼は《レッド・キング》に参戦した時点で四十路を超えており、現在は還暦を迎えているはずだが、そうとは思えないぐらいその巨体には精気がみなぎっている。せり出た額の下には青い目が炯々と光り、年輪の刻まれた赤ら顔には金褐色の無精髭がたくわえられている。ダークスーツでも纏ったら、マフィアの親分もかくやという迫力であった。


「こっちは去年の一月頃に入門した猪狩瓜子で、こっちは一昨年の夏頃に入門した桃園由宇莉だ。《アトミック・ガールズ》っていう興行で、どっちもそれなりの戦績を残してる」


 立松がそのように説明すると、レム・プレスマンは光の強い目で瓜子とユーリを見比べてきた。

 そして――顔中の皺を深くして、にっと微笑む。


「ウリコ・サン、ユーリ・サン、ヨロシクです。ワタシ、レム・プレスマンです」


「押忍。よろしくお願いいたします」


「ど、どうぞよろしくお願いいたしますぅ」


 レム・プレスマンは同じスマイルをたたえたまま、うんうんとうなずいている。

 人身売買を目論むマフィアの悪党めいた笑顔であるが、たくさんの笑い皺が刻まれた目もとにだけは、どこか無邪気さが感じられた。隣に並んだジョンも実に楽しそうな笑顔であるが、この両名が無表情でたたずんでいたらその筋の人間でも避けて通りそうな組み合わせだ。


「アナタたち、ヒジョーにカワイイです。センシュ、ホントウですか?」


「押忍。十四歳でキックを始めて、去年の夏前にMMAでもプロデビューしました。……あ、年齢は十九歳です」


「ジュウキュウサイ!」と、レム・プレスマンは巨体をのけぞらした。


「ニホンジン、ワカくミえるです。ウリコ・サン、カクベツです。……ユーリ・サン、おイクつですか?」


「あ、ユーリは二十歳ですぅ」


「ニジュッサイ。もっとワカくミえますが、セクシーなので、ナットクです」


 レム・プレスマンも長きにわたって日本に滞在していたのであろうが、ブロークンな日本語を体得するには至らなかったようだ。このような強面で丁寧な言葉づかいであるのがミスマッチであり、そしていくぶん可愛らしく感じられてしまう。第一印象としては、決して悪いものではなかった。


(まあ、ジョン先生や立松コーチが師匠として慕ってるお人なんだもんな。きっと、悪い人ではないんだろう)


 瓜子がそんな風に考えたとき、タイマーのベルが鳴り響いた。

 人垣の中央で寝技のスパーをしていた二名の男子選手が、それと同時に身を起こす。片方はこの道場のエースである早見選手で、もう片方は卯月選手だ。


(そっか。早見選手と一緒に、会長さんも戻ってきてるんだった。あっちにも、きちんと挨拶しておかないとな)


 早見選手は本年になってようやく《アクセル・ファイト》と契約することがかなったが、その前から北米を主戦場にしている。それにともなって、プレスマン道場の会長たる篠江修市しのえ しゅういちなる人物も、専属トレーナーとしてずっと同行していたのだ。

 こうして時おり日本に戻ってきても、篠江会長は多忙であるため、瓜子ともユーリともほとんど接点がない。女子選手や若手選手の育成に関しては、コーチの立松やジョンたちが一任されているのだった。


 スパーを終えた早見選手は篠江会長のほうに戻っていき、こちらには卯月選手が近づいてくる。そちらに向かって、レム・プレスマンは目もとだけ優しい凶悪な笑顔を差し向けた。


「ウヅキ・サン。アナタ、アイサツしてください」


 卯月選手は大きな身体をほのかに上気させながら、瓜子たちの前に立ちはだかった。

 レム・プレスマンの、秘蔵っ子――そもそもこの新宿プレスマン道場は、レム・プレスマンが卯月選手を鍛え抜くために設立した、秘密のアジトのごとき存在であったのだ。赤星大吾の息子でありながら《レッド・キング》には参戦せず、《JUF》で鮮烈なデビューを果たし、ついには四天王とまで呼ばれた日本で最強の男子選手――それが、この卯月選手であった。


 彼のサイズは、瓜子も選手プロフィールで把握している。身長は百八十三センチ、体重はウェルター級なので七十七キログラム――ただし平常体重は、十キロ以上も上回っていそうだ。きわめて均整の取れた体格であるが、腕は丸太のように太く、胸板も分厚く盛り上がっている。大腿筋やヒラメ筋の張り具合も、ほれぼれとするほどであった。


 そしてその顔は、いくぶんのっぺりとしている。

 いや、よくよく見れば彫りの深い顔立ちで、むしろ西洋的ですらあるのだが、どことなく茫洋としていて、つかみどころがないのだ。

 その主たる原因は、彼がお地蔵様のように細い目をしているためであった。

 西洋的な顔立ちであるのに、目だけが糸のように細い。また、内心の読めない柔和な無表情というのも、どこかお地蔵様めいている。首などは木の幹のように太く、その下にはこれだけ頑健な肉体が備わっているというのに、首から上だけを見ていると、とうてい格闘技を生業にしているようにも思えなかった。


 年齢は、三十歳ジャスト。MMAの男子選手としては、これから円熟期を迎えるところであろう。八年ほど前に渡米してから、しばらくは苦難の時代を過ごしたようだが、現在では《アクセル・ファイト》で日本人選手として唯一のトップコンテンダーというポジションを確立させていた。


(妹さんとは……あまり似てないよな)


 顔立ちばかりでなく雰囲気も、むしろ赤星弥生子とは対極的である。いつでも帯電しているように張り詰めている赤星弥生子に対して、こちらは凪の海のように静謐な雰囲気を漂わせていた。


「……アイサツ、ドウしましたか?」


 レム・プレスマンにうながされて、卯月選手は思い出したように一礼した。


「卯月です。しばらく、こちらでお世話になります」


 その声も心地好いバリトンであるが、どこか感情が感じられない。何から何まで、つかみどころのない人物であった。


「ご挨拶、ありがとうございます。自分はこちらの門下生で、猪狩瓜子と申します」


「あ、ユーリは桃園由宇莉と申しますぅ。どうぞよろしくお願いいたしますぅ」


「ユーリ?」と、卯月選手は太い首をわずかに傾げた。


「もしかしたら、ユーリ・ピーチ=ストームさん?」


「あ、そうですぅ。そのように余計な情報で大事なお頭の容量を圧迫してしまい、恐縮の限りですぅ」


「ユ、ユーリさん。恐縮しすぎて、日本語がおかしくなってますよ。もうちょい普通にしてください」


 瓜子は慌てて言葉をはさんだが、卯月選手は気にかけた様子もなかった。


「あなたの名前は、ジョアンから聞いていました。彼の妹と試合をしたそうですね」


「ええ? 卯月選手はベル様のお兄様と交流をお持ちなのですかぁ?」


「はい。数年ぶりに、連絡が入りまして。……彼、マイペースですから」


「あんたもだよ!」という言葉を、瓜子はかろうじて呑み込むことになった。

 周囲の人々がいくぶんいぶかしそうにしている中、卯月選手はお地蔵様のような眼差しでユーリを見つめている。


「……ユーリさん、寝技のスパーをお願いできませんか?」


 そのひと言で、周囲の人々は騒然となった。


「おいおい、急な話だな。どうしていきなり、寝技のスパーなんだ?」


 プレスマン道場で一番の常識人をもって任じる立松が、一同を代表して問いかける。

 卯月選手はユーリを見つめたまま、ぼんやりとした美声で答えた。


「ジョアンの妹が、彼女を高く評価していたのです。その実力を確認してみたいと考えました」


「そうは言っても、相手は女子選手だぞ? お前さんが実力を確認して、どうなるってんだよ?」


「そうですよ。腕が立つって言っても、しょせんは女です。卯月さんが調子を乱すだけですよ」


 強い口調で言いたてたのは、サブトレーナーの柳原だ。

 卯月選手は茫洋とした無表情のまま、そちらを振り返る。


「女性蔑視ですか?」


「え? いや……そういうわけじゃないですけど、これだけウェイトが違ったら、相手にならないでしょう?」


「ウェイトは重要ですが、すべてではありません。……こちらの道場では、男女でスパーをすることが禁止されているのですか?」


「いや、普段はぞんぶんに取っ組み合ってるけどな」


 と、立松は四角い顎を撫でさする。


「実際問題、桃園さんは野郎が相手でもいい勝負ができるしな。……桃園さん、スパーを頼めるかい?」


「あ、はいぃ……でも、本当によろしいのでしょうかぁ?」


「かまわねえよ。それじゃあ、身体を温めてくれ」


 ということで、瓜子はユーリのウォームアップを手伝うことになった。

 その間も卯月選手がこちらを見やっており、周囲の人々もそれにつられているので、やりにくいことこの上ない。

 ユーリは眉を下げながら、瓜子にこっそり囁きかけてきた。


「どうしよう? ユーリ、接待スパーの経験なんてないよぉ」


「いや、なに言ってんすか。手なんて抜いたら、失礼でしょう? ……それに、日本の最強選手からスパーをお願いされるなんて、光栄なことじゃないっすか」


「うーん。女子選手だったら、強ければ強いほどワクワクドキドキするのだけどねぇ。男子選手なぞ、別種の生き物みたいなもんだからにゃあ」


 そうしてウォームアップが完了すると、ユーリはドナドナのようにトレーニングルームの中央へと引き立てられていった。

 立松が審判の役となり、門下生にタイマーのセットを命じる。


「とりあえず、三分でいいな? 念のため、ヒールホールドは禁止にさせてもらうぞ。桃園さんは試合が近いから、決して無理をさせないようにな」


「承知しました。……よろしくお願いします」


「あ、よろしくお願いいたしますぅ」


 ユーリと卯月選手は握手を交わしてから、申し合わせたように膝をついた。プレスマン道場のグラップリング・スパーでは、膝立ちの状態で始めるのがオーソドックスなスタイルであったのだ。


「それじゃあ、始め」


 立松の号令で、ユーリと卯月選手は相手のほうににじり寄る。

 前に出されたおたがいの指先が、ようやく触れようとしたとき――卯月選手の大きな身体が、ふわりと沈み込んだ。

 丸太のような両腕がユーリのくびれた腰をつかまえて、そのまま横合いに引き倒す。至極あっけなく、ユーリはサイドポジションを取られてしまった。


(すごいな。膝立ちの状態から、胴タックルを決められるのか)


 ユーリの上体にのしかかりながら、卯月選手は相手の腕をからめ取ろうとした。

 ユーリがそれを嫌って逃げようとすると、脇腹に右膝を押し当てる。ニーオンザベリーからマウントポジションを狙う算段か――と、瓜子が思ったとき、持ち前の躍動感で腰を切ったユーリが、卯月選手の右足を両足ではさみこんだ。


 周囲から、「ほう」と感心したような声があげられる。形としては、卯月選手がサイドポジションからハーフガードに逃げられた、という格好であるのだ。

 ユーリはそのまま相手と正対しようと身体をずらしていく。ここからさらに相手の胴体を両足ではさみこめば、ガードポジションとなってまた一手進められるのだ。


 もちろん卯月選手もそのようなことは承知の上であるので、ユーリの足に手をかけて、拘束から逃れようとしている。そちらはユーリの左足をまたぎこせば、マウントポジションを奪取できるのだ。


 卯月選手の右前腕が、ユーリの咽喉もとを圧迫した。

 ユーリが一瞬苦しげな顔を見せると同時に、卯月選手は相手の左足を乗り越える。

 マウントポジションが、完成した――と思われた瞬間、ユーリがものすごい勢いでブリッジをした。

 まだ重心の安定していなかった卯月選手は、とっさに右手をマットについてバランスを取ろうとする。

 するとユーリは身体を逆側にひねって、ロールエスケープを試みた。


 重心を取ることも左手をつくこともできなかった卯月選手は、そのまま体勢をひっくり返されて、マットに背中をつけてしまう。

 今度はあちこちから、「おお!」と感嘆の声がこぼされた。


 下になった卯月選手が両足でユーリの胴体をはさんだ、ガードポジションだ。

 そしてすぐさま右足の先をユーリの内股に差し込んで、フックガードの形を取る。


 次の瞬間、卯月選手はユーリよりも機敏な動作で腰を切り、そのワンアクションで身体を横に向かせた。

 ユーリは腕を取られており、腰も浮かせられてしまっている。瓜子には理解の及ばないスピードで、ユーリの身体は再びひっくり返されて――そのときには、すでに腕ひしぎ十字固めの形が完成されつつあった。


 が、ユーリは頭に掛けられかけていた相手の左足をはねのけるや、卯月選手が身体を倒す動きに合わせて身を起こす。

 すると卯月選手は右足を振り上げて、ユーリの右腕ごと頭を絡め取ろうとした。ユーリも得意とする、腕ひしぎから三角絞めの連携技である。

 そうと察したユーリは、先日の兵藤選手よりも俊敏な動きで足を立て、体重を相手にあびせることで技を無効化する。


 すぐさま技を解除した卯月選手は再びガードの体勢となり、またフックガードへと移行しようとする。

 その右足を乗り越えて、ユーリはハーフガードの状態まで一歩前進した。


 すべてが流れるような動きである。

 それはまるで、寝転がった二人がダンスでも踊っているような――ユーリとベリーニャ選手の攻防を想起させるような姿であった。


 ただ異なるのは、卯月選手が下になることをまったく厭うていないことである。

 そういう意味では、鞠山選手とのスパーのほうが近いのだろうか。


 これだけの体格差であるのだから、卯月選手がその気になればいくらでもユーリを抑え込めるはずであるのだが、決してそうしようとはしない。それゆえに、二人は何度となく上下を入れ替えて、さまざまなスイープやサブミッションの技術を現出させることになった。

 そうしてついに、どちらもタップを奪われないまま、動きっぱなしでタイムアウトである。


「よし、それまで!」


 立松の号令で、ユーリは「どひー!」とひっくり返る。三分間で汗だくとなり、その大きな胸が激しく上下していた。

 いっぽう卯月選手は、平然とした面持ちで上体を起こす。ほとんど汗すらかいていない様子だ。


「いや、なかなか面白い見世物だったな。……桃園さん、挨拶を」


「あ、今すぐにぃ」と、ユーリも何とか身を起こす。

 そうして卯月選手と握手を交わしながら、ユーリの顔には得も言われぬ幸福そうな笑みがたたえられていた。


「どうもありがとうございましたっ! すっごく楽しかったですっ! なんだか、卯月選手の手の平ですくったお水の中で、ちゃぷちゃぷ泳いでるような心地でした!」


「当たり前だろ。卯月さんが、女相手に本気を出すかよ」


 柳原が聞こえよがしに悪態をつくと、卯月選手がお地蔵様のような目でそちらを見やった。


「女性蔑視ですか?」


「あ、いや、そういうつもりじゃないですけど……」


「北米で、そういう発言は許されません。また、俺も不快に思います」


 柳原が気まずそうに黙り込むと、卯月選手は同じ眼差しをユーリに戻した。


「ユーリさん。あなたは面白いです」


「面白いですかぁ? ありがとうございますぅ」


「はい。これから一ヶ月間、どうぞよろしくお願いいたします」


 それだけ言って、卯月選手は立ち上がった。

 ジョンと一緒ににこにこと笑いながらこのスパーリングを見守っていたレム・プレスマンが、卯月選手にドリンクボトルを手渡してから、ユーリに近づいてくる。


「タシかに、オモシロいです。ユーリ・サン、またアトで……いや、これからシバラく、ウヅキ・サンとのスパー、おネガいデキますか?」


「えーっ! ユーリのほうが教わるばっかりで、むしろ恐縮してしまうのですけれど……」


「ノー。ユーリ・サン、もうスコしシンチョウあったら、リソウテキなスパーリングパートナーです。アメリカ、ツれてカエりたいぐらいです」


 マフィアのような強面で、目もとだけは柔和に笑いながら、レム・プレスマンはそう言った。

 かくしてユーリと瓜子は赤星弥生子に続いて、その兄たる赤星卯月とも奇妙な邂逅を果たすことになったのだった。

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