7th Bout ~Each Battle~

ACT.1 そうる・れぼりゅーしょん#3 ~First round~

01 黒き犬たち

 ついに、この日がやってきた。

 五月の第三日曜日、《アトミック・ガールズ》の五月大会である。


 この日、瓜子はハワイの強豪ラニ・アカカ選手と対戦し、ユーリはミドル級王座挑戦者決定戦に参加する。

 二人がそろって出場するのは、去年の九月以来――実に八ヶ月ぶりのことであった。


「ううむ。一緒に出場できるのがこんなに嬉しいのに、セコンドについたりつかれたりする機会が奪われることに、一抹の悲しみを禁じ得ない……ユーリはなんと業の深い生き物であるのだろう!」


「わめいてないで、さっさと行きましょう。二人で勝てたら、そんな悲しみも帳消しっすよ」


 本日も会場はミュゼ有明であり、チケットは完売札止めとなっていた。

 一月の興行では三割ぐらいの席が余っていたのに、ユーリが復活して以来は連続で完売だ。また、ユーリの個人ブログ経由でチケットを購入する人々も前年より増えており、その人気がいよいよ高まっていることもひそかに証明されていた。


「ユーリさん関連のグッズは、通販でも馬鹿売れらしいっすからね。それに、六月のイベントに向けて新デザインのTシャツやタオルも制作中らしいっすよ」


「それはありがたいお話だけれども、今のユーリには馬の耳に念仏なのじゃ! ユーリはもう、試合とうり坊ちゃんのことで頭がいっぱいなのだからね!」


「いや、試合に集中してくださいよ」


「それは無理! うり坊ちゃんの存在なくして、今のユーリは一秒も立ち行かないのだからっ!」


「はいはい。邑崎さんの耳に入らないように、せいぜい気をつけてくださいね」


 そうして控え室に到着すると、そこにはプレスマン道場の精鋭部隊がずらりと集結してくれていた。

 ユーリの側は、チーフがサキで、サブがジョン、雑用係が愛音。

 瓜子の側は、チーフが立松で、雑用係がサイトー。そして、試合の時間だけサキもサブセコンドとしてついてくれる予定になっていた。


「立松コーチ、本日はどうぞよろしくお願いいたします」


 瓜子が頭を下げてみせると、立松は「ん」と鷹揚にうなずき返してきた。

 立松にセコンドをお願いするのも、サキと対戦した去年の九月以来となる。そうしてその二ヶ月後の無差別級王座決定トーナメントにおいて、瓜子は立松の不興を買ってしまったわけだが、一月の新年会を皮切りに、なんとか信頼は取り戻せた様子であった。


「ジョンと俺のどっちがお前さんにつくべきか、けっこう悩みどころだったんだけどな。お前さんに必要なのは寝技の助言で、桃園さんに必要なのは立ち技の助言だろうってことで、こういう配置になったわけだ」


「押忍。立松コーチがセコンドについてくださるだけで、心強い限りっす」


「……とか言いながら、貧乏くじを引かされたとか思ってんじゃないのか?」


「な、何を言ってるんすか。そんなこと、あるわけないじゃないっすか」


「冗談だよ」と、立松は珍しくも白い歯をこぼした。

 そんな立松を、サキとサイトーが左右から眺めやっている。


「なんかこの親父も、すっかり気安くなっちまったなー。鼻の下がぞんぶんにのびてらあ」


「おう。立松っつぁんは、こういうちまちました娘っ子がツボだったわけだな」


「ふ、ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞ、不良娘ども! そら、ルールミーティングの時間だ! 会場に移動するぞ!」


 というわけで、屈強のプレスマン軍団は試合会場に移動することになった。

 これほどの大所帯も八ヶ月ぶりのことであったので、心強いことこの上ない。なおかつ、男性メンバーは二名しかいないというのに、サキとサイトーの迫力もあって、どのジムよりも強面の一団になっている感があった。


 時間にはまだゆとりがあったので、ベテラン選手たちが早くもリングでマットの確認をしている。そちらに目をやったサキが、「へえ」と面白くもなさそうに声をあげた。


「これはこれは、来栖のババアまで降臨してんじゃねーか。あいつがセコンドにつくなんて、初めてのことなんじゃねーの?」


 確かにリング上には、『女帝』たる来栖選手の姿があった。

 身長百七十センチ、体重六十六キロの、きわめて雄々しい姿である。もっと大柄な男性コーチもあちこちにいるのに、真っ先に目が引かれてしまうというのは、やはり『女帝』の持つ重々しいオーラゆえであろうか。


 そしてその足もとでストレッチをしているのは、来栖選手の同門たる魅々香選手である。そちらはそちらでつるつるのスキンヘッドであるために、否応なく目立っていた。


 さらに対角線上でコーチとタックルの打ち込みに励んでいるのは、フィスト・ジムの沖選手だ。

 天覇館とフィスト・ジムは良好な関係を保っているが、本日は同じトーナメントに出場するという立場であるため、距離を取っているのだろう。数ある選手たちの中で、やはりその二組がひときわぴりぴりとした緊張感を形成しているように感じられた。


(沙羅選手やラニ選手は、まだ来てないみたいだな)


 瓜子がそんな風に考えたとき、視界の端に黒ずくめの一団が映された。

 黒いおそろいのジャージを纏った、ドッグ・ジムの面々だ。

 同じものに気がついたらしいサイトーが、瞬時に物騒な目つきとなった。


「出やがったな、犬っころめ。……悪いけど、ちょいと外させてもらうぜ」


「待て、サイトー。今日のお前さんは、セコンドだ。むやみに場をひっかき回すなよ」


 立松がそのように掣肘すると、サイトーは感情を押し殺した顔つきでそちらを振り返った。


「頼むよ、立松っつぁん。騒ぎを起こしたりはしねえし、オレが余計な口を叩くのもこれっきりだ。……何も言わねえまんまじゃ、どうにもハラが収まらねえんだよ」


 立松は嘆息をこぼしてから、「わかった」と応じた。


「ただし、一人では行かせられんぞ。……俺も挨拶をしないといけない相手がいるみたいだしな」


 かくして、プレスマン軍団はドッグ・ジム軍団のもとを目指すことになった。

 前回の興行と同様に、犬飼京菜と三名のセコンド陣が群れ集っている。こちらの接近に気づくと、その内の一名だけが笑顔で会釈し、もう一名がうろんげに眉をひそめた。


「大和さん、おひさしぶりだな。まさか、こんな形で再会することになるとは思わなかったよ」


「立松か。……ふん。相変わらずの、辛気臭い面だな」


「そいつは、お互い様ってもんだ」


 立松も早い時期からレム・プレスマンと関わっていたため、《レッド・キング》に参戦していた大和源五郎とは面識があったのだ。

 年齢は、大和のほうがやや上であろう。なおかつ体格もあちらが上回っていたが、ごつごつとした固太りの体格と厳つい仏頂面はよく似通っていた。


「まさかあんたが、犬飼くんのジムに身を寄せていたとはね。あちこち身体を痛めてたって噂だったけど、もういいのかい?」


「おかげさんでね。試合をするようなトシでもねえし、トレーナー業に専念させてもらってるよ」


「……で、そのお相手がその娘さんってわけかい」


 そっぽを向いていた犬飼京菜が、面倒くさそうに立松を振り返る。

 くせがあって毛量豊かな茶色の髪を大きなひとつの三つ編みにまとめた、とても小柄な十七歳の女子選手である。その黒目がちの大きな目には、本日も飢えた野良犬のような眼光が宿されていた。


「なんだ、プレスマンの連中か。あたしたちに、なんか用なの?」


「お前さんは、先月の柔術の大会でもけっこうな成績を残してたな。俺も門下生を引き連れて、その大会に出向いてたんだよ」


「ふーん。だから?」


「そのときは大和さんも見当たらなかったんで、挨拶は控えておいたんだがね。俺も犬飼くんとはそれなりに交流があったんで、あらためて挨拶をさせてもらおうと思ったのさ」


「……そっちのひょろ長いのにも言ったけど、あたしはあんたの世話になった覚えもないし、あんたの世話をした覚えもないよ。だったら、まごうことなき他人じゃない?」


「ふん。噂で聞いてた通りの、はねっ返りだな。うちの不良娘どもが可愛く見えてくるぜ」


 苦笑を浮かべる立松のかたわらから、サイトーがずいっと進み出た。


「だったら、オレはどうだよ? まさか、このツラを忘れたりはしてねえよなあ?」


「……キックでやりあったイレズミ女じゃん。なんであんたが、こんな場所にいるのさ?」


「手前よりは不思議じゃねえだろ。こっちは、れっきとしたセコンドなんだからよ」


 仁王像のような顔に憤激の感情をこぼしながら、サイトーはそのように言いたてた。

 しかし犬飼京菜は、恐れ入った様子もなく細い肩をすくめている。


「あたしがここにいて、何がおかしいってのさ? もしかしたら、タイトル返上に文句でもあるわけ?」


「ねえわけねえだろ。アレはな、数年前までオレが巻いてたベルトなんだよ」


 押し殺した声で、サイトーはそのように言葉を重ねた。


「それをあんな形で踏みつけにされて、黙っていられるとでも思うのか? 手前は、何を考えてやがるんだ?」


「あたしの目的は、ドッグ・ジムが世界で最高のジムだって証明することだよ。キックのミッションはクリアしたから、もう用無しってこと。もともとあたしの本番は、このMMAだったわけだしね」


「くっだらねえな。そんなやり口で、いったい何が証明できるってんだ?」


 すると、大和が「穏やかじゃねえな」と口をはさんだ。


「まあそっちの言い分もわからなくはねえが、こんな場所で揉め事は困る。立松よ、お前さんは喧嘩を売りに来たってわけか?」


「まさかだろ。こっちは挨拶に来ただけだ」


 そうして立松は、おもむろにこちらの面々を紹介し始めた。

 コーチのジョン。正規選手のサイトーとサキと瓜子。客分選手のユーリ。アマチュア門下生の愛音。立松を含めて、七名の布陣となる。


「で? そっちは紹介してくれないのかい? あんたと犬飼くんの娘さん以外は、名前すら知らないんだがね」


 大和はごましお頭をかきながら、無言で控えている残りの二名を指し示した。


「そっちの小さいのはマー・シーダムで、もう片方はダニー・リー。……どっちも立ち技のコーチだが、ダニーは寝技や組み技も受け持ってる」


 浅黒い肌で柔和な面立ちをした若者がマー・シーダムで、年齢不詳の無表情な人物がダニー・リーだ。どこかタイ人めいている若者ばかりでなく、もう片方の人物までもが日本人でなかったことに、瓜子はいささか驚かされた。


 切れ長の目で、鼻が高く、唇が薄く、げっそりと頬が削げている。どこか抜き身の刃物めいた迫力を持つ人物である。立ち技のコーチということは、彼こそがサキの最初の師匠なのかもしれなかった。


「なるほど。柔術の大会では、お前さんがセコンドについてたよな。サキの話じゃ、そっちに柔術のコーチはいないって話だったけどよ」


 立松に声をかけられても、ダニー・リーなる人物はうんともすんとも答えなかった。ただ、黒い蓬髪の下で冷たく瞳を光らせている。


「ま、いいか。……サイトー、挨拶を済ませちまいな」


「……ああ。最後に、ひと言だけ言わせてもらうぜ」


 と、サイトーがいきなり愛音の首根っこをひっつかんで、前のほうに引っ張り出した。


「オレはMMAに転向する気なんざねえから、もう手前をぶっ飛ばすことはできねえ。オレの無念は、こっちのこいつに晴らしてもらうことにする」


「……誰、そいつ? MMAの選手なの?」


「愛音は、今年始めにプレスマンに入門させていただきました! 階級は、あなたと同じバンタム級なのです!」


 サイトーと打ち合わせをしていたわけでもなかろうに、愛音は堂々とそのように宣言した。


「あなたは早生まれだそうですが、生まれた年も一緒なのです! なおかつ、《G・フォース》のアマ大会を優勝したという経歴も同一であるのです! どうぞお見知りおきくださいませ!」


「だったら、とっととリングに上がってきなよ。今日の相手は、あんたじゃなかったはずだよね」


「五月になって、愛音もコーチの方々からようやく出場のお許しをいただけたのです! あなたこそ、来月の《フィスト》のアマ大会には出場なさらないのですか? リストに名前が載っていなかったので、愛音はとても残念だったのです!」


「……うっさいなあ。こっちにはこっちの都合があるんだよ」


 すると、頑なに無言を貫いていたサキが「へっ」と鼻を鳴らした。


「そりゃあ《G・フォース》であんな真似すりゃあ、つきあいの深い《フィスト》や《パルテノン》にはそっぽ向かれんだろ。おめーみたいなイロモノには、アトミックぐらいしか出番はねーってわけだ」


「ちゆ……あんただって、この興行に出てるじゃん。わけのわかんない難癖はやめてよね」


「おめーらは、アタシのアマ時代の試合を観てたんだろ? アトミックなら、アマでもいい試合をすりゃあ放映のチャンスがあるってな。横着者のおめーらにはお似合いのやり口だ」


「…………」


「でも、残念だったな。たとえ秒殺でも、地味な寝技じゃ放映のチャンスなんざ生まれねーよ。目立つことしか考えてねえおめーらにはガッカリだったろうな?」


「やめろ、サキ」と、ダニー・リーが初めて発言した。

 その風貌に相応しい、陰気でドスのきいた声音である。

 そして――誰が止める間もなく、犬飼京菜が爆発した。


「なんだよ! なんでそんな意地悪言うのさ! ちゆみちゃんこそ、あたしらを捨てたくせに! あたしらを捨てて、プレスマンなんかに入門したくせに! そんな嫌がらせをしておいて、まだ意地悪したりないっての!?」


 犬飼京菜の大きな目から、大粒の涙がぽろぽろとあふれかえっている。

 さしものサキも閉口していると、犬飼京菜はさらなる勢いでわめきたてた。


「あたしたちは絶対に、父さんを馬鹿にしてた世間の連中を見返してやるんだからね! ちゆみちゃんの協力なんていらないもん! あたしらを捨てたんだから、あたしらの前に出てこないでよ! ちゆみちゃんなんて、大っ嫌い!」


 マー・シーダムなる若者が慌てて背後から犬飼京菜を抱きすくめると、彼女は子供のようにわんわんと泣き出してしまった。

 瓜子たちが呆気に取られていると、ダニー・リーがいっそう冷ややかにサキを見据えた。


「……大人げないぞ、サキ。お前だって、もう子供じゃないだろう?」


「うるせーよ! おめーらが偉そうなことを言える立場かよ!」


「駄目だこりゃ」と、立松が嘆息をこぼした。


「もう収拾がつかねえな。……大和さん、機会があったらまた」


「おう。そっちはそっちで、元気でやってくんな」


 プレスマン軍団は、そそくさとその場を離れることになった。

 運営側のスタッフがいなかったのは幸いだが、多くの選手やセコンドたちはこの騒ぎに目を丸くしてしまっている。試合前に関係者同士で怒鳴り合うことなど、そうそうあることではないのだ。


「……用心すべきは、オレじゃなくってこっちの大馬鹿だったみてえだな、立松っつぁんよ?」


「まったくだ。サキがああまで取り乱すとは、こっちも想定外だったぜ」


 サイトーと立松に左右からにらまれて、サキは赤黒まだらの髪をひっかき回した。


「アタシだって、想定外だったよ。……わかった。坊主にするから、それで勘弁してくれや」


「えーっ! やだやだ! サキたんがお坊主にしたら、ワイルドの方向性が変わっちゃう!」


「そうっすよ! 自分たちは気にしてないんで、どうか坊主は勘弁してあげてください!」


「いい後輩に恵まれたな」と、立松はサキの頭を小突いた。


「後輩どもに免じて、今回だけは勘弁してやる。二度と騒ぎを起こすんじゃねえぞ?」


 サキは口をへの字にしながら、こくりとうなずいた。意地でも「押忍」や「はい」という言葉を口にしたくないようだが、そんな子供っぽい仕草がとても可愛らしく見えてしまう。

 そうして騒ぎが一段落したかに思われた瞬間、愛音が「ところで」と発言した。


「サキセンパイは、ちゆみちゃんと仰るのです?」


 サキはしゅるりと長い腕をのばして、愛音の首をチョークスリーパーの形で締め上げた。


「即刻その言葉を脳内から削除しやがれ。それができねーなら、意識ともども刈り取ってやる」


「タ、タップ! タップなのです! さっき騒ぎは起こさないと誓ったばかりであるはずなのです!」


「騒いでるのは、おめーひとりだよ。一緒に坊主にすっか?」


「そ、それもご勘弁なのですー!」


 というわけで、今回は本年度でもっとも騒がしい大会の始まりとなってしまった。

 しかし瓜子の闘志に乱れはなかったし、それはユーリも同様であるはずだった。

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