06 来訪者
一週間と定められた合宿稽古は、滞りなく進められていった。
間の平日にはサキと多賀崎選手が一時離脱することになったが、翌日にはまた十名が勢ぞろいする。午前中の補強練習も、午後の本稽古も、夜間の勉強会も、何もかもが充実している。肉体面においては平時よりも過酷な日々であったが、それに不満の声をあげる人間は――表面上、やいやい騒ぐ人間が約一名いたとしても――ひとりとして存在しなかった。
その約一名はスタミナに難があったため、二日目からは特別に練習スケジュールが組まれることになり、三日目からは、そこに愛音も加わることになった。身体をいじめてなんぼの世界であったとしても、やはり度を越したトレーニングは悪影響となってしまうのだ。トレーニングで故障を抱えてしまうというのはもっとも回避しなければならない事態であったので、そのあたりの意識は徹底されていた。
また、コーチ不在の現場であっても、そのあたりの話については大ベテランの鞠山選手が支えとなってくれた。十年強の選手活動を続ける鞠山選手は、さらにその数年前から格闘技の修練を積んでおり、下手な若手のトレーナーよりもよほど経験豊富であったのだ。
「気合だけで乗り切れるほど、格闘技の稽古は甘いもんじゃないんだわよ。あんたたちは、まず基礎体力をつける必要があるんだわよ」
愛音と灰原選手はたいそう不満げな顔をしていたが、それでも自分の肉体がどれだけキャパオーバーを起こしているかは実感できていたのだろう。ひとしきり文句を言った後は、鞠山選手から命じられたスタミナ強化のトレーニングに黙々と励んでいた。
もちろん合間合間には、両名もスパーに参加している。とりわけ愛音の存在は、鞠山選手や小柴選手に重宝されているようだった。
瓜子にとってありがたかったのは、鞠山選手と多賀崎選手の存在である。
名うてのグラップラーである鞠山選手とレスリング力に定評のある多賀崎選手は、スタンドにおける組み合いおよびグラウンドからのエスケープを稽古の主題にしている瓜子にとって、仮想ラニ・アカカ選手として最適であったのだった。
また、ユーリにとってはその両名に、小笠原選手とオリビア選手がプラスされる。打撃技においては小笠原選手とオリビア選手、組み技に関しては多賀崎選手、寝技に関しては鞠山選手と、まんべんなく稽古を積み上げることができたのだ。
ユーリの直近の相手はグラップラーたる沖選手であったが、それに打ち勝てば同じ日に沙羅選手か魅々香選手のどちらかと対戦することになる。その両名はどちらも質の異なるオールラウンダーであったため、ユーリもすべての技術を均等に鍛えあげなければならなかったのだった。
サキはサキで愛音や灰原選手の面倒を見つつ、瓜子とユーリに的確なアドヴァイスをしてくれる。これはプレスマン道場でも同様の行いであったが、やはり五時間の集中練習というこの場にあっては、サキの指導力が光っていた。おおまかな方針を立てるのがサキで、立ち技に関しては小笠原選手とオリビア選手、組み技に関しては多賀崎選手、寝技に関してはユーリと鞠山選手が細かな道筋を立てるというのが、盤石のフォーメーションであるようだった。
また、恥ずかしながら立ち技においては、瓜子も意見を求められることが多かった。小笠原選手と小柴選手、それにオリビア選手は空手の熟練者であったが、やはりキックボクシングとは似て異なる部分が多いのだ。いっぽうサキなどは独自のファイトスタイルが身にしみついてしまっているため、ある意味でもっともオーソドックスな立ち技の技術を身につけているのは、瓜子であるということになってしまうのかもしれなかった。
ともあれ――この場に集まった十名は、誰もが充実した時間を過ごせていた。
瓜子とユーリに関しては、この合宿稽古を終えると試合の二週間前に突入して、調整期間となってしまうのだ。その時期には事故による怪我を避けるために、多少は練習量を落とさなければならなくなる。その寸前のこの時期に、こうまで身体をいじめられるというのは――たとえサキに「ドMかよ」と罵倒されようとも――瓜子にとってもユーリにとっても、何より幸福なことであったのだった。
そうして過酷ながらも悦楽に満ちた日々は、あっという間に過ぎ去って――合宿稽古の最終日である。
瓜子たちが午後の本稽古を初めてすぐに、その人物が武魂会東京本部道場に乗り込んできたのだった。
◇
「……あれ? なんか、来客みたいだね」
ウォームアップを済ませたばかりの小笠原選手は、けげんそうに鍛錬場の入り口を振り返った。
閉めた扉の上で、緑色のライトが点滅している。この時間帯は玄関口を封鎖しており、来客がチャイムを鳴らすとこちらのライトが反応する仕組みになっているのだ。
「本部の人らなら、鍵を持ってるはずなんだけど……ま、いいや。アタシが見てくるから、みんなは適当に始めててよ」
「それじゃあまずは、楽しい楽しいサーキットだわね。ビギナークラスのウサ公と高校生も、元気な内に参加するだわよ」
「誰がビギナークラスだよ! 毎日毎日、しつこいな!」
ぶちぶちとぼやきながら、灰原選手が瓜子の前に進み出てくる。グラップリングのサーキットも、ここ数日ではガードポジションから始めるのが通例となり、彼女も立ったまま逃げるという手段は完全に封じられていた。
「今日こそ、一本取ってやるからね! ほら、さっさと下になりな!」
「押忍。よろしくお願いします」
実のところ、灰原選手はなかなかの腕力を有しているので、瓜子にとってはそれほど容易い相手ではない。彼女がきちんと柔術やレスリングを学んだならば、相当な難敵になるはずであった。
(そういう意味では、未来のライバルを育ててるようなもんだけど……こっちも育ててもらってるんだから、これこそ切磋琢磨ってもんだよな)
そんな想念にひたりながら、瓜子がマットに背中をつけたとき、鍛錬場の扉が開かれた。
小笠原選手とともに入室してきた人物の姿を見て、瓜子はぎょっとする。
それは、無差別級のトップスリー、『西の猛牛』たる兵藤アケミ選手であったのだ。
「アケミちゃん? こんなところで、何をしてるんだわよ?」
彼女の朋友たる鞠山選手こそが、もっとも驚きをあらわにしていた。
兵藤選手は無言のまま、小笠原選手とともに近づいてくる。その頑強なる肉体はメンズサイズのアーミージャケットとカーゴパンツに包まれており、肩から大きなショルダーバッグをさげていた。
「ごめん、ちょっとストップね。……桃園、アンタにお客さんだよ」
「ほえ? ユーリにですかぁ?」
すでにオリビア選手を相手にガードポジションを取っていたユーリは、目をぱちくりとさせていた。
サキや愛音は、鋭い眼差しで兵藤選手の挙動を見守っている。また、兵藤選手のユーリ嫌いはアトミックの選手間に響きわたっていたので、多賀崎選手や小柴選手はいくぶん心配そうな面持ちになっていた。
「アケミさんが、アンタとグラップリング・スパーをしたいんだってさ。……どうする?」
「はあ。それはまあ、スパーでしたらどなたでも大歓迎ですけれども……」
「ちょっと待てや」と、サキがゆらりと立ち上がった。
「まずは、理由を説明するべきだろうがよ? どうしてそいつがわざわざ名古屋から出向いてきてまで、こっちの牛とスパーをやりてーって話になるんだ?」
「うん。アタシもこの合宿の責任者として、それを聞かずには済ませられないかな」
小笠原選手は、いつも通りの明るい眼差しで先輩選手の横顔を見やった。
兵頭選手は、ただひたすらにユーリの姿を見据えている。
「アタシも駄目もとでアケミさんをこの合宿に誘ったけど、やっぱり断られちゃったよね。それでどうしていきなり最終日に訪ねてきて、桃園にスパーを申し出てるのかな?」
「……そんなの、説明するまでもねえだろ」
低くしゃがれた声で、兵頭選手はそれだけ言った。
小笠原選手は、目を細めて笑ってる。
「アタシはアケミさんとも、まあそれなりのつきあいだからさ。なんとなく想像はつくけど。でも、他の連中は違うっしょ? 口できっちり説明してやらないと」
「……そいつの実力を確かめたい」
やはり兵藤選手は、言葉少なだ。
ユーリはずっときょとんとしており、その代理とばかりにサキが発言する。
「実力を確かめて、どうすんだよ? それでおめーに、なんの得があるってんだ?」
「……損得なんざ、関係ねえ。ただ、知りたいだけだ」
鞠山選手が溜息をつきながら、兵藤選手のかたわらに進み出た。
「アケミちゃんは、お口がぶきっちょなんだわよ。わたいに免じて、スパーをしてやってほしいんだわよ」
「おめーに免じる義理なんざ、ほんの一週間前まではヒトカケラも存在しなかったはずだけどな」
サキはしなやかな腰に手を当てて、兵藤選手と小笠原選手と鞠山選手の姿を見回していった。
「アタシらは、おめーらほどそっちの牛を信用する材料がねえ。それでもおめーらは、スパーをさせろって言い張るんだな?」
「うん」「そうだわよ」という言葉が、同時に放たれた。
サキは赤黒まだらの髪をかきあげながら、ユーリを振り返る。
「こっちの牛、おめーはどうなんだ?」
「はいはい。ですからユーリは、スパーであればどなたでも大歓迎なのですけれども……」
「聞くだけ無駄だったな。……わかった。そんじゃあ、条件がある」
「条件?」
「鞠。おめーが審判をやれ。事故が起きたら、全部おめーの責任だ」
鞠山選手は、カエルに似た顔でにんまり微笑んだ。
「そんなの、お安い御用だわよ。……それじゃあ、アケミちゃんは着替えてくるだわよ」
兵藤選手は無言のまま、小笠原選手とともに退室していった。
こちらは稽古を開始するつもりにもなれず、ユーリのもとに集結する。寄り集まったのは、もちろんプレスマンの面々だ。
「サ、サキさん。本当に大丈夫なんすかね?」
「そうなのです。ユーリ様の身に万一のことがあったら、誰にも取り返しはつかないのです」
「……あいつが反則でも仕掛けてこない限り、危ねーことはねーだろ。あとは、鞠を信用するかどうかだな」
鞠山選手は信用に価する人物だと、瓜子はそのように考えている。
しかし、兵藤選手が鞠山選手の信頼を守るかどうかは――まったく判断がつかなかった。
「まあ、こっちのお牛様がこの状態だからな。アタシには、これ以上の打つ手はねーよ」
ユーリのほうに目をやると、そちらでは散歩をねだる大型犬のような眼差しが待ち受けていた。
「兵藤選手って、柔術は黒帯の実力なんでしょ? そんなお人にスパーを申し込まれるなんて、ラッキーだにゃあ。兵藤選手、早く戻ってこないかにゃあ」
瓜子としては、ぽふっとユーリの頭を叩くしかなかった。
ぞぞぞと背筋を震わせつつ、ユーリは幸福そうに笑っている。
やがて、兵藤選手が戻ってきた。
半袖のラッシュガードにハーフのスパッツ、両膝には黒いサポーター、足首にはテーピング――およそ三週間前、ベリーニャ選手と対戦したときとほとんど変わらぬ姿である。
兵藤選手はやはり無言のまま、ウォームアップを開始する。
ユーリはすでにぞんぶんに身体を温めていたが、つられたようにストレッチを始めていた。
「……スパーの時間は、何分に設定するだわよ?」
やがて両者の準備が整うと、審判役たる鞠山選手がそのように問いかけた。
広々とした稽古場の中央でユーリと向かい合った兵藤選手は、早くも爛々と両目を燃やしている。
「五分……いや、三分だ。一ラウンドでいい」
「三分一ラウンド。二ラウンド目はいらないんだわね?」
「ああ」
「それじゃあ、タイマーをセットするだわよ」
小笠原選手が、据え置き型のタイマーのもとに屈み込んだ。
他のメンバーは、対峙する両名をぐるりと取り囲んでいる。直截的には関係ない多賀崎選手と小柴選手もやはり緊張気味のままで、のほほんとしているのはオリビア選手ただひとりだ。
「三分一ラウンドの、グラップリング・スパー。頭から落とすバスターと、ヒールホールドは禁止。どっちかがタップしたら、スタンド状態から仕切り直し。それでいいだわね?」
「ああ」「はぁい」という周波数のまったく異なる声が同時に響く。
ベリーニャ選手と同様に、ユーリも兵藤選手とは身長がほとんど変わらないので、二十キロ近い体重差が際立っている。とりわけ身体の厚みと胴回りの差が顕著であり、兵藤選手は腰の位置が低いために、地面に根が張っているかのような揺るぎなさが感じられた。
「それじゃあ、開始だわよ」
鞠山選手の号令で、タイマーがオンにされる。
『西の猛牛』と称される兵藤選手であるが、このたびは得意の突進を見せようとはしなかった。
慎重に、両腕を大きく広げて、じりじりとユーリに詰め寄っていく。
それに対するユーリは眠そうな目をきらきらと輝かせながら、やはりのんびりと兵藤選手に近づいていった。
両者の両手の指先が、探るようにのばされる。
その先端が、触れかけたとき――兵藤選手の巨体が、ふいに沈み込んだ。
屈むと同時に、大きく足を踏み込んでいる。その重量からは考えられないほどの、俊敏な両足タックルだ。
この一週間で多賀崎選手のタックルを何度となく回避してきたユーリも、この一発を防ぐことはできなかった。
ユーリはマットに押し倒され、兵藤選手はヒグマか何かのような迫力でのしかかる。
しかし、ひとたびグラウンド状態になると、ユーリもたちまち人外の機動性を発揮することができるようになる。
ユーリは完全に体重をかけられる寸前に腰を切って、兵頭選手の右脇をすり抜けようとした。
そうはさせじと、兵頭選手は身体をねじり、右腕でユーリの進路をふさごうとする。
するとユーリは上からかぶせた右腕で相手の右肩を巻き取り、左腕をマットについて、ぐんと腰をはねあげた。
柔術のスイープ技、ヒップスローである。
兵藤選手の巨体はあっけなくひっくり返されて、ユーリのマウントポジションになってしまった。
兵藤選手は腰を切ろうとエビの動きを使いつつ、ユーリの腰を押そうとする。
ユーリは相手の左腕をつかみ、右腕をまたぎ越した。
腕ひしぎ十字固めを狙っている。
それを察知した兵藤選手は素早く腰を切り、ユーリが後方に倒れ込むのと同時に上体を起こした。
するとすかさず、ユーリは三角絞めに移行する。
これまでの稽古で何度となく見せつけられてきた、ユーリの得意な連携技だ。
ユーリの優美な曲線を描く両足が、兵藤選手の左腕と頭部をはさみ込む。
ベリーニャ選手との試合において、兵藤選手はそれを力ずくで引っこ抜こうと試みて、失敗した。その記憶があったのか、今回は逆に体重をあびせかけることで、技を無効化しようと試みた。
それと同時に、ユーリは両足のロックを解除している。
しかし、相手の左腕はまだ握りしめたままだ。
ユーリはすかさず腰を切って、右足の膝裏を相手の咽喉もとにねじ入れた。
ユーリに体重をあびせようとしていた兵藤選手は、そのまま前のめりに倒れ込む。
それと同時に、ユーリに取られた左腕が真っ直ぐにのばされた。
三角絞めから、再び腕ひしぎに移行したのだ。
兵藤選手はマットをタップし、鞠山選手は「やめっ!」と宣言した。
もちろんユーリは速やかに技を解除して、身体の下にある兵藤選手の左腕に負荷をかけないように気をつけながら、ひょこりと起き上がる。
その顔には、とても充足しきった表情が浮かべられていた。
「はい、スタンド。……やれるだわね、アケミちゃん?」
兵藤選手は無言のまま、のそりと起き上がって、ユーリと相対した。
兵藤選手の闘志は、これっぽっちも減じていない。瓜子の目には、焦りも怒りも悔しさも見て取れなかった。
「仕切り直し。……始め」
スパーは、粛々と再開される。
しかし――その後の展開に、大きく変わるところはなかった。
スタンド状態で距離を測ることが苦手なユーリは、あまりタックルが得意ではない。また、がっぷり四ツで組み合っても、やはり兵藤選手を相手に力技で組み伏せることは難しいようだ。
よって、最初の組み合いではことごとく兵藤選手が有利なポジションを取れるのだが――ユーリはそれをことごとく切り返して、タップを奪うことができていた。
スタンド状態ではいまだに鈍臭いユーリであるが、グラウンド状態においては判断が早い。また、その判断を速やかに実行できるだけの技術と身体能力を有している。MMAの試合においてはパウンドなどの打撃技によってそれをさえぎられてしまうこともままあるが、ことグラップリングの勝負において、ユーリは鞠山選手に迫るほどの実力を有しているのだ。
そして、鞠山選手は柔術の茶帯であり、兵頭選手は黒帯であるのだから、普通に考えれば兵藤選手のほうが難敵であるはずなのだが――しかし、このたびの勝負においては、ユーリのほうが圧倒していた。
(ユーリさんだって、普段は男子選手を相手に稽古を重ねてるからな。ベリーニャ選手と同様に、重い相手には慣れてるんだ)
それに対して、やはり兵藤選手は自分より軽くてスピードでまさる相手というものに慣れていないのだろうか。
しかしよくよく考えれば、それも当然の話であるように思えてしまう。どのようなジムであれ道場であれ、女子よりは男子のほうが熟練者は多いのだ。ましてやユーリや鞠山選手ほどの実力を持っている柔術の熟練者など、この日本においてはきわめて希少であるはずだった。
(つまりこれは……ユーリさんがスタンドで、自分やサキさんや邑崎さんのすばしっこさに悩まされるようなものなのか)
そのように考えなければ合点がいかないぐらい、ユーリは兵藤選手を圧倒してしまっていた。
兵藤選手が三度目のタップを奪われる頃には、残り時間も十五秒である。
最後の組み合いでも、やはり有利なポジションを取ったのは兵藤選手であった。
兵藤選手が上になり、ユーリはガードポジションを取る。
兵頭選手はユーリの上体にのしかかろうとしていたが、ユーリがおもいきり両足を引き絞ると、それ以上は前進できず、無情に時間が過ぎていった。
そうして兵藤選手がユーリの左足に手をかけたところで、タイムアップである。
「終了! ……おしまいだわよ、二人とも」
「ふひー」と息をつきながら、ユーリは両足の拘束を解除した。
しかしユーリの肉感的な足の間で、兵頭選手は動こうとしない。
その右拳が、ふいに頭上に振り上げられた。
「おい――!」とサキが足を踏み出す。
もちろん瓜子も、反射的に飛び出していた。
しかし勝負の邪魔にならぬようにと、瓜子たちは数メートルの距離を取っている。こちらが駆けつけるより早く、兵頭選手の右拳は振り下ろされていた。
ドゴンッと物凄い音が響きわたる。
兵頭選手の右拳は、ユーリの顔面すれすれのマットを叩いていた。
「……おしまいだわよ、アケミちゃん」
鞠山選手が、こまかく震える兵頭選手の肩に置かれた。
ユーリは目をぱちくりとさせながら、仰向けの虫めいた挙動でずりずりと兵頭選手から遠ざかる。その頃に、プレスマンの三名はようやくユーリのもとに到着した。
「だ、大丈夫ですか、ユーリ様? どこもお怪我はありませんか?」
「うん、ユーリはだいじょーぶ。……兵頭選手は大丈夫ですかぁ?」
「なに言ってんすか。ユーリさんは、何もしてないでしょう?」
「うん。だけど、兵頭選手はずいぶん膝が痛そうだったから……」
そんな風に言いながら、ユーリはぴょこんと正座の姿勢を取った。
「でも、ユーリはすっごく楽しかったです! スパーリング、ありがとうございました!」
兵頭選手は無言のまま、のそりと立ち上がった。
そして――ユーリのほうに、深々と一礼する。
ユーリは正座の姿勢のまま、同じように一礼した。
さらに兵頭選手はその場にいた他の面々にも礼をしてから、無言で出口に向かっていく。入室してきたときとはまったく異なる、いかにもぎこちない歩き方だ。
「……舞ちゃんほどじゃないけど、アケミちゃんだって両膝がガタガタなんだわよ。十年以上も無差別級で試合をしてきた代償だわね」
小笠原選手に付き添われながら兵頭選手の姿が扉の向こうに消えると、鞠山選手が神妙な声でそう言った。
「舞ちゃんやアケミちゃんが守ってきたアトミックの看板を、これからはあんたたちが守っていくんだわよ。もしもぶざまな姿を見せたら、わたいが黙ってないんだわよ」
「ふーん。で、おめーはどっちの立場で語ってんだ? おめーはたしか、あの猛牛女よりババアだろ?」
「わたいは永遠の十五歳だわよ!」
そんな風にわめきたててから、鞠山選手は満腹のカエルみたいににんまりと微笑んだ。
「それじゃあ、稽古を開始するだわよ! 朱鷺子ちゃんが戻ってくるまでは一人あぶれるから、そいつは壁から壁までエビでもしてるだわよ!」
そうして、稽古は再開された。
今の一幕にどのような意味があったのか。兵頭選手の朋友ならぬ瓜子には、想像で補うしかない。
ただ瓜子は――猛烈に、早く試合がしたかった。
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