03 ストライキング・スパー

 一時間近くにも及ぶグラップリングの稽古を終えて、五分間のインターバルをはさんだのち、今度はストライキングの稽古が開始されることになった。


「最初はひとまず、体重別で分けようか。ミドル級の面々はともかく、アタシがいきなり軽量級とやりあうのは無理があるからさ」


 小笠原選手は並の男子選手よりも長身なぐらいなので、それも無理からぬ話であった。もっとも小柄な鞠山選手とは、実に三十センチにも及ぶ身長差であるのだ。


 中量級以上は、小笠原選手、ユーリ、オリビア選手、多賀崎選手の四名。

 それ以下は、サキ、瓜子、愛音、鞠山選手、灰原選手、小柴選手の六名となる。


「そっちの仕切りは、サキと猪狩にお願いするよ。グローブも防具も好きに使っていいけど、掃除をするまでは棚に戻さないようにね」


「ちょっと! どうしてあたしが、イノシシ娘の下につかないといけないのさ! 年齢もキャリアも、あたしのほうが上なんだよ!」


「MMAの勝率は猪狩のほうが上だし、そいつは《G・フォース》のランキング一位だよ。そんでもって、キックのキャリアは何年だっけ?」


「押忍。今年で六年目っす」


「灰原さんは? 年齢はアタシより上だけど、ライオットに入門したのは二十歳かそこらじゃなかったっけ?」


「ああもう、わかったよ! こいつとあたしのどっちが上か、スパーでハッキリさせてやるさ!」


 ということで、瓜子たち六名は広いスペースを活用するために、ユーリたちとは大きく距離を取ることになった。

 その道行きで、愛音が灰原選手へと語りかける。


「灰原選手は、小笠原センパイより年長であられたのですね。いったいおいくつなのでしょうか?」


「……うっさいなあ。レディに年齢を聞くんじゃないよ。あんただって、いつまでも高校生ではいられないんだからね!」


「いちいち騒ぐなよ、バニー女。こんなジャリにババアの苦悩なんざ理解できるわけねーだろ?」


「ジャリじゃないのです!」「誰がババアだよ!」という怒声が交錯する。

 こうして見ると、軽量級にはなかなかクセモノが集まってしまっているようだ。小笠原選手という人格者の仲裁なしに、このメンバーでつつがなくトレーニングを進められるのか、いささか心配なところであった。


(だけどまあ、口は悪いけどサキさんの指導力は正規コーチにも負けてないからな)


 瓜子がそんな風に考えていると、サキが切れ長の目でねめつけてきた。


「さて。おめーだったら、何から始める?」


「え? そうっすね……さっきと同じ要領で、サーキットをしてみたらどうでしょう?」


「だとよ。準備をしやがれ、タコスケども」


 拳サポーターの上に十六オンスのグローブを装着し、ヘッドガードとニーパッドとレガースバッドも準備する。ボディプロテクターは、いまだ身体を作っているさなかである愛音のみ装着してもらうことにした。


「タイムは? 二分か? 三分か?」


「え? 最初はまあ、二分でいいと思いますけど……あの、なんで自分に決めさせようとするんすか?」


「んー? おめーがアタシに寄りかかる気まんまんに見えたから、楽をさせるのはシャクだと思ってなー」


 と、実に容赦のないサキであった。

 瓜子は、思わず苦笑してしまう。


「別にそんな、サキさんに全部おしつけるつもりじゃなかったっすけど……自分は邑崎さんの次に若輩者なんすよ?」


「ババア煽りはいいから、とっとと始めろよ。どいつもこいつも、おめーをぶん殴りたくてウズウズしてるみてーだぜ?」


 サキに言われて他の面々を振り返った瓜子は、ぎょっと身を引くことになった。灰原選手に鞠山選手、小柴選手に愛音――サキを除く全員が、瓜子を食い入るように見つめていたのである。


「ちょ、ちょっと、なんで邑崎さんまで、自分をそんな目で見てるんすか? スパーなんて、しょっちゅうやってるでしょ?」


「最近は、限定スパーが多かったのです! フリーのスパーで猪狩センパイとお手合わせするのは、数週間ぶりであるのです!」


「スパーでそんな熱くなられても……みなさん、熱くなりすぎないように気をつけてくださいね? 合宿の初日で怪我なんてしたら、馬鹿らしいっすよ?」


「いいから、とっとと始めなよ! 一番手は、あたしだからね!」


 灰原選手が、ずずいと瓜子の前に進み出てきた。

 瓜子は溜息を呑み込みつつ、愛音を振り返る。


「邑崎さん、タイマーのセットをお願いします。二分五ラウンドで、インターバルは三分。各自距離を取って、ぶつからないように気をつけてください」


 そうして、ストライキングのサーキットが始められた。

 愛音の合図とともに、瓜子には灰原選手が躍りかかってくる。いきなりの、フックの乱打である。


(このお人は、スパーでもこんな感じなのか。つくづく、血の気が多いんだなあ)


 しかし誰もが、過酷なグラップリングの稽古を済ませた直後であるのだ。もともとスタミナに難のある灰原選手は、一月の試合とは比較もできないぐらい動きが鈍かった。


 瓜子はステップを使ってフックの乱打を回避して、灰原選手のふくよかな左足にアウトローを届けてみせる。

 その一発でバランスを崩した灰原選手は、「ふぎゃっ!」とマットに倒れ込んでしまった。


「なんだよ、打ち合えよ! あんただって、インファイターだろ!」


「臨機応変っすよ。ほら、時間がなくなっちゃいますよ」


 灰原選手は猛然と起き上がり、再び頭から突っ込んできた。

 瓜子は冷静に、前蹴りを繰り出してみせる。みぞおちは外れたが、灰原選手は「ぐえっ」とうめいてへたり込んでしまった。


「灰原選手、だいぶキツイみたいっすね。本当に、怪我をしないように気をつけてください」


「う……上から目線で語るんじゃないよ……」


 などと憎まれ口を叩きつつ、灰原選手はなかなか立ち上がることができなかった。スタミナが切れているところにボディを蹴られて、だいぶんめげてしまったようだ。


(やっぱ、性格ってのも重要だよな)


 灰原選手は瓜子との試合でも熱くなりすぎて、KO負けを喫することになったのだ。

 それに、こうまで直情的では、効率的なトレーニングを望むことも難しくなってしまうだろう。それでは、人よりも成長が遅れてしまうということだ。


(でも、あたしだって根性論は嫌いじゃないからな。要領が悪いなら悪いなりに、根性で乗り越えるしかないだろうさ)


 瓜子は灰原選手を見下ろしながら、左右のグローブを打ち合わせてみせた。


「時間いっぱいまで休むんすか? 自分も楽できるから、別にかまわないっすけど」


「い、言ったなー! 絶対、ぶちのめしてやるからね!」


 灰原選手はよろよろと立ち上がり、三度目の突進を見せた。

 今度は瓜子も足を止めて立ち向かい、スウェーとダッキングで灰原選手のフックを回避してみせる。そして、甘いガードの隙間をぬって、おもいきり右ストレートを叩き込んでみせた。

 灰原選手は大の字にひっくり返り、そこで最初の二分は終了である。


「はい、時間です。右回りで相手を交代してください」


 次に進み出てきたのは、鞠山選手であった。

 最初にちょんとグローブを合わせて、速やかにスパー開始である。


 鞠山選手は、灰原選手のように熱くなってはいなかった。

 さすがはベテラン選手というべきか、しっかりと瓜子の動きを見ながら、冷静にジャブを振ってくる。それに、瓜子よりも遥かにスタミナが残されているようだった。


(鞠山選手やユーリさんにとっては、あのていどの寝技のスパーなんて準備運動みたいなもんなんだろうな)


 瓜子も動きが雑にならないように気を引き締めながら、鞠山選手と相対してみせた。

 鞠山選手は技のバリエーションが少ないが、踏み込みが軽やかで打撃の威力が重い。身長が低くて足も短い分、重心が低くてどっしりしているのだ。なおかつ、身長差があって体重が同等であるならば、筋肉量は鞠山選手のほうがまさっているはずだった。


 瓜子のスタミナが切れかけているために、けっこう互角の勝負になってしまっている。どちらもさしたる有効打を当てることもできないまま、タイムアップと相成った。


「猪狩センパイ! お願いしますです!」


 三番手は、愛音である。

 だがやはり、彼女も寝技の稽古でへろへろであった。

 普段の軽妙さは、望むべくもない。それでもアウトボクシングの技量には定評のある愛音であるので、瓜子もなかなか満足な対処はできなかった。


(でも、条件が同じなら――)


 瓜子はおもいきって、愛音の懐に飛び込んでみせた。

 愛音は大きくバックステップしたが、足がもつれてしまっている。そこをさらに追いかけて、左のショートフックを繰り出すと、頭部をガードした右前腕にぶち当たった。


 その勢いに負けて、愛音は倒れ込んでしまう。

 愛音はぜいぜいとあえぎながら、肉食ウサギの眼光で瓜子をにらみあげてきた。


「い……今のはスリップなのです。ダウンではないのです」


「それは自分が、一番よくわかってますよ。でも、いつまでもへたり込んでたら、ダウンを宣告されるでしょうね」


「わ、わかっているのです!」


 愛音はなんとか立ち上がり、ファイティングポーズを取ってみせた。

 瓜子ががむしゃらに打ち込めば、きっとダウンを奪うことも難しくはないだろう。しかし、スパーでそこまでの無理をする理由はない。瓜子はこのスタミナ残量でどこまで愛音のアウトボクシングに対抗できるかというテーマを自分に課して、それを完遂することにした。


 結果、相手からは有効打をもらわず、こちらは何発かの有効打を当てることができた。

 防具がなければ、その数だけダウンしていたことだろう。二分のスパーが終了したとき、愛音はものすごく悔しそうな顔で一礼して、引き下がっていった。


 次の相手は、小柴選手だ。

 小柴選手は、静かに闘志をたぎらせていた。


 小柴選手とデビュー戦で対峙したのは、去年の七月のこととなる。

 あのときは、小柴選手のほうこそが緊張で固くなっていたために、実力を発揮できていなかったように思う。


 然して、本日の小柴選手は――瓜子が最初に抱いていたイメージ通りの動きであった。小柴選手との試合が決まって以来、瓜子は過去の試合映像を何度となく見返して、対策を練ることになったのだ。


(インファイターで、すごく綺麗な打撃なんだよな)


 左ジャブと右ストレートのワンツーに、ローからパンチに繋げるコンビネーション。フックに、アッパーに、ボディブロー――とてもフォームが整っていて、出すべき攻撃のチョイスも的確である。

 しかしその分、意外性というものに欠けていた。

 来る、とこちらが予想した場所に、予想通りの攻撃が飛んでくる。きっとこちらが隙を見せれば、きわめて危険な攻撃を叩き込まれてしまうのであろうが――こちらが守りを固めている限り、延々と同じテンポで時間が過ぎてしまいそうだった。


(ちょっと揺さぶってみるか)


 瓜子は、間合いの外に脱出した。

 小柴選手は頭を振りながら、堅実にジャブを振って踏み込んでくる。

 そこで瓜子も大きく踏み込むと、小柴選手は同じ距離だけバックステップした。

 距離の測り方も、上々である。

 だけどやっぱり、意外性が感じられない。


 瓜子はさらに前進して、これまでよりも小刻みに攻撃を撃ち込んでみた。

 小柴選手はしっかりガードを固めて、瓜子の隙をうかがっている。

 あるていどの攻撃を撃ち込んでから、瓜子がバックステップすると、今度は自分の番だとばかりに、小柴選手は前進してきた。

 そこで奇襲技のバックハンドブローを繰り出すと、瓜子の右拳は小柴選手のこめかみにクリーンヒットしてしまった。


 十六オンスのグローブで、ヘッドガードまで装着していたが、小柴選手は力なく倒れ込んでしまう。半分は勢いに押されたようなものであろうが、試合であればダウンを取られる倒れ方であった。


「大丈夫っすか?」


「押忍。まだやれます」


 小柴選手は速やかに立ち上がったが、その後は動きが乱れてしまっていた。

 ダメージではなく、メンタルの問題であろう。瓜子のフェイントにことごとく引っかかり、攻撃のテンポが落ちてしまっている。バックステップで逃げる場面が多くなり、瓜子の接近を嫌がるように前蹴りを多発するようになった。


(すごく、素直な性格なんだな)


 瓜子とて、猪突猛進と称される立場である。が、小柴選手や灰原選手と相対すると、自分のほうこそが計算高い頭脳派ファイターであるような錯覚にとらわれてしまった。


(これもプレスマンで、サキさんやジョン先生に鍛えられた恩恵なのかな)


 その後は瓜子も無理をしなかったので、同じ調子のままラウンドを終えることになった。

 メンタルの疲弊が作用したらしく、小柴選手は動いた以上に息を切らしてしまっている。最後の挨拶では、瓜子の目を見ようとしてくれなかった。


 そうして最後のお相手は、サキだ。

 血気にはやる面々に順番を譲った結果であろう。瓜子としては、重たいメインディッシュを準備された心地であった。


「お願いします」とグローブを差し出すと、サキは無言で右のグローブをのばしてくる。

 それがちょんと触れれば、スパーの開始だ。


 サキは相手に右の半身を向けた、いつも通りのスタイルを取る。

 背筋はのびたアップライトで、右の拳は垂らしており、左の拳は胸の高さでゆらゆらと動かしている。カンフーやテコンドーを思わせる、独特のフリッカースタイルだ。


 しかし現在のサキは、左膝を故障してしまっている。

 こうして立ち技のスパーが行えるぐらいには回復したものの、まだまだ本調子にはほど遠い。いや、本調子どころか、サキはいまだに蹴り技を禁止されている状態にあったのだった。


 よってサキは、ステップワークとパンチだけで相手に対応しなければならない。そうしてステップを踏めるようになっただけ、大きな前進と言えるのかもしれないが――それでは、片翼をもがれているに等しいはずであった。


(それでも、一歩ずつ進んでいくしかないんだ)


 瓜子は普段の通りに、自分から積極的に仕掛けていった。

 何せ蹴り技が封印されているのだから、瓜子の側に怯むべき理由はない。射程の長いフリッカージャブと右のストレートおよびアッパーにだけ気をつけて、ひたすら間合いを詰め続けるのだ。


 瓜子がローを繰り出すと、サキは前足を浮かせて威力を逃がす。

 その瞬間は、痛めている左足だけで自分の体重を支えることになるわけだが――それこそがリハビリであるのだと、サキは公言していた。


「無茶をしたら、そのぶん復帰が遅れるだけだからな。医者やら整体師やらと相談しながら練習のメニューを決めてるんだから、おめーらが遠慮をする筋合いはねーよ。ていうか、遠慮なんざしたら、アタシのリハビリが遅れるだけのこった。アタシの復帰を遅らせたいなら、ぞんぶんに手を抜きやがれ」


 立ち技のスパーが解禁された日、サキはそのように言いたてていた。

 ならば瓜子はサキの言葉を信用して、全力でぶつかるしかない。

 だからその日も、瓜子は全力でぶつからせていただいた。


 恐るべきことに、サキはこの状態でも難敵であるのだ。

 あちらは蹴り技を封印されているのに、なかなか距離を詰めることができない。華麗なステップワークと右のフリッカージャブだけで、前進を止められてしまうのだった。


(ちょっとでも気を抜いたら、こっちが左ストレートの餌食だしな。サキさんは、本当にすごい人だ)


 サキとスパーをしていると、瓜子はどんどん昂揚してしまう。

 こればかりは止めようのない、サキが負傷をする前からの通例であった。


 そうして瓜子の突進力がまされば、サキは左足を浮かせて、自ら倒れ込んでしまう。無理にこらえれば左膝に負担がいってしまうので、そうせざるを得ないのだ。

 瓜子ごときの攻撃で転ばされてしまうのは、屈辱であるに違いない。

 しかしサキは、いつもためらうことなく自ら倒れ込んでいた。それこそが、サキの決意であり、覚悟であったのだ。


 サキは石にかじりついてでも、選手として復帰しようとしている。

 それを思うと、瓜子はいっそう胸が熱くなってしまうのだった。


 やがてタイマーのブザーが鳴って、二分五ラウンドのサーキットが終了する。

 もっとも余力がありそうなのは、やはり鞠山選手であった。


「ふん。どいつもこいつも、ヘロヘロだわね。この後はどうするんだわよ?」


「そうっすね。ここは追い込み練習と割り切って、ヘロヘロのまま続けるしかないんじゃないっすか? それとも、個別練に移ります?」


 瓜子がそのように水を向けると、汗だくの頭をタオルでかき回しながら、サキは「へん」と鼻を鳴らした。


「やっぱりアタシに寄りかかる気まんまんじゃねーか。ちっとは自分の頭で考えやがれ」


「自分は、サーキットでいいと思います。個別練は、もう二周ぐらいしてからでいいんじゃないすかね」


 瓜子の意見が採用されて、同じ試練がもう二回繰り返されることになった。

 合計で三十分のスパーをやりとげて、全員が疲弊困憊である。ユーリたちのほうを見てみると、そちらも同じような有り様であるようだった。


「それじゃあ息を整えながら、意見を出し合ってみましょう。それぞれどういう個別練が必要か。忌憚のない意見をお願いします」


「上から目線で……語るんじゃないよ……」


 誰よりもへたばっている灰原選手はマットにつっぷしたまま、なおも反抗的な口を叩いてくる。その根性だけはあっぱれであったが、それを見下ろす鞠山選手の眠たそうな目は冷ややかであった。


「こいつはもう使い物にならないだわね。まだ稽古を始めて二時間も経ってないのに、軟弱の極みだわよ」


「うるさいよ……魔法老女……」


「とにかく、仕切りはあんたとサキなんだわよ。あんたたちこそ、意見を述べたててみせるだわよ」


「そうっすね。さすがにみなさんのスパーをチェックする余裕はなかったんすけど、鞠山選手は邑崎さんとやりあってみて、いかがでしたか? 彼女のアウトスタイルは、なかなかのレベルだと思うんすけど」


「……これだけリーチに差があるんだから、厄介でしかたなかっただわよ。ただしこっちも、有効打はほとんどもらってないだわよ」


「鞠山選手のほうが、スタミナにゆとりがありそうですもんね。お二人は、集中的にスパーをしてみたらどうでしょう? 今度は打撃だけじゃなく、組み技ありの変則スパーで」


「組み技?」と、鞠山選手が目を光らせた。


「今は立ち技の稽古時間なのに、組み技を解禁するだわよ?」


「はい。プレスマンでは、よくやってるんすよ。スタンド状態の組み合いとタックルまではオッケーにして、マットに倒れたらスタンド状態で仕切りなおしって感じっすね。邑崎さんは組み合いを回避するのが目下の課題ですし、鞠山選手にとっても有意義な稽古になりそうじゃないっすか?」


 愛音は体重で負けているが、身長は鞠山選手よりも十センチほどまさっている。なおかつスピードに秀でたアウトスタイルのサウスポーだ。これだけ厄介な属性をあわせ持つ相手から、いかにしてテイクダウンを奪うか。グラップラーたる鞠山選手には、何よりの稽古になるのではないかと思われた。


「面白いだわね。わたいに異存はないだわよ」


「愛音も、ありがたく思いますです! 名うてのグラップラーたる鞠山選手に胸をお借りできるのなら、光栄の限りであるのです!」


 瓜子やサキには反抗的な愛音であるが、鞠山選手にはたてつく理由がないのだろう。高校生らしい熱情を帯びた愛音の言葉に、鞠山選手は「ふふん」と鼻を鳴らした。


「なかなかいい根性をしてるだわね。どこかのウサ公より、よっぽど見込みがあるだわよ」


「そのウサ公さんは、体力の限界みたいっすよね。申し訳ないけど、サキさんにサポートをお願いできますか?」


「ふん。こんなへろへろのウサ公相手じゃ、こっちがクールダウンしちまいそうだけどな」


 そんな風に言ってから、サキはぷいっとそっぽを向いた。


「……ま、先は長えんだし、ここらでちょっと休ませてもらうか。ガス欠のウサ公をしばきながら、次の稽古を待つことにするわ」


「ちょっと待ってよ……あたしなんかに、怪我人のお守りをさせるつもり……?」


「だって、稽古時間はまだ半分以上も残ってるんすよ? その状態で、最後までやりとげられるんすか?」


「半分……以上……」という断末魔のうめき声を残して、灰原選手は動かなくなってしまった。

 そちらの始末はサキにおまかせするとして、瓜子は小柴選手に向きなおる。


「そうすると、残った自分たちが組むことになるんすけど、小柴選手は何か取り組みたい項目はありますか?」


「わたしは……何をどうすればいいのかもわかりません」


 と、小柴選手は悄然とうつむいてしまう。


「この場にいるみなさんに、わたしは手も足も出ませんでした。高校生の邑崎さんにも太刀打ちできなかったし、そんなにスタミナの切れてる灰原さんにもダウンをくらっちゃったし……自分の力不足が情けないです」


「灰原選手に、ダウンをくらっちゃったんすか」


 だが、瓜子はあまり意外だとも思わなかった。


「そうっすね。以前のお二人の試合は、自分も入念にチェックさせてもらいました。相性的に、小柴選手は灰原選手みたいな相手が一番苦手なんじゃないっすか?」


「え? そ、それはどういうことでしょう?」


「灰原選手は、勢いまかせの乱打戦が信条ですからね。小柴選手もインファイターっすけど、なんていうか……もっとセオリー通りの打撃の交換でこそ、本領を発揮できるタイプなんじゃないっすか?」


「は、はい。天覇やフィストの人たちにも、しょっちゅう『空手やキックじゃないんだから』と言われてしまっています。自分としては組みつきやタックルも警戒して、MMAらしくやりあってるつもりなんですけど……」


「でも、今のは組みつきなしの立ち技スパーでしたからね。灰原選手は空手やキックのセオリーもまったく踏まえてないみたいですから、ああいうグチャグチャっとした乱打戦になっちゃうんすよ。空手やキックを学んできた自分たちには、ああいうのが一番おっかないんすよね」


「でも……猪狩さんは、灰原さんに勝ってましたよね? わたしだって猪狩さんに負けてしまいましたし、今日のスパーでもまったく歯が立ちませんでした。わたしには、いったい何が足りていないんでしょう?」


 小柴選手はマットに手をついて、すがるように瓜子を見つめてきた。

 瓜子は笑いながら、準備していた答えを返してみせる。


「たぶん、性格の悪さです」


「せ、性格の悪さ?」


「はい。小柴選手は基本に忠実で、それは素晴らしいことなんすけど、あまりに真っ直ぐすぎるんすよね。もっと相手の意表をつけるように、性格の悪さを身につけたほうがいいと思います」


「せ、性格の悪さって……わたしは、どうしたらいいのでしょう?」


「もっとワガママでいいんじゃないすかね。相手に合わせるんじゃなく、自分のやりたいことをやり通すんです。あと、目の前の相手が何をやられたら一番いやがるか、そういうことに思いを巡らすのも大事っすね。今日の灰原選手なんて、こんなにへろへろなんすから、足を使って逃げちゃえばよかったんすよ。どうせ途中で灰原選手は力尽きるから、そうしたら自分から乱打戦を仕掛ければいいんです。小柴さんにはあれだけのテクニックがあるんすから、自分のリズムで打ち合えば十分に押し切れるはずですよ」


「ちょっと……そいつを持ち上げるのにあたしをダシにするって、ひどくない……?」


 と、マットに突っ伏した灰原選手が、瓜子のハーフパンツをくいくいと引っ張ってきた。汗だくのその顔は、すねた子供のような表情を浮かべている。


「あくまで、今日のスパーの考察っすよ。元気いっぱいの灰原選手と真正面から打ち合ったら、誰だってKOされる危険があるんすからね。灰原選手はどうやったら得意の乱打戦に持ち込めるか、そういう部分を練りあげるべきだと思います」


「だったら、それを考えてよう……そいつばっかり、ずるいじゃん……」


「いや、それはご自分のコーチと相談するべきでしょう? この場ではこの場の考察をするだけで手一杯っすよ」


「まったくだわね。同門でもない相手に何を甘えてるんだわよ。切磋琢磨の意味を辞書で引いてくるだわよ」


 鞠山選手が、ぴょこんと立ち上がった。


「さ、いつまでもくっちゃべってたら、時間がなくなるだわね。高校生、スパーを開始するだわよ。組み技ありなんだから、グローブも取り換えるんだわよ」


「押忍! 了解なのです!」


 最年長と最年少のコンビが、意気揚々とミーティングの輪から外れていく。

 瓜子も腰を上げながら、小柴選手に笑いかけてみせた。


「自分らも、身体を動かしながら話を詰めていきましょうか。まずは、実践あるのみっすよ」


「押忍!」と答える小柴選手の目には、何か新しい光が宿されているように感じられた。

 ユーリもあちらで、充実した時間を過ごせているだろうか。

 そんな思いを胸に、瓜子は再び過酷なトレーニングに励むことにした。

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