02 祝勝会

 灰原選手や鞠山選手にも別れを告げて、瓜子たちが阿原屋旅館に帰りついたのは、午後の九時四十分のことであった。

 仲居さんに挨拶をして真っ直ぐ部屋に向かおうとすると、その途上にあった宴会場の襖から、旅館の浴衣と羽織り姿のレオポン選手がにゅっと顔を出してくる。


「よっ、お疲れさん! ピエロ退治おめでとうな、瓜子ちゃん!」


「押忍。お早いお帰りでしたね。……えーと、どうして試合結果をご存じなんすか?」


「そんなもん、ネットですぐに公開されるだろ。いやあ、これで瓜子ちゃんもマジでアトミックのトップファイターだな! なんか、すっげえ嬉しいよ!」


 レオポン選手の顔は無邪気そのものであったので、瓜子も素直な気持ちで「ありがとうございます」と笑顔を返すことができた。


「そんなにご機嫌ってことは、レオポン選手も勝てたんすよね?」


「あったりめえじゃん! 一ラウンドでKOだよ! 約束通り、一緒に祝勝会を楽しもうぜ!」


「あ、いや、自分にそんな権限はないんで……」


 瓜子がジョンを振り返ると、そちらにはのほほんとした笑顔が待ちかまえていた。


「このリョカンでは、カッたセンシュにイロイロとサービスしてくれるんだよー。どうせショクジをするなら、アカボシのみんなとイッショでいいんじゃないかなー?」


「はあ……自分は、ジョン先生のお言葉に従います」


「よし、決まりな! ひと汗流したら合流してくれよ!」


 レオポン選手に言われずとも、出番の遅かった瓜子は控え室でシャワーをあびる時間もなかったのだ。いくら何でも、この状態でそれほど親しくもない面々と食事をご一緒する気にはなれなかった。


 ということで、まずは自室でシャワーである。

 瓜子はいまだに身体が火照っていたので、ぬるいシャワーが心地好かった。


「お待たせしました。お次どうぞ」


 新しい下着と浴衣だけを纏って出ていくと、畳でごろごろしていたユーリが「んにゃ?」と顔をあげる。


「うん、そっか。ユーリもお歌などを歌っておったから、ほどほどに汗だくだったねぇ。……やっぱりユーリも、赤星のお人らと合流すべき?」


「えっ。自分の勝利をお祝いしてくれないんすか?」


「むにゃー。そんなかわゆらしい目つきでにらまれると、ユーリちゃんはタジタジでしゅ。……わかったよぅ。ユーリもシャワーを浴びてくるよぅ」


 ユーリはふにゃふにゃと笑いながら、着替えの入ったバッグを小脇に浴室へと消えていった。

 すると、座椅子に座していたサキに指先で呼び寄せられる。


「おら、ちっと顔を見せてみろ。消毒ぐらいはしておくべきだろ」


「押忍。ありがとうございます」


 瓜子はほとんど無傷であったが、終盤にくらった「ケイシャーダ」によって右頬の皮膚を削られてしまっていた。

 とはいえ、うっすらと血がにじむていどの擦り傷である。サキも消毒液を塗りたくるだけで、ガーゼを張ろうとまではしなかった。


「……これでおめーも、四勝一敗か」


「押忍。当時のサキさんと同じ戦績ってのは、なんだか光栄です」


「ふん。アタシに土をつけたピエロ女をぶちのめしたくせに、よく言うぜ」


「それも全部、サキさんのおかげっすよ。サキさんだって今のサキさんがセコンドについてたら、三年前の試合でも勝てたはずです」


「よくわかんねー理屈をこねるんじゃねーよ。牛の馬鹿が伝染ったのか?」


 サキのしなやかな指先が、くしゃっと頭を撫でてくる。

 それだけで、瓜子は試合直後の喜びが同じ熱さで蘇る心地であった。


「ただ、ひとつだけ厄介な問題が残ってんな。ピエロ女を撃退した以上、おめーも黒船退治の候補者に仲間入りってこった」


「メイ=ナイトメア選手っすか。来月は、亜藤選手が挑むんすよね」


 かつてイリア選手を下した双璧のひとり、トップファイターの亜藤選手がメイ=ナイトメア選手と対戦するのである。


「あいつは組み技を得意にするレスラーだ。これでもうちっとは黒船女の地力ってやつを暴けるだろ。そういう意味では、ラッキーだったな」


「押忍。サキさんとジョン先生がいてくれたら、メイ=ナイトメア選手にも勝てそうな気がしてきます」


「気軽に言ってくれやがるぜ。こんな頭を使うぐらいなら、手前でやりあったほうがまだラクだ」


 と、サキの手がまた瓜子の頭をかき回してきた。

 とたんに背後から、「あーっ!」というけたたましい雄叫びが聞こえてくる。


「やっぱりユーリの目を盗んで、またイチャイチャしておった! なんなの? 二泊三日の大阪旅行が、ふたりを解放的な心地にしているの?」


「おかしなことを言わな――うわあ、なんちゅうカッコしてるんすか」


 ユーリはその色香あふるる裸身にバスタオルだけを巻いて、脱衣所の入り口に仁王立ちになっていた。ピンク色のショートヘアからは、しとどに水滴が垂れている。


「何か不吉な予感がしたから、フル回転で身を清めたのじゃ! イチャイチャするなら、ユーリも混ぜて! 嘔吐してでもおつきあいするから!」


「いや、馬鹿なこと言ってないで、早く着替えてくださいよ。赤星のお人らが待ってくれてるんすから」


 ユーリは「むにゅー!」と奇っ怪な咆哮をあげてから、脱衣所に引っ込んだ。

 そうして次に出てきたときは、浴衣と羽織り姿である。昨晩も拝見した姿であるが、べつだん着崩してもいないのに異様な色っぽさであった。


「明日の朝寝を楽しむために、アタシもひとっぷろ浴びとくか。おめーらは先に行っててかまわねーぞ」


「いや、自分らは交流の薄いお相手が多いんで、サキさんがいてくれないと心細いっすよ」


 ということで、今度はユーリとじゃれあいながら、サキを待つことになった。

 その間に、瓜子はここ最近の疑問をぶつけてみることにする。


「あの、ユーリさん。ちょっとデリケートなお話をうかがってもいいっすか?」


「うにゃ? うり坊ちゃんには、身も心もあけっぴろげなユーリでありますよ!」


「それじゃあ、おうかがいしますけど……ユーリさんって、今でもサキさんだけは普通にさわったりできるんすかね?」


 サキと和解して以来、ユーリがプライベートでサキに触れる姿はほとんど目にしたことがなかったのだ。

 ユーリはくにゃんと体勢を崩しながら、「にゃはー」とおかしな声をあげた。


「そりはちょっと、予想外の砲撃でありましたにゃあ。……試してないけど、たぶん鳥肌はまぬがれられないかと愚考いたしまする」


「そうなんすか? やっぱり一緒に暮らしてないと、効力が切れちゃうんすかね?」


「それはユーリにもわからんちんだけど……あのね、ユーリのDVDをみんなで鑑賞した日に、サキたんが乙女のお顔をあらわにしたでしょ? あの瞬間、ユーリはびびっと感ずるものがあったのでしゅ」


「あ、ああ、そうだったんすか……」


 自分で話題を切り出しておきながら、瓜子のほうが動揺してしまった。

 確かにユーリは、瓜子とレオポン選手のあられもない姿を目にすることによって、瓜子に対する接触嫌悪が再発してしまったのだ。そしてそれは、今もなお継続している。それほどに、ユーリのトラウマは根が深かったのだった。


「だけどそれなら、その日までは大丈夫だったかもしれないんすよね? 何ヶ月もあったのに、試してみようとは考えなかったんすか?」


「うん。だって……うり坊ちゃんとは鳥肌なのに、サキたんだけ大丈夫なままだったら、ユーリはすごく悲しくなっちゃうもの。そんな蛮勇を振り絞ることはできなかったのです」


 そんな風に言ってから、ユーリはいきなり瓜子に抱きついてきた。

 まだ少し湿ったユーリのやわらかい髪が、瓜子の頭にぐりぐりと押しつけられてくる。


「うひー、気持ち悪い! でも、幸せっ!」


「い、いきなり何してんすか、ユーリさん!」


「ユーリは、これでいいのだよ。鳥肌びっしりでも、こんなに幸せなんだもの」


 ユーリは最後にその怪力でもって瓜子のあばらを軋ませてから、そっと身を離した。

 浴衣の襟もとから覗く白い咽喉もとに、びっしりと鳥肌が立っている。

 だけど、ユーリは幸福そうに微笑んでいた。


「ユーリは全身全霊でうり坊ちゃんのことが大好きだから、鳥肌なんてどーでもいいの。そんなものは、もはや些末な問題なのだよ」


「……すみません、変なことを聞いちゃって。自分もユーリさんのこと、大好きっすよ」


「おうう」とうめきながら、ユーリは畳に這いつくばった。


「渾身の右フックにクロスカウンターを合わせられた心地じゃわい……ユーリはこのまま昇天してしまっても……ぷぎゃー!」


 脱衣所から姿を現したサキが、ユーリの背中を踏み抜いた。


「おう、なんだ生きてやがってたか。そら、さっさと宴会場に突撃すんぞ」


「踏みにじらないでー! 背中のお肌がずるむけになっちゃうー!」


 瓜子は、「あはは」と笑ってしまった。

 そして、やっぱりサキにはかなわないなと思ってしまう。ユーリの体質がどうであろうと、自分がさわりたいときには遠慮などしない――サキはそんな暴虐な振る舞いでもって、ユーリに対する思いを体現していたのだった。


「あうう……ただでさえ人見知りのユーリちゃんなのに、戦場に向かう前からライフがゼロになってしまったのじゃ……」


「別に自分たちが愛嬌を振りまく筋合いなんてないんすから、普通にしてりゃいいんすよ。そんなことより、大阪最後のディナーを楽しみましょう」


 瓜子も海老茶色の羽織りを纏い、三人で連れだって宴会場を目指すことになった。

 そうして襖を開くなり、同じ格好をしたマリア選手が「わーい!」と駆け寄ってくる。


「みなさん、お疲れ様でーす! 猪狩選手、今日はおめでとうございましたー! わあ、みなさん浴衣が似合ってますねー! ユーリ選手、色っぽいですー!」


 得体の知れない女性陣の中で、彼女だけはあくまで溌剌としていた。

 ただ、その溌剌さにユーリは「はいぃ」と縮こまってしまう。邑崎愛音の例を見るに、ユーリは真正面から元気いっぱいに好意をぶつけられるのが苦手であるようだった。


「さ、ずずいと奥に! 今日はおめでたいですねー! 美味しいお酒が飲めそうですー!」


「ふん。おめーはそのツラで、アタシより年寄りなんだっけか」


「サキ選手が貫禄ありすぎなんですよー! さあ、どうぞどうぞ!」


 マリア選手のエスコートで、瓜子たちは宴会場に足を踏み入れた。

 広々とした畳敷きの部屋に、巨大な座卓が鎮座ましましている。それを囲んで、赤星道場の面々とジョンが座していた。


 道場主の赤星弥生子、コーチの青田、レオポン選手、竹原選手、大江山すみれ――ジョンも含めて、全員が浴衣と羽織りの姿である。あまり面識のない人々とおそろいの姿というのが、なんとも奇妙な心地であった。


「どうも、お待たせしました。今日はレオポン選手も勝利されたそうで、おめでとうございます」


 礼儀や社交性と縁遠い先輩たちに代わって、瓜子がそのように挨拶をしてみせた。

 すると、青田コーチが昨日と同じく鋭い眼光を突きつけてくる。


「そっちも勝利を収めたそうで、おめでとうさん。……試合に出たのは、お前さんなんだな? それじゃあ、上座に座ってくれ」


「あ、はい。恐縮です」


 瓜子がそちらに向かおうとすると、ユーリがひしと羽織りの袖を握ってきた。

 とろんとした垂れ気味の目に、捨て犬のような光が灯されている。瓜子は苦笑をこらえつつ、その耳もとに囁きかけてみせた。


「どうせすぐに、席はバラけますよ。しばらくは異文化交流を楽しみましょう」


「ユーリはそんなもんを楽しむ器量を持ち合わせてないよぅ」


 気の毒なユーリの身柄はサキに託して、瓜子は上座に座らせていただいた。

 同じ場所に座るのはレオポン選手ただひとりで、竹原選手は鬼コーチの隣で悄然と肩を落としている。どうやら彼は、試合に負けてしまったようだ。


 瓜子とレオポン選手が上座に陣取り、こちらの列にはジョン、サキ、ユーリ、マリア選手、逆側の列には赤星弥生子、青田コーチ、竹原選手、大江山すみれという配置になっている。座卓の上にはすでに土鍋や海鮮盛りや瓶ビールが並べられており、宴会の準備もすっかり整えられていた。


「それじゃあ、乾杯だな。……タカ、手前はKO負けくらってるんだから、一滴たりとも飲むんじゃねえぞ?」


「わかってますよぉ。そんな追い打ちかけなくてもいいじゃないッスかぁ」


 よくよく見れば、竹原選手は右のまぶたを腫らしており、口もとにガーゼを張られていた。なかなかに大変な試合であったようだ。

 ちなみに飲酒の禁止とは、敗戦の罰ではなく頭部にダメージを受けた選手に対する配慮であるはずだった。


「あと、そっちで飲めねえのは誰だい?」


「ウリコはミセイネンで、ユーリもゲコだねー。サキはどうするー?」


「……さすがにおめーだけに任せるのは、愛想がねーな。一杯だけつきあうわ」


 飲めない人間には、ピッチャーから冷たいお茶が回されていく。それを受け取ったのは、瓜子とユーリ、竹原選手と大江山すみれ、そして赤星弥生子の五名であった。


「じゃ、音頭はそっちにまかせるわ」


「ウン、リョウカイしたよー。……ミナさん、キョウはおツカレサマでしたー。タカアキはザンネンだったけど、ツギのシアイはガンバってねー。ソレじゃあ、ハルキとウリコのショウリをシュクして、カンパーイ」


「かんぱーい!」の声が唱和された。この場には不愛想な人間が多かったが、それはレオポン選手とマリア選手の活力で補われたようだ。


「いやあ、今日は最高の夜だな! 瓜子ちゃん、カポエイラ野郎はどんな感じだった?」


「めちゃくちゃ幻惑されましたね。サキさんとジョン先生がいてくれなかったら、きっと手も足も出なかったっすよ」


「俺もあいつの試合は観たことあるけど、マジでカポエイラそのまんまなんだもんなあ。男子選手にもあんなやつがいたら、是非お手合わせをお願いしたいところだぜ」


 レオポン選手は屈託なく笑いながら、コップのビールを勢いよく飲み干した。

 同じ浴衣姿で、隣り合った席で、このように親密な会話を交わしても、おかしな空気が流れることはない。それを嬉しく思いながら、瓜子はレオポン選手に笑いかけてみせた。


「よく見たら、まぶたにちょっと血がにじんでますね。お酒を飲んじゃって大丈夫なんすか?」


「ジャブを何発かくらっただけだから、問題ねえよ。瓜子ちゃんこそ、ほっぺが痛々しいな」


「半歩踏み込みが深かったら、大ダメージだったでしょうね。でも、乱打戦上等の自分には、こんなの怪我の内に入らないっすよ」


「ああ、サキ選手とやりあったときなんて、ぐっちゃぐちゃだったもんなあ」


 すると、横合いから湯気のたつ小皿が差し出されてきた。


「ハイ、どうぞー。いっぱいタべてねー」


「あ、すみません。そんなの、自分がやりますよ」


「イいんだよー。キョウはウリコがシュヤクだからねー」


 一月にも祝勝会は開いてもらっていたが、あちらは新年会のほうがメインであったため、こうまでもてなされた覚えはない。瓜子はあらためて、じんわりとした喜びを噛みしめることができた。


 他の面々はというと――ユーリはマリア選手の猛襲を受けてサキにヘルプを要請しており、大江山すみれはそちらの会話に加わりつつ、竹原選手にもフォローを入れている。そしてジョンが赤星弥生子と青田コーチにほどよく声をかけているため、年長組と年少組で綺麗に分かれている感があった。


「弥生子さんも、ちっとは瓜子ちゃんと絡んだらどうッスか? きっと相性は悪くないと思うッスよ」


 と、レオポン選手がふいにそんなことを言い出した。

 真っ直ぐに背筋をのばして海鮮盛りを食していた赤星弥生子は、切れ長の目で瓜子たちを見やってくる。食事中でも、彼女のぴりぴりとした空気に変わるところはなかった。


「……私に気をつかう必要はない。主役はハルキなんだから、ぞんぶんに楽しめ」


 少しかすれたハスキーな声が、形のいい唇からもらされた。

 やはりどこか、若武者めいた凛々しさである。迫力のほうがまさってしまうが、彼女もけっこうな美形ではあるのだ。


「俺は十分に楽しんでますよ。だから、人見知りの道場主をフォローする余力もあるんです」


 しかしレオポン選手はまったく気後れする様子もなく、そのように言葉を重ねていく。瓜子はいささかヒヤヒヤしてしまったが、赤星弥生子は同じ静謐さでホッケの身をほぐし始めた。


「いらない世話だ。そもそもそちらの娘さんだって、私などに用事はないだろう」


「そんなことないッスよ。うり坊ちゃん、得意の突貫ラッシュであの鉄仮面をぶち壊してくれねえか?」


「いや、そんな失礼なことはできないっすけど……ひとつ、ご質問をさせてもらってもいいっすか?」


「質問?」と、赤星弥生子は興味なさげに視線を飛ばしてくる。

 せっかくの機会だからと、瓜子は胸中の疑念をぶつけてみた。


「けっこう前の話ですけど、赤星さんはベリーニャ選手とやりあってるんすよね? やっぱり当時から、ベリーニャ選手は手ごわかったっすか?」


 赤星弥生子は、うろんげに目を細めた。

 世間では、あれは真剣勝負ならぬショー・マッチだったのではないかと取り沙汰されているのだが――しかしそれは、現在も行われている男子選手との試合も同様である。そこを避けては、この人物と格闘技の話に興じることもできないはずだった。


「ベリーニャ・ジルベルト……彼女は現在、日本に滞在しているそうだな」


「はい。それどころか、今日は自分と同じ場所で試合をしてたんすよ。MMAじゃなくて、グラップリング・マッチでしたけど」


「そうか」と、赤星弥生子は虚空に視線を転じた。

 常に厳しい光をたたえているその瞳に、何かを懐かしんでいるような光が宿される。


「彼女は、強かった。私がこれまで対戦してきた中で……女子選手の中では、もっとも強かったように思う」


「ふうん。それって、何年前の話でしたっけ? 俺がお世話になる前の話ッスよね?」


「私が二十歳、彼女が十九歳の頃だから……もう七、八年は経っているはずだな」


「へえ、若い! 弥生子さんが、まだグラビアの仕事とかしてた頃じゃないッスか!」


 一瞬で、空気が帯電したように感じられた。

 が、ほろ酔いのレオポン選手は何も気づいていない様子でコップを傾けている。


「俺なんて、当時はまだ中坊でしたけど、あれにはクラクラきちゃいましたよ。いや、もちろん今でも美人ッスけどね」


「ハルキ。……私をからかって、楽しいのか?」


 赤星弥生子の声が、二段階ぐらいトーンを下げていた。

 それでようやく危地を悟ったレオポン選手は、ぎくりとしたように首をすくめる。


「あ、いや、そんなつもりはないッスよ。あれって《レッド・キング》を立て直すために、渋々やってたんでしょう? だったら、瓜子ちゃんとも話が合うかなって……」


「ちょっ! 何を口走ってんすか、レオポン選手!」


 アルコールも口にしていないのに、瓜子は顔を赤くすることになった。

 すると、赤星弥生子が射るように瓜子を見つめてくる。


「……君も、グラビアの仕事を?」


「あ、はい……ユーリさんの巻き添えでしかたなく……カメラマンのお人がひどいんすよ! 自分の話なんて、これっぽっちも聞いてくれないんすから!」


「それは……同情を禁じ得ない」


 しみじみと言って、赤星弥生子は目を伏せてしまった。

 レオポン選手は、「ははっ」と陽気な笑い声をこぼす。


「お二人ともモデル顔負けのビジュアルなのに、なんか難儀な話ッスよね」


 瓜子はほとんど反射的に、レオポン選手のライオン頭を引っぱたいていた。

 そしてそれより半秒早く、赤星弥生子も同じ行為に及んでいた。

「いってー!」と頭を抱えるレオポン選手をはさんで、瓜子と赤星弥生子は見つめ合う。


「あ、あの、話題を変えてもいいっすか?」


「う、うん。そうしてもらえると、ありがたい」


 凛々しい表情を保持しながら、赤星弥生子もわずかに目のふちを赤くしてしまっていた。大怪獣ジュニアにも、こんな人間がましい部分が隠されていたのだ。


(……やっぱ、話してみないとわかんないもんだな)


 そうして瓜子が、再びベリーニャ選手の話題を持ち出そうとしたとき――青田コーチの何気ない言葉が耳に飛び込んできた。


「それにしても、犬飼の娘さんは何を考えているんだかな。ジムの再興を志すにしても、もう少しやり方ってもんがあるだろう」


 青田コーチが語りかけているのは、向かいのジョンだ。瓜子は慌てて、そちらに視線を転じることになった。


「あ、あの、犬飼京菜さんがどうかしたんすか?」


「うん? お前さんも、あいつと何か因縁でもあるのか?」


「あ、いえ。そういうわけじゃないんすけど……いちおう後輩が、同じ階級で同じ年頃なもんで……」


「すみれと一緒か。そいつは、難儀だな」


 骨ばった顔をわずかに酒気に染めながら、青田コーチはそう言った。


「さっき、柔術の大会に出向いてた連中から連絡が入った。犬飼の娘さんもそっちに出場してて、白帯のガロとアブソルートで優勝したそうだ」


「ガ、ガロ?」


「ガロは最軽量で、アブソルートは無差別級だ。しょせんは白帯だが、全戦全勝でオール一本勝ちだとよ」


 そう言って、青田コーチはグラスのビールをひと息に飲み干した。


「俺たちを恨むのは勝手だが、当てつけみてえにあちこちの試合を荒らしやがって。……あんなんじゃ、苦労するのは当人だろうによ」


「ウン。ワカいとキモちをオサえるのもムズカしいんだろうねー」


「それを抑えさせるのが、大人の役割ってもんだろうがよ? 源五郎さんがついてるってのに、まったく何をやってるんだか……」


 サキが犬飼京菜らと相対したときと、同じような光景になってしまっている。

 赤星弥生子は、犬飼京菜に対してどのような思いを抱いているのか。瓜子がそれを尋ねるべきか、いささか考えあぐねていると――廊下に通じる襖が、すいっと開かれた。


「お楽しみのとこ、失礼しまっせ。こちらに桃園はんと猪狩はんていらっしゃいますやろか?」


 それは昨日からお世話になっている、顔馴染みの仲居さんであった。

 青田コーチのグラスにビールを注いでいたジョンは、「んー?」とそちらを振り返る。


「ユーリとウリコは、ウチのモンカセイだよー。ドウかしたのかなー?」


「へえ。パラス=アテナの駒形はんいうお人がいらしてますのんや」


 瓜子は大きな座卓ごしに、今度はユーリと顔を見交わすことになった。


「駒形さんだって。どうしたんだろ?」


「わかんないすけど、行ってみたほうがいいでしょうね。……すみません、ちょっと失礼します」


 瓜子とユーリは連れ立って、宴会場を後にした。

 スリッパを履き、仲居さんの先導でぺたぺたと廊下を進む。


「もしかしたら、電話を入れてくれてたのかもしんないすね。自分、部屋に置きっぱでした」


「あははぁ、ユーリもぉ。……でも、ちょうどいいブレイクタイムだよぉ。マリア選手もオオエヤマちゃんも、おしゃべりしてるとくたびれちゃうわん」


 そんな呑気な言葉を交わしていた瓜子とユーリは、玄関先で立ちすくむことになった。

 その場には駒形氏のみならず、三名もの女性たちが立ち並んでいたのだ。


「お邪魔さまぁ。楽しい祝勝会の最中に堪忍なぁ」


 和柄のワンピースと瀟洒なロングのカーディガンに身を包んだ雅選手が、紅色の唇で微笑んでいる。

 そしてその隣に控えているのは、ベリーニャ選手と通訳の舘脇に他ならなかった。

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