04 マッド・ピエロ

 第一ラウンドが開始されるなり、イリア選手は奇妙な動作を見せた。

 かなり深く身を屈めて、肩幅よりも大きく開いた足で、膝をあまり曲げないまま、ゆったりとしたテンポでリングの中央に進み出てくる。それに合わせて両腕は交互に前に出されるのだが、前腕は水平にかまえられて、拳は真横に向けられていた。


 カポエイラの基本ステップ、ジンガである。

 この時点でもう、近代MMAとはかけ離れた動きであった。

 ブラジルというのは数多くのMMAファイターを輩出しているので、中には幼少期からカポエイラを習得している人間も少なくないという話だが――ジンガの動きをこうまで忠実に取り入れている選手は皆無である、とサキからは聞かされていた。


「それだけこっちには、馴染みがねー動きだってこった。最初はとにかく、あの厄介な動きとテンポに目を慣れさせろ」


 イリア選手との対戦が決まった当初から、瓜子は何度となくそのように聞かされていた。

 サキの助言に従うべく、瓜子は間合いの外で前進を止める。

 するとイリア選手も前進を止めて、今度は左右にステップを踏み始めた。

 足の幅や膝の角度は、変わらない。大股で足を交差させて、ゆったりと左右を行き来するのだ。


 腕などは片方しか前に出していないのだから、いくらでも攻撃を撃ち込めるような気がしてしまう。

 しかし瓜子はぐっとこらえて、自らは前後にステップを踏んでみせた。


 と――左右であったイリア選手のステップが、いきなり前後に踏みかえられる。

 それと同時に、イリア選手の上半身が視界から消えた。


 ほとんど本能で、瓜子はバックステップする。

 その鼻先を、凄まじい風圧が通りすぎていった。

 イリア選手が側転をするような格好で上体を倒し、その勢いで後方にあった右足を旋回させたのだ。


 そうして蹴り足が戻る頃には上体も起こされて、また左右にステップを踏み始めている。

 大歓声を遠くに聞きながら、瓜子は冷や汗を禁じ得なかった。


 今のはサキが「シバータ」と呼んでいた技であろう。

 イリア選手の過去の試合でも、何度となく繰り出されていた蹴り技だ。

 しかしそれを目の前で繰り出されると、想像以上の迫力であった。


 このような軌道の蹴りは、見たことがない。

 本当に側転でもするような格好で、両手の先をマットにつき、軸足をコマのように回転させて、奥足を高々と振り上げるのである。

 空間を斜めから楕円形に切り取るかのような軌道であった。


(これは本当に……一瞬も油断できないぞ)


 射程距離は、通常のハイキックや上段蹴りよりも短いはずだ。

 しかし、踏み込んだタイミングで蹴られると、思いの外に蹴り足がのびてくる。ステップの歩幅が大きいためだ。

 なおかつ、射程が短いとしても、それはそれで厄介であった。通常のハイキックであれば打点をずらせるぐらい大きく踏み込んでも、クリーンヒットする危険が生じてしまうのである。しかも見慣れぬ軌道であるのだから、普段通りの腕の位置でガードできるかどうも現時点では不明であった。


(これが、十勝二敗の実力か)


 瓜子は、背筋がぞくぞくとするのを感じた。

 もちろん、怯んでいるのではない。武者震いである。

 デビュー一年目のサキを打ち負かしたというイリア選手の力量が、ついにまざまざと体感できたということであった。


 瓜子は大きく間合いを取った上で、前後と左右にステップを踏む。

 イリア選手も、それに合わせてステップを踏んでいた。

 大股で大味のステップに見えてしまうが、あまりにやわらかい動きであるために、なかなか隙が見えてこない。それに、時には軸足を変えずに細かくダブルステップするのが厄介であった。


 歓声の向こう側から、かすかにブーイングが聞こえてくる。

 もっと打ち合えと、瓜子を煽っているのだ。瓜子のほうから接近しない限り、イリア選手の華麗な蹴り技もそうそう繰り出される気配はなかった。


「気にすんな! じっくり見てけ!」

「うり坊ちゃん! 一分経過!」


 一分の間に一発の蹴り技だけでは、ブーイングも起ころうというものだ。

 瓜子に至っては、いまだジャブの一発すら放っていなかったのだった。


(パンチの間合いになんて、そうそう踏み込めるはずもないからな)


 最初の狙いは、ローキックだ。

 カウンターをくらわない算段が立てられたら積極的にローを入れていけ、とサキからは指示されていた。


 しかし、なかなか算段を立てることができない。

 普通はアウトサイドに踏み込むところであるのだが、イリア選手は常に上半身を正面に向けており、インもアウトも存在しないのである。

 強いて言えば、前足の側がアウトサイドと見なせるのであるが――それも一歩ごとに変じてしまうのだから、タチが悪かった。


(でも、このままじゃ試合にならないしな)


 ブーイングではなく自らの判断に従って、瓜子は踏み込むことにした。

 相手はゆったりとしたリズムで動いているので、それに合わせることは難しくない。相手が左足を前に出したタイミングで、瓜子はアウトサイドから大きく踏み込んでみせた。


 瞬間――相手の身体が、右回転で旋回する。

 一拍遅れた妙なタイミングで、革鞭のごとき右足が瓜子の頭まで振り上げられた。

 彼女のリングネームでもある、「アルマーダ」――「艦隊」を意味するという、後ろ回し蹴りである。


 瓜子は何とか、右腕でそれをブロックすることができた。

 が、けっきょく自分の攻撃は撃ち込めずに、また引き下がることになった。


 蹴りをブロックした右腕に、熱い痛みが走り抜けている。

 想像以上に、重い衝撃だ。ただスピードに秀でているというだけでなく、しっかりと体重の乗せられている証であった。


(いや……体重ではないのかな)


「アルマーダ」に関しても、サキから詳細を聞かされている。その技は、上半身を先にねじってから、弾丸が発射されるように蹴り足が繰り出されるため、通常の後ろ回し蹴りとはタイミングが違ってくるのだと教えられていた。


 そうして一拍遅れるために、瓜子もガードすることができたのだろう。

 しかしまた、意味もなく動作を遅らせる理由はない。おそらくは、その挙動から生み出される攻撃の「溜め」こそが、この破壊力を生んでいるのだ。


(重いけど、骨に響くような感じじゃない。どっちかっていうと、サキさんに近いような……しなる革鞭みたいな蹴りなんだ)


 あれだけのダンスを踊れるのだから、イリア選手には途方もない筋力があるのだろう。それも、遅筋と速筋の入り混じった、しなやかなバネのごとき筋力だ。


(それに、ステップのゆったりとした動きと攻撃の鋭さが、まったく連動してない。今の蹴り技に限っていうなら、踏み込みじゃなくて腰のひねりで勢いをつけてるんだ)


 瓜子はなんだか、頭が沸騰しそうな心地であった。

 気づけば、歓声よりもブーイングのほうがまさっている。

 そこにまた、サキとユーリの声が響いた。


「いいぞ! だけど、考えすぎんな! 自分で動いて、リズムを作れ!」

「うり坊ちゃん、二分半経過! 残り半分!」


 もう二分半もの時間が過ぎてしまったのだ。

 そして瓜子は一発の攻撃も出しておらず、イリア選手も二発の蹴りだけだ。

 瓜子は大きくバックステップして、乱れてもいない呼吸を整えることにした。


(あまりにも自分の常識とかけ離れてるから、頭でっかちになってたな。動いて、かき乱そう)


 瓜子は細かくステップを踏んで、より入念に間合いを測ることにした。

 イリア選手は、呆れるぐらいのカウンター型だ。あるいは、自動迎撃型とでも評するべきであろうか。間合いの外では決して手を出さず、相手が間合いに入った瞬間に作動する――それこそ、沙羅選手と対戦した頃のユーリにも匹敵するほどの徹底ぶりであった。


(ただし、自分からもぐいぐい接近してくるタイプだ。それで、間合いに入ったら即射出ってわけだな)


 瓜子は相手を幻惑するために、届かない距離から左ジャブを乱発した。

 インやアウトは考えず、前後の動きだけで距離を測る。ピエロはゆったりとジンガのステップを踏みながら、そんな瓜子を睥睨していた。


(……もうちょっと誘ってみるか)


 瓜子は届かない距離から、おもいきり奥足のミドルキックを振るってみせた。

 瓜子が蹴り足を戻すのに合わせて、あちらが大きく踏み込んでくる。

 もうこれは、間合いの内に入ったはずだ。

 いったいどのような攻撃が繰り出されてくるか、瓜子はこちらがカウンターを狙うかまえで、全神経を集中させた。


 そんな瓜子の視界から、再びイリア選手の姿が消える。

 反射的に、瓜子は頭部をがっちりとガードした。

 しかし、「シバータ」で頭を蹴られることはなかった。

 その場に屈んだイリア選手は、水面蹴りのような技で瓜子の軸足をなぎ払ってきたのだった。


 完全に虚を突かれた瓜子は、その場に尻もちをついてしまう。

 ふわりと身を起こしたイリア選手は、倒れた瓜子の右足を、バチンと一度だけ蹴りつけた。

 そして――入場のときのようなギクシャクとした動きで、後方に下がっていく。


 観客たちは笑い声を響かせて、レフェリーは瓜子に「スタンド!」を命じた。

 瓜子はひとつ呼吸を整えてから、あえてゆっくりと立ち上がってみせる。


(なるほど。挑発してるのか。あっちも少しは焦れてきたのかな)


 しかし、これしきのことで熱くなるほど、瓜子も直情的ではない。

 そんな風に思いながら、瓜子がイリア選手に近づいていくと――大きく踏み込んだイリア選手の左足が、真正面から瓜子の胸もとを蹴り抜いてきた。


 キックや空手ともそう変わらないような、ごくシンプルな前蹴りだ。

 それだけに、瓜子には予想外だった。

 しかもそれは足裏全体で突き飛ばしてくるような蹴りであったため、瓜子は再びひっくり返ることになってしまった。

 そして大股に近づいてきたイリア選手は、さきほどと同じく右足の腿をおもいきり蹴りつけてから、今度はロボットダンスのような動きで退いていく。


 会場は爆笑に包まれて、そこにユーリの「四分経過!」の声が聞こえてきた。

 瓜子は口もとを引き結び、再びマットに立ち上がる。


(うん。今のはちょっと、イラッとした)


 それでも、乱打戦を踏み止まるぐらいの理性は残している。ラフファイターの山垣選手もかつては乱打戦で活路を見出そうとしていたが、それはイリア選手の華麗な蹴り技の前にあっさりと退けられてしまったのである。


(無茶な攻撃じゃなく、きちんと計算した攻撃を当てるんだ)


 そのように念じて、瓜子は再び間合いを測ることに集中した。

 残りは一分を切っているのだから、せめて何らかの感触を持ち帰りたい。このままでは、相手を調子に乗せてしまうだけだった。


 それでも冷静に、瓜子は細かく前後にステップを踏む。

 すると――ふいにイリア選手が、動かなくなった。

 文字通り、石像のように硬直してしまったのだ。

 深く腰を落とした体勢で、左足を大きく引いて、左腕を前方にかざしている。その真横を向いた前腕の向こう側では、まばたきさえもが止められているようだった。


(……それも、挑発のつもりか?)


 瓜子はアウトサイドに踏み込んで、前に出された左足に、右のアウトローを叩き込もうとした。

 その瞬間、イリア選手の身体がぎゅるんと横回転する。

 再びの、後ろ回しの「アルマーダ」だ。

 すでに攻撃は止められないタイミングであったので、瓜子は頭部のガードをがっしりと固める。


 だが、イリア選手の右足が瓜子の頭部に飛来することはなかった。

 さきほどとほとんど同じ挙動でありながら、イリア選手の右足は水平の角度で旋回し、膝が深く曲げられている。結果、右のかかとが瓜子の右脇腹を貫くことになった。


 レバーはかろうじて、直撃を免れている。

 しかし、息が詰まるほどの痛みと衝撃だ。

 瓜子はたまらず膝をつき、それからすぐさま立ち上がってみせた。

 しかし、レフェリーには「ダウン!」を宣告されてしまった。


 イリア選手はくねくねと上半身を蠢かせながら、膝から下だけをぱたぱたと動かしてニュートラルコーナーに下がっていく。

 その珍妙な姿をレフェリー越しににらみながら、瓜子はファイティングポーズを取ってみせた。


 レフェリーが瓜子のグローブをつかみ、余力は十分と確認し、試合の再開を宣告しようとしたタイミングで、ゴングが鳴らされる。

 イリア選手はアニメーションダンスと称されるスロー映像のような挙動で赤コーナーを目指し、そこでも観客たちに喝采をあげさせていた。


「……まんまと遊ばれたな。ついでにダウンのオマケつきだ」


 青コーナーに準備された椅子に身を沈めると、サキが背後からタオルで頭をかき回してきた。ユーリは首裏と右脇腹に氷嚢をあててくれる。チーフセコンドのジョンはリングに出て、瓜子の足のマッサージングだ。


「あそこの親父は、実戦的な応用技も伝授してる。ハイだけじゃなくミドルも警戒しろって言ったよな?」


「押忍。すいません」


「いちいち謝んな。とりあえず、あいつの厄介さは身にしみたろ」


 ドリンクボトルが口もとに突きつけられたので、瓜子は口をゆすがせてもらった。体力を消耗する場面はなかったが、普段以上の集中を強いられたので、その分だけスタミナは削られている。瓜子はユーリに頼んで、氷嚢を首裏から脳天に移動してもらった。


「あいつはあれだけの攻撃力を持ってるけど、試合のほとんどが判定勝ちだ。ああやって相手を幻惑して、時間めいっぱいまで弄ぶんだよ。……逆に言うと、MMAの基礎ができてねーから、どれだけ相手を翻弄できても、最後の最後で決定力に欠ける。そんでもって、意地でも勝とうって執念もねえ。おめーの攻撃を一発でもクリーンヒットできりゃあ、それで戦意もガタ落ちだろ」


「押忍」


「ただ、その一発を入れるのが難しい。とにかく動いて、相手のペースをかき乱せ。……鰐、補足」


「ウン。タックルのフェイントもイれていこうかー。ソレでいっそう、ペースはミダせるはずだよー」


「タックルっすか……自分のお粗末なタックルで効果ありますかね?」


「ダイジョウブだよー。ウリコもこのイチネンちょっとで、ジョウタツしたからねー。ウマくイけば、テイクダウンをウバえるかもよー?」


「ああ。それにあっちは、そこまで熱心におめーの対策なんてしてねーだろうしな。そいつを、後悔させてやれ」


「押忍。サイドステップは狙わないほうがいいっすかね?」


「ウン。ゼンゴでキョリをハカっていこー。ロープやコーナまでオいコめたら、きっとチャンスもウまれるよー」


「押忍」と応じてから、瓜子は首をねじって斜め後方のユーリを仰ぎ見た。

 二箇所の氷嚢をしっかり固定しながら、ユーリは食い入るように瓜子を見つめ返してくる。


「頑張って、うり坊ちゃん! スタンドばっかりでユーリは何の助言もできないけど、ひたすらうり坊ちゃんの勝利を祈ってるよ!」


「押忍」と、瓜子は笑ってみせた。

 そこに、『セコンドアウト』のアナウンスが響きわたる。


「よし、行ってこい。おめーの突進力で、かき回してやれ」


「押忍」と答えて、瓜子はマウスピースをくわえなおした。

 対角線の赤コーナーでは、お調子者のピエロが両腕を広げて、流麗なるウェーブのモーションを披露していた。

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