03 オーギュスト・オンステージ

「いやー、どうやら伴奏の音源が無音のやつとすり替えられてたみたいだねぇ」


 控え室に凱旋してきたユーリは、あっけらかんとした面持ちでそう言っていた。


「で、ユーリがのほほんと一曲目を歌っておる間に、二曲目の歌なしバージョンをパソコンか何かでダウンロードしてくれたんだってさぁ。本当に、便利な世の中になったものだねぃ」


「そうっすか。……本当にお疲れ様でしたね、ユーリさん。見ているこっちのほうがテンパっちゃいましたよ」


「にゃっはっは。毒を喰らわばの精神で、なんとか乗り切った次第でございます。ユーリなんかのお歌のせいで試合を遅らせるのは、あまりに申し訳なかったからねぇ」


 白とピンクのジャージを着込んだユーリは同じカラーリングのキャップもかぶって、ぐぐっとマッスルポージングを取った。


「さあ、これで副業のお仕事は完了し、今度こそうり坊ちゃんのセコンド業に集中いたします! お水は? マッサージは? ウォームアップは?」


「ウォームアップを始めます。ジョン先生、キックミットをお願いします」


「ががーん! ……まあ、ユーリじゃうり坊ちゃんのスピードについていけないしなぁ」


 しょんぼりするユーリに笑いかけてから、瓜子は廊下に出ることにした。

 瓜子が想像していた通り、ユーリはこれっぽっちもへこたれてはいない。かつては控え室の荷物を隠されるなどという、陰湿な嫌がらせを受けていたユーリであるのだ。こと他者からの悪意に関して、ユーリは悲しいぐらいの耐性を身につけてしまっていたのだった。


(あたしも、そっちに気をやるのは試合の後だ)


 ジョンのかまえたキックミットに、ローやミドルを叩き込んでいく。夕方にもひとたび熱を入れた身体に、また心地好い活力が蘇ってきた。


 しばらくすると、試合場に出向いた鞠山選手が意気揚々と凱旋してくる。彼女は二ラウンド目で、対戦相手を膝十字固めで下したとのことであった。

 そちらにお祝いの言葉を届けてから、瓜子たちも入場口に向かう。

 次は五番勝負の大将戦で、その次が瓜子の試合となるのだ。


 けっきょくイリア選手の姿は、一度として見かけていない。

 しかしべつだん、試合にさえ姿を見せてくれれば、それで問題はなかった。運営陣から試合中止の言葉は届けられていないので、あちらも赤コーナー側の入場口に控えているのだろう。


「よし。きっちり集中できてるみてーだな」


 ひと息いれたところでサキがそのように呼びかけてきたので、瓜子は「押忍」と答えてみせた。


「事あるごとに、サキさんたちがフォローしてくれたおかげです。イリア選手に、ありったけの力をぶつけてみせますよ」


「おう。なんべんも言ってる通り、あいつを立ち技だけで仕留めるのは七面倒くせーけど、おめーだったら勝機はある。ほんで、スキがあったらグラウンドに引きずりこんでやれ」


 そのとき、扉の向こうからゴングの乱打される音が響きわたった。

 たっぷりウォームアップできたので、おそらく判定までもつれこんだのだろう。その後に響きわたった歓声の勢いは、関西勢の勝利を示しているように感じられた。


 やがて花道から戻ってきた多賀崎選手は、頭にタオルをかぶってがっくりとうなだれている。やはり、敗北してしまったのだ。

 けっきょく東西五番勝負で勝利できた関東勢は、灰原選手と鞠山選手のみであるようだった。


「それでは、入場の準備をお願いします!」


 スタッフの若者が、そのように呼びかけてきた。

 すでに開かれている扉の向こうからは、瓜子の入場曲が聞こえてくる。熱い五番勝負を終えたばかりということで、歓声のほうは控えめであった。


(試合前に盛り上げるのは、あたしの役割じゃないからな)


 これ以上ないぐらいの平常心で、瓜子は花道に足を踏み出した。

 初めて踏みしめる、オノディアリーナの花道だ。客席は静かでも、そこにはルールミーティングの頃からずっと感じている熱気が、さらなる勢いで渦巻いていた。

 ユーリもセコンドとして控えていたが、さきほどのライブで完全燃焼できたのか、「ユーリ!」の声援が飛び交うこともない。


 ジョンの広げてくれたロープの間をくぐって、リングインする。

 ほどよい歓声と拍手の中、瓜子は観客たちに一礼してみせた。

 東京大会でもお馴染みのリングアナウンサーが、にこやかな面持ちでリングの中央に進み出る。


『赤コーナーより、イリア=アルマーダ選手の入場です!』


 数秒間の静寂の後、ガラスを叩き割るような音色が響きわたった。

 そこに、重低音のビートが重ねられる。瓜子にはまったく馴染みのない、電子音で民族音楽をアレンジしたかのような楽曲だ。


 花道が、赤一色のスポットに照らされる。

 そこに、五つの人影が飛び出してきた。

 五人の、ピエロたちである。

 イリア選手の過剰なパフォーマンスを知らない人々であれば、これだけで度肝を抜かれているはずであった。


 ピエロたちはカクカクと機械仕掛けの人形めいた動きで、行進する。

 通天閣の前ではお面をかぶっていた五名であるが、このたびはきっちりとピエロのメイクをほどこしていた。

 頭には赤い巻き毛のウィッグをかぶり、白塗りの顔にペイントがされている。それでいて、首から下はタイトなダークスーツというのが珍妙であった。


 この格好こそが、イリア選手の率いるダンスチーム、『オーギュスト』の基本的なコスチュームであったのだった。

 先頭でぎくしゃくと歩いているのが、イリア選手その人なのである。


 本当に、等身大の人形としか思えないほどの、奇妙な歩き方であった。

 腕も足も頭も胴体も、てんで不規則なリズムで動き、見習いの人間がおぼつかない手つきで操り人形を操作しているかのようである。


 そして花道の真ん中あたりで、いきなり五つの人影がくしゃりと崩れ落ちた。

 糸を切られた操り人形のような風情だ。

 会場にざわめきが走っても、うずくまった五つの影は動かない。

 入場曲――もしくはダンスの伴奏も、すべての終わりを示すようにフェードアウトしていく。


 そこでいきなり、砲撃音じみた轟音が響きわたった。

 それに合わせて、先頭のピエロが弾かれたように起き上がる。

 デタラメにピアノを乱打するような不協和音がそれに続くと、四体のピエロも痙攣しながら身を起こす。


 さらにヘヴィメタルじみたギターの音色が響き、赤の単色であったスポットがさまざまな色彩を帯びて乱舞すると、ピエロたちは新たな生命を吹き込まれたかのように踊り始めた。


 これまでの怪しげなトーンとは打って変わって、全身を振り回すような激しいダンスである。

 時には五名の動きが完全にシンクロし、そうかと思えばまた無秩序に弾け散る。今度は生命ある炎が躍り狂っているような迫力だ。

 観客たちは、喜び勇んで声援を張り上げていた。


(……まあ、これがイリア選手にとっては、ウォームアップみたいなもんなんだろうな)


 コーナーポストにもたれた瓜子は、そのように考えるしかなかった。

 彼女たちのパフォーマンスは、たっぷり三分間はお披露目されるのが通例である。《アトミック・ガールズ》の放送では毎回その模様がノーカットで届けられていたので、瓜子もすべて承知の上であったのだった。


(これだけド派手で試合にも勝てるんだから、パラス=アテナも素行のよろしくないイリア選手の在籍を許してるんだろう。初代・客寄せパンダってところかな)


 瓜子がイリア選手に抱いているのは、雅選手や鞠山選手に抱いているのと同じような思いであった。

 自分の趣味には合わないが、その実力には敬服する、といったところだ。

 今はただ、自分の力がどれだけイリア選手に通じるか、それを確かめたくてたまらなかった。


 やがて五名のピエロたちは、炎のように乱舞しながら、リングのほうにじわじわと近づいてきた。

 リングの手前で二名は前進を止め、イリア選手を含む三名だけがステップをのぼる。

 イリア選手はコーナーポストの正面に立ち、二名はエプロンサイドで左右に控えた。その間も、まだ全員が同じようにダンスを続けている。


 そして、左右の二名がふいにイリア選手の足もとに屈み込んだ。

 二人がかりでイリア選手の足をつかみ、イリア選手自身はぐっと屈み込む。

 そうして二人が身を起こすと、イリア選手の身体が瓜子の身長よりも高い位置にまで放り上げられた。

 観客たちは、魅了されきった歓声をあげている。


 イリア選手は宙で一回転してから、ふわりとマットに降り立った。

 その着地と同時に、伴奏が終結している。

 一瞬の沈黙の後、揺り戻しのように歓声が爆発した。


 イリア選手は不動であり、四名のピエロたちはまたぎくしゃくとした足取りで花道を帰っていく。

 それとすれ違いながら、たったひとりのセコンドが早足でリングまで駆けつけてきた。


『それでは第八試合、ライト級、五十二キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』


 頃やよしと見て、リングアナウンサーが意気揚々と宣言した。

 客席は、これ以上ないぐらいの盛り上がりようだ。


『青コーナー。百五十二センチ。五十一・九キログラム。新宿プレスマン道場所属。《G・フォース》フライ級第一位……猪狩、瓜子!』


 もののついでとばかりに、瓜子にも熱い声援が届けられてくる。

 しかし、ごく一部の人々は――たとえば、瓜子にサインをもらいにきてくれた女の子などは、『オーギュスト』のパフォーマンスなど関係なく、瓜子の健闘を祈ってくれているはずであった。


『赤コーナー。百六十八センチ。五十二キログラム。カポエイラスクール・トロンコ所属……イリア=アルマーダ』


 イリア選手がダークスーツの肩口をひっつかみ、腕をおもいきり振り払うと、魔法のようにその姿は試合衣装に転じてしまった。手に残るのは、黒いマントのような一枚布である。それもまた、マジックや芝居などで使われそうな早着替えの小道具であったのだ。

 大歓声の中、イリア選手は赤いウィッグも外して、セコンドの男性に受け渡す。それでようやく、瓜子にも見慣れたイリア選手の姿が完成された。


 細かく編み込まれた黒髪に、ピエロのペイントがされた面長の顔。試合衣装はタンクトップとキックトランクスであり、胸もととベルトラインには『auguste』の文字がプリントされている。


 また、彼女はライト級きっての長身の持ち主であった。

 ミドル級のユーリよりも、一センチだけだが長身であるのだ。

 その肉体は、これ以上ないぐらい引き締まっている。あれだけ激しいダンスを踊って息のひとつも乱していないのだから、その身がきっちりと鍛え込まれていることは明白であった。


 それでもなお、彼女はMMAの試合を「余興」と言い切っている。

 彼女がもっとも重んじているのは、プロダンサーという本業のほうであるのだ。


 そんな彼女がこの場に立っているのは、カポエイラスクール・トロンコとの出会いがきっかけであった。

 カポエイラとは、ブラジル発祥の格闘術である。その生誕には奴隷制度の重い歴史が関わってくるようであるが、現在は舞踏と音楽の一ジャンルという形でも発展を遂げていた。音楽のリズムに合わせてアクロバティックな蹴り技を舞踏として披露するという、一種独特の芸能文化なのである。


 彼女――イリア=アルマーダこと篠宮伊里亜は、ダンサーとしての幅を広げるために、カポエイラスクール・トロンコの門を叩いた。

 しかしまた、トロンコのスクール長――現在、彼女のセコンドとして控えている壮年の男性は、きわめて真摯な姿勢でカポエイラの存在に向き合っていた。トロンコはダンス教室のようなものであり、大半の生徒はボクササイズの感覚で通っていたのだが、彼自身は格闘技としての一面を軽んじることなく、そちらでもレッスンを受けつけていたのだった。


 サキの収集した情報によると、何名かのプロファイターもトロンコに通っているらしい。カポエイラのステップや蹴り技というのはきわめて独自性が強いため、それをひとつの武器として習得しようという選手が少なからず存在したのだそうだ。


 いっぽう篠宮伊里亜はあくまでダンスの修業としてトロンコに通っていたわけであるが、その資質に感嘆したスクール長のすすめで、格闘技の試合に臨むことになった。そこでMMAを舞台に選んだのは、カポエイラのアクロバティックな蹴り技がキックのルールだとおおよそ反則技と見なされてしまうためである。


 当初、篠宮伊里亜は《フィスト》のアマ大会に参加していたという。

 そして、至極あっけなく勝ち続けることができた。カポエイラの技はあまりに変則的で、地道にMMAの稽古を積んできたアマ選手にはなかなか対応できなかったのだ。


 それで味をしめた彼女は、《アトミック・ガールズ》に参戦の名乗りをあげた。

 そしてこれは、ダンスチームのいい宣伝になる――と、考えたのだそうだ。

 彼女の所属する『オーギュスト』は芸能事務所を離脱して、自力でプロモーション活動を行っている。その営業力を駆使して、パラス=アテナの運営陣に売り込みをかけたのだという話であった。


 かくして、他に類を見ない異質のファイター、カポエイラ使いのイリア=アルマーダが誕生したわけである。

 少なくとも、ピエロのペイントをして試合に臨むことなど、《アトミック・ガールズ》以外の興行では許されなかっただろう。

 そうして彼女は《アトミック・ガールズ》で勝利を重ねて、ついにはライト級王座まで獲得するに至ったのだった。


(戦績は、十勝二敗だっけ。キャリア四年で十二戦ってのは、ちょっと少ないんだろうけど……でもまあ、立派な戦績だよな)


 彼女の所属する『オーギュスト』はじわじわと軌道に乗っていき、時には海外で公演を開くにまで至っている。それにつれてイリア選手も多忙になり、アトミックに参戦する機会もめっきり減ってしまったのだ。彼女が最後に試合を行ったのは、たしかユーリがオリビア選手と対戦した日であったので、ほとんど一年ぶりの出場となるはずであった、


(何にせよ、あたしは自分にやれることをやるだけだ)


 リングの中央でイリア選手と向かい合い、レフェリーのルール説明を聞きながら、瓜子はそのように考えた。

 真っ白に塗りたくられた顔に、目もとは黒く縁どられて、頬には涙のしずくを表すペイントが施されている。口もとはにんまりと笑った形に赤くペイントされていたが、もちろん本当の表情はわからない。ピエロ恐怖症の人間であれば、これほど至近距離で向かい合うことも不可能であっただろう。


「……では両者、クリーンなファイトを心がけて」


 レフェリーにグローブタッチをうながされたので、瓜子は両手を差し出してみせた。

 イリア選手は片方の足をひょいっと開き、小首を傾げながら、両手のグローブをちょんとぶつけてくる。

 遠目にはピエロらしいユーモラスな動きに見えるのであろうが――黒い縁取りの中で、その目がまったく笑っていないのが不気味であった。


『セコンドアウト』のアナウンスを聞きながら、瓜子は青コーナーに引き下がる。


「ウリコ、ファイトだよー」

「目が慣れるまでは、あんま無理すんじゃねーぞ」

「頑張ってね、うり坊ちゃん!」


 三者三様の言葉が、瓜子に新たな力を注いでくれる。

 そちらにぐっと拳を突きつけてから、瓜子は対角線上のピエロを見据えてみせた。

 大歓声の中、第一ラウンドの開始を告げるゴングが鳴らされた。

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