02 ユーリ・オンステージ

 ユーリがその身に纏っていたのは、三月大会で使用していた桜吹雪の振袖めいたガウンであった。四月であればぎりぎり許容範囲であろうと、本日のステージ衣装にセレクトされたのだ。


 色とりどりのスポットに照らされながら、ユーリは花道をくるくると回っている。ガウンの下に垣間見えるのは、露出の多いホルターネックの試合衣装だ。それもまた『P☆B』がデザインした試合衣装であったが、実際の試合で使用するには強度に不安が残るということで、こういったパフォーマンスの際に使われるようになっていた。


(そういえば、ユーリさんと初めて仕事をご一緒したときも、あの格好でお笑い芸人どもをぶちのめしてたっけ)


 そんな懐かしき思い出をかきたてられつつ、瓜子はユーリの勇姿を見守った。

 ユーリは裸足で、両手の先にはオープンフィンガーグローブまで装着している。この日のステージ衣装に関しては、パラス=アテナの面々が悩みに悩みぬいたそうであるが、けっきょく無難な試合衣装に落ち着いたのだ。あまり過激な水着姿だと、一部の硬派なファンや大半の出場選手に反感を買ってしまうのではないかと、ぎりぎりのところで理性が働いたようだった。


 とはいえ、水着も試合衣装もそれほど露出に差があるわけではない。ホルターネックのハーフトップでは胸の谷間も剥き出しで、ショートスパッツからは肉感的な白い足がのびている。華やかなガウンがひるがえるたびにそれらの肢体が垣間見えると、いっそう煽情的だった。


 そうしてようやくリングに到着したユーリは、スタッフが固定したトップロープに手をかけて、ひらりとマットの上に降り立つ。

 これまでの試合よりも遥かに大きな声援が、会場中に響きわたっていた。


「へん。ブーイングでも起きるかと期待してたのに、これじゃあ東京と一緒じゃん」


 近い距離から、灰原選手の文句が聞こえてくる。なんだか、沙羅選手の代役でも務めているかのようだ。そういえば沙羅選手も関西出身であるのだが、彼女は地元を捨てて東京で成り上がったという意識であったため、大阪大会にはまったく固執していなかった。


『みなさん、こんばんはー! 大阪大会、楽しんでますかぁ?』


 モニター上のユーリがマイクで呼びかけると、さらなる歓声が爆発した。

 ユーリはにこにこと笑いながら、四方の観客たちに手を振っている。


『アトミックのリングでお歌を披露するなんて、ちょっぴり気が引けちゃうんですけどねぇ。試合の合間のブレイクタイムってことで、のんびり楽しんでもらえたら嬉しいですぅ』


 客席はのんびりどころの騒ぎではなかったが、ユーリが大阪の観客たちにも歓迎されているという事実に疑いはない。瓜子はこっそり、安堵の息をつくことになった。


『それじゃあ二曲だけ、歌わせてもらいますねぇ。まずは先月に発売したセカンドシングル、「リ☆ボーン」でぇす。……ミュージック、スタート!』


 ユーリが左拳を頭上に突き上げて、すべてのスポットがリングを鮮やかに照らし出した。

 うねりをあげていた歓声が、次の爆発に備えて静められる。


 が――どれだけ会場が静まっても、楽曲のイントロが流れることはなかった。

 会場はざわめきに包まれて、ユーリは『あり?』と小首を傾げる。


『タイミングを間違っちゃったかな? ……そんじゃああらためまして、ミュージック、スタート!』


 しかし、結果は同じことだった。

 会場は、ますます騒然となる。


「うわー、何これ! こりゃあさすがに、アイドルちゃんが気の毒だわ」


 控え室では、灰原選手が仏頂面で肩をすくめていた。

 瓜子はもう、自分が無音のステージに立たされているような心地である。


「ふん。こいつは……誰かの嫌がらせか?」


 瓜子のかたわらでは、サキが押し殺した声でつぶやいている。

 瓜子の脳裏には、兵藤選手や雅選手やベリーニャ選手の顔が走馬灯のように駆け巡っていた。

 モニターの中のユーリは、『うーん』と難しい顔で考え込んでいる。その背景に、リング下で右往左往しているスタッフたちの姿も映し出されていた。やはりこれは、誰にとっても不測の事態であったのだ。


『なんか、段取りがうまくいかなかったみたいですねぇ。みなさん、まだユーリのお歌なんて聞きたいですかぁ?』


「聞きたーい!」という声が、会場のあちこちから響きわたる。

 するとユーリは、まったく動じていない様子で、にっこり微笑んだ。


『わっかりましたぁ。それじゃあ時間がもったいないんで、ちゃっちゃと歌っちゃいますねぇ。あらためまして、セカンドシングルの「リ☆ボーン」でぇす』


 そうしてユーリは元気いっぱいにステップを踏みながら、信じ難い行動に出た。

 なんと、楽曲のイントロを自らの口で奏で始めたのだ。


『ちゅっちゅっちゅるー、ちゅっちゅっちゅちゅるるー、ちゅっちゅっちゅるるるー♪』


「うわ、マジかよ?」と、灰原選手は愕然とした声をあげた。

 リング上では、ユーリの声にあわせて色とりどりのスポットが乱舞している。


『ちゅっちゅっちゅるー、ちゅっちゅっちゅちゅるるー、ちゅっちゅっちゅるるるー♪ ちゅっちゅっちゅるー、ちゅっちゅっちゅちゅるるー、ワーン、ツー、ワンツースリーフォー!』


 そしてユーリは、伴奏もなしに『リ☆ボーン』を歌い始めた。

 観客たちは、手拍子でリズムを取ってくれている。それに合わせてステップを踏みながら、ユーリは笑顔で熱唱した。


「こいつ……やるだわね」


 瓜子の横に、にゅっと大きな頭が突き出されてくる。次の試合に備えて黙々とウォームアップに励んでいた、鞠山選手である。ユーリのライブの後には十五分間の休憩時間が設定されていたので、彼女もまだ控え室に居残っていたのだ。


「どうせ音程なんてズレまくってるんだろうけど、アカペラでこうまで歌いきるなんて、至難の業だわよ。自分が同じ立場だったらと思うと、寒気がするだわね」


 そういえば、彼女もインディーズレーベルから何曲かの楽曲をリリースしている身であったのだった。

 食い入るようにモニターを見据えながら、鞠山選手は太い腿のあたりに置いた指先でリズムを取っている。


「勝負度胸が尋常でないだわね。……まったく、小憎らしい娘っ子だわよ」


 そうしてワンコーラスを歌いきると、ギターソロのパートである。

 驚くべきことに、ユーリはそれすらも口で再現しようとしていた。


『ちゃーんちゃちゃららちゃーちゃーちゃちゃらんらちゃちゃーんつちゃらつちゃんちゃんちゃちゃーん♪』


 もちろんそのような訓練をしていたわけではないので、そうまでしっかりと再現できているわけではない。が、満面の笑みをたたえたユーリが自信満々の様子でギターの音色をなぞっていると、まるで最初からそういった演出であるかのように、しっくりと馴染んで見えてしまった。


 ギターソロが終わったのちは、再び歌に舞い戻る。

 そうして『リ☆ボーン』を歌いあげるユーリの姿は、心から楽しそうな様子に見えた。ユーリはどれだけ納得のいかない仕事でも笑顔で乗り越えるアイドル根性を有していたし、また、根っこの部分では他者からの賞賛や共感を渇望していたのだった。


(だから最初は、アイドルを目指してたんだもんな……)


 ユーリは大勢の人々に、本性を隠している。重苦しい過去や、そこから生じたトラウマや、自分の弱さや脆さや負の感情などを、ひた隠しにして生きているのだ。

 だからこそ、上っ面だけでも愛されたいと願ったのだろう。

 こんな自分にも価値はあるのだと、他者から承認されることに飢えているのだった。


(だけどユーリさんは、格闘技に出会うことができた。それで上っ面の皮一枚だけじゃなく、心の一部分だけはさらけだすことができたんだ。格闘技が好きで好きでたまらないっていう気持ちを)


 だから現在のユーリも、試合をしているときほどの充足を覚えているわけではないだろう。

 しかしそれでも、ユーリは幸福そうだった。

 自分などに歓声や拍手を送ってくれる人々に、精一杯の気持ちをお返ししているのだった。


『どうもありがとー! セカンドシングルの「リ☆ボーン」でしたー!』


 やがて三分半の楽曲を歌いきったユーリは、笑顔で客席に手を振った。

 観客たちも、いっそうの声援でそれに応えている。

 そしてそこに、聞き覚えのある電子音が重なった。ファーストシングル、『ピーチ☆ストーム』のイントロである。


『おりょりょ? 演奏が復活したみたいですねぇ。このピコピコ音を再現するのは大変そうだったから、よかったですぅ』


 会場に、歓声と笑い声が響きわたった。

 ユーリは軽やかなる電子音にあわせながらステップを踏み、歌に入るタイミングで桜吹雪のガウンを脱ぎ捨てた。

 露出の多い試合衣装となったユーリは、さきほどにも負けない勢いで『ピーチ☆ストーム』を熱唱する。

 そこに重なる手拍子も、さきほどの勢いにまったく負けていないようだった。


「ふん……まさかこれ、最初っから全部演出だったわけじゃないだわよね?」


 と、鞠山選手がひらべったい顔をいっそう瓜子に近づけてきた。

 モニターの様子を目で追いつつ、瓜子は「はい」とうなずいてみせる。運営に渡した伴奏の音源は瓜子自身が準備したものであるし、客入り前には入念にサウンドチェックが行われていたのだ。


「一曲目の伴奏がかからなかったのは、完全にアクシデントっすよ。そんな演出があったら、自分の耳にも入るはずっすからね」


「ま、そうだわね。こいつが六月のイベントに出るようなら、そっちでも強敵になりそうだわよ」


 六月のイベントとは、音楽と格闘技の祭典についてであろうか。

 CDデビューを果たしている鞠山選手であれば、音楽部門のほうで出演をしてもおかしいことはないのであろうが――今の瓜子には、そちらにまで考えを飛ばしているゆとりはなかった。


「サキさん、さっきのアクシデントは――」


 瓜子がそのように言いかけると、サキが鞠山選手を押しのけて密着してきた。

 その腕がまた瓜子の肩に回されて、耳には囁き声が注ぎ込まれてくる。


「毒蛇ババアはああ見えて仁義を重んじるから、こんな嫌がらせに手を染めたりはしねーだろうな。あれが誰かの悪ふざけだってんなら、猛牛女かブラジル女が最有力容疑者ってこった」


「……こんな真似、許せませんよね?」


「おめーがカリカリしなくっても、あのおっかねー眼鏡の上司が黙ってねーだろ。パラス=アテナの連中だって、そいつは同様だ。犯人探しはそっちに任せて、おめーは試合に集中しとけ」


 瓜子は呼吸を整えて、「押忍」と短く答えてみせた。

 兵藤選手であろうとベリーニャ選手であろうと、こんな姑息な真似は絶対に許さない。……しかし、それを追及するのも試合を終えてからのことであった。

 そんな瓜子の決意も知らぬげに、画面上のユーリは楽しそうに歌っていた。

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