04 会場入り

 そして、翌日――大阪大会の当日である。

 阿原屋旅館でのんびりと身を休めてから、新宿プレスマン道場の一行はゆとりをもって会場入りすることになった。


 会場は、オノディアリーナ大阪――かつては府立の体育会館として歴史を刻んできた場所である。聞くところによると、リングを使用する格闘技全般の他に、大相撲や柔剣道やバレーボールの試合なども開催される、関西においてのスポーツ拠点であるとのことであった。


 瓜子もたびたび耳にすることのあった施設だが、自分で足を踏み入れるのは初めてのことだ。

 関係者専用の駐車場にプレスマン号を収納し、いざ通用口に向かってみると、そこにはさまざまな施設の案内板が表示されていた。


「ふみゅふみゅ。第一・第二競技場に、柔道場と剣道場、多目的ホールに会議室……アトミックは、どこが試合会場だったっけ?」


「第二競技場だろ。会議したけりゃ、勝手にしてろ」


 パンチングミットやキックミットの詰まったバッグを担ぎなおし、サキはずかずかと歩を進めていく。ユーリが運ぶと言い張っていたのだが、サキは「リハビリだよ」と言い張って、決して譲らなかったのだ。いまだに膝関節を補助するニーブレスを手放せないサキであったが、以前のように左足を引きずったりはしていなかった。


「第二競技場ってのは千人ていどが相場だってのに、今日は千二百人ばかりも詰め込むらしいな。暑苦しい夜になりそうだぜ」


「千二百人っすか。……ちなみに、《G・ワールド》が試合をする第一のほうは何人ぐらいでしたっけ?」


 そちらに参戦する赤星道場の一行は、一時間も早く旅館を出ている。

 サキは脳内の記憶媒体を検索するように「んー」としばしうなってから、速やかに回答してくれた。


「あっちは、固定で三千席。パイプ椅子を並べりゃあ、五千や六千は収容できるって話だな」


「五千や六千っすか。……男子のキックと女子のMMAじゃ、まだまだそれだけの格差があるんすね」


 キックはMMAよりも歴史が長く、男子選手と女子選手では競技人数など比較にもならない。それが、会場の規模にはっきりと表れていた。《G・ワールド》も普段はミュゼ有明や恵比寿AHEADを常打ち会場としているが、ここぞというイベントにおいてはそれだけの客を集めることがかなうのだ。


「ふみゅ。確かに《NEXT》なんかにお邪魔すると、お客さんがいーっぱいだもんねぇ。同じMMAでも、女子と男子じゃそれだけの差があるわけかぁ」


 自分のバッグと瓜子のバッグを担いだユーリは、のほほんと笑っている。


「んでもやっぱり、《NEXT》ではいまだにヨソモノ気分だからにゃあ。男子選手の興行にまぎれこむより、やっぱりユーリは女子の楽園たるアトミックが一番楽しいぞよ」


「そういえば、六月には《NEXT》との合同イベントが控えてるんすよね。ユーリさんは、そっちでもお呼ばれするんじゃないすか?」


「うにゃ? そんなイベント、あったっけ?」


「はい。アトミックはオマケ扱いなんで、あんま取り沙汰されてないっすけどね。ほら、音楽と格闘技の祭典ってやつっすよ」


 ロックバンドのライブ演奏とMMAの試合が交互に行われるという、《NEXT》が主催の特別イベントである。過去にも何度か同じ興行が行われていたが、本年は《アトミック・ガールズ》も共催の立場となったのだ。


「ふみゅふみゅ。ユーリの心がちっとも躍らないのは、『音楽』という枕詞に嫌な予感を禁じ得ないためであろうか」


「はい。五月のトーナメントで優勝できたら、ユーリさんは七月にタイトルマッチですからね。試合のオファーが来ることは、まずありえないでしょう。……だから、ミュージシャン『Yu-Ri』としての参戦オファーっす」


「ユーリはそんな恐れ多き肩書きを取得した覚えはなーい! プロミュージシャンにまじってユーリのお粗末なお歌を披露するなど、罰ゲームを通り越して羞恥プレイではないか!」


「そんなことないっすよ。ユーリさんは、お歌がお上手っすから」


「緊張感もへったくれーもねータコスケどもだな。そんな話は、今日の仕事を片付けてからぞんぶんに語らえや」


 と、サキのツッコミが入ったところで、控え室に到着した。

 第二競技場というのは地下施設であったため、その控え室も同様である。ジョンが「青コーナー控え室」という張り紙のされたドアを引き開けると、なかなかの熱気があふれかえってきた。


「オス。シンジュクプレスマンドージョーですー」


 にこやかな笑みを振りまくジョンを先頭に、瓜子たちも入室した。

 室内には七、八名の人間しかいなかったが、部屋がせまいために熱気がこもってしまっている。恵比寿AHEADよりも小ぢんまりとした控え室であるようだった。


「よう。来やがったね、猪突猛進娘」


 と、瓜子よりもやや背の高い人物が、のしのしとこちらに近づいてきた。セミロングの髪を金色にブリーチした、ずいぶんグラマラスな女子選手――『バニーQ』こと、灰原久子選手である。


「ああ、灰原選手っすか。すいません、一瞬わかりませんでした。髪をほどいてるところを拝見するのは初めてだったもんで」


 灰原選手はウサミミに相当する部分だけ金髪にしていたはずであるが、瓜子の想像よりも、黒く残されている部分が少なかった。てっぺんの生え際と前髪以外は、のきなみ金色であったのである。


「ふん。重役出勤だわね。わたいにいっぺん勝ったぐらいでトップランカーを気取ってたら、痛い目を見るだわよ」


 と、しゃがれた声音で語られる珍妙な言葉が、逆の方向から近づいてくる。

 それは瓜子よりも小柄でずんぐりとした体形の、フラワーハットとサングラスで人相を隠した奇妙な人物――『まじかる☆まりりん』こと鞠山花子選手に他ならなかった。

 顔の上半分を隠しても、平べったい輪郭にぺちゃんこの鼻と大きな口、という個性的な顔立ちは隠しきれていない。また、周波数は高いのにざらざらと濁った声音というのも、なかなかに特徴的であった。


「お疲れ様っす、鞠山選手。……先日は、ありがとうございました」


「ありがとうございましたって、どういう言い草だわよ。わたいの脳天を蹴り抜かせていただきまして、どうもありがとうございましたってこと?」


「あ、いや……お気を悪くさせたんなら、すみません」


「ふん。人の脳天をかち割ろうとした相手に礼を言われても詫びられても、どっちにしたって挨拶に困るだわね」


 瓜子が鞠山選手と個人的に言葉を交わすのは初めてのことであったが、どうやら彼女はリング下でも奇矯なキャラクターを貫いているようであった。

 いや、この芝居がかった口調や物言いが本性なのだろうか? 何せ瓜子は初めてのコミュニケーションであるため、判別がつかない。


 何にせよ、本日はこの両名と同じ部屋で控えなければならないのだ。なんとも珍妙な方々と相席になってしまったものであった。


「相変わらず鬱陶しいタコスケどもだなー。よその選手に絡んでるヒマがあったら、アウェイでやりあうしんどさを噛みしめたらどうだ?」


 サキがそのように仲裁してくれると、両名は同時に「ふん!」と鼻を鳴らした。


「あんたのほうこそ、相変わらずだわね。無差別級なんぞにチャレンジして負傷欠場するようなノータリンに、とやかく言われたくないだわよ」


「ホントにさ。防衛戦しないなら、とっとと王座を返上してくれない? あたしが美味しくいただいてあげるから」


「あん? ウェイト調整もままならないド素人が、偉そうな口を叩くんじゃないだわよ。あんたがライト級の王者なんて、百年早いだわね」


「ああ? そっちこそ、いつまで現役にしがみついてるのさ? 魔法少女ってトシじゃないだろうにさ」


「わたいは永遠の十五歳だわよ! そんなに減量がキツいなら、その目ざわりな脂肪の塊をもぎ取ってやるだわよ!」


「やれるもんなら、やってみやがれ! 人の乳をもいだって、その貧相なカラダにはくっつけられないよ!」


 なんだか、おかしな騒ぎになってしまった。

 すると、遠目でこちらをうかがっていたセコンド陣が、おっとり刀で駆けつけてくる。


「馬鹿、何やってんだ。遠征先で騒ぎを起こすんじゃねえ」


「お前もだ。猪狩さんを激励するんじゃなかったのか?」


 四ッ谷ライオットのセコンドは灰原選手の頭を引っぱたき、天覇ZEROのセコンドは低い声音で諭すように言いつける。こんな際にもそれぞれのジムの特色が垣間見えたようだが、お叱りを受けた両名はそろって子どものように不貞腐れていた。


「申し訳なかったな。何も遺恨を残してるんじゃなく、こいつはもとからこういうやつなんだ」


「ウチもだよ。ほら、猪狩選手に言うことがあるんだろ?」


 セコンドに肩を小突かれた灰原選手が、怒ったような顔を瓜子に近づけてくる。


「……あんた、あのピエロ野郎をぶちのめす算段は立ったんだろうね?」


「はい? ええ、まあ……サキさんのおかげで、いちおう戦略は立てられましたけど……」


「いちおうじゃすまないんだよ! あたしとそこの魔法老女を負かしたからには、最後のピエロもきっちり負かしてみやがれってんだ!」


「そうだわよ! これであいつだけ勝ち残ったら、また増長するに決まってるだわよ!」


 と、憤慨した様子で、鞠山選手も加わってきた。


「わたいはずっとこのスタイルを貫いてきたのに、後追いのドジョウどもとひとくくりにされて、迷惑千万なんだわよ! しかもあいつだけトップファイター扱いなんて、心底納得いかないんだわよ! これであいつをまた増長させたら、あんたに責任とってもらうだわよ!」


「いや、責任って言われても……お二人は、イリア選手と折り合いが悪いんすか?」


「あんなピエロと折り合いのいいやつは、この世に存在しないだわよ!」


「本当さ。あいつに比べたら、そっちのセクシーアイドルちゃんのほうが百倍マシっしょ」


『コスプレ三銃士』などと称されながら、どうも彼女たちは健全な関係性を構築できていないようだった。

 瓜子が困って立ち尽くしていると、サキが「あのなー」とぶっきらぼうな声をあげる。


「あいつと一緒くたにされるのがイヤなら、コスプレなんざやめちまえよ。……そんでもって、実力でねじ伏せる努力をしてみやがれってんだ」


「してるだわよ! でも、あいつとはもう二戦二敗だから、なかなかカードを組んでもらえないんだわよ!」


「あたしだって、そこのイノシシ娘に土をつけられたせいで、一歩後退さ。浜松で出番をもらえりゃあ、そこの年寄りをぶちのめして、今日あいつとやりあえたかもしれないのにさ」


「だったらどっちも、自業自得じゃねーか。アタシだって、あいつにリベンジするのに一年がかりだったんだよ」


 赤いざんばら髪の向こう側で切れ長の目を炯々と光らせながら、サキはそのように言いたてた。


「とにかくな、この瓜はおめーらの肩代わりでピエロ女に挑むわけじゃねーんだ。余計なプレッシャーをかけるんじゃねーよ、このタコスケども」


「悪いな。そういうつもりじゃなかったはずなんだが」


 と、天覇ZEROのセコンドが苦笑をしながら、フラワーハットに包まれた鞠山選手の頭に手を置いた。


「まあ、自分を直近で負かした相手には、なるべく勝ち続けてほしいもんだろ? そっちの猪狩さんは、なかなかのポテンシャルを秘めてるみたいだしさ。……最近のプレスマンは、絶好調だね」


「ウン。みんなナカヨしで、いいクウキをツクってくれてるからねー」


 にこにこと無邪気に笑いながら、ジョンは灰原選手と鞠山選手の姿を見比べた。


「キョウは、カンサイゼイとカントウゼイのゴバンショウブなんだよねー? ボクもカントウゼイのつもりだから、フタリのオウエンをさせてもらうよー」


「ふん。こっちのこいつが足を引っ張らなきゃ、全勝で勝ってやるだわよ」


「あんたこそ、寝首をかかれないように気をつけな。浜松で寝首をかかれたばっかりなんだからさ」


 そういえば、本日は十試合中の五試合が、関東勢と関西勢の五番勝負と銘打たれていたのだ。ライト級の名物選手たる彼女たちは、その役割を果たすためにはるばる大阪まで出向いてきていたのだった。


「自分も、応援してるっすよ。関東勢の底力を見せつけてやってください」


 なんとか場を丸く収めるべく、瓜子がそのように発言すると――「わかってるだわよ!」「上から目線で語るんじゃねー!」という怒声まじりの言葉を左右から返されることになってしまった。

 そうして珍妙なる両名はそれぞれのセコンド陣に引っ張られて、控え室の隅に退いていく。それらの姿をきょろきょろと見送ってから、ユーリは「ふにゅう」と息をついた。


「やっぱりうり坊ちゃんは人気者だにゃあ。これも人徳とかわゆらしさの成せるワザなのかしらん」


「え? ユーリさん、きちんと話を聞いてました?」


「聞いてたよぉ。うり坊ちゃんが人気者になるのは嬉しい限りなのだけれども、ユーリは人間ができていないのでちょっぴり寂しく感じてしまうのです」


「あははー」と、ジョンがとぼけた笑い声をあげた。


「ウリコはマッスグだから、そういうブブンがヒトをヒきつけるのかもねー。でも、ボクはユーリのコトもオナじぐらいミリョクテキだとオモうよー」


「あうう。ジョン先生の底抜けの優しさが、ユーリの胸にしみわたるのです」


 なんだか二人は、よくわからないところで意気投合しているようだった。

 するとサキが、溜息まじりに瓜子へと囁きかけてくる。


「こうしてみると、ライト級ってのはミドル級よりクセモノがそろってるのかもなー。自分もその一員ってことが恥ずかしくなってきやがるぜ」


「あは。自分はサキさんと同じ階級であることが誇らしいっすけどね」


「おめーだって、立派なクセモノのひとりだけどな。……とにかく今は、ピエロ狩りに集中しとけ」


「押忍。……さっきはフォロー、ありがとうございました。サキさんのお気遣いが、すごくありがたかったっす」


「へん。これもセコンドの役割だろうがよ」


 サキが手の甲で瓜子の頭をぽんと小突くと、ユーリがたちまち「あーっ!」と雄叫びをほとばしらせた。


「またユーリの目を盗んで、ふたりがイチャイチャしておる! 油断も隙もないだわよ!」


「どっかの魔法少女が入り混じってんぞ。……おめーはアタシらなんぞにかまってるヒマがあんのか?」


「何さ! 話をそらそうったって、そうはいかないんだからね!」


 サキと同じ方向を向いていた瓜子には、その言葉の意味が理解できていた。

 その事実をユーリにも知らしめるべく、サキは細長い指先で控え室の入り口を指し示す。それにつられて、背後を振り返ったユーリは――両手で自分の手をふさぎ、「うきゃーっ!」という絶叫をかろうじて呑みこんだ。


「ベ、ベ、ベル様! ベル様も、本日は青コーナーであらせられたのでありましょうか?」


 控え室の面々も、こちらの騒ぎなど忘れた様子で入り口のほうに目を奪われていた。

 フードつきのパーカーにスウェットのパンツという黒ずくめの格好をしたベリーニャ・ジルベルト選手が、そこで静かにたたずんでいたのだ。


「ハイ、ピーチ=ストーム」


 黒いカンフーシューズのようなものを履いたベリーニャ選手は、猫科の動物のようにしなやかな足取りでこちらに近づいてきた。肩には大きなボストンを担いでおり、後ろからは小柄な女性が追従してくる。そうしてユーリのもとまで辿り着くと、ベリーニャ選手は褐色の面に涼やかな微笑をたたえた。


「ワタシ、ゲンキデス。……アナタ、ゲンキデスカ?」


「はいっ! 元気だけが取り柄のユーリでありますので!」


「トリエ……アリマス?」


 ベリーニャ選手はほんの少しだけ眉を下げつつ、横合いに並んだ女性に視線を向けた。女性は少し考えてから、英語でベリーニャ選手に言葉を返す。


「トリエ、『Handle』、リョウカイデス。……んー……ゲンキ、ダイジデス。ピーチ=ストーム、ゲンキ、ウレシイデス」


 どうやらベリーニャ選手も、目下日本語を勉強中の様子であった。

 それにしても、ずいぶん若い通訳だな……などと瓜子が考えていると、その女性がぺこりと頭を下げてきた。


「わたしはジルベルト柔術アカデミー調布支部の、舘脇たてわきと申します。本日は、ベリーニャ選手のセコンドとして同行しました」


 その人物は、ただの通訳ではなく道場の門下生であったのだ。

 が、一見では柔術の選手とも思えない容姿をしている。背丈は瓜子と同じぐらいで、度の強そうな眼鏡をかけており、顔中にそばかすが散っている。おかっぱのようなショートボブと相まって、ずいぶん幼げな風貌に見えてしまった。


「……ユーリ選手は、おひさしぶりです。まあ、わたしのことなど覚えてらっしゃないとは思いますが」


「ほえ?」と、ユーリは舘脇のほうに視線を移した。

 舘脇は、にこりと愛想のいい笑みを浮かべる。


「ユーリさんはデビュー前に、うちの道場でトレーニングをされていたでしょう? まあ、ほんの二ヶ月ていどでしたけれど」


「ああっ! そうでしたっ! その節はあれこれご迷惑をおかけしてしまい……恐悦至極でございます」


「とんでもありません。たとえ二ヶ月とはいえ門下生であったユーリ選手がこれほど活躍されているのですから、門下生一同誇らしく思っております」


 舘脇は愛想よく微笑んでいるが、ユーリはベリーニャ選手の前だというのに、しゅんとしぼんでしまっていた。どうやら「ご迷惑」というのは、社交辞令ではなかったようだ。


「では、そろそろルールミーティングのお時間ですね。ベリーニャ選手、着替えは後にして、いったん試合会場に向かいましょう。ルールミーティング、OK?」


「ハイ、OKデス。……ピーチ=ストーム、マタアトデ」


「はい。どうぞお元気で……」


 ベリーニャ選手はユーリの悄然とした顔をいくぶん不思議そうに見やってから、ロッカーに荷物を置いて立ち去っていった。

 その後を追いかけるようにして、他の選手たちも控え室を出ていく。瓜子たちは旅館で着替えを済ませていたので、荷物を仕舞えばすぐに動ける状態にあったのだが――ユーリの様子が、あまりに気がかりである。瓜子はサキとジョンにお願いして、もうしばらくこの場に留まらせてもらうことにした。


「ユーリさん、移動の前に、ちょっとお話が。……あの舘脇さんってお人と、なにか因縁でもあるんすか?」


「ううん。あのお人は、お顔ぐらいしか覚えてないんだけど……実はユーリは、ジルベルト柔術アカデミー調布支部を追い出された身であるのでしゅ……」


「追い出された? ああ、ユーリさんはあちこちのジムや道場を転々として、プレスマンに行きついたんすよね」


 そんな風に答えてから、瓜子は「あれ?」と首を傾げた。


「でも、それはデビュー後の話っすよね? デビュー前は、番組の企画通りに色んな場所でトレーニングを積んでたんでしょう?」


「うみゅ。しかしあちらの道場においては、事実上の追放であったのでしゅ。しかしそのような不祥事をドキュメント番組でさらすわけにはいかなかったので、闇から闇へと隠蔽されることになったのでしゅ」


「……ちなみにそれは、どういった不祥事だったんすか?」


「はい……門下生の殿方おふたりが、ユーリを巡ってバトルになってしまったのでしゅ。お前はどっちを選ぶんだと、ユーリもロッカールームで詰問される事態に至ってしまったのでしゅ」


 想定の範囲内であったものの、瓜子は怒りを禁じえなかった。


「なんすか、それ。だったら悪いのは、そのおふたりじゃないっすか。神聖な道場で色恋騒ぎとか、馬鹿げてるっすね」


「いえいえ、それもユーリの不徳でありましゅので……」


「これっぽっちも不徳じゃないっすよ。……ロッカールームで詰め寄られて、何も危ないことはなかったんすか?」


「うん。荒本さんが気づいて、救出に来てくれたから……思えばあれぐらいから、荒本さんは無理してお稽古場所にまで同行してくれるようになったんだよねぇ」


 ユーリは世にも悲しげな面持ちで嘆息していた。

 その姿に、瓜子はまたささやかな疑問を抱く。


「でも、どうしてそんな沈んでるんすか? 根も葉もない熱愛スキャンダルとか、ユーリさんは慣れっこでしょう?」


「うん……だけど、そんなしょーもない過去話がベル様の耳にも入ってるのかあと思ったら、何だかやりきれなくってねぇ」


 そう言って、ユーリは力なく微笑んだ。


「どうせあちらの道場では、ユーリがおふたりをたぶらかしたってお話になってるんだろうし……あああ、ベル様にケーベツされちゃったなぁ。よりにもよって、ジルベルト柔術の道場だもんなぁ。そんな神聖なる場所でお稽古したいなんて、言わなきゃよかったなぁ」


「ベリーニャ選手は、そんな噂を頭から信じるようなお人じゃないっすよ。さっきだって、いつも通りの笑顔だったじゃないっすか」


「そりゃあベル様はお優しいからねぇ。ユーリがどれほどしょーもない存在でも、とりあえずは人間扱いしてくれるのでございましょう」


 そしてユーリは、何かをふっきるようにピンク色の頭をぷるぷると振った。


「うん、しかたない! ユーリがしょーもない人間であることは事実なのから、くよくよしたってしかたないよね!」


「いや、ユーリさんはしょーもない人間じゃないっすけど……でも、気にする必要なんてないっすよ」


「うん。もう気にしない! そもそもベル様に好かれたいなどと考えるほうが、おこがましいのだ! 今後は身をつつしみ、一線を引かせていただきましょう!」


「一線? それはどういう意味っすか?」


「うにゃ? ユーリはファイターとしてのベル様を崇め奉っておるのだから、ファイターとしてそれを追いかけるの。一個人として交流を深めたいなどという妄念は捨て去って、清く正しく生きるのじゃ」


「ユーリさん」と、瓜子はおもいきり詰め寄ってみせた。


「たぶんですけど、その考えは絶対に間違ってます」


「た、たぶん? 絶対? ユーリにはちょっと難しい言い回しであるようです」


「それじゃあ、たぶんは取り消します。そんな形でベリーニャ選手と距離を取ろうだなんて、絶対におかしいっすよ。ベリーニャ選手は、この世で一番敬愛してるお相手なんでしょう? 誤解で嫌われて傷つくのが嫌だから距離を取るなんて、そんなの絶対に駄目です」


「いや、だけど……誤解されずとも、ユーリはこのような人間であるわけでありますし……」


「だったら、自分はどうなんすか? 自分はこんなに、ユーリさんのことが好きなんすよ? ユーリさんはあれこれ破綻してますけど、それでも魅力的なお人なんです。ベリーニャ選手だって、きっとむやみに嫌ったりしないっすよ」


「あうう」と、ユーリは頭を抱え込んでしまった。


「また飴と鞭の波状攻撃なのじゃ。今回は甘いキャンディを数珠繋ぎにした鞭でしばかれてるような心地なのじゃ」


「いや、自分は本心で言ってるんすから――」


 と、そこで瓜子とユーリはいっぺんに頭を引っぱたかれることになった。


「あのなー、今日は何の日だったっけか? 痴話ゲンカを試合の後に持ち越す節度も持ち合わせてねーのか、おめーらは?」


「す、すいません。だけど……」


「だけどじゃねーんだよ」と、サキは瓜子の首に左腕をひっかけてきた。


「どうせ今日も、旅館で雑魚寝だ。ややこしい話は、そんときまで取っとけや。話によっちゃあ、アタシも調教を手伝うからよ」


 するとユーリが「ふぬー!」と両腕を振り上げて、自分の頭をぽかぽかと殴打し始めた。


「そうだった! 今日はうり坊ちゃんの大事な試合だったのに、なんたる大失態! 自分のおバカさ加減に悶死してしまうわー!」


「いや、声がでかいっすよ、ユーリさん」


「うん。ごめんなさい、うり坊ちゃん。ユーリのしょーもない苦悩などは、試合の後までほっぽっておくのです」


 そうしてユーリは、もじもじとしながら瓜子を見つめてきた。


「今日一日は、ベル様に対してもこれまで通りに振る舞うよ。だから、その後は……ユーリがどんな風に振る舞うべきか、サキたんと一緒に考えてくれる?」


「……はい。それなら自分も、試合に集中してみせます」


「よかったぁ」と、ユーリは安堵の息をついた。

 そして今度は、少し甘えたような目で瓜子を見つめてくる。


「ただ、ひとつだけ理解していただきたいのは……ユーリがベル様と距離を取ろうだなんて考えられたのは、うり坊ちゃんの存在で胸を満たされているためであるのだよ。ユーリはこんなに幸せなのだから、このうえベル様の寵愛まで賜りたいなどというのは傲慢の極みであるように感じられてしまうのです」


「……だからよー、乳繰り合うのも試合の後にしろって話だよ」


 と、瓜子の首に左腕をひっかけたサキが、そのまま瓜子のこめかみにぐりぐりと頬ずりをしてきた。その姿に、ユーリは「にゅにゅ!」と眉を逆立てる。


「何ですの? 言葉と行動に一貫性が感じられませんわよ、サキたん!」


「いや、なんかムカつくから煽ってんだよ。案外、女とじゃれつくのも悪くねーかもな」


「だーめー!」と、ユーリは両腕を振り上げる。

 そうして瓜子は気持ちも新たに、この日の試合に臨むことになったのだった。

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