05 ルールミーティング

 ルールミーティングは、定刻通りに行われた。

 たとえ異郷の会場でも、瓜子にとっては見慣れた情景である。現地の人間であるレフェリーたちが関西風のアクセントである他は、常と変わらぬ様相であった。


 だけどやっぱり、どこか空気が違っているように感じられるのは――その場に集った人々の半数以上が、地元の人間であるためなのだろうか。瓜子はこれまで人様を出自で区別したこともなかったのだが、そこには浜松の試合会場ともまた異なる独特の熱気がたちこめているように感じられてならなかった。


 本日は、関東勢と関西勢の東西五番勝負というものが設定されている。あとは、メインイベントとセミファイナルの青コーナー側が外国人選手であり、瓜子とイリア選手だけが関東勢同士の試合となる。それ以外の二試合とプレマッチの二試合は、のきなみ関西出身の選手で固められているのだから、二十四名中の十五名が関西勢という計算になるはずであった。


 関西とひと口に言っても、広域である。

 たとえばメインイベントに出場する雅選手などは京都の出身であるし、『西の猛牛』たる兵藤選手は名古屋の出身だ。他にもさまざまな関西の区域から、選手が集結しているはずであった。


《アトミック・ガールズ》の東京大会においても、そういった選手が呼ばれることはある。だけどやっぱり、関東圏の選手に比べれば、出番は限られてしまうだろう。それはごく単純に、遠方の選手を招聘すると旅費や滞在費がかさんでしまうためである。


 なおかつ《アトミック・ガールズ》においては、諸経費の全額が支払われるわけではない。あちらが独自に算出した最低限度の諸経費が支払われ、差額は自腹となってしまうのだ。だからこそ、ジョンは瓜子のために格安の宿を求めて、もっとも安価である自動車の移動を申し出てくれたのだった。


(まあ、今日の興行だって満員札止めだとしても、せいぜい千二百人なんだからな。男子選手の興行と比べたら、運営の儲けなんてささやかなもんなんだろう)


 それだけ財布の紐が固ければ、なかなか遠方の選手を招聘することは難しい。

 それで、何が言いたいかというと――そういう選手は、試合の場に飢えている、ということであった。


《アトミック・ガールズ》ほど女子MMA選手の試合に力を入れている興行は他にないし、そういったプロモーションが地方で興行を行うとして、呼ばれる女子選手はせいぜい数人である。むしろ、男子選手だけで試合を組まれる興行のほうが多いぐらいのはずであった。


 よって、関西の女子選手たちも試合に飢えている。

 この場にたちこめている熱気は、そういった気迫から生み出されているものなのだろうと、瓜子はそのように解釈していた。


(なんだったら、そういう選手とアウェイでやりあってみたかったところだけど……)


 しかし、瓜子の本日の対戦相手は、同じ関東勢であるイリア選手だ。

 新参者の瓜子には過ぎたお相手であったし、それにパラス=アテナの運営陣は、このカードであれば関東勢バーサス関西勢という構図でなくとも盛り上がるだろう、と考えてくれたのである。これだけお膳立てしてくれたのだから、瓜子としては申し分ないほど意欲を燃えさからせることができていた。


「……ルールミーティングは以上です。これから四十分間リングを解放しますので、各自調整をお願いします。その後、メディカルチェックとバンデージのチェックを開始しますので」


 そんな言葉を残して、二名のレフェリーはリングを後にした。

 二十四名の選手たちの三割ぐらいが、我先にとリングに上がり込む。残りの三割は控え室に消え、残りの四割はその場でウォームアップを始めた。瓜子は、四割のひとりである。


「やっぱり、カッキがチガうねー。ボクはニホンがスきだけど、トクにオオサカがスきかなー」


 瓜子の面倒を見てくれながら、ジョンはそのように語らっていた。ユーリは忠犬のように待機しており、サキはリング上に視線を飛ばしている。


「ジョン先生は、この会場も馴染みなんすよね? 大阪でMMAっていったら、まずはここっすもんね」


「ウン。でも、ダイニキョウジジョウはハジめてだねー。いつも、ダイイチのほうだったからさー」


「ああ……男子の試合なら、そうなんでしょうね」


 瓜子の言葉に何かを感じたのか、ジョンは「んー?」と穏やかに微笑んだ。


「ジョシとダンシでは、レキシがチガうからねー。ジョシカクトウギがもうちょっとハヤくスタートしてたら、イマももっとモりアがってたんだろうねー」


「そうっすね。こればっかりは、しかたありません」


 女子MMAの試合は格闘技ブームの最盛期から行われていたが、当時はまったく脚光を浴びていなかった。少なくとも、瓜子は民放のゴールデンタイムで女子選手の試合を視聴した記憶はない。当時はMMAに取り組む女子選手というのもまだまだ少なくて、定期的に試合を組むことさえ難しかったのだろう。


「でも、ツイに《アクセル・ファイト》でもジョシのシアイがハジめられたからねー。そっちでヒがツけば、ニホンにもイいエイキョウがあるはずだよー」


「いい影響すっか。自分には、いまひとつピンとこないっすね」


「そうかなー? ダンシだって、ホクベイシンシュツがステイタスになってるよねー。《アクセル・ファイト》でナりアがれば、オクマンチョウジャなんだからさー。おカネがスベてじゃないけど、そういうオオきなモクヒョウがあれば、キョウギジンコウだってフえるし、キョウギジンコウがフえれば、シゼンにクオリティもアがるはずだよー」


「そうっすね。……あ、自分は別に、女子選手が不遇だってクサッてたわけじゃないっすよ?」


「ワかってるよー。ウリコは、マッスグだからねー」


 人格者たるジョンにそのように言われてしまうと、瓜子は恐縮するしかない。

 そうして身体も温まり、そろそろリングにお邪魔しようかなというタイミングで、こちらに近づいてくる人影があった。


「サキちゃん、おひさしぶりぃ。お元気やったぁ?」


 その人物を振り返ったサキは、げんなりした様子で溜息をついた。


「なんだよ、毒蛇ババアか。女くせーから、あんま近づくな」


「あらぁ、ご挨拶やねぇ。ひさびさに会えるのを楽しみにしとったのに、ショックやわぁ」


 愉快そうに微笑みながら、色っぽくしなを作る。それは本日のメインイベントに出場するバンタム級現王者、みやび選手であった。

 来栖選手や鞠山選手とともに《アトミック・ガールズ》を創世期から支えてきた、問答無用のベテラン選手である。十年以上にわたる歴史の中で多少の浮き沈みを経験しつつ、トップファイターの座に君臨し続け、一年半ほど前に三度目の王座戴冠を果たした古豪となる。


「まったく、往生際のわりーババアだな。おめーこそ、新陳代謝されるべき古い細胞の筆頭格だろうによ」


「うふふ……蛇は何度でも脱皮して、そのたびに艶々に生まれ変わるんよぉ」


 雅選手は妖艶に微笑みながら、しなやかな指先でなめらかな頬を撫でさすった。

 彼女はすでに三十五歳であるはずだが、そうとは思えぬほど若々しい。睫毛の長い切れ長の目も、紅をさした赤い唇も、しっとりとした白い肌も、一本の三つ編みにまとめた艶やかなる黒髪も、人魚の肉でも食べたように瑞々しく、年齢を感じさせなかった。


 身長は百六十センチほどもあり、上限四十八キロのバンタム級であるのだから、ぞんぶんに細い。その細い身体に纏っているのは、あちこちにちりめんの生地がパッチワークされた、和柄のジャージだ。装飾過多でもジャージはジャージであるのだが、彼女が着ているとファッション誌から抜け出してきたように見えてならなかった。


 彼女は瓜子が知る限り、女子格闘技界で二番目に色っぽい女性である。

 しかし彼女は苛烈な打撃技と蛇のごとき寝技を体得しており、数々の強豪選手をマットに沈めてきたのだった。


(この人も、若い頃はテレビや雑誌に出まくってたもんな)


 しかしそれはマイナー競技である女子MMAに世間の目を集めるための、懸命なプロモーション活動であったのだろう。小学生時代からその活躍を見守ってきた瓜子は、反感を抱くこともなかった。ただ、あんまり自分の好みではないなという、とうてい本人には言えないような感想を抱いたまでである。


(そう考えると、自分は昔っから女っぽさを売りにしてるファイターが苦手だったわけだ。……というか、雅選手に苦手意識を植えつけられて、それがユーリさんにぶつけられたって面もあるのかもな)


 とはいえ、そんなものは瓜子の心情の問題であるし、誰に責任を問える話でもない。そもそも瓜子は雅選手が苦手なタイプであるというだけで、選手としての業績にはまじりけのない尊敬の念を抱いていたのだった。


 それに彼女はフィスト・ジムの派生であるパイソンMMA・ウエストの所属であったが、四年前のクーデターには断固として加わらなかった。フィスト勢の中ではただひとり《アトミック・ガールズ》に居残って、朋友たる兵藤選手とともに屋台骨を支え続けていたのだった。


「ふぅん……で、こっちのお嬢ちゃんが、今のサキちゃんの秘蔵っ子ってわけやねぇ」


 と、雅選手の艶めかしい流し目が瓜子のほうに向けられてくる。

 瓜子は敬意をもって、そちらに一礼してみせた。彼女とは去年の春ごろに――というか、ユーリと沙羅選手の試合が行われた日に同じ控え室で過ごしていたはずであったが、当時の瓜子はデビュー前であったので、挨拶も交わしていなかったのだ。


「押忍。新宿プレスマン道場の猪狩と申します。雅選手のご活躍は、昔から拝見してました」


「あらぁ、昔からやてぇ……このコも、うちをババア扱いしよるのん?」


「あ、いえ、決してそんなつもりでは……」


「冗談よぉ。サキちゃんの後輩とは思えん純情さやねぇ」


 やっぱり瓜子の苦手意識は、本人と対面してもすぐには払拭されないようだった。

 雅選手はしなを作りながら、色っぽくくすくすと笑っている。


「猪狩ちゃん……下の名前は、瓜子ちゃんやったよねぇ? 瓜子ちゃんがおふざけピエロにお灸をすえてくれるて、期待させてもらうわぁ」


「お灸? イリア選手が、どうかしたんすか?」


「どうかしたも何も、おふざけピエロはまた大遅刻やんかぁ? まったく、おふざけが過ぎるんよねぇ」


 瓜子は驚いて、サキを振り返ることになった。


「あの、イリア選手はまだ会場入りしてないんすか?」


「ああ。おめーだって、姿を見てねーだろ?」


「いや、自分はイリア選手の素顔を知らないもんで……でも、遅刻なら遅刻で何かわけがあるんじゃないんすかね」


「そらぁもう、深い深ぁいわけがあるんやろうねぇ」


 雅選手は紅色の唇を半月形に吊り上げつつ、ジャージのポケットから取り出した携帯端末の画面を瓜子の鼻先に突きつけてきた。

 最新型と思しき、画面の大きな携帯端末である。雅選手が操作すると、そこに奇妙な画像が映し出された。


 何か白いタワーを背景に、五名の人物が立ち並んでいる。いずれも黒いパーカー姿で、フードの下にピエロのお面をかぶっていた。

 これはいわゆる、SNSというやつなのだろう。瓜子にはまったく馴染みがなかったが、画像の上には『イリア=アルマーダ』という署名と、『通天閣ニ到着! 今日ノ試合ハヨロシクオ願イシマス』という奇妙な文章が添えられていた。


「投稿時間にご注目ぅ。それ、三十分ぐらい前の投稿やろぉ? 通天閣からこの会場まで、てれてれ歩いても三十分はかからんはずやねぇ」


「つまり……イリア選手はルールミーティングをすっぽかして、大阪観光を楽しんでるってことっすか?」


「あらぁ、ご明察ぅ。ちなみに昨日の夜は、道頓堀で食い倒れてたみたいやねぇ」


 雅選手はくつくつと咽喉で笑いながら、携帯端末をポケットに戻した。


「うちも自由気ままが信条やから、たいていのことは目をつぶるんやけどねぇ。おふざけピエロのおふざけ加減は、ちょい腹に据えかねるんやわぁ。そやさかい、今日は瓜子ちゃんの応援をさせてもらうわぁ」


「あのなー、どいつもこいつも勝手なことを抜かすんじゃねーよ。ピエロ女が気にくわねーなら、勝手に説教でもかましゃあいいだろうがよ?」


 サキがそのように言いたてると、雅選手は「だってぇ」と細い肢体をくねらせる。


「口でやいやい言うたって、なんもおもろないやろぉ? そやけど階級が違うたら、試合でかわいがることもできひんし……そやさかい、おふざけピエロの対戦相手を応援するしかないんやわぁ」


「……それが雑音になるって考えには及ばねーのかよ?」


「応援の声が雑音になる選手なんて、大成できひんよぉ。サキちゃんがそないなつまらん娘っ子に世話ぁ焼いたりしいひんやろぉ?」


 そんな風に言いながら、雅選手はねっとりとした視線を瓜子に送りつけてきた。


「サキちゃんがおふざけピエロからベルトをぶんどった試合は、辛抱たまらんかったわぁ。アレとおんなじぐらいの熱ぅい試合を期待させてもろうてもかまへんかしらぁ?」


「……押忍。ご期待に添えるように、頑張ります」


「うふふ。かわゆらしいわぁ。……ほなまたぁ」


 雅選手はジョンにも一礼してから、しゃなりしゃなりという擬音をつけたくなるような足取りで立ち去っていった。

 仏頂面のサキに、瓜子は「大丈夫っすよ」と笑いかけてみせる。


「ほどよく闘志は燃えてますけど、気負ってはいませんから。……イリア選手って、あちこちから反感を買ってたんすね」


「ふん。あの毒蛇ババアもああ見えて、アトミックに十年以上の時間を注いできたわけだからな。外見よりも、堅苦しい人間なんだろ」


「なるほど。……そういえば、ユーリさんの存在は完全にスルーでしたね」


「ああ。あいつだって、猛牛女のツレみてーなもんだからな。どこの会場で出くわしても、こっちの牛には完全シカトのかまえだよ」


「にゃっはっは。嫌われ者たるユーリの本領発揮ですたい」


 ユーリはめげた様子もなく、にこにこと笑っていた。もとより誰に嫌われようとも、歯牙にかけないユーリなのである。


(それでも、ベリーニャ選手だけには嫌われたくないはずだからな)


 そんな風に考えてから、瓜子はリングに向かうことにした。

 ユーリとベリーニャ選手の関係性について思いを馳せるのは、試合の後のお楽しみである。今はイリア選手というトリッキーな対戦相手を迎え撃つために、すべての力を注がなければならなかった。

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