03 サキの格闘技講座

「赤星弥生子さんって、なんだか変わったお人だったねぇ」


 座敷の食堂で極上の鶏すきをつつきながら、ユーリがそのように言いたてた。

 食事は部屋に運んでもらうことも可能であるという話であったが、それではジョンがひとりぼっちになってしまうため、四人でこの場に繰り出してきたのだ。まだ夕食にはいささか早い時間であるためか、他には離れた卓にひと組のお客の姿があるだけだった。


「ま、変わり者っちゃ変わり者だろ。野郎相手にしか試合をしねーで、ファイトスタイルは古武術モドキだからな。正直、アタシには理解の外だ」


「ふみゅふみゅ。それって、真剣勝負なにょ? 赤星道場って、もともとはプロレスの道場だったんでしょ?」


「いんや。赤星大吾は格闘系プロレスに鞍替えしてから、自分の道場をおったてたんだよ。……ていうか、プロレスは真剣勝負じゃねーってのか? おめーがプロレスの何を知ってるってんだよ?」


「えー? プロレスは派手な技を見せ合うショーみたいなもんだって教えてくれたのは、サキたんじゃん! ユーリはプロレスなんて観たことないから、その情報をもとに語ってるんだよぉ」


「プロレスってのは、ややこしい存在だからな。アタシにだって、全貌はわからねーさ。ただ、無知で無能なお牛様にも手っ取り早く理解できるように、わかりやすい一面だけを親切に教えてやっただけのこった」


 サキはすました顔で、ほどよく熱の通された鶏肉を口に運んだ。

 瓜子も朝方に都内で計量を済ませてきたので、現在は食べ放題である。が、もちろん明日の試合に備えて、じっくり焦らず食事の味を噛みしめていた。


「ま、赤星道場を語るのに、一般的なプロレスを持ち出す必要はねーだろ。赤星大吾は格闘系プロレスって看板も早々に引っ込めて、総合格闘技の概念を持ち出したからな。言ってみりゃあ、時代の先駆者だよ」


「今じゃあキックや柔術の大会にも選手を輩出してますもんね。正直、自分なんかも格闘系プロレスってイメージはまったくなかったっすよ」


 そこで瓜子は、さきほどから胸中にわだかまっていた疑問をサキにぶつけてみることにした。


「ただ……マリア選手やレオポン選手や、それにさっきの竹原選手なんかも、みんな陽気で人当たりがいいっすけど、赤星弥生子さんってお人だけは、ずいぶん雰囲気が違ってるみたいっすね」


「ふん? そりゃあ、相手がアタシらだからなんじゃねーの? なんせレム・プレスマンってのは、赤星道場を崩壊寸前まで追い込んだ大戦犯なんだからよー」


「え……それって、レムさんが卯月選手を引き抜いちゃったことっすか?」


「おうよ。赤星大吾が引退した時点で、《レッド・キング》はガタガタだったのによ。そいつを救う救世主になるはずだった卯月をひっこぬいて、レムの親父は《JUF》に鞍替えしちまった。赤星の身内にしてみりゃあ、恨み骨髄に徹してもおかしかねーだろ」


 するとジョンが、「そんなコトないよー」と朗らかに笑った。


「だったらボクだって、ヤヨイコにウラまれてるハズだからねー。ウヅキにタイしてはフクザツなシンキョウかもしれないけど、レムのコトはウラんだりしてないハズだよー」


「どうだかな。おめーのくにゃくにゃした笑顔を見てたら、怒る気も失せるってだけの話じゃねーの?」


 すると今度は、ユーリが「ふにゅにゅ」と声をあげる。


「卯月選手って、レム大明神の秘蔵っ子とか呼ばれてるお人でしょ? そのお人って、そんなに赤星道場とゆかりの深いお人であられたの?」


 瓜子はテーブルの上でずっこけて、サキですら緑茶でむせそうになっていた。

 ひとり笑顔のジョンが、楽しそうにユーリを振り返る。


「ユーリって、まだレムにもウヅキにもアったコトがナかったんだっけー?」


「はいはい。お名前だけはなんべんもうかがっておりますけれど、いまだ拝謁を賜ったことはございませぬ」


 サキはわざわざ身を乗り出して、テーブルごしにユーリの頭を引っぱたいた。

 ユーリは「いたーい!」とピンク色の頭を抱え込む。


「いきなりナニをするのさぁ? ユーリ、なにかヘンなこと言ったぁ?」


「おめーの無知さ加減に呆れかえってんだよ。……あのな、卯月ってのは赤星大吾の息子だ」


「えええええっ! 卯月って、苗字じゃなくってファーストネームだったんだあ? そいつは瓢箪から駒でしたわん」


「いや、駒も何も出てないっすよ。……ユーリさんって、ほんとに男子選手に興味がないんすね」


 そうしてユーリをやりこめてから、瓜子はサキに向きなおった。


「でも、それってそんなに深刻な話だったんすか? 赤星道場に限らず、当時はあちこちの選手がこぞって《JUF》に出場してたでしょう?」


「あちらさんは、話が別だ。さっきも言った通り、当時の《レッド・キング》の興行は赤星大吾の引退ですっかり傾いちまっててな。息子の卯月がプロデビューしたら、そいつも何とかなるんじゃねーかって期待をかけられてたんだよ」


 まったく面白くもなさそうに、サキはそのように言いたてた。


「だけど、卯月は十八歳になると同時にトンズラこいて、《JUF》でデビューしちまった。その後も、《レッド・キング》には一戦たりとも出場してねえ。おそらくは、《JUF》と専属契約でも結んでたんだろ。あっちはあっちで外国人選手に対抗できる日本人エース選手ってのを、咽喉から手が出るぐらい欲しがってただろうからな」


 そうして卯月選手は運営陣の期待に応えて、《JUF》の四天王と呼ばれるほどの活躍を見せた。

 が、それから数年で《JUF》は運営陣の不祥事で消滅してしまい、卯月選手はレム・プレスマンともども渡米してしまったわけだ。


「それでカわりにカンバンをマモったのが、ヨンサイトシシタのヤヨイコだったんだねー。ヤヨイコはジュウロクサイでデビューして、それからずっと《レッド・キング》でガンバってるんだよー」


「ふん。兄貴がトンズラこいて妹がデビューするまでの二年間は、《レッド・キング》の暗黒時代なんて呼ばれてたらしいな。興行の数も激減して、そのまま消滅するんじゃねーかってもっぱらの噂だったらしいじゃねーか」


「サキは、よくシってるねー? それってもう、ジュウネンぐらいマエのハナシだよー?」


「へん。このご時世、情報なんざはネットにいくらでも転がってるからな」


 ネット音痴の瓜子やユーリには、とうてい望むべくもない境地である。

 瓜子としては、自分の浅学を恥じ入るばかりであった。


「でも、どうして《レッド・キング》の興行はそこまで傾いちゃったんでしょうね? 《JUF》の歴史ってのは、そのまま格闘技ブームの歴史と重なるわけでしょう? 格闘技ブームの真っ只中に、そうまで没落しちゃったんすか?」


「格闘技ブームだったから、だろ。そもそも《レッド・キング》ってのは、第一次ブームの立役者だ。そいつが第二次ブームの荒波に呑み込まれちまったって話なわけだな」


「格闘技ブームって、そんなに波があったんすか? すみません。不勉強なんで、いまひとつ理解が及ばないっす」


「日本でブームの下地を作ったのは、赤星道場を筆頭にする格闘系プロレスの連中だ。だけどな、そもそも格闘系プロレスをルーツにした日本の総合格闘技と、ブラジルのバーリトゥードをルーツにしたMMAじゃ、ルールからして違うんだよ。そいつは前にも、どっかで話したはずだよな?」


「はい。グラウンド状態での打撃がなかったって話っすよね。あと……オープンフィンガーグローブがなかったから、顔面を殴ることも禁止だったんでしたっけ?」


「ああ。もひとつオマケに、ロープエスケープっていう愉快なルールも存在したな」


「ロープエスケープ? って、なんすか?」


「グラウンド状態でロープをつかんだら、スタンド状態に戻って仕切り直しってルールだ。もちろんポイントは失うけど、立ち技出身の選手にはありがてールールだろ」


「ほへー」と声をあげたのは、ひさびさのユーリであった。


「そしたらグラウンドで不利になっても、頑張ってロープまで逃げれば、またイチからやり直しになっちゃうの? そしたら、グラップラーが不利すぎない?」


「そもそもその時代には、寝技と立ち技の両方を鍛え込んでる選手のほうが少なかったんだよ。だからまあ、プロレスなんかでお馴染みだった異種格闘技戦ってやつをひとつの競技として成立させるために、あれこれ頭をひねってルールを制定した。それが、日本の総合格闘技の主流ってやつだったわけだな。……鶏と豆腐と長ネギ」


「はいはい、いますぐにー!」


「……で、そこに黒船が来襲した。バーリトゥードをルーツにした、あちらさんのMMAだ。顔面パンチにもグラウンド状態での打撃にも免疫のなかった日本の選手たちは、そいつに対応するのにえらく時間がかかっちまった。ロープエスケープも無しだから、上を取られたら取られっぱなしで、おまけにパウンドの雨あられだ。そりゃーしんどいに決まってるわな」


 そこまで言って、サキはふいに隣のジョンをにらみつけた。


「ちっ。隣でグビグビ飲まれると、気が散ってしかたねーな」


「んー? サキもノむー? ボクもヒトりでサビしかったんだよねー」


「飲むと、ヤニまで欲しくなっちまうんだよ。そいつは長時間ドライブのご褒美なんだから、好きなだけ飲んだくれやがれ。……えーと、なんの話だった?」


「黒船来襲のお話です。……でも、それじゃあ対応に時間がかかるのも当然っすよね。話を聞く限り、まるきり別物の競技みたいじゃないっすか」


「まるきり別物の競技だよ。日本は総合格闘技の先駆者だった代わりに、完璧にガラパゴス化しちまってたわけだな」


 サキは口ざみしそうに薄い唇をなぞりつつ、そんな風に言葉を重ねた。


「ただな……こいつはアタシの個人的な見解だけど、そういう古式ゆかしい総合格闘技の試合ってのは、なかなか面白えんだよ。顔面を殴れねーってのはちっとばっかり物足りねーけど、ダウンやロープエスケープでポイントを奪い合う、そういう競技だと思って観れば、十分に楽しめるんだな。グラウンド状態で打撃がなしなら、純粋に寝技の技術を競うことになるし、ロープエスケープでスタンドに戻れるんなら、寝技のお粗末な選手でも豪快な打撃技を狙うことができる。ある意味では、寝技と立ち技の面白え部分を際立たせられる、なかなか気のきいたルールだと思うんだよなー」


「はあ……そういうもんっすかね」


「お、納得いってねーってツラだな。だったら、アトミックはどうなんだよ? 今どきはフィストのアマなんかでも、ダウン制度は廃止されてんだぞ? 倒れた相手に殴りかかるってのは、MMAの醍醐味なんだぜ? ダウンで10カウントも休めるなんざ、本物のMMAじゃねーって意見が世間には満ちあふれてるこったろうよ」


「ふみゅう。ダウン制度がなかったら、ユーリはマリア選手に二ラウンド目で負けちゃってたかもしれないねぇ」


「ああ。ルールが変われば、試合の組み立て方もまったく違ってくる。そういう意味では、アトミックも立派なガラパゴスってこった。今どきは日本でも、リングじゃなくケージが主流になってきてるしな。《NEXT》だって、そろそろケージが基本仕様になるって噂だぜ?」


「ケージって、あの八角形の金網に囲まれた舞台のこと? そうすると、お稽古の内容も変わってくるのかしらん」


「あたりめーだ。ケージで試合をするなら、壁レスリングってもんが必要になってくる。リングよりも舞台は広くなるし、アウトタイプの選手には好都合だな。鈍重なお牛様には、さぞかし過酷な環境になるだろーぜ」


 頬杖をつきながら、サキはぶっきらぼうに言いたてた。


「それで、だ……当時の日本の連中も、そこで近代MMAに舵を切らざるを得なかった。今じゃあどの団体でもオープンフィンガーグローブを着用して、顔面でも何でも殴り放題、ダウン制度もロープエスケープも廃止だ。そっから十年以上も経ってるんだから、若い連中はそんなガラパゴスなルールが存在したってことすら知らねーんだろうな」


「にゃっはっは。サキたんだって、ぴっちぴちの二十二歳なのにねぇ」


「うるせーぞ、鈍牛。……いいかげん喋り疲れちまったけど、お瓜様の好奇心は満たせたのかね」


「はい、ありがとうございました。……ただ、日本の総合格闘技がそういう具合に変革されてから、もう十年以上も経ってるんすね? それなら赤星大吾さんの世代なんかは、ルールが変わる前に活躍してたわけですか?」


「あたりめーだろ。身もフタもねー言い方をするなら、その世代の連中は時代の変革についていけずに、身を引いたんだよ。赤星大吾も『赤鬼』の大江山も、アタシらの総大将レム・プレスマンもな。《JUF》の創世期に参戦してたのは、せいぜいさっきの『青鬼』ぐらいだろ」


「ウン。アトは、タクヤぐらいかなー」


 と、ジョンがいくぶん寂しげな微笑をたたえつつ、そのように発言した。


「タクヤはナンカイか、《JUF》にデてたハズだよねー。なかなかケッカはノコせなかったみたいだけどさー」


「タクヤ……犬飼拓哉さんのことっすね?」


「ウン。そのコロにはもう、アカボシドージョーをヤめちゃってたはずだけどねー。ウヅキがデビューしてからスコしして、タクヤも《JUF》にやってきて……《JUF》をリリースされてからは、すっかりナマエをキかなくなっちゃったんだよねー」


 卯月選手が気鋭の新人選手としてプロデビューを果たしたのは、ちょうど瓜子が姉の影響で格闘技に興味を持ち始めた小学生の頃――たしか、十二年ほども前のことだ。犬飼京菜の父親は、それからほどなくして姿を消した、ということであるようだった。


「……今じゃあそいつらの娘どもが、MMAの舞台で台頭してるわけだからな。あの犬っころに限らず、どいつもこいつも親父のリベンジでもしてるつもりなのかもな」


「リベンジ?」


「ああ。アル中でくたばった犬っころの親父はもちろん、《レッド・キング》だって落ちぶれたもんだろ。近代MMAの荒波が押し寄せるまでは、我が世の春だったんだからよ」


 赤星弥生子の纏っている緊張感は、そういった思いに由来するのだろうか。

 そういえば、大江山すみれのほうも、いまひとつ内心がうかがえない。同じ道場のマリア選手やレオポン選手などと比べても、彼女たちはずいぶん異質であるように感じられた。


「なんだか色々と大変なのだねぇ。自分のことで手一杯のユーリちゃんには、及びもつかない世界だわん」


 ふにゃんとした笑顔で、ユーリはそのように言いたてた。


「でもまあ、ユーリはアトミックが大好きだからね! ガニュメデスだろうが何だろうが、アトミックの舞台で輝けるように精進あるのみなのです!」


「なんすか、ガニュメデスって。ユーリさんてボキャブラリーが豊かなのか貧しいのかよくわからないところがありますよね」


 そんな風に応じながら、瓜子はどこかユーリの笑顔に救われたような気分であった。

 サキの語る総合格闘技の歴史は興味深かったが、瓜子はそのような知識もないままに、MMAの世界に魅了されたのである。過去の因縁にとらわれて、MMAの試合に臨むなどというのは――何か、とても悲しいような気がしてしまった。


(まあ、あのお人らが実際にどんな気持ちで取り組んでるのかはわからないけど……MMAを、楽しんでるといいな)


 そうしてその夜は、赤星道場の面々と交流を深める機会もなく、粛々と時間が過ぎていったのだった。

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