02 思わぬ邂逅
新宿から大阪までは、六時間を突破する大行軍であった。
二時間ごとにサービスエリアで休憩を入れて、目的の宿泊施設に到着したのは、午後の五時である。
大仕事を終えたジョンが駐車場にワゴン車を乗り入れると、ガラスのウィンドウにへばりついたユーリが「ふおお!」と雄叫びをあげた。
「なんか、すっごく立派な旅館! 本当にこんな場所にお泊まりしちゃってよろしいのでしょうか、ジョン先生?」
「ウン。ここはナジみのリョカンだからねー。レムがニホンにイたコロから、オオサカでシアイをするトキはいつもおセワになってたんだよー」
道場の創始者にして名誉師範たるレム・プレスマンが日本に滞在していたのは、十数年前から八年前までの話である。もともとは自身もファイターで、赤星道場主催の《レッド・キング》で試合をしていたレム・プレスマンは、やがて卯月選手の才能に惚れ込んで、トレーナー業に専念する決断を下した。そうして日本国内の格闘技ブームが終焉すると、卯月選手とともに北米へと渡ってしまったのだった。
「そういえば、そのレムさんと卯月選手が、そろそろ日本に戻ってくるんすよね?」
「ウン。《アクセル・ファイト》のニホンタイカイがもうスグだからねー。ウチのドウジョウでサイシュウチョウセイするんだよー」
北米最大のMMAプロモーションたる《アクセル・ファイト》が、ついに日本で二度目の大会を開催する。ベリーニャ選手の兄たるジョアン・ジルベルト選手も、その大会に参戦するために、ずっと日本に留まっているのだ。かつては《JUF》でしのぎを削っていた卯月選手とジョアン選手が再び同じ日に日本で試合を行うとあって、格闘技業界はひそかに沸き立っていたのだった。
「でも、卯月選手はウェルター級で、ジョアン選手はミドル級ですもんね。お二人の対戦が観られないのは、ちょっと残念っす」
「あははー。サイキンのMMAは、カイキュウセイドもセイビされたからねー。まあ、イッパンテキなキョウギとしてカクリツされたっていうショウコなんじゃないかなー」
かつて日本で開催されていた《JUF》においては、無差別級の試合がクローズアップされていた。当時から九十キロ以下のウェイトであった卯月選手やジョアン選手も、百キロを超える重量級選手を相手に猛威を振るっていたのである。
だけどやっぱり安全性を考えれば、階級制度を重んじるべきであるのだろう。北米においてMMAという競技が定着したのは、やはりショービジネスとして華やかな舞台を演出しつつ、スポーツとしてさまざまな制度を整備したゆえであるはずだった。
「どーでもいいけど、雑談は後回しにしねーか? アタシはもう、尻の皮がぶち破れる寸前だよ」
「あー、ゴメンねー。それじゃあ、チェックインしようかー」
一行はプレスマン号から降車して、各々の荷物を下ろすことにした。二泊三日の逗留で、おまけに試合があるものだから、なかなかの大荷物である。
「あっ! うり坊ちゃんのお荷物は、ユーリが運搬しますぞよ! 明日の試合に支障が出たら大変だからね!」
「いやいや、大丈夫っすよ。ユーリさんこそ、大荷物じゃないっすか」
「いいからいいから! 遠慮なさらず!」
ユーリはいよいよご機嫌な様子で、瓜子のボストンバッグを強奪した。右手には自身の巨大なトランクを引き、左手で瓜子のボストンを担ぎ、家を追い出されたお忍びスターのような有り様だ。
「ワスれモノはナいねー? それじゃあ、イこうかー」
ジョンの先導で、駐車場の出口を目指す。その先に立ちはだかるのは、古いが大きな純和風の旅館である。
歴史の深さを物語るかのように、木造りの門は黒ずんでいる。その看板に記されるは、『
「本当に立派な旅館っすね。なんだか、恐縮っす」
「ダイジョウブだよー。このリョカンのオーナーはカクトウギのダイファンで、イロんなセンシュやイベントのスポンサーにもなってるぐらいだからねー。オオサカエンセイにキたセンシュには、カクヤスでヘヤをジュンビしてくれるんだよー」
それは本当に、心からありがたい話である。こんな立派な旅館であれば、明日の試合に向けてこれ以上もなく英気を養えそうなところであった。
そうして瓜子たちは石敷きの前庭を踏み越えて、立派な玄関をくぐったわけであるが――そこで、小さからぬ驚きに見舞われることになった。
「あーっ! ユーリ選手にサキ選手に、それにジョンさんじゃないですかー!」
広々とした板張りのフロントで、ちょうど足もとの荷物を持ち上げたところであった人物が、素っ頓狂な声をあげてくる。黄色みがかった褐色の肌に、ウェーブがかった黒髪と明るく光る黒瞳をした、肉感的なシルエットの若い女性――つい先月、ユーリと死闘を繰り広げた、赤星道場のマリア選手である。
「あれれ? どうしてこのような場所に、マリア選手がおられるのです? 明日の大会に出場予定ではなかったですよねぃ?」
「はい! アトミックじゃなくて、男子選手の試合のお手伝いです! そっかあ、アトミックの大阪大会と同じ日取りだったんですねー!」
ユーリに敗北した悔しさをにじませることなく、マリア選手はにこにこと笑っている。その可愛らしい笑顔を見返しながら、ジョンは「あー」と微笑んだ。
「そういえば、《G・ワールド》のオオサカタイカイがオナじヒだったねー。しかも、カイジョウもイッショだったんじゃないかなー?」
「えっ! 同じ会場でふたつの興行が行われるんですか?」
「ウン。そっちも、オノディアリーナだよねー? イッカイとチカにキョウギジョウがあって、ベツベツにシアイがデキるんだよー」
「そうなんですか! この会場は初めてだったんで、ぜんぜん知りませんでした!」
すると、通路の向こうからさらに見慣れた面々が近づいてきた。
「どうしたんだよ、マリア? ……って、あれ? プレスマンのみなさんじゃないッスか。いったいどうしたんです?」
それは、ライオンのように茶色い髪を逆立てたシャープなスタイルの若者と、栗色の髪をツインテールにした少女――レオポン=ハルキ選手と大江山すみれに他ならなかった。
「ああ、そうか。第二競技場ではアトミックの大阪大会で、瓜子ちゃんが出場するんだったな。でも、前乗りの旅館でバッティングするなんて、こんな偶然もあるんだなあ」
レオポン選手も瓜子たちに劣らず、驚きの表情であった。
が、大江山すみれのほうは普段通りの面持ちで微笑んでいる。
「別に驚く必要はないんじゃないですか? わたしはプレスマンの方々とお会いできるんじゃないかって、ずっと考えていましたよ」
「え? なんでだよ? そんなもん、予想できるわけ――あ、そうか」
「はい。こちらの旅館は、ずっと昔から《レッド・キング》の選手が利用していたんです。大吾さんやレムさんが酔って大暴れしたって伝説が語り継がれてるぐらいじゃないですか」
「うん、そうだったそうだった。プレスマンのお人らにとっても、ここは大阪の常宿だったわけだ。こいつは、うっかりしてたなあ」
レオポン選手は苦笑しながら、ライオンのような頭をひっかき回した。
「まあ、ユーリちゃんとマリアの試合も一段落したんだから、何も問題はないッスよね? やっぱお泊まりは、明後日までッスか?」
「ウン。シアイのアトにカエるのはタイヘンだからねー。ゲツヨウのアサにチェックアウトするヨテイだよー」
「それじゃあ、それまでよろしくお願いします。よかったら、明日は合同で祝勝会でもしましょうよ」
そう言って、レオポン選手は瓜子に朗らかな笑みを投げかけてきた。
「明日の《G・ワールド》に出場するのは、俺ともうひとりの竹原ってやつなんだ。一緒に勝って、お祝いしようぜ」
「そうっすね。確約はできないけど、善処します」
レオポン選手と同じ日に、しかも同じ敷地内で試合をするというのは、なんとも奇妙な気分である。しかしもちろん、レオポン選手との関係性にもきっちりケジメをつけた現在、瓜子が嫌な感情を想起されることもなかった。
そこにようやく、渋柿色の着物を纏った年配の仲居さんが飛んでくる。
「あれあれまあまあ。おひさしぶりやねぇ、ジョンちゃん。着いたなら着いたで、声かけてえな」
「おヒサしぶりだねー。またおセワになるよー」
プレスマンの名トレーナーをちゃん呼ばわりとは大層な話だが、その仲居さんはジョンの一・五倍ほど齢を重ねているようだった。元気はいいが、表情のやわらかい壮年の女性である。
「赤星のお人らは、どうなさったの? ジョンちゃんとお友達?」
「はい。こっちのマリアとそっちのユーリちゃんは、つい先月リングでぶん殴り合ってた仲ッスよ」
「そらあ元気でよろしいなあ。ほな、チェックインやね」
ジョンが手続きしている間も、レオポン選手たちは部屋に戻ろうとしなかった。
そんな三名の姿を見回しながら、サキは「ふん」と鼻を鳴らす。
「野郎の試合のセコンドに、わざわざメスガキどもを引っ張ってきたのかよ。サイトーでなくてもオス猫呼ばわりしたくなっちまうな」
「いやいや、そんなんじゃねえって。この土日は、東京で柔術の大会だろ? そっちに出るやつも多いから、人手不足ってだけの話さ」
瓜子がサキとレオポン選手の対話を拝見するのは、これが初めてのことであった。貫禄はサキのほうがまさっているが、レオポン選手のほうが年長であるのだ。
「だから今回は、師範まで引っ張り出すことになっちまってね。……そうか、瓜子ちゃんやユーリちゃんは、初めてのはずだったよな」
「え? 師範って……道場主の、赤星弥生子さんっすか?」
「もちろん、そうさ。他にいねえだろ?」
このような場所で赤星弥生子と遭遇するなどとは、いささかならず想定外であった。
が、サキは出稽古で何度となく顔をあわせているし、ユーリは彼女に無関心である。よって、わずかなりとも動揺しているのは瓜子ただひとりであった。
「そんな心配しなくっても、噛みつきゃしねえよ。大怪獣ジュニアだって、リングを下りたらただの人さ」
「別に心配はしてないっすけど……でも、おっかないお人だって噂は蔓延してますよね」
「そうなのかな。ま、稽古場では鬼よりおっかねえけどな」
鬼とはただの比喩ではなく、大江山すみれの父親である師範代のことを指しているのだろう。その人物は現役時代、『大江山の赤鬼』なる異名を誇っていたというのだ。
(それでもって、『大怪獣』赤星大吾の娘さんが道場主か。世襲制じゃあるまいし、ファイターの娘さんがたがみんな格闘技の道に進むって、そんなに普通の話なんだろうか)
瓜子がそんな想念に耽っている間に、チェックインの手続きは終了したようだった。
ジョンは足もとに置いていた荷物を取り上げて、笑顔で瓜子たちを振り返ってくる。
「ニモツは、セルフサービスだよー。ナニせ、トクベツプランだからねー」
「すんまへんな。そんじゃ、こちらにどうぞ」
仲居さんの案内で、飴色に輝く板張りの通路を進む。プレスマンの四名に赤星道場の三名という、まさしく呉越同舟であった。
そうして一階の奥まった部屋に到着すると、レオポン選手が「なんだ」と笑う。
「おもいっきり向かいの部屋じゃないッスか。こいつは楽しい二泊三日になりそうッスね」
「あ、ソウなんだー? ソレじゃあニモツをオいたら、ヤヨイコにもアイサツさせてもらうねー」
ジョンだけが一人部屋で、瓜子たち三名は同室だ。八畳ていどの間取りであり、三組の布団を敷いたら一杯になってしまいそうだが、純和風の部屋模様は落ち着いていて、瓜子の好みであった。ユーリの店頭ライブツアーでお世話になったビジネスホテルと比べれば、雲泥の差である。
「ふーむ。赤星道場の道場主さんかー。若かりし日のベル様を打ち破ったというその御方に、ユーリはどのような態度で接すればいいのだろうねぇ?」
「別に、普通でいいんじゃないんすか? 恨みつらみがあるわけじゃないんでしょう?」
「うみゅう。ユーリが恨む筋合いはないけれども、そんなお人と仲良くするのはベル様に対する背信行為になってしまわないかしら?」
「ターコ」と言い放ったのは、もちろんサキである。
「おめーに初対面の相手と仲良くするスキルなんて搭載されてんのかよ? どうせあっちもおめーなんざ眼中にねーだろうから、いつも通りに乳でも垂れてろや」
「ユーリの張り詰めたバストに垂れる予兆はないですわよ! あるいはそれがミルクの意なのでしたら、乳牛ではないと反論させていただきましょう!」
「騒ぐな、牛。格安の旅館を追い出されてーのかよ?」
ということで、瓜子たちは荷物を置くなり、廊下に舞い戻ることになった。
廊下では、すでにジョンと男性陣が挨拶を交わしている。見慣れぬ二名の男性たちは、明日出場する竹原という選手と、コーチの青田なる人物であった。
「うひょー、本物のユーリちゃんだ! 去年は、ハルキさんがお世話になりました!」
竹原選手は小柄なレオポン選手よりも五センチほど長身であったが、ずいぶん若そうなにきび面をしていた。ユーリを見る目には、ごく一般的な若者らしい興味と熱意が込められている。
「あれ? そっちのコは……もしかしたら、ユーリちゃんと一緒に水着になってたコですか? うわ、めちゃくちゃ可愛いッスね! 写真とは印象が違うけど、むしろタイプです!」
瓜子が立ち眩みを覚えると同時に、レオポン選手が「馬鹿野郎」と後輩の頭を引っぱたいた。
「軟派なキャラは、俺ひとりで間に合ってんだよ。赤星道場の品位を落とすんじゃねえ」
「そんなん、ズルいッスよ! ハルキさんだって、さんざん騒いでたじゃないッスか! ユーリちゃんはもちろん、相棒のコもめちゃくちゃ可愛いって――」
「馬鹿、黙れ」と、レオポン選手は後輩にヘッドロックを仕掛けて黙らせた。
そして、焦りまくった顔を瓜子とユーリに向けてくる。
「去年! 去年の話だから! ほら、二人とお近づきになった頃は、俺も色々と浮かれちまってたから――」
「もういいっすよ……とりあえず、自分のトラウマをそっとしていただけたらありがたいっす……」
すると、無言でこの騒ぎを見守っていた青田コーチが、細い目に物騒な光をちらつかせた。
「試合の前日に、余裕だな。俺は餓鬼のお守りに出向いてきたんじゃねえぞ、ハルキ、タカ」
「押忍! でも、悪いのはこいつッスよ!」
「俺から見りゃあ、どっちもどっちだ。明日の試合で下手こいたら、お前ら坊主な」
「カンベンしてくださいって! ……まあ、俺は勝つからいいッスけど」
「俺だって勝ちますよ! 弥生子さんの前で、ぶざまな姿は見せられません!」
若者たちの騒ぎを眼光で制圧してから、青田コーチは瓜子たちに向きなおってきた。
「しつけがなってなくて、すまねえな。試合の前日で気が昂ってるってことにしといてくれ」
「あ、いえ。ご丁寧に、ありがとうございます」
なんだか、凄みのある人物である。年の頃は、四十代の半ばであろうか。背丈は百八十センチに届かないぐらいで、非常に引き締まった体格をしており、面長の顔はごつごつと骨ばっている。表情はあまり動かないのに、眼光の鋭さだけで他者を威圧するには十分であった。
(もしかしたら、このお人が『青鬼』なのかな?)
そのように呼ばれる選手が、十数年前には《レッド・キング》のリングで活躍していたのだとジョンから聞いている。大江山すみれの父親たる『赤鬼』が師範代ならば、『青鬼』がコーチを務めていてもおかしくはないように思われた。
(で……そこから弾き出された犬飼拓哉ってお人が、自分のジムを設立したってわけか)
瓜子がそんな風に考えたとき、ようやく向かいのドアのもう片方が開かれた。ぴょこんと顔を出したのは、にこやかな表情のマリア選手である。
「お待たせしましたー! 弥生子さん、シャワーを浴びてたんで遅くなっちゃいました!」
いよいよ赤星弥生子の登場である。
まずは『赤鬼』の娘がマリア選手の後から現れて、その後ろから、『大怪獣』の娘が降臨した。
「ヤヨイコ、ひさしぶりだねー。ヤヨイコがセコンドにつくなんて、メズラしいんじゃないかなー?」
ジョンが気さくに笑いかけると、赤星弥生子はぺこりと一礼した。
瓜子も格闘技雑誌などで、その姿は何度か見かけている。その記憶と寸分たがわぬ姿であるのだが――瓜子は何だか、妙に胸が騒いでしまった。
身長は、ユーリどころかレオポン選手よりも高い。公称で、彼女は百七十二センチとされているのだ。
しかし、シャープに研ぎ澄まされた肉体である。来栖選手のように肉厚ではなく、ごくナチュラルな体形をしている。ただしもちろんTシャツから覗く腕などは、ファイターらしくしっかりと鍛え抜かれていた。
シャワーあがりということで、いくぶん長めのショートヘアはしっとりと湿っている。目もとは涼やかに切れあがり、鼻筋はすっと通っており、とても凛々しい顔立ちだ。
ただ――彼女はどこか、他者を寄せつけない空気を発していた。
ただそこにそうして立っているだけなのに、ぴりぴりとした緊張感を覚えてしまう。迂闊に手を触れようものなら、バチンと火花でも散りそうな――彼女の周囲だけ、空気が帯電しているかのような雰囲気であるのだった。
(あたしらを警戒してるのか……それとも、これが素なのか?)
瓜子には、なんとも判別がつかなかった。
ともあれ――《レッド・キング》という閉ざされた空間で最強の名を欲しいままにしている、女子格闘技界の異端のモンスターと、瓜子たちはそうして思わぬ邂逅を果たすことになったのだった。
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