インターバル
店頭ライブツアー
《アトミック・ガールズ》の三月大会を終えた後、ユーリと瓜子は予定通りに忙殺されることになった。
千駄ヶ谷が入念にプランニングした、セカンドシングルの販促キャンペーン――CDショップの店頭ミニライブツアーが開始されてしまったのである。
その前段階から、ユーリはメディアに引っ張りだこであった。テレビの情報番組や音楽番組に出演し、さまざまな雑誌のインタビューを受けて、同時進行でグラビアの仕事もこなしていた。もちろん格闘技関連の番組および雑誌でも取材の依頼が立て込んでいたし、もう目の回るような忙しさであったのだ。
それらの仕事が一段落して、四ヶ月ぶりの復帰戦を終えるなり、今度はミニライブツアーである。
こちらは前述の仕事とは、また一種異なる苦労がつきまとう。何せ全国津々浦々を巡業しなくてはならないのだから、拘束時間も半端でなくなってしまうのだ。あまり家族旅行というものに縁のなかった瓜子は、前回と今回のライブツアーで一生分の旅行をし尽くしたような気分であった。
巡業するのは去年と同じく、東京都内の三店舗に、千葉、埼玉、大阪、名古屋、仙台で合計八店舗である。大阪と名古屋と仙台に関しては日帰りできる距離でもないので、当地での宿泊を余儀なくされてしまうのだった。
「うーん、うり坊ちゃんは試合の日取りが迫ってるのに、申し訳ない限りだにゃあ」
ユーリがそんな風にぼやいたのは、都内の二店舗と千葉と埼玉を攻略し、最初の遠征地である大阪を目指す新幹線に乗車中のことであった。
巡業の日取りは平日も祝日も関係なく数日置きに設定されていたため、現在は三月の終わりに差しかかっている。瓜子が参戦する大阪大会まで、ざっと三週間という日取りであった。
「別にそんなのは、ユーリさんのせいじゃないっすよ。そもそも自分はこれが仕事なんですから、文句を言ったってしかたありません」
「うみゅう……しかし、ユーリの巻き添えでうり坊ちゃんの練習時間が削られちゃうのは、居たたまれないのであります」
さすがはトレーニングホリックたるユーリらしい悲嘆である。
新幹線の座席で揺られながら、瓜子はユーリに笑顔を届けてみせた。
「MMAの選手なんて、そのほとんどは仕事を抱えながら選手活動を続けてるんすからね。たとえばサイトー選手なんて、試合の翌日に朝から工場勤務だったりするんすよ? サキさんだって鳶をやられていた頃は、そうとうハードだったんでしょうし……自分なんて、まだ楽なほうっすよ」
「んでも、こういう新幹線のチケットとかお泊まりする場所の手配だって、みーんなうり坊ちゃんのお仕事なんでしょ? ユーリはそんなのまったくわからんちんだから、すっごいなーと思うんだよねぃ」
「ええ。去年はけっこう泣きそうでしたけどね。千駄ヶ谷さんに鍛えられたんで、もうバッチリっす。普段なんかはユーリさんにひっついてるばかりだから、責任のある仕事を任されて嬉しいぐらいっすよ」
それでもユーリがもにょもにょしていたので、瓜子は踏み込んだ発言を放り込むことにした。
「それに……ファーストシングルを出したときって、自分たちの関係がグズグズだったじゃないっすか? レオポン選手の騒動があって、おたがいに気持ちがわからなくなっちゃって……自分は仕事や練習にのめりこむことで、内心のモヤモヤをごまかしちゃってたんすよね」
「あうう……それはユーリも一緒かも……」
「でしょ? だから、自分は嬉しいんすよ。今回は何のわだかまりもなく、こうやってユーリさんと旅行気分を楽しめるんすから」
春物のニット帽と薄めのサングラスで申し訳ていどに人相を隠したユーリは、瓜子の隣の座席で「うー」と子供のように足をばたつかせた。
「そんなにかわゆらしい笑顔でそんなに優しい言葉をかけられたら、ユーリの心臓がとろけてしまうのです。これが悩殺というものなのかしらん」
「よくわかんないっすけど、自分を置いて昇天しないでくださいね」
「いーや! うり坊ちゃんのいない世界で生きていくなど、地獄の苦しみだからね! ユーリはうり坊ちゃんより早く絶命するのだと心に誓っているのです!」
「大きな声で物騒なことをわめき散らさないでください。変装の意味がなくなっちゃいますよ」
斯様にして、多忙な中でも瓜子はユーリと満ち足りた時間を過ごすことができていた。
普段はトレーニング漬けであるので、たまにはこういった時間も必要であろう。休養と呼ぶにはあまりに慌ただしい日々であったが、それでも生命の洗濯という一面はあるように思えた。
そして肝心の店頭ミニライブはというと、これがなかなかに盛況なのである。
昨今は音楽もデジタル化されて、現物のCDは売り上げも芳しくないとのことであったが、ユーリに関しては完全に時代を逆行している。というよりも、ユーリのCDは完全にファンアイテムという扱いで、おそるべきことに値段の跳ね上がる限定特装版のほうが売れ行きでまさってしまい、急遽再販の運びとなってしまったのだった。
「これはもう、次回からは特装版を通常版の仕様として販売するべきでしょう。坂上塚御大の撮影技術あっての結果なのでしょうが、当社のリサーチ不足であったという事実は否めないように思います」
セカンドシングルの発売から一週間ほどが過ぎ、最初の販売実績がデータとして表れた段階で、千駄ヶ谷はそのように語っていた。
「次回ってことは、サードシングルの発売も計画されてるわけですね。……あの、自分なんかを撮影現場に引っ張り出すのは、これっきりにしてくださいね?」
瓜子はそのように懇願したのだが、千駄ヶ谷の返答は断固として揺るぎなかった。
「そのあたりの判断も、坂上塚御大に一任したく思います。ジャケットのデザインに関してなど、門外漢の私が口をはさむ余地はありませんので」
瓜子が奈落の底に突き落とされるような心地を味わわされたことは、言うまでもなかった。あとは気まぐれなるトシ先生が、ユーリ単独のデザインに気が向くことを祈るばかりである。
そんな裏事情を内包しつつ、ユーリのミニライブツアーは盛況を極めていた。
何せCDショップの店頭ライブであるのだから、集客などはたかが知れているのであるが、どの店舗においても許容人数を突破して、スタッフたちに嬉しい悲鳴をあげさせていたのだった。
ライブのステージはショップの入ったモール内のスペースなどが多かったため、ユーリの衣装も露出は控えめである。ユーリが水着姿などを披露していたら、ショッピングに来ていた親子連れなどが目のやり場に困ってしまうことだろう。そもそもどのような衣装を纏っていても、ユーリの過剰な色香とフェロモンは覆い隠すことがかなわないのだ。ユーリには女性のファンも多かったため、こういった場ではなおさら慎みが必要であるはずだった。
そんな事情を踏まえた上で、このたびのユーリに準備されたステージ衣装というのは――刺繍の鮮やかなウエスタンシャツに、ダメージデニムのショートパンツ、ショッキンピングのレギンスに、カウボーイハットとウエスタンブーツという、カウボーイならぬカウガールのコンセプトでまとめられていた。
タイトなシルエットのウエスタンシャツは上半分のボタンが開けられており、そこからこぼれる凶悪な谷間に男性陣へのサービス精神が集約されている。もちろんシャツの下にはレギンスと同色のタンクトップを着込んでいたが、そのようなものでは隠蔽しきれない破壊力がユーリの胸もとには備わっているのだった。
ステージにはマイクとスピーカーだけが準備され、ユーリはインストゥルメンタルの音源をバックに熱唱する。感心なことに、口パクではなく生歌である。ユーリが無理なく歌えるキーで作曲されているという話であったが、それにしてもなかなかの歌唱力であり、度胸の据わりようも大したものであった。
(自分だったら、こんな大勢の前で歌を歌うなんて、絶対に無理だからなあ。案外、歌手としても適性があるんじゃなかろうか)
振り付けなどは決められていないのに、ユーリはごく自然な挙動で歌っている。表題曲の『リ☆ボーン』では元気いっぱいに、ファーストシングルの『ピーチ☆ストーム』では軽やかにステップを踏みながら、そして今回のカップリング曲である『ネムレヌヨルニ』ではスタンドに差したマイクでしっとりと、楽曲に合わせたパフォーマンスを披露しているのだ。これはもう、アイドル活動でつちかったアドリブ能力と天性の才能の合わせ技としか思えなかった。
『どうもありがとうございましたぁ。この後はあちらのブースでサイン会ですので、どうぞよろしくお願いしまぁす』
ノルマの三曲を歌いきったユーリがそのように告げると、ステージの周囲に密集した人々は大歓声をあげていた。ここ大阪のCDショップが定めた定員は百名きっかりであったが、客席として区切られたプラスチックのチェーンの外側にも、大変な人数が集まってしまっているようだった。
「お疲れ様でした、ユーリさん。……こっからが正念場っすね」
警備員の誘導でサイン会のブースに向かいながら、瓜子はこっそりそのように耳打ちしてみせた。
頭から外したウエスタンハットではだけた胸もとをあおぎながら、ユーリは「そうだねぇ」と悪戯っぽく笑う。ユーリにとっては人前で歌うことよりも、サインのついでの握手責めこそが最大の試練であったのだった。
ユーリが所定の場所に着席すると、整理券を携えた人々がチェーンに沿って整列する。サインが施される色紙やCDケースは各自持参と決められていたので、机の上に準備されていたのは黒とピンクのサインペンのみである。
不審者の排除は警備員が受け持ってくれたので、マネージャーたる瓜子は少し離れた場所でユーリの奮闘を見守ることになった。
ユーリに色紙やCDケースを差し出す人々は、みんな幸福そうな笑顔である。こういった行いを虚業と嗤う人間も少なくはないのであろうが、ユーリが数多くの人々に愛されている姿を実感できる、瓜子にとっても充足したひとときであった。
「四月の大会もユーリさんのステージがあると聞いたんで、絶対に観にいきます!」
時には、そんな声が聞こえてくることもあった。
ユーリのステージを観るために、決して安くはないチケット代を支払ってまで《アトミック・ガールズ》の試合会場に駆けつけるというのは、なかなかの熱情である。もちろんもともと《アトミック・ガールズ》の顧客であり、ユーリの出演が最後の後押しになったということなのであろうが――ともあれ、ユーリのパフォーマンスが《アトミック・ガールズ》の集客にまで影響を与えているという事実に疑いはなかった。
(これだけの人気があったら、運営陣がユーリさん頼みになるのもわかるけど……頼むから、それ一本槍になってほしくないところだな)
瓜子がそのように考えたとき、ひとりの少女がこちらに近づいてきた。まだ高校生ぐらいと思しき、小柄でほっそりとした女の子だ。トートバッグを肩から下げており、胸もとには色紙を抱え込んでいる。
「どうしたんすか? こっちからは並べないっすよ」
警備員の目が及んでいなかったので、瓜子が声をかけてあげることにした。
女の子は真っ赤になりながら、うつむき加減に瓜子のほうへと近づいてくる。身長は、瓜子より少し小さいぐらいだった。
「あ、あの、猪狩瓜子さんですよね? わたし、瓜子さんのファンなんですけど……サインをもらうことって、できますか?」
関西風のアクセントで、少女はそのように言いたてた。
瓜子は、狐につままれたような心地である。
「え? ユーリさんじゃなくって、自分っすか? 自分はそんな、サインをするような人間じゃないっすよ」
「いえ、わたし、もともと雅さんのファンで、ずっとアトミックの試合をテレビで観てたんですけど……サキさんとの試合で、瓜子さんのファンになっちゃったんです」
ちょっとそばかすの浮いた顔を真っ赤にしながら、少女はそのように言いつのった。
「デビュー戦のときは、その、あんまり気にとめてなかったんですけど……サキさんとの試合で、瓜子さんがすっごくカッコよくって……わたし、泣いちゃったんです。バニーさんとまりりんさんの試合でも、やっぱり泣いちゃいました」
「はあ……それはその……ど、どうもありがとうございます」
少女は真剣そのもので、冗談を言っている様子ではなかったが、しかし瓜子はまだ疑念を払拭できていなかった。
「でも、その色紙ってユーリさんのサインをもらうために準備したんでしょう? 自分なんかのために使っちゃうのはもったいないような……」
「いえ! これは瓜子さんのサインをいただきたくて準備したんです。ユーリさんのほうは、整理券ももらっていません」
「ええ? でも、自分がこの場所にいるなんて予測できないでしょう?」
「はい。だけど、瓜子さんはユーリさんのマネージャーをしているってお話だったから、きっと会えるんじゃないかと思ったんです」
そのような話は、隠してもいない代わりに大っぴらにもしていない。よっぽど熱心にユーリや瓜子の情報をかき集めない限りは、知るすべもないはずだった。
「サイン……駄目ですか?」
少女はじんわりと、涙を浮かべてしまう。
瓜子は、心から困り果てることになってしまった。
「いや、駄目ではないんすけど……自分、サインなんてしたことがないんすよ。これまで、そんな機会もなかったもんで」
「なんでもいいんです! 瓜子さんに、何か書いていただけたら……あの、サインペンも準備してきました!」
瓜子はさまざまな感情に心をかき乱されつつ、「そうっすか」と笑ってみせた。
「本当は仕事中なんで、お断りするべきなのかもしれないっすけど……ちょっと、こっちにいいっすか?」
サイン会場のすぐそばでサインなどをしていたら何事かと思われてしまうので、瓜子はさらに隅っこまで引っ込んで、会場や往来の人々に背中を向けることにした。
「自分の名前を書けばいいんすよね?」
「は、はい! よ、よかったら、わたしの名前も……」
瓜子は呼吸を整えつつ、言われた通りのものを色紙に書いてみせた。
それを渡すと、少女は感極まった様子で色紙を胸に押し抱く。
「ありがとうございます! ……あの、握手もしてもらっていいですか……?」
「はい」と、瓜子は手を差し出してみせた。
少女はまた目に涙をためながら、瓜子の手を握りしめてくる。その手は、瓜子よりもさらに小さかった。
「ほ、本当にありがとうございます! 大阪大会も、絶対に観にいきますので! 東京までは、さすがに観にいけないんで……瓜子さんが大阪大会に出場するって聞いて、本当に嬉しかったんです!」
「ありがとうございます。ちょっと強敵なんで約束はできないっすけど、勝てるように頑張ります」
「はい! 一生懸命、応援します!」
そうして瓜子の心にさまざまな波紋を残して、女の子はぱたぱたと駆け去っていった。
ユーリのもとにアクシデントが生じていないことを確認してから、瓜子はふっと息をつく。
(まさか、あたしなんかがサインを求められるなんてな。……ユーリさんは、どういう気持ちなんだろう)
ユーリなどは百名ものファンを相手に奮闘しており、一月や二月の大会ではそれ以上の人数と相対していたのだ。
たったひとりのファンと向かい合っただけで、これほどまでに心を揺らしてしまっている瓜子には、まったく想像がつかない世界であった。
(さっきの女の子は、あたしがどれだけしょうもない人間であるかなんて、これっぽっちも知りやしない。……でも、あたしの試合を観て、あたしを好きになってくれたんだ)
それがどれだけ幸福なことであるか。試合会場で声援や拍手を送られるときと同じぐらい、瓜子はまざまざと実感させられることになった。
そうしてそんな思いを胸に、瓜子は三週間後の大阪大会を迎えることになったのだった。
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